かがみのはなし
自分をすっかり忘れてしまった、とある生徒の話をしよう。
その生徒は、校則違反をしない程度の髪型と制服の着こなしをしていた。
制服には縫い付けられたフェルトの名札があり、「賀上」と刺繍されている。
賀上あおか。
それがその生徒の名前だった。
賀上は真面目で、誰とでも仲が良くて。
誰にも頼る事ができない子だった。
そんな自分を、どうにかして変えたかったのかもしれない。
逃げたかったのかもしれない。
たまたま見つけたおまじないに、手を出した。
やり方は簡単。
鏡の四隅に紫の絵の具を塗って、「あなたは誰?」と問いかける。
名前を答えたら、絵の具をハンカチで拭き取る。
一日二回。一週間繰り返す。
気をつけるのは四つだけ。
・誰にも知られちゃいけない。
・使う鏡は校内に限る。
・ハンカチは同じ物を使い続ける。
・自分の名前を忘れちゃいけない。
賀上は絵の具とハンカチを持って鏡に向かい合っていた。
手順を確認するように呟いて、絵の具のチューブを鏡の四隅に押しつける。
映っている自分はいつも通り。とっても冴えない顔をしていた。
「あなたは誰?」
「……賀上、あおか」
そんな簡単な受け答えをして、絵の具を拭い取る。
一日二回。
簡単なかんたんな繰り返し。
二日目も問いかける。
三日目も問いかけた。
四日目も問いかけて。
変化が現れたのは、五日目だった。
鏡に映った自分の表情に違和感を覚えた。
なんで鏡の中の自分は笑ってるんだろう。口元に手を当てると、少しだけ上がっていた。
――うん。笑ってた。
そう気付くと、確かに自分は笑っていた。そんな気がする。でも、じっと向かい合っていると、その違和感はどんどんと広がっていく。
目が。髪型が。口元が。
本当に、こうだったっけ?
本当に。こんな顔だったっけ?
ホントにこうだっけ?
正しいようで、なんだか違う気がする。
でも、鏡だから正しいんだ、と考えるのを止めて、声を出す。
「あなたは、だれ?」
ああ。こんな声だったんだ。そう思いながら答えた。
「かがみ、あおか」
□ ■ □
「……あおか? 顔色悪いけど大丈夫?」
目の下すごいクマできてるよ、とクラスメイトに言われた。
「え? そう?」
ちゃんと寝てるんだけどなあ、と目の下を指で押してみる。鞄に入っている小さな手鏡は、なんだか見る気になれなかった。
「……うん、大丈夫だよ」
自分の言葉なのに。そうなのかな。と思った。
でも、これは誰にも知られちゃいけない。
それに自分の体調だし。今日は帰ってたくさん寝ればなんとかなる。
きっと。
□ ■ □
六日目。
鏡の中の自分が、自分だと思えなかった。
身に纏う制服を間違えたような気がした。
髪型が違う気がした?
私は。あれ?
俺は?
僕? わたし……あれ?
「あなたは……だれ?」
声に出すと、少しだけ自分が分かった気がした。
言葉の意味はちょっと分からなかったけど、多分、今まで通りを繰り返せばいい。いつもの言葉を。それがきっと。
「かがみ……あお、か」
自信はなかったけど。大丈夫。合ってる。
――あってる、はず。
そして七日目。
鏡に向かい合う、最後の一日。
絵の具を乗せた鏡の中に居た自分……だと思う人影は、誰か分からなかった。
瞬きをする毎にくるくるとその姿を変えるような気がする。
男子生徒。女子生徒。
セーラー服。カッターシャツ。体操服。夏服、冬服。分からない。
髪は長くて。短くて。黒くて、白くて、紫で。分からない。
にっこり笑って、悲しげで。怒っているような、泣いてるような。分からない。
そもそも全てが影のようで、何かに塗りつぶされてるようで。分からない。
その姿に戸惑う中、声がした。
「あなたは、誰?」
鏡の口は動いていた。
ああ、こんな声だったんだ。と思ったけど、正直よく聞こえなかった気がする。
それで。答えなきゃいけないんだっけ。
なにを? ええと。
誰。あなたは。だれ?
そう。それを答えなきゃいけない。
でも。
だけど。
やっぱり。
分からなかった。
この一週間、何度も口にしたはずのその問いが。答えが。当たり前に持っているはずのものが。この鏡に映る影が何なのか。自分自身? そもそも、その言葉は何だっけ?
ええと、と言葉に詰まり――胸元に当てた指先が硬いフェルトに触れた。
そうだ。名前。名前を聞かれてた。それを答えるんだ。縫い付けられていたのがあったはず、と胸元のポケットに手を当てる。一部だけ感触の違うそれは、きっと刺繍糸。名前だ。
なんと書いてあったっけ。視線をそろっとおろす。
JT~0『K$"#=(
読めなかった。
何文字かも分からない。
分からない。分からない。
分からない。分からない。分からない。
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からなくて。分からない。分からない。分からない。分からない。知らない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない……
なーんにも、
分からなかった。
一体、あなたは――誰?
もう一度鏡を見ると、その中の影がこちらに手を伸ばしていた。
自然と、自分も手を伸ばしていた。
にやり。と。もう真っ黒にしか見えない顔の中で、やけに赤い口が吊り上がった。
ぴたりとガラス越しに指が触れる――と、鏡面がゆらりと揺れて。足元が
無くなったか、
の。
ような
かんじ
が
した。
□ ■ □
生徒がひとり、居なくなった。
生徒達は皆、口を揃えて原因は分からないという。
ただ、全員が口を噤んで――密やかに語る、最後のその場所は。
誰も使わないほどに古く、遠いところにあるトイレ。
誰かは、そこで叫び声を聞いたという。
誰かは、笑い声を聞いたという。
誰かは、洗面台の鏡が一枚だけ、紫色の絵の具でめちゃくちゃに塗りたくられていたらしい、という。
誰かは、そこには誰も居なかったという。
それがどの鏡かはもう分からない。
その生徒の行方も分からない。
けど。
それらはきっと全て「用務員さん」が片付けてしまったのだ。と話は終わる。
□ ■ □
少年と少女は目を覚ました。
暗い。古い。木の天井。
二人同時に身体を起こし、隣の人物に気付いて、まじまじと見つめ合う。
「……?」
そして、自分達を写す大きな鏡に気が付いて。二人一緒にそっちを向いた。
映っていたのは少年と少女。双子のように。いや、それ以上にそっくりな二人がそこにいた。
違いは身につけた制服と、髪型。それから性別。
あとは全てが同じように見えた。
「「ねえ」」
二人の声が重なる。声も、重なってしまえばほとんど同じように響いた。
きょとん、としたまま二人は似た仕草で首を傾げる。
「ねえ」
「うん」
「とっても、見た事ある気がするの」
「すごく、会った事ある気がするね」
「不思議だね」
「うん。不思議」
「「あなたは、だれ?」」
声が重なった。
「分からない。君は?」
「……わからない」
「なんにも分からないね」
「そうだね」
暗い踊り場で座り込む二人。
そこに。とん、と小さな足音がした。
二人が振り向く。立っていたのは影のような少年だった。
小さな背に、ぴしりと伸ばした背筋。赤い飾りの学生帽に学ラン。横に大きく跳ねた髪。帽子の影から覗く金色の目が、二人を睨みつける。
「二人」
ぽつり。と少年が呟いた。
「……鏡に喰われたのはお前らか?」
確認するかのような声が、二人に向けられる。
「えっと……」
「あの……」
答えられない二人は、その射抜くような視線に怯え、ぎゅっ、とお互いの手を握る。
今この場所で信じられるのは、隣のそっくりさんだけ。そんな気がしたから。
「あーあ。ダメだよヤミちゃん。それでは怖がってしまうじゃないか」
後ろからひょっこりと。今度は女子生徒が出てきた。今までどこに居たのか分からない程、唐突に現れた。少年よりも背が高く、セーラー服に紺色のカーディガンを着ている。長い髪を背中で揺らして、彼女は「ヤミ」と呼んだ少年より一歩こちらへ近寄った。
「ほら。すっかり怯えている。ハナブサさんも言ってただろう? 怖がらせてはいけないよ、って」
「そんなつもりはないし、相手が勝手に怖がってるだけだ。……ていうか、そう言うの分かってんのになんで連れてきた」
ヤミの疑問に彼女はあははは、と場違いなほど明るい声で笑う。
「どうせ暇だろうと思ったからさ! あと、ヤミちゃんは怖くないと分かってもらわないといけないしね。誤解は早めに解くべき。そうだろう?」
「誤解される事前提なのはどうかと思う」
「ヤミちゃんは外見で損をするタイプだからな」
「うるさい」
呆れた少年の姿に少女はからからと笑い、二人へ向けて手を差し出した。
カーディガンから覗く手のひらは、握手を求めているようにも、こちらへ招くようにも見えた。
「ようこそ。ボクの事はハナと呼んでくれたまえ。あっちの黒いのはヤミちゃんだ。なあに、無闇矢鱈な事をしなければ害はないよ」
「害て」
ハナと名乗った少女はヤミの言葉を軽く無視し、口の端をにっこりと上げて高らかに言う。
「よし、まずは状況説明をしたい。ええと……君達、覚えていることはあるかい?」
二人はうーん。と考える。
さっきもそうだったけれど、やっぱり何も分からなかった。
だからふるふると首を横に振る。
「なるほどなるほど。ならば、そんな君達の状況を判断する材料は三つだ」
ひいふうと数えるように指を立てながら彼女は語り聞かせる。
「ひとつ、ここは大鏡と呼ばれていた鏡の前。ふたつ、表で流行っていた紫鏡のおまじない。みっつ、すべて忘れてしまった君達。これから導かれる結論としてはひとつだとボクは考える。つまり――君達はね、鏡に喰われたんだ」
「鏡に……」
「喰われた?」
さっきもそう言われた。どういうことだろう?
「そう。大方、噂話のおまじないでもしたんだろう? あれは良くない。ただでさえ自己認識の分散と低下……ゲシュタルト崩壊と言うんだっけ」
そうだっけ、と彼女は一瞬考える素振りを見せて「まあいいや」と言葉を続けた。
「それを引き起こすような行為なのに、おまじないの紫鏡と混ざって厄介すぎた。君達はそんな厄介なモノに喰われた。喰われて。死んで。全部分からなくなって。自分すら保てなくなって。ボク達の側――噂話をされる存在になってしまった」
「喰われて? 死んで?」
「保てなくて? 噂話?」
首を傾げる二人にハナは頷く。
「そう。君達はこの大鏡という噂話に喰われた。利用された、といっても良いだろうか。これまで輪郭が曖昧だった噂話は君達の身体を手に――いや、君達に力を与えようと取り込んだ。それに耐えられなかったのだろう」
だからもう、君という人間は存在しないんだよ。とハナは言った。
「勝手で申し訳ない話だがね。こちら側に来てしまった以上、君達は元の生活には戻れない。あちら側には帰れない。が……まあ、全部忘れているようだし関係ないか」
そういう彼女の声は寂しそう。だけど、どこか羨ましそうな声だった。
「で、だ!」
彼女は両手を広げ、一転して明るい口調で言う。
「性別。性格。記憶。存在。これまで持ってた何もかも――全部分からなくなって、全部の可能性を信じ込んで。君達は二人に別れてしまった。ふたりでひとり。それが今ある君らの全てだ」
わかるかい? とハナは問う。
「うーん」
「えーと」
「「よく、分からない……」」
揃った声に、彼女は「そうだろうな」と頷く。
「分からないのが普通さ。いや、普通とか常識とか、そんな言葉すら必要ない。ボクだって分からない事だらけの毎日だしな!」
「お前はそう言う解釈だから自由すぎるんだろうが」
「何の事だかさっぱりだな!」
「分かってやってんのかもしかして」
「そんな些細なことはどうでも良いのさ。――さあ」
と、彼女は再度。今度は両手を差し出した。
「君達二人。いや、ひとりかな? うん。どっちでも良いや。ボク達は君の全てを歓迎しよう。これから君達は変わってもいい。変わらなくてもいい。今はまっさらなんだ。己を好きな色に塗るも塗らないも、君達の好きにしたまえよ」
少年と少女は顔を見合わせ、そっと、ハナの手を取った。
ハナは満足そうに握り返し、二人を引き起こす。
「ようこそボク達の世界へ。歓迎するよ――」
一瞬彼女は言葉を止めたが、すぐに朗らかな笑顔で二人を抱きしめた。
「二人でひとりの――カガミ」
「二人で」
「ひとりの」
「「カガミ……」」
同時に呟いたその名前は、なんだか二人の奥底にじんわりと染み渡った。
なんだか暖かくて。懐かしくて。泣きそうで。
それだけは、大事にしなくちゃいけないような。そんな気がした。
その生徒は、校則違反をしない程度の髪型と制服の着こなしをしていた。
制服には縫い付けられたフェルトの名札があり、「賀上」と刺繍されている。
賀上あおか。
それがその生徒の名前だった。
賀上は真面目で、誰とでも仲が良くて。
誰にも頼る事ができない子だった。
そんな自分を、どうにかして変えたかったのかもしれない。
逃げたかったのかもしれない。
たまたま見つけたおまじないに、手を出した。
やり方は簡単。
鏡の四隅に紫の絵の具を塗って、「あなたは誰?」と問いかける。
名前を答えたら、絵の具をハンカチで拭き取る。
一日二回。一週間繰り返す。
気をつけるのは四つだけ。
・誰にも知られちゃいけない。
・使う鏡は校内に限る。
・ハンカチは同じ物を使い続ける。
・自分の名前を忘れちゃいけない。
賀上は絵の具とハンカチを持って鏡に向かい合っていた。
手順を確認するように呟いて、絵の具のチューブを鏡の四隅に押しつける。
映っている自分はいつも通り。とっても冴えない顔をしていた。
「あなたは誰?」
「……賀上、あおか」
そんな簡単な受け答えをして、絵の具を拭い取る。
一日二回。
簡単なかんたんな繰り返し。
二日目も問いかける。
三日目も問いかけた。
四日目も問いかけて。
変化が現れたのは、五日目だった。
鏡に映った自分の表情に違和感を覚えた。
なんで鏡の中の自分は笑ってるんだろう。口元に手を当てると、少しだけ上がっていた。
――うん。笑ってた。
そう気付くと、確かに自分は笑っていた。そんな気がする。でも、じっと向かい合っていると、その違和感はどんどんと広がっていく。
目が。髪型が。口元が。
本当に、こうだったっけ?
本当に。こんな顔だったっけ?
ホントにこうだっけ?
正しいようで、なんだか違う気がする。
でも、鏡だから正しいんだ、と考えるのを止めて、声を出す。
「あなたは、だれ?」
ああ。こんな声だったんだ。そう思いながら答えた。
「かがみ、あおか」
□ ■ □
「……あおか? 顔色悪いけど大丈夫?」
目の下すごいクマできてるよ、とクラスメイトに言われた。
「え? そう?」
ちゃんと寝てるんだけどなあ、と目の下を指で押してみる。鞄に入っている小さな手鏡は、なんだか見る気になれなかった。
「……うん、大丈夫だよ」
自分の言葉なのに。そうなのかな。と思った。
でも、これは誰にも知られちゃいけない。
それに自分の体調だし。今日は帰ってたくさん寝ればなんとかなる。
きっと。
□ ■ □
六日目。
鏡の中の自分が、自分だと思えなかった。
身に纏う制服を間違えたような気がした。
髪型が違う気がした?
私は。あれ?
俺は?
僕? わたし……あれ?
「あなたは……だれ?」
声に出すと、少しだけ自分が分かった気がした。
言葉の意味はちょっと分からなかったけど、多分、今まで通りを繰り返せばいい。いつもの言葉を。それがきっと。
「かがみ……あお、か」
自信はなかったけど。大丈夫。合ってる。
――あってる、はず。
そして七日目。
鏡に向かい合う、最後の一日。
絵の具を乗せた鏡の中に居た自分……だと思う人影は、誰か分からなかった。
瞬きをする毎にくるくるとその姿を変えるような気がする。
男子生徒。女子生徒。
セーラー服。カッターシャツ。体操服。夏服、冬服。分からない。
髪は長くて。短くて。黒くて、白くて、紫で。分からない。
にっこり笑って、悲しげで。怒っているような、泣いてるような。分からない。
そもそも全てが影のようで、何かに塗りつぶされてるようで。分からない。
その姿に戸惑う中、声がした。
「あなたは、誰?」
鏡の口は動いていた。
ああ、こんな声だったんだ。と思ったけど、正直よく聞こえなかった気がする。
それで。答えなきゃいけないんだっけ。
なにを? ええと。
誰。あなたは。だれ?
そう。それを答えなきゃいけない。
でも。
だけど。
やっぱり。
分からなかった。
この一週間、何度も口にしたはずのその問いが。答えが。当たり前に持っているはずのものが。この鏡に映る影が何なのか。自分自身? そもそも、その言葉は何だっけ?
ええと、と言葉に詰まり――胸元に当てた指先が硬いフェルトに触れた。
そうだ。名前。名前を聞かれてた。それを答えるんだ。縫い付けられていたのがあったはず、と胸元のポケットに手を当てる。一部だけ感触の違うそれは、きっと刺繍糸。名前だ。
なんと書いてあったっけ。視線をそろっとおろす。
JT~0『K$"#=(
読めなかった。
何文字かも分からない。
分からない。分からない。
分からない。分からない。分からない。
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からなくて。分からない。分からない。分からない。分からない。知らない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない……
なーんにも、
分からなかった。
一体、あなたは――誰?
もう一度鏡を見ると、その中の影がこちらに手を伸ばしていた。
自然と、自分も手を伸ばしていた。
にやり。と。もう真っ黒にしか見えない顔の中で、やけに赤い口が吊り上がった。
ぴたりとガラス越しに指が触れる――と、鏡面がゆらりと揺れて。足元が
無くなったか、
の。
ような
かんじ
が
した。
□ ■ □
生徒がひとり、居なくなった。
生徒達は皆、口を揃えて原因は分からないという。
ただ、全員が口を噤んで――密やかに語る、最後のその場所は。
誰も使わないほどに古く、遠いところにあるトイレ。
誰かは、そこで叫び声を聞いたという。
誰かは、笑い声を聞いたという。
誰かは、洗面台の鏡が一枚だけ、紫色の絵の具でめちゃくちゃに塗りたくられていたらしい、という。
誰かは、そこには誰も居なかったという。
それがどの鏡かはもう分からない。
その生徒の行方も分からない。
けど。
それらはきっと全て「用務員さん」が片付けてしまったのだ。と話は終わる。
□ ■ □
少年と少女は目を覚ました。
暗い。古い。木の天井。
二人同時に身体を起こし、隣の人物に気付いて、まじまじと見つめ合う。
「……?」
そして、自分達を写す大きな鏡に気が付いて。二人一緒にそっちを向いた。
映っていたのは少年と少女。双子のように。いや、それ以上にそっくりな二人がそこにいた。
違いは身につけた制服と、髪型。それから性別。
あとは全てが同じように見えた。
「「ねえ」」
二人の声が重なる。声も、重なってしまえばほとんど同じように響いた。
きょとん、としたまま二人は似た仕草で首を傾げる。
「ねえ」
「うん」
「とっても、見た事ある気がするの」
「すごく、会った事ある気がするね」
「不思議だね」
「うん。不思議」
「「あなたは、だれ?」」
声が重なった。
「分からない。君は?」
「……わからない」
「なんにも分からないね」
「そうだね」
暗い踊り場で座り込む二人。
そこに。とん、と小さな足音がした。
二人が振り向く。立っていたのは影のような少年だった。
小さな背に、ぴしりと伸ばした背筋。赤い飾りの学生帽に学ラン。横に大きく跳ねた髪。帽子の影から覗く金色の目が、二人を睨みつける。
「二人」
ぽつり。と少年が呟いた。
「……鏡に喰われたのはお前らか?」
確認するかのような声が、二人に向けられる。
「えっと……」
「あの……」
答えられない二人は、その射抜くような視線に怯え、ぎゅっ、とお互いの手を握る。
今この場所で信じられるのは、隣のそっくりさんだけ。そんな気がしたから。
「あーあ。ダメだよヤミちゃん。それでは怖がってしまうじゃないか」
後ろからひょっこりと。今度は女子生徒が出てきた。今までどこに居たのか分からない程、唐突に現れた。少年よりも背が高く、セーラー服に紺色のカーディガンを着ている。長い髪を背中で揺らして、彼女は「ヤミ」と呼んだ少年より一歩こちらへ近寄った。
「ほら。すっかり怯えている。ハナブサさんも言ってただろう? 怖がらせてはいけないよ、って」
「そんなつもりはないし、相手が勝手に怖がってるだけだ。……ていうか、そう言うの分かってんのになんで連れてきた」
ヤミの疑問に彼女はあははは、と場違いなほど明るい声で笑う。
「どうせ暇だろうと思ったからさ! あと、ヤミちゃんは怖くないと分かってもらわないといけないしね。誤解は早めに解くべき。そうだろう?」
「誤解される事前提なのはどうかと思う」
「ヤミちゃんは外見で損をするタイプだからな」
「うるさい」
呆れた少年の姿に少女はからからと笑い、二人へ向けて手を差し出した。
カーディガンから覗く手のひらは、握手を求めているようにも、こちらへ招くようにも見えた。
「ようこそ。ボクの事はハナと呼んでくれたまえ。あっちの黒いのはヤミちゃんだ。なあに、無闇矢鱈な事をしなければ害はないよ」
「害て」
ハナと名乗った少女はヤミの言葉を軽く無視し、口の端をにっこりと上げて高らかに言う。
「よし、まずは状況説明をしたい。ええと……君達、覚えていることはあるかい?」
二人はうーん。と考える。
さっきもそうだったけれど、やっぱり何も分からなかった。
だからふるふると首を横に振る。
「なるほどなるほど。ならば、そんな君達の状況を判断する材料は三つだ」
ひいふうと数えるように指を立てながら彼女は語り聞かせる。
「ひとつ、ここは大鏡と呼ばれていた鏡の前。ふたつ、表で流行っていた紫鏡のおまじない。みっつ、すべて忘れてしまった君達。これから導かれる結論としてはひとつだとボクは考える。つまり――君達はね、鏡に喰われたんだ」
「鏡に……」
「喰われた?」
さっきもそう言われた。どういうことだろう?
「そう。大方、噂話のおまじないでもしたんだろう? あれは良くない。ただでさえ自己認識の分散と低下……ゲシュタルト崩壊と言うんだっけ」
そうだっけ、と彼女は一瞬考える素振りを見せて「まあいいや」と言葉を続けた。
「それを引き起こすような行為なのに、おまじないの紫鏡と混ざって厄介すぎた。君達はそんな厄介なモノに喰われた。喰われて。死んで。全部分からなくなって。自分すら保てなくなって。ボク達の側――噂話をされる存在になってしまった」
「喰われて? 死んで?」
「保てなくて? 噂話?」
首を傾げる二人にハナは頷く。
「そう。君達はこの大鏡という噂話に喰われた。利用された、といっても良いだろうか。これまで輪郭が曖昧だった噂話は君達の身体を手に――いや、君達に力を与えようと取り込んだ。それに耐えられなかったのだろう」
だからもう、君という人間は存在しないんだよ。とハナは言った。
「勝手で申し訳ない話だがね。こちら側に来てしまった以上、君達は元の生活には戻れない。あちら側には帰れない。が……まあ、全部忘れているようだし関係ないか」
そういう彼女の声は寂しそう。だけど、どこか羨ましそうな声だった。
「で、だ!」
彼女は両手を広げ、一転して明るい口調で言う。
「性別。性格。記憶。存在。これまで持ってた何もかも――全部分からなくなって、全部の可能性を信じ込んで。君達は二人に別れてしまった。ふたりでひとり。それが今ある君らの全てだ」
わかるかい? とハナは問う。
「うーん」
「えーと」
「「よく、分からない……」」
揃った声に、彼女は「そうだろうな」と頷く。
「分からないのが普通さ。いや、普通とか常識とか、そんな言葉すら必要ない。ボクだって分からない事だらけの毎日だしな!」
「お前はそう言う解釈だから自由すぎるんだろうが」
「何の事だかさっぱりだな!」
「分かってやってんのかもしかして」
「そんな些細なことはどうでも良いのさ。――さあ」
と、彼女は再度。今度は両手を差し出した。
「君達二人。いや、ひとりかな? うん。どっちでも良いや。ボク達は君の全てを歓迎しよう。これから君達は変わってもいい。変わらなくてもいい。今はまっさらなんだ。己を好きな色に塗るも塗らないも、君達の好きにしたまえよ」
少年と少女は顔を見合わせ、そっと、ハナの手を取った。
ハナは満足そうに握り返し、二人を引き起こす。
「ようこそボク達の世界へ。歓迎するよ――」
一瞬彼女は言葉を止めたが、すぐに朗らかな笑顔で二人を抱きしめた。
「二人でひとりの――カガミ」
「二人で」
「ひとりの」
「「カガミ……」」
同時に呟いたその名前は、なんだか二人の奥底にじんわりと染み渡った。
なんだか暖かくて。懐かしくて。泣きそうで。
それだけは、大事にしなくちゃいけないような。そんな気がした。