あの影なあに?
気付いたのはたまたまだった。
秋が近くて、でもまだまだ暑い。
夏休みが終わって、試験があって。それが終わったくらいの話。
カガミは廊下を歩いていて。誰かとすれ違った時。
急に喉がひんやりと冷たく、苦しくなった。
でも。
なんとなく足を止めちゃいけない気がして。
なんとなく振り向いちゃいけない気がして。
カガミと小さく頷き合って、そのまま真直ぐ部屋に戻った。
「「ねえ、カガミ」」
部屋に入ると、同じ言葉が出た。
「さっきの、誰だった?」
「さっきの、何だった?」
それから二人で顔を見合わせて、首を横に振った。
「「わかんない」」
でも。カガミは気付いてた。
あれは、カガミにとって良くないもの。
冷たくて。暗くて。怖くて。
とてもとても、悲しいものだ。
□ ■ □
もう一度「それ」に会ったのは、すっかり忘れそうになっていた頃。
今度はご飯の時だった。
おいしい唐揚げを食べている時、ふと、目の端っこを黒い影が横切った。
「?」
「カガミ、どうしたの?」
カガミが首を傾げながら唐揚げを食べる。
うん、と頷いてじっと影の方を見てみたけれど、そこにはいつも通りの景色があった。
みんなニコニコしていて。楽しそうで。
おいしそうにご飯を食べてる。
カガミの胸に残ってる冷たい感じなんて、どこにもないくらいあったかい景色。
「あのね、カガミ」
「うん」
もぐもぐと口を動かしながら頷くカガミに、カガミは聞いた。
「さっき、黒い影が通ったの」
「黒い影?」
「うん」
豆腐とわかめのお味噌汁が入ったお椀を両手で持って、少し飲む。こくんと飲み込むとあったかいのが胸を通り過ぎて、冷たい感じが少しだけほわっとなる。
「カガミは覚えてる?」
「……」
「この間の、冷たいの」
「あの、怖くて悲しいの?」
「うん」
「……覚えてる」
ぽそぽそと頷く。
「あれがね。あった気がしたの」
「あれが?」
「でも、わかんない」
だから、気のせいかもしれない。と唐揚げを箸でつまむ。
口に運んで、さく、と噛む。
茶色い衣が音軽いを立てて。
じゅわっとした鶏肉がでてきて。
さっきの怖いのは、全部どっかに行っちゃいそうなくらい。おいしかった。
□ ■ □
それから、何度も「それ」に会った。
その影が「誰」なのかを見ようとしたけど、それはうまくいかなかった。
真直ぐ見ることができなかったり。
気付いたら違う人だったり。
居なくなっていたりして。
カガミは時々会ってしまう「誰か」を避けることもできない。
もっともっと、時間をかけて。
少しずつ少しずつ、見るようにして。
できる限り知ろうとしても。
分かったことは少なかった。
その「誰か」は女の子だってこと。
昨日まで普通だった人がその「誰か」になってしまうこともあること。
その「誰か」になってしまった人は、普通には戻らないこと。
それから。
きっとこの怖いのは、カガミにしか分からないこと。
あまりに出会うことが多いから。
カガミは手を繋いで行動するようになってきた。
部屋から出ないで過ごす日が、増えてきた。
それでもご飯には行く、とカガミは決めていた。
怖いのは居るし、いつ増えるかも分からない。
でも、そうじゃない誰かには会いたくて。
話をしたかった。
□ ■ □
夕食を終えて窓辺を歩いていた時。
カガミが足を止めた。
「……?」
「カガミ、どうしたの?」
ひょこっと覗き込むと、カガミは「あれ」と窓ガラスの一部を指差した。
ガラスの向こうにうっすらと見えるのは、小さな小さな扉だった。
「なんだろう」
「なんだろうね」
鏡や窓の中は小さな部屋みたいになっている。カガミにしか見えないし通れないけれど、学校の中はそれであちこち繋がっているから、カガミはその通路をしょっちゅう行き来したりする。
だから、これもどこかに繋がっているんだろうけれど。
見たことのない扉だった。
「あけてみる?」
「あけてみよう」
カガミは頷き合って窓ガラスの中へと飛び込み、その扉の前に立つ。
膝くらいまでしかなくて、カガミは通り抜けられないような小さな扉。
二人でしゃがみ込んで扉を眺める。
「見たことないね」
「知らないね」
そして二人はノブに手を伸ばす。
「開けてみよう」
「見てみよう」
そして、せーので扉を開く。
覗いたその先は真っ暗だった。
入り口までみっしりと何かが詰まっていて。
むわ、っと溢れ出てきた空気はずしりと重くて。
それはとても怖くて。悲しくて。頭がぎゅっと締め付けられるようで。
カガミは真っ青な顔でその扉を閉めて。
一目散に逃げ出した。
走って。
扉を抜けて。
もっと走って。
部屋に繋がってる鏡から布団に飛び込んで、カガミは二人、毛布を被った。
息が苦しくて。
胸が痛くて。
頭がくらくらして。
つないだ手ががたがた震えて。
とてもとても、悲しくて。涙がこぼれていた。
「怖い」
「怖いね」
「あれ、嫌だな……」
「うん。嫌だね……」
「近付きたくない」
「うん」
「あれにも、会いたくない」
「うん」
それから二人は、もそりと毛布から顔を少し出した。
窓に視線を向けてみたけれど、カーテンに仕切られていて外は見えない。
「このままさ……部屋に居るといいのかな」
「でも、それでみんなとお話しできなくなるの、嫌だな」
「うん」
「誰かに、お話しするといいのかな」
「誰に?」
「誰かに」
「でも」
「その人が居なくなっちゃったら、どうしよう」
「どうしよう。……男の子なら、話せる?」
「話せるかな」
「話してみようか」
「話してみよう」
明日、調理室で誰かを待ってみよう。
お話しできそうなら、話してみよう。
ふたりでそう言いながら、その日は手を繋いで眠った。
秋が近くて、でもまだまだ暑い。
夏休みが終わって、試験があって。それが終わったくらいの話。
カガミは廊下を歩いていて。誰かとすれ違った時。
急に喉がひんやりと冷たく、苦しくなった。
でも。
なんとなく足を止めちゃいけない気がして。
なんとなく振り向いちゃいけない気がして。
カガミと小さく頷き合って、そのまま真直ぐ部屋に戻った。
「「ねえ、カガミ」」
部屋に入ると、同じ言葉が出た。
「さっきの、誰だった?」
「さっきの、何だった?」
それから二人で顔を見合わせて、首を横に振った。
「「わかんない」」
でも。カガミは気付いてた。
あれは、カガミにとって良くないもの。
冷たくて。暗くて。怖くて。
とてもとても、悲しいものだ。
□ ■ □
もう一度「それ」に会ったのは、すっかり忘れそうになっていた頃。
今度はご飯の時だった。
おいしい唐揚げを食べている時、ふと、目の端っこを黒い影が横切った。
「?」
「カガミ、どうしたの?」
カガミが首を傾げながら唐揚げを食べる。
うん、と頷いてじっと影の方を見てみたけれど、そこにはいつも通りの景色があった。
みんなニコニコしていて。楽しそうで。
おいしそうにご飯を食べてる。
カガミの胸に残ってる冷たい感じなんて、どこにもないくらいあったかい景色。
「あのね、カガミ」
「うん」
もぐもぐと口を動かしながら頷くカガミに、カガミは聞いた。
「さっき、黒い影が通ったの」
「黒い影?」
「うん」
豆腐とわかめのお味噌汁が入ったお椀を両手で持って、少し飲む。こくんと飲み込むとあったかいのが胸を通り過ぎて、冷たい感じが少しだけほわっとなる。
「カガミは覚えてる?」
「……」
「この間の、冷たいの」
「あの、怖くて悲しいの?」
「うん」
「……覚えてる」
ぽそぽそと頷く。
「あれがね。あった気がしたの」
「あれが?」
「でも、わかんない」
だから、気のせいかもしれない。と唐揚げを箸でつまむ。
口に運んで、さく、と噛む。
茶色い衣が音軽いを立てて。
じゅわっとした鶏肉がでてきて。
さっきの怖いのは、全部どっかに行っちゃいそうなくらい。おいしかった。
□ ■ □
それから、何度も「それ」に会った。
その影が「誰」なのかを見ようとしたけど、それはうまくいかなかった。
真直ぐ見ることができなかったり。
気付いたら違う人だったり。
居なくなっていたりして。
カガミは時々会ってしまう「誰か」を避けることもできない。
もっともっと、時間をかけて。
少しずつ少しずつ、見るようにして。
できる限り知ろうとしても。
分かったことは少なかった。
その「誰か」は女の子だってこと。
昨日まで普通だった人がその「誰か」になってしまうこともあること。
その「誰か」になってしまった人は、普通には戻らないこと。
それから。
きっとこの怖いのは、カガミにしか分からないこと。
あまりに出会うことが多いから。
カガミは手を繋いで行動するようになってきた。
部屋から出ないで過ごす日が、増えてきた。
それでもご飯には行く、とカガミは決めていた。
怖いのは居るし、いつ増えるかも分からない。
でも、そうじゃない誰かには会いたくて。
話をしたかった。
□ ■ □
夕食を終えて窓辺を歩いていた時。
カガミが足を止めた。
「……?」
「カガミ、どうしたの?」
ひょこっと覗き込むと、カガミは「あれ」と窓ガラスの一部を指差した。
ガラスの向こうにうっすらと見えるのは、小さな小さな扉だった。
「なんだろう」
「なんだろうね」
鏡や窓の中は小さな部屋みたいになっている。カガミにしか見えないし通れないけれど、学校の中はそれであちこち繋がっているから、カガミはその通路をしょっちゅう行き来したりする。
だから、これもどこかに繋がっているんだろうけれど。
見たことのない扉だった。
「あけてみる?」
「あけてみよう」
カガミは頷き合って窓ガラスの中へと飛び込み、その扉の前に立つ。
膝くらいまでしかなくて、カガミは通り抜けられないような小さな扉。
二人でしゃがみ込んで扉を眺める。
「見たことないね」
「知らないね」
そして二人はノブに手を伸ばす。
「開けてみよう」
「見てみよう」
そして、せーので扉を開く。
覗いたその先は真っ暗だった。
入り口までみっしりと何かが詰まっていて。
むわ、っと溢れ出てきた空気はずしりと重くて。
それはとても怖くて。悲しくて。頭がぎゅっと締め付けられるようで。
カガミは真っ青な顔でその扉を閉めて。
一目散に逃げ出した。
走って。
扉を抜けて。
もっと走って。
部屋に繋がってる鏡から布団に飛び込んで、カガミは二人、毛布を被った。
息が苦しくて。
胸が痛くて。
頭がくらくらして。
つないだ手ががたがた震えて。
とてもとても、悲しくて。涙がこぼれていた。
「怖い」
「怖いね」
「あれ、嫌だな……」
「うん。嫌だね……」
「近付きたくない」
「うん」
「あれにも、会いたくない」
「うん」
それから二人は、もそりと毛布から顔を少し出した。
窓に視線を向けてみたけれど、カーテンに仕切られていて外は見えない。
「このままさ……部屋に居るといいのかな」
「でも、それでみんなとお話しできなくなるの、嫌だな」
「うん」
「誰かに、お話しするといいのかな」
「誰に?」
「誰かに」
「でも」
「その人が居なくなっちゃったら、どうしよう」
「どうしよう。……男の子なら、話せる?」
「話せるかな」
「話してみようか」
「話してみよう」
明日、調理室で誰かを待ってみよう。
お話しできそうなら、話してみよう。
ふたりでそう言いながら、その日は手を繋いで眠った。