ドッペルゲンガーのうわさ
「……ドッペルゲンガー、かあ」
サクラは桜の木の下に座って、ぼんやりと散る花弁を眺めながら呟いた。
毎月咲いては散るこの木の下は、彼にとって自室と同じ位慣れ親しんだ、落ち着く場所だ。
幹に背を預ければ、そのぬくもりを感じる。心地よくて、人も滅多に来なくて。けれども学内の喧噪や噂話はは不思議と風に乗ってよく聞こえてきて。うん。良い場所だ。
そんな数多く交わされる会話の中に最近気になる噂がある。
なんでも、「ドッペルゲンガーが出る」らしいのだ。
「あれ。さっき売店に居なかった?」
「え? 教室から出てないけど……」
「昨日の放課後さー。マリに無視されたんだけど」
「マリ? 昨日は……昼に早退したよ?」
そんな感じで話と事実が食い違う。
目撃されているのが一体誰なのかは分からない。本人じゃない、ということだけは確からしい。
別の所で目撃されるもうひとりの自分。いつしか「それはドッペルゲンガーだ」と言われるようになった。
どこかの話のように、その人が目の前で消えたり、自分自身が目撃してしまうような事はないらしいが。色んな人の食い違った情報が日に日に増えていく。その食い違いがすれ違いを生んでいる。それが小さな勘違いや諍いを引き起こす。
「んー……。あんまり良い空気じゃ、ないな。校内で完結する分には害はないと思うけど。ちょっと気になるなあ……」
サクラは今日も聞こえてくるやり取りを耳にしながら、ぽつりと零した。
□ ■ □
放課後。
下校を促すチャイムは鳴ったが、帰路につく生徒は少ない。
今は文化祭前。特別に長時間の居残りが許されている期間だ。
いつもより人が多くて目立つから、と表のプールから裏側の校舎へと戻ってきたミサギは、廊下で普段見かけない影を見つけた。
さらっとした金髪を背に流した後ろ姿。彼女は窓際に肘をついて、携帯を弄っている。
「あれ。しゃろんちゃんだあ」
こんな時間にどうしたの? と、近寄ると、呼ばれた少女――シャロンは携帯から目を離して振り返った。
「あ。ミサギ。時間つぶしだよー」
今日は早く目が覚めちゃったからねー。と、彼女はにこりと笑う。
「そっかあ。まだご飯には早いもんねえ。ワタシも早めに切り上げてちょっと暇なんだあ。……お喋りとか、する?」
「あ。いいねー。しようしよう!」
シャロンは嬉しそうに窓から離れて、どこか良い場所はないかと探し始める。
座る所はすぐに見つかった。二人は近くの階段をお喋りの場所に選び、に腰を下ろした。
「もう秋だねえ」
「そうだねー。パソコン室も寒くなってきちゃうよ」
「あそこ冷房効いてるもんねえ。プールも水が冷たくなってきたなあ」
「そう言えば、表のプール。工事するんだって?」
「うん。らしいよお。年中使える感じにするって話」
「そっかー」
「だからその間はこっち側のプールでのんびりするつもりなんだあ」
その間は誰も居ないから暇だけどねえ、とミサギはのんびりと言う。
シャロンもそっかー、と相槌を打つ。
「あ。そういえばさ」
「うん、なあに?」
会話を交わし合う女子二人の話題は尽きない。
文化祭の準備のこと。
明日の朝ごはんのこと。
図書室の新刊のこと。
そうして他愛もない言葉を交わし続けることしばらく。
ミサギはふと、視界の隅に違和感を感じた。
傍らに居る影――シャロンの輪郭が曖昧になった。そんな気がした。
彼女の方を向くが、きれいな金髪に透けるような白い肌。そこに居るのは間違いなくシャロンだった。
……目は悪くないと思っていたんだけど。気のせい、かあ。何か疲れてるのかなあ、とミサギが目を擦っていると、視線に気付いたらしいシャロンが彼女の方を向いた。
「うん? どうし たの?」
きれいなグリーンの瞳が斜光を弾く。
「ううん、なんでもない」
ミサギが首を横に振ると、シャロンは「そっか」と頷いた。
「そうだ。ねえ。ミサギ」
「なあに?」
「お願いがあ るんだけど、きいてもらえるかな」
両手を合わせてシャロンは頼み込む姿勢を取る。綺麗な金髪がさら、と揺れた。
「? うん。ワタシができる事ならいいよう」
頷くとシャロンは「ありがとう」とにっこり笑う。
「大丈夫。簡単な事だから」
そう言ってシャロンはミサギに肩を寄せた。
変化はとても自然で、突然だった。
それは、水面を風が撫でるような、静かで、確かな変化だった。
最初は触れた肩から腕。セーラー服から伸びる腕が薄手のTシャツを纏う。
続いて髪。淡い金色は深い青へ。さらりと無造作に流されていたのは、緩い三つ編みに。それから瞳。ガラスのように透けるグリーンが、深みを持つ緑へ。
そっと、手が重ねられる。
色白だったはずのシャロンの指は、日に焼けた小麦色をしていた。
ミサギが気付いた時には、寄せられた身体の変化は既に終わっていた。
「え……。えっ? しゃろん、ちゃん?」
「違うよ う。ワタシを間違えるとかイ ヤだなあ」
にこり、とはにかんだように。のんびりと笑って「彼女」は言う。
そう。彼女の言う通り。
ミサギの隣に居るのは。肩を寄せてミサギの目を覗くのは。
ミサギ自身だった。
「えっ、え……?」
何が起きたのか分からない。
どうして自分が目の前に居るのか。シャロンはどこに行ったのか。頭がなんにも、追いつかない。
「鏡、じゃない……わ、ワタシ? しゃろんちゃんは……?」
「んー? だいじょうぶ。なーんにも心配す ることな いよう」
シャロン……いや、ミサギはそう言って笑う。
ああ、ワタシってこういう風に笑うんだ、なんて感想が浮かんだ。
「それで、お願いなんだけどお」
内緒話をするように、そっと耳元に手を当て、口を寄せられる。
「あのね。ワタシ、あなたの存在が欲しいんだあ」
だから。それ、ちょーだい。
そう囁かれた瞬間。
ミサギの身体は、とぷん、と水底に沈んだような浮遊感を覚えた。
身体の自由が利かない。
溺れる――いや。そんな感覚は知らない。
けれど、自分がこのまま何かに解けて、埋もれて、引きずりこまれてしまいそうな。そんな恐怖を感じる。
目を覚ました時に感じた、プールの水に溶けていく涙を。口から零れた空気の泡を思い出す。
指先からそれらに置き換わっていくような。
水になり。空気になり。自分がどんどんと崩れていく。
崩れていく。
くず れ
て、 いく。
そして最後に残ったのは、小さな水溜まりと、階段に座るひとりの少女。
ぐーっと伸びをして、はふう、と小さく息をつく。
「これでお 昼も動けるか なあ」
しゃろんちゃんは夜型さんだしねえ、と。のんびりとした声で、広げた手の平を見つめ、頷く。
それから、手に落ちた斜陽の残滓に視線を上げた。
「ああ、そろそろご 飯の時間だ」
そう言ってミサギは席を立つ。
向かう先は調理室。
みんなの集う、夕飯の席。
彼女が後にした階段は誰もいない。
ただ、小さな水溜まりが影で小さく揺れていた。
□ ■ □
「おなかすいたー」
「おなかぺこぺこー」
「「ねえねえハナブサさん、今日のごはんはなあに?」」
「今夜は少し寒かったからね。スープとハヤシライスだよ」
「おー」
めいめいが好きな席につき、食事を進める。
そんな中、サクラは斜め向かいに座るカガミが、何かを気にしたようにどこかを見ていることに気が付いた。
「二人とも、どうしたの?」
サクラの声に、隣に座っていたヤミも手を止めて首を傾げる。と、二人は同時にぱちりと瞬きをし、首を横に振った。
「「ううん。なんでもないよ」」
「多分、気のせいだから」
「そう。きっと気のせいなの」
答えてスプーンを口へと運ぶ。
「そう?」
「?」
サクラとヤミ。二人揃って首を傾げる。
彼らが不可解な行動をとることはよくある。が、どこかいつもと表情が違うような気がした。
ヤミはそっと、カガミが見ていた視線の先を確認する。と、ハナがのサラシナと何かしら会話をしていた。ふたつ隣の席が空いている。
特に席が決まっている訳ではないから、あの席には誰が居る、という特定は難しい。
何より活動時間のずれがあるから、食事時に全員が揃う訳でもない。
ヤミは少しだけ首を傾げて食事に戻ると、カガミは二人で「おいしいねー」と言い合いながらも大人しく食事をしていた。
サクラは、と視線を向けると、何かが気になることがあるような、心配するような。そんな横顔でカガミを見ていた。
「……?」
よく分からない。何があるという訳でもないが、何かが引っかかる。
それが何か分からない。きっと誰も分かってない。違和感と疑問だけが転がっている。
だからこんなに微妙な空気なのだろう。
なんとなく、先日のラジオを思い出した。
あれはヤミがきっちり壊してしまった。
ハナブサに「これは随分と思い切ったね」と苦笑いされたが、別にそれ以上何も言われなかった。それよりも、ウツロとハナブサは「どうしてそのラジオがあったのか」が気になっているようだった。
スイバに聞いてみるという結論だったと思うが、結局答えは出ていない。
そもそも彼女の姿を最近見かけていない。彼女は放送部員として準備期間から文化祭に紛れ込む。だから、部員としての準備に忙しいのではないか、とハナは言っていた。
正体が分からないといえば。
ハナが言っていた「掲示板の書き込み」もだ。
シャロンは悪質なボット――自動で悪さをするような仕組みが誰かによって組み込まれていた、と言っていたらしい。それ以降奇妙な書き込みもないという。ただ、それを仕込んだのは誰なのか。結局分からないままだし、話題にも出ないという。
「……」
分からないことが多い。いや、そんなのこっち側に足を踏み入れた時からそうで、今に始まったことではない。
けれど。
「……なんか。なあ」
どこか不穏な空気というか。妙な警戒心の芽生えというか。
そんな物を感じる。
「ヤミくん。難しい顔してるね」
スプーンが皿に当たる音に混じって、サクラの声がした。
「ん。なんか面倒なことにならなきゃ良いなと思って」
「そうだね」
「サクラは。何か気付いてるの?」
「ううん、残念ながら」
そうは言いつつも、サクラも似たような何かを感じているらしい。声にそんな色が滲んでいた。
「……ヤミくん」
「うん?」
スプーンを口に運びながら答えると、サクラは「あのね」と小さな声で前置きをした。
「もうハナブサさん達には話してあるんだけど。最近さ。新しい噂話を聞くんだ」
「へえ? どんなの?」
「ドッペルゲンガーが出るんだって」
「そりゃまた……新しいな。みんな文化祭の準備で忙しそうなのに」
「そう。だから気になってさ。今の所は目撃証言だけで終わってて。誰かが怪我をしたり病気になったり、って言うのはないんだけど。……こっち側に該当しそうな人が居なくて」
「そうだな。まあ、俺達の中で影響がでるとすれば……」
二人がちらりと視線を向ける。その先に居たのは、食事を続けるカガミ。
食事に集中しているらしく、二人の視線には気付いていない。
「だよね」
「だな」
二人で頷き合う。
全てを映し、反射する鏡。それなら誰かの姿を模す事だって容易だろう。
「この間の噂は特に何もなかったから、今回も何も起きないといいけど……」
「あれか……そうだな。俺の呼び出し頻度が上がったのと、海外起源が混じって意味分からなかったくらいか」
その事を思い出したらしいヤミの声は、ちょっとげんなりとしていた。
「大体さ、英語とか横文字はどうにも苦手なんだよ……。ハナに愚痴ったらアイツ「ならば中等部から授業に混じって学んできたまえよ」なんて気軽に言い放ちやがった」
「はは……まあ、確かに基礎から教えてくれそうだけどね。英語だったらエディくん得意そうだし、教えてもらう?」
「あー……気が向いたら考える」
そうだね。と頷いてサクラはスプーンを口へ運ぶ。
ヤミは難しい顔をしたままスープカップに口をつけた。
美味しいハヤシライスを咀嚼しながら、サクラはカガミをそっと見る。
ドッペルゲンガーの噂。彼らがそれについて何か動いている様子はない。
そもそもこの二人自身が己のドッペルゲンガーのようなものだし。
ならば、今囁かれているあの噂はなんだろう?
誰だろう?
ヤミがよく言っている「学校は平和であるべきだ」と言う言葉を思い出す。
そう。学校は何も起きないのが一番だ。
サクラもヤミも……いや、ここで暮らす全員にとってそれが一番な事なんだけど。
なんとなく胸騒ぎがするのは、この微妙な空気のせいだろうか。
そう思ったサクラのスプーンに、八重歯がかちんと小さな音を立てた。
サクラは桜の木の下に座って、ぼんやりと散る花弁を眺めながら呟いた。
毎月咲いては散るこの木の下は、彼にとって自室と同じ位慣れ親しんだ、落ち着く場所だ。
幹に背を預ければ、そのぬくもりを感じる。心地よくて、人も滅多に来なくて。けれども学内の喧噪や噂話はは不思議と風に乗ってよく聞こえてきて。うん。良い場所だ。
そんな数多く交わされる会話の中に最近気になる噂がある。
なんでも、「ドッペルゲンガーが出る」らしいのだ。
「あれ。さっき売店に居なかった?」
「え? 教室から出てないけど……」
「昨日の放課後さー。マリに無視されたんだけど」
「マリ? 昨日は……昼に早退したよ?」
そんな感じで話と事実が食い違う。
目撃されているのが一体誰なのかは分からない。本人じゃない、ということだけは確からしい。
別の所で目撃されるもうひとりの自分。いつしか「それはドッペルゲンガーだ」と言われるようになった。
どこかの話のように、その人が目の前で消えたり、自分自身が目撃してしまうような事はないらしいが。色んな人の食い違った情報が日に日に増えていく。その食い違いがすれ違いを生んでいる。それが小さな勘違いや諍いを引き起こす。
「んー……。あんまり良い空気じゃ、ないな。校内で完結する分には害はないと思うけど。ちょっと気になるなあ……」
サクラは今日も聞こえてくるやり取りを耳にしながら、ぽつりと零した。
□ ■ □
放課後。
下校を促すチャイムは鳴ったが、帰路につく生徒は少ない。
今は文化祭前。特別に長時間の居残りが許されている期間だ。
いつもより人が多くて目立つから、と表のプールから裏側の校舎へと戻ってきたミサギは、廊下で普段見かけない影を見つけた。
さらっとした金髪を背に流した後ろ姿。彼女は窓際に肘をついて、携帯を弄っている。
「あれ。しゃろんちゃんだあ」
こんな時間にどうしたの? と、近寄ると、呼ばれた少女――シャロンは携帯から目を離して振り返った。
「あ。ミサギ。時間つぶしだよー」
今日は早く目が覚めちゃったからねー。と、彼女はにこりと笑う。
「そっかあ。まだご飯には早いもんねえ。ワタシも早めに切り上げてちょっと暇なんだあ。……お喋りとか、する?」
「あ。いいねー。しようしよう!」
シャロンは嬉しそうに窓から離れて、どこか良い場所はないかと探し始める。
座る所はすぐに見つかった。二人は近くの階段をお喋りの場所に選び、に腰を下ろした。
「もう秋だねえ」
「そうだねー。パソコン室も寒くなってきちゃうよ」
「あそこ冷房効いてるもんねえ。プールも水が冷たくなってきたなあ」
「そう言えば、表のプール。工事するんだって?」
「うん。らしいよお。年中使える感じにするって話」
「そっかー」
「だからその間はこっち側のプールでのんびりするつもりなんだあ」
その間は誰も居ないから暇だけどねえ、とミサギはのんびりと言う。
シャロンもそっかー、と相槌を打つ。
「あ。そういえばさ」
「うん、なあに?」
会話を交わし合う女子二人の話題は尽きない。
文化祭の準備のこと。
明日の朝ごはんのこと。
図書室の新刊のこと。
そうして他愛もない言葉を交わし続けることしばらく。
ミサギはふと、視界の隅に違和感を感じた。
傍らに居る影――シャロンの輪郭が曖昧になった。そんな気がした。
彼女の方を向くが、きれいな金髪に透けるような白い肌。そこに居るのは間違いなくシャロンだった。
……目は悪くないと思っていたんだけど。気のせい、かあ。何か疲れてるのかなあ、とミサギが目を擦っていると、視線に気付いたらしいシャロンが彼女の方を向いた。
「うん? どうし たの?」
きれいなグリーンの瞳が斜光を弾く。
「ううん、なんでもない」
ミサギが首を横に振ると、シャロンは「そっか」と頷いた。
「そうだ。ねえ。ミサギ」
「なあに?」
「お願いがあ るんだけど、きいてもらえるかな」
両手を合わせてシャロンは頼み込む姿勢を取る。綺麗な金髪がさら、と揺れた。
「? うん。ワタシができる事ならいいよう」
頷くとシャロンは「ありがとう」とにっこり笑う。
「大丈夫。簡単な事だから」
そう言ってシャロンはミサギに肩を寄せた。
変化はとても自然で、突然だった。
それは、水面を風が撫でるような、静かで、確かな変化だった。
最初は触れた肩から腕。セーラー服から伸びる腕が薄手のTシャツを纏う。
続いて髪。淡い金色は深い青へ。さらりと無造作に流されていたのは、緩い三つ編みに。それから瞳。ガラスのように透けるグリーンが、深みを持つ緑へ。
そっと、手が重ねられる。
色白だったはずのシャロンの指は、日に焼けた小麦色をしていた。
ミサギが気付いた時には、寄せられた身体の変化は既に終わっていた。
「え……。えっ? しゃろん、ちゃん?」
「違うよ う。ワタシを間違えるとかイ ヤだなあ」
にこり、とはにかんだように。のんびりと笑って「彼女」は言う。
そう。彼女の言う通り。
ミサギの隣に居るのは。肩を寄せてミサギの目を覗くのは。
ミサギ自身だった。
「えっ、え……?」
何が起きたのか分からない。
どうして自分が目の前に居るのか。シャロンはどこに行ったのか。頭がなんにも、追いつかない。
「鏡、じゃない……わ、ワタシ? しゃろんちゃんは……?」
「んー? だいじょうぶ。なーんにも心配す ることな いよう」
シャロン……いや、ミサギはそう言って笑う。
ああ、ワタシってこういう風に笑うんだ、なんて感想が浮かんだ。
「それで、お願いなんだけどお」
内緒話をするように、そっと耳元に手を当て、口を寄せられる。
「あのね。ワタシ、あなたの存在が欲しいんだあ」
だから。それ、ちょーだい。
そう囁かれた瞬間。
ミサギの身体は、とぷん、と水底に沈んだような浮遊感を覚えた。
身体の自由が利かない。
溺れる――いや。そんな感覚は知らない。
けれど、自分がこのまま何かに解けて、埋もれて、引きずりこまれてしまいそうな。そんな恐怖を感じる。
目を覚ました時に感じた、プールの水に溶けていく涙を。口から零れた空気の泡を思い出す。
指先からそれらに置き換わっていくような。
水になり。空気になり。自分がどんどんと崩れていく。
崩れていく。
くず れ
て、 いく。
そして最後に残ったのは、小さな水溜まりと、階段に座るひとりの少女。
ぐーっと伸びをして、はふう、と小さく息をつく。
「これでお 昼も動けるか なあ」
しゃろんちゃんは夜型さんだしねえ、と。のんびりとした声で、広げた手の平を見つめ、頷く。
それから、手に落ちた斜陽の残滓に視線を上げた。
「ああ、そろそろご 飯の時間だ」
そう言ってミサギは席を立つ。
向かう先は調理室。
みんなの集う、夕飯の席。
彼女が後にした階段は誰もいない。
ただ、小さな水溜まりが影で小さく揺れていた。
□ ■ □
「おなかすいたー」
「おなかぺこぺこー」
「「ねえねえハナブサさん、今日のごはんはなあに?」」
「今夜は少し寒かったからね。スープとハヤシライスだよ」
「おー」
めいめいが好きな席につき、食事を進める。
そんな中、サクラは斜め向かいに座るカガミが、何かを気にしたようにどこかを見ていることに気が付いた。
「二人とも、どうしたの?」
サクラの声に、隣に座っていたヤミも手を止めて首を傾げる。と、二人は同時にぱちりと瞬きをし、首を横に振った。
「「ううん。なんでもないよ」」
「多分、気のせいだから」
「そう。きっと気のせいなの」
答えてスプーンを口へと運ぶ。
「そう?」
「?」
サクラとヤミ。二人揃って首を傾げる。
彼らが不可解な行動をとることはよくある。が、どこかいつもと表情が違うような気がした。
ヤミはそっと、カガミが見ていた視線の先を確認する。と、ハナがのサラシナと何かしら会話をしていた。ふたつ隣の席が空いている。
特に席が決まっている訳ではないから、あの席には誰が居る、という特定は難しい。
何より活動時間のずれがあるから、食事時に全員が揃う訳でもない。
ヤミは少しだけ首を傾げて食事に戻ると、カガミは二人で「おいしいねー」と言い合いながらも大人しく食事をしていた。
サクラは、と視線を向けると、何かが気になることがあるような、心配するような。そんな横顔でカガミを見ていた。
「……?」
よく分からない。何があるという訳でもないが、何かが引っかかる。
それが何か分からない。きっと誰も分かってない。違和感と疑問だけが転がっている。
だからこんなに微妙な空気なのだろう。
なんとなく、先日のラジオを思い出した。
あれはヤミがきっちり壊してしまった。
ハナブサに「これは随分と思い切ったね」と苦笑いされたが、別にそれ以上何も言われなかった。それよりも、ウツロとハナブサは「どうしてそのラジオがあったのか」が気になっているようだった。
スイバに聞いてみるという結論だったと思うが、結局答えは出ていない。
そもそも彼女の姿を最近見かけていない。彼女は放送部員として準備期間から文化祭に紛れ込む。だから、部員としての準備に忙しいのではないか、とハナは言っていた。
正体が分からないといえば。
ハナが言っていた「掲示板の書き込み」もだ。
シャロンは悪質なボット――自動で悪さをするような仕組みが誰かによって組み込まれていた、と言っていたらしい。それ以降奇妙な書き込みもないという。ただ、それを仕込んだのは誰なのか。結局分からないままだし、話題にも出ないという。
「……」
分からないことが多い。いや、そんなのこっち側に足を踏み入れた時からそうで、今に始まったことではない。
けれど。
「……なんか。なあ」
どこか不穏な空気というか。妙な警戒心の芽生えというか。
そんな物を感じる。
「ヤミくん。難しい顔してるね」
スプーンが皿に当たる音に混じって、サクラの声がした。
「ん。なんか面倒なことにならなきゃ良いなと思って」
「そうだね」
「サクラは。何か気付いてるの?」
「ううん、残念ながら」
そうは言いつつも、サクラも似たような何かを感じているらしい。声にそんな色が滲んでいた。
「……ヤミくん」
「うん?」
スプーンを口に運びながら答えると、サクラは「あのね」と小さな声で前置きをした。
「もうハナブサさん達には話してあるんだけど。最近さ。新しい噂話を聞くんだ」
「へえ? どんなの?」
「ドッペルゲンガーが出るんだって」
「そりゃまた……新しいな。みんな文化祭の準備で忙しそうなのに」
「そう。だから気になってさ。今の所は目撃証言だけで終わってて。誰かが怪我をしたり病気になったり、って言うのはないんだけど。……こっち側に該当しそうな人が居なくて」
「そうだな。まあ、俺達の中で影響がでるとすれば……」
二人がちらりと視線を向ける。その先に居たのは、食事を続けるカガミ。
食事に集中しているらしく、二人の視線には気付いていない。
「だよね」
「だな」
二人で頷き合う。
全てを映し、反射する鏡。それなら誰かの姿を模す事だって容易だろう。
「この間の噂は特に何もなかったから、今回も何も起きないといいけど……」
「あれか……そうだな。俺の呼び出し頻度が上がったのと、海外起源が混じって意味分からなかったくらいか」
その事を思い出したらしいヤミの声は、ちょっとげんなりとしていた。
「大体さ、英語とか横文字はどうにも苦手なんだよ……。ハナに愚痴ったらアイツ「ならば中等部から授業に混じって学んできたまえよ」なんて気軽に言い放ちやがった」
「はは……まあ、確かに基礎から教えてくれそうだけどね。英語だったらエディくん得意そうだし、教えてもらう?」
「あー……気が向いたら考える」
そうだね。と頷いてサクラはスプーンを口へ運ぶ。
ヤミは難しい顔をしたままスープカップに口をつけた。
美味しいハヤシライスを咀嚼しながら、サクラはカガミをそっと見る。
ドッペルゲンガーの噂。彼らがそれについて何か動いている様子はない。
そもそもこの二人自身が己のドッペルゲンガーのようなものだし。
ならば、今囁かれているあの噂はなんだろう?
誰だろう?
ヤミがよく言っている「学校は平和であるべきだ」と言う言葉を思い出す。
そう。学校は何も起きないのが一番だ。
サクラもヤミも……いや、ここで暮らす全員にとってそれが一番な事なんだけど。
なんとなく胸騒ぎがするのは、この微妙な空気のせいだろうか。
そう思ったサクラのスプーンに、八重歯がかちんと小さな音を立てた。