あなたはだあれ？ 後編
胸のポケットに付けられている白いプラスチックの小さな板には、見知らぬ何かがあるだけだった。
え。これ、なんて書いてあるの？ あれ。名前。なまえ。どこ……何？
なんだっけ。
なんだっけ。なんだっけ。
頭がぐちゃぐちゃして、なんにも分からなくて、気味が悪くて。気持ち悪くて。
ぐるぐると目が回るのに、思考だけはヤケにクリアで。
ひとつのことを、答えもでないのに考え続ける。
読めない。よめない。なんだっけ。なんだっけ。なんてよむんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。このもじ。もじ？ なんだっけ。オJHGY’。なん’＆％T。なんだっけ。なC8だっけ。なんだっけ。なっけんだ。なんだっけ。gsiC8YK。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なだんっけ。+gsGCrw。なんだっけ。$B$jだ@$c(b。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ――！
「あれ？ 忘れちゃった？」
「あれ？ 分からなくなっちゃった？」
「それじゃあ仕方ないね」
「それならしょうがないね」
鏡の中の二人が、影の腕を取る。誰も居ないのに、両腕が掴まれる感覚がした。
「ひ――」
逃げたい。けれども、見えない腕は放してくれない。動けない。
分からない、逃げたい。なんで？ 怖い。悲しい？ 分からない私を支えるように、二人は両側から私の腕をぎゅっと抱く。
鏡の中で私の腕に抱きついた二人は、嬉しそうに声を上げた。
「「ずーっと一緒にこっちで遊ぼう！」」
「い……嫌、や、だ……っ！」
やっと出た言葉は、拒否だった。
二人はその言葉が分からないかのように、きょとんとした顔で瞬きをする。
力が緩んだような気がして腕を振り払うと、「わっ」と声がして二人が両の鏡に飛び退いた。
「「なんでそう言う事言うの？」」
二人は不思議そうに問う。
なんで。なんでだろう。
「ずーっと見てたから知ってるよ」
「ずーっとやってたから分かってるよ」
「変わりのない生活をやめたいんじゃなかったの？」
「まっさらで新しい生活したかったんじゃないの？」
確かにそうだった。そのはずだったのに。
いざそう言われると、とても怖かった。
名前が分からない恐怖感と同様、これまで積み重ねてきた色んなものがこんな風に分からなくなってしまうのは。何もかもなくなってしまうのは、嫌だった。
「変わるの怖いの？」
「やめるの嫌なの？」
二人は答えを射抜くように首を傾げる。
息が詰まる。呼吸ができない。頷くことも、できない。
ふふふ、と二人は笑っている。
「あのね。ちゃんと知ってるよ？」
「んとね。きっと分かってるよ？」
「「答えはどっちも、なんでしょ？」」
二人は鏡の中でにこにこと言う。
私は答えられない。
「でもどうしようかなー」
「変わりたいなら真っ白にしないと」
「変えたいなら色んな色を塗らないと」
「そのお手伝いはするんだけどなー」
「そのきっかけはあるんだけどなー」
二人は楽しそうに、鏡の中の私に耳打ちしてくる。
「だって、変えて欲しかったんでしょ？」
「きっと、突然変わりたかったんでしょ？」
「「自分と関係ない力に頼りたかったんでしょ？」」
「――っ！」
声が貼り付く。そのまま頷きそうになる。
でも、それは怖い。こわい。とても怖い。
その時。
――きこきこきこ。
音がした。
自転車のような生活で毎日聞いていたあの音。
あんなに嫌だったのに。何故かすごく安心した。
「あ。嫌な音」
「あ、嫌いな音」
二人が眉間に皺を寄せ、耳を塞ぐ。
まるで、嫌いな野菜を嫌がるような顔をする。
その瞬間。鏡の中の私が、見えた。
そして、気付いた。思い出した。
毎日をつまらなくしてたのは私だ。
帰り道をひとつ変えるだけでも。ちょっと寄り道してみるだけでも。足を止めてみるだけでも。違うジャンルの本を読むだけでも。ささやかな変化でいいんだ。毎日というのは変わるんだ。
誰かに話しかけてみたり。夜更かししてみたり。
それは、このおまじないを始めたきっかけと変わらない。ちょっとした行動だ。
ただ、それだけのことだったのに。
全て放棄して、どこからともなくやってくる「何か」に勝手に期待して失望していた。
そして。その「何か」に出会った私が選んだのは拒否だった。
捨てたくないんだ。
変わりたいけど。全てを捨てるのは違うんだ。
今まで通ってきた道の先に、私の道がある。
何があるか分からないけど、私は知らないその道を選んでかなくちゃいけない。
知らないならば、知ればいい。少しでも、触れてみればいい。
それだけの。簡単な話。
気付いた私の身体は、さっきまでの硬直が嘘のように勢い良く動いた。
ばんっ！
鏡に両手を突く。右手には紫の絵の具で固まったハンカチがある。
鏡に映った私は――真直ぐ、私自身を見ていた。
「わたし。私は、……っ、 ふづき、いちこ！」
言うが早いか、乱暴に絵の具を拭い取った。
絵の具をこすった跡が残る鏡の前で、私は息を荒くして立ち尽くしていた。
どうだ、やってやったぞ。そんな事を言いそうなくらい、肩で息をして。ハンカチをぐっと握りしめていた。
「わあ。すごいや。ちゃんと自分を忘れなかった」
「うん。すごいね。しっかり自分を覚えてた」
「「それなら特別、大サービスしようー！」」
楽しそうな声を上げて、二人の手が伸びる。
思わず身構えたけど、その指先はとん、と鏡の中の私を軽く押しただけだった。鏡の外に居るはずの私も、押されたように後ろに数歩よろめく。壁に背中がとすんと当たる。
「逃げていいんだよ？」
「帰っていいんだよ？」
「「でも、忘れちゃだめだよ？」」
鏡の中から声がする。二人同時に、トイレの外を指差して。
わあ、と二人は楽しそうに告げる。
「もし、今日のこと忘れちゃったら」
「けど、今の気持ち忘れちゃったら」
「あなたの魂、もらっちゃうよ！」
「タイムリミットは三年間ね！」
「わ……っ」
そんな。底抜けに明るい声が、私を出口へと押し出した。
気がつくと、明るい廊下に座り込んでいた。
遠くから部活動の音や声が聞こえてくる。いつも通りの、よく知った放課後だ。
「わ、たし……」
汗で首に髪が貼り付いている。安心感と同時に、自分の底を引っぱり出されたような気持ちがする。さっきの息苦しさは嘘みたい。だけど、私の身体は確かにその体験に震えていた。
「それからー」
今の体験が嘘じゃないとダメ押しするように、トイレの中から明るい声がした。
「ちゃんと油は注すんだよー」
「そうしないと錆びちゃうからねー」
「……」
「「分かったら返事ー！」」
「――は、はい……っ！」
そして。
私はそこから足をもつれさせながらも、壁を伝って這々の体で靴箱へ。いつも通りの帰り道へと、戻っていった。
□ ■ □
「逃げちゃったねえ」
「失敗しちゃったねえ」
残念そうな顔すらせず、二人は鏡の中で向かい合う。その間には、もう誰も映っていない鏡が一枚あった。
「あんなに怖がっちゃってかわいそう」
「あんなに騒いじゃって楽しそう」
ぴょい、っと真ん中の鏡に二人寄り添い、少女が飛び出していった入り口を眺める。
「でも、こうして気付けたのは良かったんじゃないかな」
「まあ、いつでも変われるって分かったんじゃないかな」
ねー、と二人は頷き合い、もう一度入り口を眺める。
懐かしそうで。眩しそうで。暖かいけれど触れられない何かを眺めるような。そんな目で。
「そっちの世界が良いって思ったのなら」
「やめたくないって思ったのなら」
「色んな事が出来るよね」
「大事な事に気付けるね」
「「――」」
「カガミにはできなかった事だからね」
「カガミはもう忘れちゃった事だしね」
二人はくすくす笑いながら、鏡に残る紫の絵の具を拭い取る。
鏡の中から滑らせたその指に、紫の絵の具が拭われる。
少女はぱくりとその指をくわえて、べ、と舌を出した。
「おいしくない」
「絵の具だからね」
うん、と頷いた少女が鏡の端に手をかけ、よいしょと洗面台の前へ飛び降りる。
少年もその後に続く。
彼らの足元には、紫色に汚れ固まった白いハンカチが落ちていた。
少女がざばざばと指の絵の具を洗い流すと、少年ががハンカチに辛うじて残っていた白い部分で拭う。
「ハナブサさんのごはんで口直ししよう」
「でも。ごはんまでまだ時間があるよ」
「そっか。どうしようか」
「じゃあ、こうしよう」
二人は顔を見合わせて頷き、廊下へ飛び出す。
そのまま廊下で身軽にジャンプし、窓の中へと飛び込む。
まるで窓に映ったかのような二人は、そのまま廊下の窓を駆けていく。
「ウツロさーん、カガミはお菓子が食べたいー！」
「ウツロさーん、カガミは紅茶がいいなー！」
そんな。底抜けに明るい二つの声と足音が、夕暮れの校舎に響いて消えた。
え。これ、なんて書いてあるの？ あれ。名前。なまえ。どこ……何？
なんだっけ。
なんだっけ。なんだっけ。
頭がぐちゃぐちゃして、なんにも分からなくて、気味が悪くて。気持ち悪くて。
ぐるぐると目が回るのに、思考だけはヤケにクリアで。
ひとつのことを、答えもでないのに考え続ける。
読めない。よめない。なんだっけ。なんだっけ。なんてよむんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。このもじ。もじ？ なんだっけ。オJHGY’。なん’＆％T。なんだっけ。なC8だっけ。なんだっけ。なっけんだ。なんだっけ。gsiC8YK。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ。なだんっけ。+gsGCrw。なんだっけ。$B$jだ@$c(b。なんだっけ。なんだっけ。なんだっけ――！
「あれ？ 忘れちゃった？」
「あれ？ 分からなくなっちゃった？」
「それじゃあ仕方ないね」
「それならしょうがないね」
鏡の中の二人が、影の腕を取る。誰も居ないのに、両腕が掴まれる感覚がした。
「ひ――」
逃げたい。けれども、見えない腕は放してくれない。動けない。
分からない、逃げたい。なんで？ 怖い。悲しい？ 分からない私を支えるように、二人は両側から私の腕をぎゅっと抱く。
鏡の中で私の腕に抱きついた二人は、嬉しそうに声を上げた。
「「ずーっと一緒にこっちで遊ぼう！」」
「い……嫌、や、だ……っ！」
やっと出た言葉は、拒否だった。
二人はその言葉が分からないかのように、きょとんとした顔で瞬きをする。
力が緩んだような気がして腕を振り払うと、「わっ」と声がして二人が両の鏡に飛び退いた。
「「なんでそう言う事言うの？」」
二人は不思議そうに問う。
なんで。なんでだろう。
「ずーっと見てたから知ってるよ」
「ずーっとやってたから分かってるよ」
「変わりのない生活をやめたいんじゃなかったの？」
「まっさらで新しい生活したかったんじゃないの？」
確かにそうだった。そのはずだったのに。
いざそう言われると、とても怖かった。
名前が分からない恐怖感と同様、これまで積み重ねてきた色んなものがこんな風に分からなくなってしまうのは。何もかもなくなってしまうのは、嫌だった。
「変わるの怖いの？」
「やめるの嫌なの？」
二人は答えを射抜くように首を傾げる。
息が詰まる。呼吸ができない。頷くことも、できない。
ふふふ、と二人は笑っている。
「あのね。ちゃんと知ってるよ？」
「んとね。きっと分かってるよ？」
「「答えはどっちも、なんでしょ？」」
二人は鏡の中でにこにこと言う。
私は答えられない。
「でもどうしようかなー」
「変わりたいなら真っ白にしないと」
「変えたいなら色んな色を塗らないと」
「そのお手伝いはするんだけどなー」
「そのきっかけはあるんだけどなー」
二人は楽しそうに、鏡の中の私に耳打ちしてくる。
「だって、変えて欲しかったんでしょ？」
「きっと、突然変わりたかったんでしょ？」
「「自分と関係ない力に頼りたかったんでしょ？」」
「――っ！」
声が貼り付く。そのまま頷きそうになる。
でも、それは怖い。こわい。とても怖い。
その時。
――きこきこきこ。
音がした。
自転車のような生活で毎日聞いていたあの音。
あんなに嫌だったのに。何故かすごく安心した。
「あ。嫌な音」
「あ、嫌いな音」
二人が眉間に皺を寄せ、耳を塞ぐ。
まるで、嫌いな野菜を嫌がるような顔をする。
その瞬間。鏡の中の私が、見えた。
そして、気付いた。思い出した。
毎日をつまらなくしてたのは私だ。
帰り道をひとつ変えるだけでも。ちょっと寄り道してみるだけでも。足を止めてみるだけでも。違うジャンルの本を読むだけでも。ささやかな変化でいいんだ。毎日というのは変わるんだ。
誰かに話しかけてみたり。夜更かししてみたり。
それは、このおまじないを始めたきっかけと変わらない。ちょっとした行動だ。
ただ、それだけのことだったのに。
全て放棄して、どこからともなくやってくる「何か」に勝手に期待して失望していた。
そして。その「何か」に出会った私が選んだのは拒否だった。
捨てたくないんだ。
変わりたいけど。全てを捨てるのは違うんだ。
今まで通ってきた道の先に、私の道がある。
何があるか分からないけど、私は知らないその道を選んでかなくちゃいけない。
知らないならば、知ればいい。少しでも、触れてみればいい。
それだけの。簡単な話。
気付いた私の身体は、さっきまでの硬直が嘘のように勢い良く動いた。
ばんっ！
鏡に両手を突く。右手には紫の絵の具で固まったハンカチがある。
鏡に映った私は――真直ぐ、私自身を見ていた。
「わたし。私は、……っ、 ふづき、いちこ！」
言うが早いか、乱暴に絵の具を拭い取った。
絵の具をこすった跡が残る鏡の前で、私は息を荒くして立ち尽くしていた。
どうだ、やってやったぞ。そんな事を言いそうなくらい、肩で息をして。ハンカチをぐっと握りしめていた。
「わあ。すごいや。ちゃんと自分を忘れなかった」
「うん。すごいね。しっかり自分を覚えてた」
「「それなら特別、大サービスしようー！」」
楽しそうな声を上げて、二人の手が伸びる。
思わず身構えたけど、その指先はとん、と鏡の中の私を軽く押しただけだった。鏡の外に居るはずの私も、押されたように後ろに数歩よろめく。壁に背中がとすんと当たる。
「逃げていいんだよ？」
「帰っていいんだよ？」
「「でも、忘れちゃだめだよ？」」
鏡の中から声がする。二人同時に、トイレの外を指差して。
わあ、と二人は楽しそうに告げる。
「もし、今日のこと忘れちゃったら」
「けど、今の気持ち忘れちゃったら」
「あなたの魂、もらっちゃうよ！」
「タイムリミットは三年間ね！」
「わ……っ」
そんな。底抜けに明るい声が、私を出口へと押し出した。
気がつくと、明るい廊下に座り込んでいた。
遠くから部活動の音や声が聞こえてくる。いつも通りの、よく知った放課後だ。
「わ、たし……」
汗で首に髪が貼り付いている。安心感と同時に、自分の底を引っぱり出されたような気持ちがする。さっきの息苦しさは嘘みたい。だけど、私の身体は確かにその体験に震えていた。
「それからー」
今の体験が嘘じゃないとダメ押しするように、トイレの中から明るい声がした。
「ちゃんと油は注すんだよー」
「そうしないと錆びちゃうからねー」
「……」
「「分かったら返事ー！」」
「――は、はい……っ！」
そして。
私はそこから足をもつれさせながらも、壁を伝って這々の体で靴箱へ。いつも通りの帰り道へと、戻っていった。
□ ■ □
「逃げちゃったねえ」
「失敗しちゃったねえ」
残念そうな顔すらせず、二人は鏡の中で向かい合う。その間には、もう誰も映っていない鏡が一枚あった。
「あんなに怖がっちゃってかわいそう」
「あんなに騒いじゃって楽しそう」
ぴょい、っと真ん中の鏡に二人寄り添い、少女が飛び出していった入り口を眺める。
「でも、こうして気付けたのは良かったんじゃないかな」
「まあ、いつでも変われるって分かったんじゃないかな」
ねー、と二人は頷き合い、もう一度入り口を眺める。
懐かしそうで。眩しそうで。暖かいけれど触れられない何かを眺めるような。そんな目で。
「そっちの世界が良いって思ったのなら」
「やめたくないって思ったのなら」
「色んな事が出来るよね」
「大事な事に気付けるね」
「「――」」
「カガミにはできなかった事だからね」
「カガミはもう忘れちゃった事だしね」
二人はくすくす笑いながら、鏡に残る紫の絵の具を拭い取る。
鏡の中から滑らせたその指に、紫の絵の具が拭われる。
少女はぱくりとその指をくわえて、べ、と舌を出した。
「おいしくない」
「絵の具だからね」
うん、と頷いた少女が鏡の端に手をかけ、よいしょと洗面台の前へ飛び降りる。
少年もその後に続く。
彼らの足元には、紫色に汚れ固まった白いハンカチが落ちていた。
少女がざばざばと指の絵の具を洗い流すと、少年ががハンカチに辛うじて残っていた白い部分で拭う。
「ハナブサさんのごはんで口直ししよう」
「でも。ごはんまでまだ時間があるよ」
「そっか。どうしようか」
「じゃあ、こうしよう」
二人は顔を見合わせて頷き、廊下へ飛び出す。
そのまま廊下で身軽にジャンプし、窓の中へと飛び込む。
まるで窓に映ったかのような二人は、そのまま廊下の窓を駆けていく。
「ウツロさーん、カガミはお菓子が食べたいー！」
「ウツロさーん、カガミは紅茶がいいなー！」
そんな。底抜けに明るい二つの声と足音が、夕暮れの校舎に響いて消えた。