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まだ少し春の香りを残しながらも、季節が夏へと移り変わろうとしている五月中旬。太陽が空に佇む昼頃のこと。
純白の神服に身を包む、銀色の髪を持つ女性――ナルは今、北に位置する草花が生い茂るだけの寂しい海岸にてすやすやと昼寝をしている。そこには三つの長くて大きな石で出来た、死の国への門が設置されている。その付近には美しい花やパン等がいくつも供えられていた。
「ナルちゃ〜ん」
「うひゃあ!」
そんな彼女に、緩い声と水飛沫が頭上から降りかかる。ナルは身体をぶるぶる震わせて付いてしまった水滴を落としながら、顔を声の主へと向ける。
「もう、ヨルムンガンドさん。もっとゆっくり顔出してくださいよ」
そこには、舌をぺろぺろと出している大蛇――ヨルムンガンドがいた。
「えへ、ごめ〜ん」
「もうっ。あれ、トールさんは? 一緒だったでしょ?」
「大陸もう一周泳いで国に帰るって言ってたよ」
「すでに十周してるのに?」
大蛇ヨルムンガンド。巨人族の元怪物兵器。今は、海で漂いながら雷神トールと戦いという名の遊びをするのが日課らしい。その度に海は荒れて津波が起こり、この海岸付近が寂しくなってしまった原因なのだが。
そうしてまた数刻。太陽が眠り月が起き、夜へと時が進んでく中。ナルが集めていた石などをヨルムンガンドと共に眺めている、と。突如として石門に紫の炎が燃え上がり、そこの空間だけがぐにゃりと歪んでいく。その歪な空間から、紺青の氷狼――フェンリルが現れる。
「おかえりなさい」
「よーっす、にいちゃん!」
「うるせぇぞヨル」
彼等がそんな挨拶を交わしている間、ナルは彼の首元についている小さな袋を手に取る。その中身は、一つの手紙が入っていた。中身がぎっしりと詰め込まれた手紙が。
「わぁ、今回も沢山」
そんな事をしていると歪んだ空間に、黒い服に身を包んだ女性と紫の狼が姿が映される。
「ヘラさんとガルムさん、こんにちは」
ナルが挨拶をすると、黒い屍女――ヘラはぺこりとお辞儀をする。ガルムも礼儀正しくお座りをしてお辞儀をした。
「こんにちは、ヨルにいちゃん、ナルさん。今回も長いことお待たせしてすみませんでした」
「いいえ。読みたかった本も読めたし、ヨルムンガンドさんもいたし、今日も退屈しませんでしたよ」
「今回も多いねぇヘラ。バルドルのことほんと好きだよねぇ」
ヨルムンガンドの言葉に、ヘラは腐っている半身も含めて恥ずかしさから顔を赤らめながら、全身で大きく頷いて肯定の意を示した。
伝えたいこと――手紙。それは、死の国の女王ヘラから光の神バルドルへの手紙だ。ヘラはバルドルの事を好いている。それを知ったヨルムンガンドがトールにあるお願いをしたのだ。バルドルと文通をするという願いを。その願いをバルドル本人も特に拒む事なく、彼等の文通は今もこうしてゆるやかに長く続いている。それを届けるのが、フェンリルの仕事のうちの一つ。とは言っても、彼が外に出て走りたいという口実でしかないのだが。ナルはそんな彼が暴走しないようにするための付き人なのだ。
「そっ、そういえば」
ヘラは指をもじもじとさせながら、ある話を切り出す。
「手紙に書いていましたが、ナリさんとロキ様がとうとう試合なさるんですよね。楽しみですね」
その話題にナルは「そうなんですよ!」と前のめりになって話し始める。
「やっと! やっとですよ! 私達がこうやって神族の仲間入りをした数年前に、『トールかバルドル。どっちでもいいから、相手の服に傷をつける事が出来たら鍛錬でも試合でも相手をしてやる』だなんて、お父さん無理難題押し付けるんだもの! 兄さんには悪いけどはじめは無理かなぁと思ってたんですけどね。でも兄さん、戦う事が出来ない私でも分かるぐらい強くなっていって……それで、先週ようやくその機会を掴む事が出来て! でも、鍛錬よりも先に試合を申し込むなんて、ナリ兄さんらしいですよね!」
まるで自分のことのように大好きな兄の願いを喜んで話しているナルを見て、ヘラとヨルムンガンドはにまにまと微笑んでいる。
「トールも楽しみだって言ってたよ〜。でも、ナリくんが張り切りすぎて心配だってのも言ってたなぁ」
そのヨルムンガンドの言葉にナルは嬉しさの声音を下げて「はい、それはもう」と苦笑いを見せる。
「新技編み出してやるーとか、色々と……。約束の試合はもうすぐなので、鍛錬はほどほどにするように言ってはきたんですけど……うーん」
ナルは少し頭を抱えながら「嫌な予感がする」と呟き、フェンリルの傍へと寄る。
「フェンリルさん。我儘でごめんなさい。このまま朝頃に神の国へ着くように走ってもらえないですか?」
ナルの願いにフェンリルはにたりと笑って見せる。
「俺様を誰だと思ってる。あの風の女以上に、風のように走ってやるさ」
その言葉を聞いたナルは「やった!」と笑みを見せ、意気揚々とフェンリルの背中へと飛び乗った。
「だが。神の国でいいのか? お前達の住処は人間の国だろう?」
「まずはこの手紙をバルドルさんに渡すまでがお仕事ですから……それじゃあ! ヨルムンガンドさん、ヘラさん。またね!」
そんな別れの挨拶を見届けたフェンリルは颯爽と星明かりに輝く草原を駆け抜けて行く。ナルは彼の背の上で夜風を身体全体で感じながら、月と世界樹へ微笑みを向ける。
◇
月が眠って太陽が起きた。フェンリルは宣言通り、間にナルの為の一度の休息を挟みつつも、虹の橋も駆け抜け、朝には神の国に到着した。門番ヘイムダルに大扉を開けてもらい、ナルとフェンリルは国の中へと足を踏み入れる。
目的地である神殿へとフェンリルを連れながら歩くナルは、すれ違う神族と戦乙女、兵士達に挨拶をする。返してくれるのは、戦乙女と兵士だけだが。
「いつも懲りないな」
「いいんです。挨拶をするのは、私がしたいから。自己満足です。なので、挨拶を返すのも相手の自由です」
「そういうもんか」
「そういうものですよ。フェンリルさんも挨拶したらどうですか!」
「やらん」
「おーい! ナルー!」
そんな会話をする彼等のもとへ、ある三人組が駆け寄ってくる。
「こんな朝に帰ってくるなんて、どうしたの?」
「帰るのは今日の夜だと思っていたが……まさか徹夜で帰ってきたのか?」
早く帰ってきたナルに驚く豊穣の兄妹――フレイとフレイヤ。
「おかえり、フェンリル」
「おう。なぁ軍神、光の神さんにこれ渡しといてくれ」
フェンリルはいつの間にか咥えていたヘラの手紙を、軍神テュールへと渡す。彼は受け取りながらも不思議そうに首を傾げる。
「もちろん構わないが、いつもならナルさんが直接渡しに行くまでが仕事だって」
「こいつ、今から行くとこありそうだからな」
フェンリルの言葉に、「……え、もしかして」とテュールは顔を引き攣らせる。
「……今のは鎌をかけてみただけなんだが。兄妹の勘は強いな」
彼等がそんな話をしている間に、ナルは豊穣の兄妹と話を進めていく。
「ちょっとね。ねぇ、そういえばナリ兄さんは? もうここに来てる?」
彼女がそう問いかけると、フレイヤがテュールと同じように顔を引き攣らせながらフレイの脇を小突く。それを受けたフレイは唸りながら、「すまない、ナル」と、頬を掻きながらも本当に申し訳なさそうに謝った。
「えっ」
「アイツ、ロキとの試合だ〜って張り切りすぎててな。そ、それで、どんどん余も楽しくなってしまって……それで」
純白の神服に身を包む、銀色の髪を持つ女性――ナルは今、北に位置する草花が生い茂るだけの寂しい海岸にてすやすやと昼寝をしている。そこには三つの長くて大きな石で出来た、死の国への門が設置されている。その付近には美しい花やパン等がいくつも供えられていた。
「ナルちゃ〜ん」
「うひゃあ!」
そんな彼女に、緩い声と水飛沫が頭上から降りかかる。ナルは身体をぶるぶる震わせて付いてしまった水滴を落としながら、顔を声の主へと向ける。
「もう、ヨルムンガンドさん。もっとゆっくり顔出してくださいよ」
そこには、舌をぺろぺろと出している大蛇――ヨルムンガンドがいた。
「えへ、ごめ〜ん」
「もうっ。あれ、トールさんは? 一緒だったでしょ?」
「大陸もう一周泳いで国に帰るって言ってたよ」
「すでに十周してるのに?」
大蛇ヨルムンガンド。巨人族の元怪物兵器。今は、海で漂いながら雷神トールと戦いという名の遊びをするのが日課らしい。その度に海は荒れて津波が起こり、この海岸付近が寂しくなってしまった原因なのだが。
そうしてまた数刻。太陽が眠り月が起き、夜へと時が進んでく中。ナルが集めていた石などをヨルムンガンドと共に眺めている、と。突如として石門に紫の炎が燃え上がり、そこの空間だけがぐにゃりと歪んでいく。その歪な空間から、紺青の氷狼――フェンリルが現れる。
「おかえりなさい」
「よーっす、にいちゃん!」
「うるせぇぞヨル」
彼等がそんな挨拶を交わしている間、ナルは彼の首元についている小さな袋を手に取る。その中身は、一つの手紙が入っていた。中身がぎっしりと詰め込まれた手紙が。
「わぁ、今回も沢山」
そんな事をしていると歪んだ空間に、黒い服に身を包んだ女性と紫の狼が姿が映される。
「ヘラさんとガルムさん、こんにちは」
ナルが挨拶をすると、黒い屍女――ヘラはぺこりとお辞儀をする。ガルムも礼儀正しくお座りをしてお辞儀をした。
「こんにちは、ヨルにいちゃん、ナルさん。今回も長いことお待たせしてすみませんでした」
「いいえ。読みたかった本も読めたし、ヨルムンガンドさんもいたし、今日も退屈しませんでしたよ」
「今回も多いねぇヘラ。バルドルのことほんと好きだよねぇ」
ヨルムンガンドの言葉に、ヘラは腐っている半身も含めて恥ずかしさから顔を赤らめながら、全身で大きく頷いて肯定の意を示した。
伝えたいこと――手紙。それは、死の国の女王ヘラから光の神バルドルへの手紙だ。ヘラはバルドルの事を好いている。それを知ったヨルムンガンドがトールにあるお願いをしたのだ。バルドルと文通をするという願いを。その願いをバルドル本人も特に拒む事なく、彼等の文通は今もこうしてゆるやかに長く続いている。それを届けるのが、フェンリルの仕事のうちの一つ。とは言っても、彼が外に出て走りたいという口実でしかないのだが。ナルはそんな彼が暴走しないようにするための付き人なのだ。
「そっ、そういえば」
ヘラは指をもじもじとさせながら、ある話を切り出す。
「手紙に書いていましたが、ナリさんとロキ様がとうとう試合なさるんですよね。楽しみですね」
その話題にナルは「そうなんですよ!」と前のめりになって話し始める。
「やっと! やっとですよ! 私達がこうやって神族の仲間入りをした数年前に、『トールかバルドル。どっちでもいいから、相手の服に傷をつける事が出来たら鍛錬でも試合でも相手をしてやる』だなんて、お父さん無理難題押し付けるんだもの! 兄さんには悪いけどはじめは無理かなぁと思ってたんですけどね。でも兄さん、戦う事が出来ない私でも分かるぐらい強くなっていって……それで、先週ようやくその機会を掴む事が出来て! でも、鍛錬よりも先に試合を申し込むなんて、ナリ兄さんらしいですよね!」
まるで自分のことのように大好きな兄の願いを喜んで話しているナルを見て、ヘラとヨルムンガンドはにまにまと微笑んでいる。
「トールも楽しみだって言ってたよ〜。でも、ナリくんが張り切りすぎて心配だってのも言ってたなぁ」
そのヨルムンガンドの言葉にナルは嬉しさの声音を下げて「はい、それはもう」と苦笑いを見せる。
「新技編み出してやるーとか、色々と……。約束の試合はもうすぐなので、鍛錬はほどほどにするように言ってはきたんですけど……うーん」
ナルは少し頭を抱えながら「嫌な予感がする」と呟き、フェンリルの傍へと寄る。
「フェンリルさん。我儘でごめんなさい。このまま朝頃に神の国へ着くように走ってもらえないですか?」
ナルの願いにフェンリルはにたりと笑って見せる。
「俺様を誰だと思ってる。あの風の女以上に、風のように走ってやるさ」
その言葉を聞いたナルは「やった!」と笑みを見せ、意気揚々とフェンリルの背中へと飛び乗った。
「だが。神の国でいいのか? お前達の住処は人間の国だろう?」
「まずはこの手紙をバルドルさんに渡すまでがお仕事ですから……それじゃあ! ヨルムンガンドさん、ヘラさん。またね!」
そんな別れの挨拶を見届けたフェンリルは颯爽と星明かりに輝く草原を駆け抜けて行く。ナルは彼の背の上で夜風を身体全体で感じながら、月と世界樹へ微笑みを向ける。
◇
月が眠って太陽が起きた。フェンリルは宣言通り、間にナルの為の一度の休息を挟みつつも、虹の橋も駆け抜け、朝には神の国に到着した。門番ヘイムダルに大扉を開けてもらい、ナルとフェンリルは国の中へと足を踏み入れる。
目的地である神殿へとフェンリルを連れながら歩くナルは、すれ違う神族と戦乙女、兵士達に挨拶をする。返してくれるのは、戦乙女と兵士だけだが。
「いつも懲りないな」
「いいんです。挨拶をするのは、私がしたいから。自己満足です。なので、挨拶を返すのも相手の自由です」
「そういうもんか」
「そういうものですよ。フェンリルさんも挨拶したらどうですか!」
「やらん」
「おーい! ナルー!」
そんな会話をする彼等のもとへ、ある三人組が駆け寄ってくる。
「こんな朝に帰ってくるなんて、どうしたの?」
「帰るのは今日の夜だと思っていたが……まさか徹夜で帰ってきたのか?」
早く帰ってきたナルに驚く豊穣の兄妹――フレイとフレイヤ。
「おかえり、フェンリル」
「おう。なぁ軍神、光の神さんにこれ渡しといてくれ」
フェンリルはいつの間にか咥えていたヘラの手紙を、軍神テュールへと渡す。彼は受け取りながらも不思議そうに首を傾げる。
「もちろん構わないが、いつもならナルさんが直接渡しに行くまでが仕事だって」
「こいつ、今から行くとこありそうだからな」
フェンリルの言葉に、「……え、もしかして」とテュールは顔を引き攣らせる。
「……今のは鎌をかけてみただけなんだが。兄妹の勘は強いな」
彼等がそんな話をしている間に、ナルは豊穣の兄妹と話を進めていく。
「ちょっとね。ねぇ、そういえばナリ兄さんは? もうここに来てる?」
彼女がそう問いかけると、フレイヤがテュールと同じように顔を引き攣らせながらフレイの脇を小突く。それを受けたフレイは唸りながら、「すまない、ナル」と、頬を掻きながらも本当に申し訳なさそうに謝った。
「えっ」
「アイツ、ロキとの試合だ〜って張り切りすぎててな。そ、それで、どんどん余も楽しくなってしまって……それで」