祭りの裏の騒乱 2
二日目。
サカキは鞄にクッキーを詰めて校内を歩き回っていた。
ずっとズボンで生活していたから、スカートはひらりとしていて、なんだか落ち着かない。けど、長いこと憧れていた服でもあり、なんだかふわふわした心地でもある。
少し歩いては裾を整え、誰かに出会っては、驚かれたり感想をもらったりして。こそばゆい気持ちになりながらクッキーを渡して回る。
「「サカキくんー」」
足を止めて振り返ったサカキの前に現れたのは、カガミだった。
「トリートちょうだい!」
「クッキーちょうだいー!」
イタズラするという宣言ではなくクッキーのみという正直な要求に、サカキはくすくす笑いながらラッピングされた袋を手渡す。
「はい。どうぞ」
「やったあ、おいしそう!」
「わあい、いいにおい!」
「ありがとうサカキくん!」
「それじゃあ、カガミは次にいくよー」
「はい。気をつけてくださいね」
サカキが頷くと、二人は「はーい!」と元気な返事をしてぱたぱたと走り去る。
それを見送り、サカキも歩き出す。
少しずつ喧噪を離れて。
少しずつ、人気のない場所へ。
校舎の端。
屋上。
使われていない特別教室。
いくつかを周り。すれ違う人と挨拶を交わし。
次の人気が少ない場所へと移動する。
そしてサカキは「彼女」に出会った。
まず目に付いたのは、大きなつばのついたとんがり帽子。
黒いローブに癖の無い金髪が映える少女が、廊下の奥に立っていた。
「あ。サカキ。なんだか久しぶりー。シスターとかちょっと意外だけど……似合ってるね」
彼女が帽子のつばをつまんで持ち上げると、隠れていたグリーンの瞳があらわになる。
「シャロン、さん」
シャロンはカガミが真っ先に挙げた名前。間違いなく、偽物だと確信できるひとり。
サカキの心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
大丈夫、離れたところに誰かが居てくれるはずだ。と、自分に言い聞かせて「ありがとうございます」とお礼を言うと、彼女はサカキの知る彼女と何一つ変わらない顔で頷いた。
「最近……顔を見ないので、心配してました。ごはん、食べていますか?」
「あはは。ごめんね」
最近ちょっと忙しくって、と彼女は言う。
「ちゃんと食べてるよ。本当は時間合わせて行きたいんだけどねー。最近はほら、文化祭準備で裏サイトも賑やかでさ」
「そうなんですか」
「そうなんだよー。期間限定の文化祭用チャットルームとか、意外と盛況でさ。監視とメンテをちょこちょこやってて」
さすがに当日になったら落ち着いたからね、と彼女はほっとしたような顔をして「だから」と言葉を繋いだ。
「今日は会えて良かった。折角の仮装も、引き籠もってたら意味ないしねー。――じゃあ、お約束の言葉を言おうかな」
「……? あ。はい」
一瞬何を言われるのかと思ったサカキは、そっと差し出された手の平で理解する。
ああ。クッキーを渡さないと。
そう思って、鞄に意識を向けた。
瞬間。
「お菓子はイラナイから。貴女をちょーだい」
サカキは簡単に腕を引かれ、抱き寄せらせた。
ぎゅっとサカキを抱きしめるその腕は、洋服越しのはずなのに無機物のようにひんやりしているように感じた。
「ああ。前から思ってたけどサカキは小さくていいねー」
「あ、あの」
「うん?」
「あなたは……ドッペルゲンガー、ですか?」
サカキの震えた問いに、彼女は「そう」と軽い返事をした。
「バレちゃってるんだー、って言いたい所だけど。ちょっと惜しいかな。いや。噂話はそうなんだっけー。うん。それなら間違ってないよ」
うんうんと頷く彼女に、サカキはそろそろと問いかける。
「あの、どうしてこんなことを……?」
「ん? そーだなあー。理由は色々あるの。難しいの。でも大丈夫。貴女もすぐ分かる。何も怖くないよ。痛くもないし、大事にするよ」
そう言ってシャロンはサカキを優しく抱きしめ、耳元でそっと囁く。
「正解した貴女にはいいこと教えてあげる」
吐息がサカキの耳元をくすぐる。
「あのね。私、ずーっと貴女を知ってた。あの事故の日だって、ちゃんと見てたから。全部見てたから」
「え……」
あの事故の日。その単語でサカキの頭は真っ白になった。
そんなサカキの反応にシャロンの笑みが深くなる。
「でも。分からないんだよね。貴女はどうして、男の子であろうとしてたの? どうして今更戻ろうとしたの? そのままで居るつもりなら、見逃してあげようと思ってたのに」
つい、と。彼女の白い指先がサカキの頬をなぞる。
「死んじゃった自分を捨てたい? 助けてもらったことに恩を感じて? 何かに縛られてる? あ。もしかしてサクラと一緒に居たいから? ふふっ。サカキは片想いしてるの?」
「それ、は……違……」
憧れの人が居て、その人に近付きたくて。
だから隣で。近くで勉強させてほしいとお願いしているからだ。
それ以外の感情とか、縛る物とか。ない。ないはずだ。
涙が零れそうだ。シャロンの言葉が苦しい。なんだか怖い。考えたくない。
「違う? 嘘でしょ? ま、答えなくても良いよ。どうせ――要らなくなるし」
シャロンのひやりとした指が、サカキの手に触れる。
ぞわり、とサカキの全身に冷気が走る。体中にある傷が、じわりと熱を持ったのが分かった。
「――あ」
離れようとしても、それは叶わなかった。
助けて、と叫ぼうとして、なぜかぐっと飲み込んだ。
傷の熱が、痛みに変わり始める。
ぎゅっと目をつぶると、身体が突然何かに引き寄せられる感覚がした。
シャロンの冷たさとは全く違う、暖かいものが傍にあるような気がした。
サカキが彼女の腕から解放されたのだと気付いて、目をそっと開いた時。
流れるような金髪の代わりに目の前を染めていたのは、淡い桜色の髪だった。
□ ■ □
サカキがシャロンに抱き寄せられた時、動こうとしたサクラを止めたのはヤミだった。
「待て。アイツはまだ周囲を警戒してる」
「……でも」
「もう少しだけでいいから。っていうか……」
ヤミはそっと言葉を切ってサクラに視線を向けた。彼は真剣な顔で、廊下の方をじっと見ている。
サクラとは、こういう事件が起きたら一緒に対応する事もある。普段は真面目というか、できるだけ落ち着いて状況の把握などに努めるサクラだけど。
今はなんというか。焦っているようにも見えた。
ウツロに聞いてみたいが、今はそんな場合じゃないし、少し離れたところに居るから難しい。
ここまで現場に出る姿を見ることがないからかな、とヤミは結論づけて視線をサクラと同じ方向へ向ける。
サカキとシャロンが何を話しているのかは聞こえない。ぼそぼそと何か言っているのは聞こえるが、言葉は聞き取れない。
そうして様子を伺い。彼女の視線がサカキだけを向いた。
シャロンの指がサカキの手に触れ、表情が一変した瞬間。
「――っ!」
ヤミが止めるよりも早く、サクラは物陰から飛び出していった。
飛び出したのは衝動的だったと思う。
ただ、助けなきゃと思ったら、勝手に動いていた。
マントを翻し、数歩で駆け寄る。一呼吸ででシャロンの襟首を掴み、力一杯サカキから引き離す。サカキの腰に腕を回して抱き寄せ、数歩たたらを踏んだシャロンの腹部に蹴りを入れると、彼女は予想外にかかった力の方向へあっけなく飛んで行った。
「――……か、はっ」
勢いよく壁へとぶつかる。喉から空気の零れる音がした。
「サカキくん!」
「サクラ、さん」
大丈夫? と抱き留めたまま問うと、サカキは小さく頷く。
よかった。とその答えに安堵して――手に触れる感覚がおかしいことに気が付いた。
彼女の左袖は。まるで中身が空っぽのようにだらりと垂れ下がっていた。
いや。
まるで、ではない。空っぽだ。
二の腕から先が、無かった。
舌打ちが零れそうになるのを堪え、振り返る。
壁にもたれるように座り込んだシャロンの口がにやり、と吊り上がった。
衝撃でずり落ちた帽子をぐっと掴んで被り直す。緑の瞳が面白そうに歪む。
「ああ、誰かと思ったら――その髪はサクラだね? 吸血鬼がシスター庇うってなんかこう……ふふ。倒錯的ー」
なんか吸血鬼って言うより騎士みたい。と彼女は壁に座り込んだままくすくすと笑う。
「で も ♪」
シャロンが持ち上げたその手には、小さな腕があった。
「これ。何か分かるよね」
「――!」
サクラの頭が真っ白になった気がした。ぎり、と奥歯が鳴る。
分からない訳がない。サカキの腕だ。
「待っ」
「待たないよ」
それにそっと口づけると、ぐずぐずとその腕が崩れていく。崩れた所から赤黒い液体が滴り落ちる。
「――っ!」
サクラはサカキをぎゅっと抱きしめるが、シャロンから目は離さない。
シャロンの手にあった腕はみるみるうちに崩れてなくなり。次いで。サクラの腕の中でも異変が起き始めた。
サカキの服からサクラの服へ、じわりと何かが滲む。
黒い生地だから色までは判別がつかない。だが、染み込むその液体が一体何かは容易に想像がついた。
サカキの身体が、腕同様に崩れ去ろうとしている。
彼女の中に。取り込まれようとしている。
サクラには戦闘ができる程の力はない。体育の成績で言うなら、真ん中あたりがとれたら上等だ。さっき彼女を引き離したのだって、火事場の馬鹿力と言う他にない。アイツならあるいはとよぎったけど、どれだけできるかも分からない。頭痛で動きが制限されて状況が悪化するなんてことは歓迎できないし、彼女を放置しておくこともできない。
自分が今できるのは、自分の身を盾にするか、言葉をかけるか。
それが、とても歯がゆい。
「――サクラ、さん」
ごめんなさい、とサカキはこんな時でも自分に非があったと謝ってくる。
「ううん、大丈夫。大丈夫だから」
そう言ってサカキの存在を確かめるようにサクラは言い聞かせる。
この事態を他の人に任せるのが、自分が守ると言い切れないのが、なんだかとても悔しい。けれども。
持っている言葉は、これだけだった。
「ヤミくんと、ウツロさんが。すぐに来てくれる」
□ ■ □
「サクラが真っ先に飛び出すとはちと予想外だったが……サカキを取り戻せたのは良しとしよう。上出来だサクラ。しっかり抱いてろ」
こつん、と廊下に響いた音に、シャロンは手に残った雫を舐めながら視線を向けた。
立っていたのは壮年の男性。ウツロだった。
枯れ草のような濃い黄色の帽子とマント。膝丈のブーツ。手には洋刀が一振。
帽子と同色の制服は、彼の背筋を普段以上にまっすぐに見せた。
「ったく、こんなかっちりした服ってのは……肩に力が入って仕方ねえ。が」
ウツロの目が光を弾く。
「久々の制服ってのもまあ。悪くはねえか」
言うが早いか、洋刀をすらりと抜く。同時にシャロンへ詰め寄り、その足元――服の一部を踏みつけ、光を弾いた刀身を顎から首元へぴたりと当てた。
がり、と、切っ先が壁を削る音がした。
「お前は、何だ?」
手にした刃と同じ鋭さを持つ視線に、シャロンはニコリと笑って返す。
「えー。やだな。忘れちゃったの? シャロンだよ?」
「違うだろ」
「そう? それじゃあ――」
さらり、と彼女の金髪が濃い青に染まる。白い肌が、日に焼けた小麦色になる。
「ミサギかなあ」
「それも違う。……ふざけるのも大概にしろ」
「あはは」
彼女は笑って、シャロンの姿へとすぐに戻る。
「だって誰だって聞くんだもん。忘れられちゃってるんでしょー?」
「いいや。忘れる訳ないだろ?」
柄をを少し持ち上げ、刃で顎を上へと向かせる。
「その姿はお前の物じゃない。その「誰か」の時に斬って良いもんか分からんから聞いてんだ」
ウツロの射抜くような目にも彼女は動じない。それどころか、くすくすと笑ってみせる。
彼女の余裕そうな表情に、ウツロが目を僅かに細めた――その瞬間。
周囲に気配が増えた。
さっきまで存在していなかったのに、突如現れた気配にウツロが小さく舌打ちをする。
「――さあ。ワタシは、誰だろうねえ」
後ろからスイバの声がする。
「わたし、分かりますか?」
「ウツロさんなら、知ってますよね。助けてくれますよね」
彼らを取り囲むように、様々な声がする。
「名前、呼んでみてください」
「……呼ばなくても、いい」
位置や姿を入れ替えるように、くるくると姿と声色が変わる。ウツロの目の前で挑発的に笑うその姿も、表情も、曖昧になっていく。
ウツロが舌打ちをして。剣を引いた。
斬りはしない。ただ、剣の側面で彼女の頬を打つ。
どさり、と彼女は廊下に倒れ込む。長い金髪が廊下に散らばり、頬から赤い雫が零れた。
「ふざけるな。何のつもりだ」
「あははは、ふざけてなんてないわよ。ちょっとした――時間稼ぎ♪」
言うが早いか、彼女の姿がざらりと崩れる。まるでこれまでそこにあったのがホログラムだったかのように、ドットの断片となって崩れていく。
「ほーら。貴方はいつだって甘い。だからあの時も斬り損ねちゃったんだよ?」
数歩離れた所から声がした。ウツロが振り向き様に剣を薙ぐ。と、その服が袈裟懸けに小さく裂け、ドットが散った。
「やっぱりお前だったか。その確信ができたなら話を聞くのもやめだ。必要ない。――ヤミ。お前も来い」
「ん」
頷く声が、軽い足音と共に降ってきた。
まるで、そこが定位置であったかのように。ウツロの影であるかのように。大きな鎌を携えて。ヤミは静かにウツロの隣に立つ。
彼らを囲む影を従えて、シャロンは楽しげに口をつり上げる。
「あは。戦闘力高い二人が全力かー」
「それでこそ方眼の烏が鳴くってもの」
そうこなくっちゃ、とスイバの声がする。
「そうだね。この二人なら、ワタシも全力で、相手してあげなきゃあ」
ミサギが目を細めて頷く。
「それじゃー」
そう言ってシャロン――ドッペルゲンガーはにやりと笑った。
「――お祭りを始めようかー!」
サカキは鞄にクッキーを詰めて校内を歩き回っていた。
ずっとズボンで生活していたから、スカートはひらりとしていて、なんだか落ち着かない。けど、長いこと憧れていた服でもあり、なんだかふわふわした心地でもある。
少し歩いては裾を整え、誰かに出会っては、驚かれたり感想をもらったりして。こそばゆい気持ちになりながらクッキーを渡して回る。
「「サカキくんー」」
足を止めて振り返ったサカキの前に現れたのは、カガミだった。
「トリートちょうだい!」
「クッキーちょうだいー!」
イタズラするという宣言ではなくクッキーのみという正直な要求に、サカキはくすくす笑いながらラッピングされた袋を手渡す。
「はい。どうぞ」
「やったあ、おいしそう!」
「わあい、いいにおい!」
「ありがとうサカキくん!」
「それじゃあ、カガミは次にいくよー」
「はい。気をつけてくださいね」
サカキが頷くと、二人は「はーい!」と元気な返事をしてぱたぱたと走り去る。
それを見送り、サカキも歩き出す。
少しずつ喧噪を離れて。
少しずつ、人気のない場所へ。
校舎の端。
屋上。
使われていない特別教室。
いくつかを周り。すれ違う人と挨拶を交わし。
次の人気が少ない場所へと移動する。
そしてサカキは「彼女」に出会った。
まず目に付いたのは、大きなつばのついたとんがり帽子。
黒いローブに癖の無い金髪が映える少女が、廊下の奥に立っていた。
「あ。サカキ。なんだか久しぶりー。シスターとかちょっと意外だけど……似合ってるね」
彼女が帽子のつばをつまんで持ち上げると、隠れていたグリーンの瞳があらわになる。
「シャロン、さん」
シャロンはカガミが真っ先に挙げた名前。間違いなく、偽物だと確信できるひとり。
サカキの心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
大丈夫、離れたところに誰かが居てくれるはずだ。と、自分に言い聞かせて「ありがとうございます」とお礼を言うと、彼女はサカキの知る彼女と何一つ変わらない顔で頷いた。
「最近……顔を見ないので、心配してました。ごはん、食べていますか?」
「あはは。ごめんね」
最近ちょっと忙しくって、と彼女は言う。
「ちゃんと食べてるよ。本当は時間合わせて行きたいんだけどねー。最近はほら、文化祭準備で裏サイトも賑やかでさ」
「そうなんですか」
「そうなんだよー。期間限定の文化祭用チャットルームとか、意外と盛況でさ。監視とメンテをちょこちょこやってて」
さすがに当日になったら落ち着いたからね、と彼女はほっとしたような顔をして「だから」と言葉を繋いだ。
「今日は会えて良かった。折角の仮装も、引き籠もってたら意味ないしねー。――じゃあ、お約束の言葉を言おうかな」
「……? あ。はい」
一瞬何を言われるのかと思ったサカキは、そっと差し出された手の平で理解する。
ああ。クッキーを渡さないと。
そう思って、鞄に意識を向けた。
瞬間。
「お菓子はイラナイから。貴女をちょーだい」
サカキは簡単に腕を引かれ、抱き寄せらせた。
ぎゅっとサカキを抱きしめるその腕は、洋服越しのはずなのに無機物のようにひんやりしているように感じた。
「ああ。前から思ってたけどサカキは小さくていいねー」
「あ、あの」
「うん?」
「あなたは……ドッペルゲンガー、ですか?」
サカキの震えた問いに、彼女は「そう」と軽い返事をした。
「バレちゃってるんだー、って言いたい所だけど。ちょっと惜しいかな。いや。噂話はそうなんだっけー。うん。それなら間違ってないよ」
うんうんと頷く彼女に、サカキはそろそろと問いかける。
「あの、どうしてこんなことを……?」
「ん? そーだなあー。理由は色々あるの。難しいの。でも大丈夫。貴女もすぐ分かる。何も怖くないよ。痛くもないし、大事にするよ」
そう言ってシャロンはサカキを優しく抱きしめ、耳元でそっと囁く。
「正解した貴女にはいいこと教えてあげる」
吐息がサカキの耳元をくすぐる。
「あのね。私、ずーっと貴女を知ってた。あの事故の日だって、ちゃんと見てたから。全部見てたから」
「え……」
あの事故の日。その単語でサカキの頭は真っ白になった。
そんなサカキの反応にシャロンの笑みが深くなる。
「でも。分からないんだよね。貴女はどうして、男の子であろうとしてたの? どうして今更戻ろうとしたの? そのままで居るつもりなら、見逃してあげようと思ってたのに」
つい、と。彼女の白い指先がサカキの頬をなぞる。
「死んじゃった自分を捨てたい? 助けてもらったことに恩を感じて? 何かに縛られてる? あ。もしかしてサクラと一緒に居たいから? ふふっ。サカキは片想いしてるの?」
「それ、は……違……」
憧れの人が居て、その人に近付きたくて。
だから隣で。近くで勉強させてほしいとお願いしているからだ。
それ以外の感情とか、縛る物とか。ない。ないはずだ。
涙が零れそうだ。シャロンの言葉が苦しい。なんだか怖い。考えたくない。
「違う? 嘘でしょ? ま、答えなくても良いよ。どうせ――要らなくなるし」
シャロンのひやりとした指が、サカキの手に触れる。
ぞわり、とサカキの全身に冷気が走る。体中にある傷が、じわりと熱を持ったのが分かった。
「――あ」
離れようとしても、それは叶わなかった。
助けて、と叫ぼうとして、なぜかぐっと飲み込んだ。
傷の熱が、痛みに変わり始める。
ぎゅっと目をつぶると、身体が突然何かに引き寄せられる感覚がした。
シャロンの冷たさとは全く違う、暖かいものが傍にあるような気がした。
サカキが彼女の腕から解放されたのだと気付いて、目をそっと開いた時。
流れるような金髪の代わりに目の前を染めていたのは、淡い桜色の髪だった。
□ ■ □
サカキがシャロンに抱き寄せられた時、動こうとしたサクラを止めたのはヤミだった。
「待て。アイツはまだ周囲を警戒してる」
「……でも」
「もう少しだけでいいから。っていうか……」
ヤミはそっと言葉を切ってサクラに視線を向けた。彼は真剣な顔で、廊下の方をじっと見ている。
サクラとは、こういう事件が起きたら一緒に対応する事もある。普段は真面目というか、できるだけ落ち着いて状況の把握などに努めるサクラだけど。
今はなんというか。焦っているようにも見えた。
ウツロに聞いてみたいが、今はそんな場合じゃないし、少し離れたところに居るから難しい。
ここまで現場に出る姿を見ることがないからかな、とヤミは結論づけて視線をサクラと同じ方向へ向ける。
サカキとシャロンが何を話しているのかは聞こえない。ぼそぼそと何か言っているのは聞こえるが、言葉は聞き取れない。
そうして様子を伺い。彼女の視線がサカキだけを向いた。
シャロンの指がサカキの手に触れ、表情が一変した瞬間。
「――っ!」
ヤミが止めるよりも早く、サクラは物陰から飛び出していった。
飛び出したのは衝動的だったと思う。
ただ、助けなきゃと思ったら、勝手に動いていた。
マントを翻し、数歩で駆け寄る。一呼吸ででシャロンの襟首を掴み、力一杯サカキから引き離す。サカキの腰に腕を回して抱き寄せ、数歩たたらを踏んだシャロンの腹部に蹴りを入れると、彼女は予想外にかかった力の方向へあっけなく飛んで行った。
「――……か、はっ」
勢いよく壁へとぶつかる。喉から空気の零れる音がした。
「サカキくん!」
「サクラ、さん」
大丈夫? と抱き留めたまま問うと、サカキは小さく頷く。
よかった。とその答えに安堵して――手に触れる感覚がおかしいことに気が付いた。
彼女の左袖は。まるで中身が空っぽのようにだらりと垂れ下がっていた。
いや。
まるで、ではない。空っぽだ。
二の腕から先が、無かった。
舌打ちが零れそうになるのを堪え、振り返る。
壁にもたれるように座り込んだシャロンの口がにやり、と吊り上がった。
衝撃でずり落ちた帽子をぐっと掴んで被り直す。緑の瞳が面白そうに歪む。
「ああ、誰かと思ったら――その髪はサクラだね? 吸血鬼がシスター庇うってなんかこう……ふふ。倒錯的ー」
なんか吸血鬼って言うより騎士みたい。と彼女は壁に座り込んだままくすくすと笑う。
「で も ♪」
シャロンが持ち上げたその手には、小さな腕があった。
「これ。何か分かるよね」
「――!」
サクラの頭が真っ白になった気がした。ぎり、と奥歯が鳴る。
分からない訳がない。サカキの腕だ。
「待っ」
「待たないよ」
それにそっと口づけると、ぐずぐずとその腕が崩れていく。崩れた所から赤黒い液体が滴り落ちる。
「――っ!」
サクラはサカキをぎゅっと抱きしめるが、シャロンから目は離さない。
シャロンの手にあった腕はみるみるうちに崩れてなくなり。次いで。サクラの腕の中でも異変が起き始めた。
サカキの服からサクラの服へ、じわりと何かが滲む。
黒い生地だから色までは判別がつかない。だが、染み込むその液体が一体何かは容易に想像がついた。
サカキの身体が、腕同様に崩れ去ろうとしている。
彼女の中に。取り込まれようとしている。
サクラには戦闘ができる程の力はない。体育の成績で言うなら、真ん中あたりがとれたら上等だ。さっき彼女を引き離したのだって、火事場の馬鹿力と言う他にない。アイツならあるいはとよぎったけど、どれだけできるかも分からない。頭痛で動きが制限されて状況が悪化するなんてことは歓迎できないし、彼女を放置しておくこともできない。
自分が今できるのは、自分の身を盾にするか、言葉をかけるか。
それが、とても歯がゆい。
「――サクラ、さん」
ごめんなさい、とサカキはこんな時でも自分に非があったと謝ってくる。
「ううん、大丈夫。大丈夫だから」
そう言ってサカキの存在を確かめるようにサクラは言い聞かせる。
この事態を他の人に任せるのが、自分が守ると言い切れないのが、なんだかとても悔しい。けれども。
持っている言葉は、これだけだった。
「ヤミくんと、ウツロさんが。すぐに来てくれる」
□ ■ □
「サクラが真っ先に飛び出すとはちと予想外だったが……サカキを取り戻せたのは良しとしよう。上出来だサクラ。しっかり抱いてろ」
こつん、と廊下に響いた音に、シャロンは手に残った雫を舐めながら視線を向けた。
立っていたのは壮年の男性。ウツロだった。
枯れ草のような濃い黄色の帽子とマント。膝丈のブーツ。手には洋刀が一振。
帽子と同色の制服は、彼の背筋を普段以上にまっすぐに見せた。
「ったく、こんなかっちりした服ってのは……肩に力が入って仕方ねえ。が」
ウツロの目が光を弾く。
「久々の制服ってのもまあ。悪くはねえか」
言うが早いか、洋刀をすらりと抜く。同時にシャロンへ詰め寄り、その足元――服の一部を踏みつけ、光を弾いた刀身を顎から首元へぴたりと当てた。
がり、と、切っ先が壁を削る音がした。
「お前は、何だ?」
手にした刃と同じ鋭さを持つ視線に、シャロンはニコリと笑って返す。
「えー。やだな。忘れちゃったの? シャロンだよ?」
「違うだろ」
「そう? それじゃあ――」
さらり、と彼女の金髪が濃い青に染まる。白い肌が、日に焼けた小麦色になる。
「ミサギかなあ」
「それも違う。……ふざけるのも大概にしろ」
「あはは」
彼女は笑って、シャロンの姿へとすぐに戻る。
「だって誰だって聞くんだもん。忘れられちゃってるんでしょー?」
「いいや。忘れる訳ないだろ?」
柄をを少し持ち上げ、刃で顎を上へと向かせる。
「その姿はお前の物じゃない。その「誰か」の時に斬って良いもんか分からんから聞いてんだ」
ウツロの射抜くような目にも彼女は動じない。それどころか、くすくすと笑ってみせる。
彼女の余裕そうな表情に、ウツロが目を僅かに細めた――その瞬間。
周囲に気配が増えた。
さっきまで存在していなかったのに、突如現れた気配にウツロが小さく舌打ちをする。
「――さあ。ワタシは、誰だろうねえ」
後ろからスイバの声がする。
「わたし、分かりますか?」
「ウツロさんなら、知ってますよね。助けてくれますよね」
彼らを取り囲むように、様々な声がする。
「名前、呼んでみてください」
「……呼ばなくても、いい」
位置や姿を入れ替えるように、くるくると姿と声色が変わる。ウツロの目の前で挑発的に笑うその姿も、表情も、曖昧になっていく。
ウツロが舌打ちをして。剣を引いた。
斬りはしない。ただ、剣の側面で彼女の頬を打つ。
どさり、と彼女は廊下に倒れ込む。長い金髪が廊下に散らばり、頬から赤い雫が零れた。
「ふざけるな。何のつもりだ」
「あははは、ふざけてなんてないわよ。ちょっとした――時間稼ぎ♪」
言うが早いか、彼女の姿がざらりと崩れる。まるでこれまでそこにあったのがホログラムだったかのように、ドットの断片となって崩れていく。
「ほーら。貴方はいつだって甘い。だからあの時も斬り損ねちゃったんだよ?」
数歩離れた所から声がした。ウツロが振り向き様に剣を薙ぐ。と、その服が袈裟懸けに小さく裂け、ドットが散った。
「やっぱりお前だったか。その確信ができたなら話を聞くのもやめだ。必要ない。――ヤミ。お前も来い」
「ん」
頷く声が、軽い足音と共に降ってきた。
まるで、そこが定位置であったかのように。ウツロの影であるかのように。大きな鎌を携えて。ヤミは静かにウツロの隣に立つ。
彼らを囲む影を従えて、シャロンは楽しげに口をつり上げる。
「あは。戦闘力高い二人が全力かー」
「それでこそ方眼の烏が鳴くってもの」
そうこなくっちゃ、とスイバの声がする。
「そうだね。この二人なら、ワタシも全力で、相手してあげなきゃあ」
ミサギが目を細めて頷く。
「それじゃー」
そう言ってシャロン――ドッペルゲンガーはにやりと笑った。
「――お祭りを始めようかー!」