ハナコさんとわすれもの 後編
少女がそれに気付いたのは夜だった。
「あ、あれ……」
ポケットに入れていたはずのお守りがなかった。
制服のポケット、鞄の中、あちこちひっくり返しても見つからない。
昼休みにはあった。取り出したハンカチに引っかかって出てきたのを押し戻したから、確かにあった。
心当たりは――ひとつだけ。
「あの時に落としちゃったかな……」
理科棟にある、薄暗いトイレ。
普段使う分には何もないのに、今日はなんだか重苦しい空間だったあの場所。
軽い気持ちでハナコさんを呼ぼうとしてしまった後ろめたさや緊張感だろうか。ううん、夕暮れの薄暗さ。旧校舎の古びた感じ……色々ある。きっとそれが重なっているだけなんだ。
そう思っても、思い出せば気が重くなる。あんまり行きたくはない。
でも、心当たりがあるのならば探しに行かなくちゃ。
遊ぼうと笑っていた彼女を思い出す。
長い前髪。高等部の制服。少し大きなカーディガン。格好だけなら、校内のどこにでも居そうだった。思い出してみれば、普通の生徒だし、ずっとニコニコ笑っていた……と、思う。
突然背後に現れた彼女は、本物のハナコさんなのだろうか? 考えても分からない。
みんなはよく見ていなかったというし、携帯には薄ぼんやりとした影しか映っていなかった。
思い出せるのはあの時のふわっとした、つかみ所のない恐怖感だけだ。
「でも……何も、されてはないんだよね……」
あの時はとても怖かったけど、ハナコさんは遊ぼうとしか言わなかった。
ただ遊び相手が欲しかっただけかもしれない。
でも、それに答えたらどうなるか分からない。でも……あれは大事なお守りで……。
うー。と唸りながらしばらくベッドで頭を抱えた結果。
「あした……もう一回行くしかないかなあ……」
恐怖と憂鬱と不安が混じったその言葉は、小さな溜息に混じって消えた。
□ ■ □
次の日の放課後。
「えー、ミカ。ホントにまた行くの?」
「うん。落とし物見つからなくて」
「他の所じゃなくて?」
「……多分」
「もーさあ。昨日の動画ヤバかったんだって。投稿しようとしたらエラーばっかり出て気味悪いんだもん」
「うちも-。投稿できてもみれなくてさー。怖くて消しちゃった」
「だよねー」
昨日一緒だった友達に頼んで、そのトイレに付いてきてもらった。
本当はお昼休みにも一度来たんだけど、静かで薄暗い空間が広がっているだけだった。誰も居ないし、何もなかった。
ただ、記憶にあるよりきれいで明るかったと分かったくらいだ。
話しながら、トイレの入り口に立つ。
「あたし達、そこで待ってるからさ。すぐ戻ってくるんだよ?」
昨日の今日だ。あの一件であまり近寄りたくないらしい。心配だけど近付きたくないという気持ちは分かる。
だから、彼女にできるのは頷くことだけだった。
ひとりで彼女はトイレの前に立った。
ひとつ目の個室に向かい合う。
そっと手をあげて、ノックをする。
コン
コン、
コン。
息を吸う。
「ハナコ、さん。いらっしゃいますか?」
「ああ。ここに居るよ」
びくう! と背が伸びたのが自分でも分かった。
「……え。えっ」
声は入り口の方から聞こえてきた。
思わず振り返ると、洗面台に腰掛けるようにして昨日の少女が座っていた。
「あ、あれ……まだ」
ひとつ目なのに、という言葉を飲み込むと、少女は。ハナコさんは紺色のカーディガンの袖から人差し指を覗かせてちっちっち、と振った。
「ひとつめも三つ目も変わらないよ。どのタイミングで出てくるかは、気まぐれなんだ」
「……そう……です、か……」
言葉が出ない。何を言えば良いのだろう。
戸惑いが伝わったのか、ハナコさんはにこりと笑った。
「連日のお呼び出しありがとう。それでそれで、今日はどうしたんだい? 遊ぶ気になった? お喋りをしたい?」
「え、えと……その」
「それとも――探し物かい?」
「え……」
心の中をさくりと読まれた気がして、思わず声が詰まる。
ハナコさんは指をしまい込んだ袖を口に当てて笑った。
「驚く事なんてないよ。昨日あれだけ脅かしたじゃないか。それなのにこうして連日ここに来ると言うことは、よっぽどだ。ハナコさんについて大事なことがあったか、それとも大事な物を忘れてきてしまったか。可能性としては後者だろう、という簡単な話だよ。それで――探し物は」
袖からするりと見覚えのあるお守りがぶら下がった。
「これかな?」
「――!」
やっぱりここにあった、という嬉しさが先に出た。
次いでよぎったのは、どうしたら返してもらえるだろう、という心配。
「あはは、別に取って食ったりなんてしないから、そう怖がらないでおくれよ」
ハナコさんはからからと笑いながら言う。その姿は、普通のクラスメイトや先輩のような、そんな感じに見えた。
ぴょい、と軽く洗面台から飛び降りて、すたすたと近寄ってくる。
一瞬身構えたけれど、昨日のような恐怖はない。
ハナコさんはそっと彼女の手を取り。
「はい」
お守りをすとん、と手の中に優しく落とした。
「え……」
あまりにあっさりと返ってきたので、思わず手の中のお守りとハナコさんの顔の間で視線が彷徨う。
「言っただろ? 昨日の今日でここに来ると言うことはよっぽどだ。それだけ大事な物なんだろう?」
ならば返さなければならない事くらい分かるよ、とハナコさんは笑った。
前髪で目は隠れているけれど、優しい笑顔に見えた。
ああ、この人は怖くない。
昨日あんなに怖がったことを、少しだけ後悔した。
「あ……ありがとう、ございます」
「いやいや礼には及ばないよ」
離された手は、ぱたぱたと振られる。
「でも、大事な物なら、もう決して手放しちゃいけないよ」
「は、はい……」
「それじゃあね」
そう言って彼女は少女の横をすり抜けていく。
その姿を追うように振り返る。
なにか。何か言わなきゃ。
一番奥の個室の前に立つ。
何か。
カーディガンの袖から出た指がドアにかかり――。
「あ、あの……!」
「うん?」
お守りをぎゅっと握りしめてかけた声に、ハナコさんの手が止まった。窓の前に立っているから、逆光で顔が見えない。
「その。……これ。拾ってくれて、ありがとう、ございます」
ハナコさんは笑ったのだろうか。少しだけ髪が揺れた。
「それはさっきも聞いたよ」
「そっか……えっと。それじゃあ……」
言葉は自然と口をついて出た。
「また、呼んでも良いですか?」
なんとなく。もっと話をしたかった。
なんか。どこか他のクラスに居るけど、時々挨拶を交わす人のような、そんな関係になりたい気がして。
思わず、言ってしまった。
でも。ハナコさんは何も言わずに戸を押し開けた。
「んー。それは駄目だね」
「え……」
彼女は振り向きもせず。ドアの奥へ向いたまま言う。
「ハナコさんは学校の怪談だよ。単なる噂話に過ぎない。そして君達生徒は、噂をして、興味本位で実行して、時々出会って、さらに噂する。嘘か誠か分からない。それが一番の関係なのさ。深く関わろうとしちゃいけない」
だから、とハナコさんは言う。
「ボクは。もう君からの呼びかけには応えない」
それじゃあね、とハナコさんは個室の中に姿を消す。
「あ……待っ……!」
慌てて追いかけてみたけれど。
そこには誰も居ない個室があるだけだった。
□ ■ □
「――ん?」
図書室から部屋に戻ろうとしたヤミは、廊下で外を眺めているハナを見つけた。
「あ。ヤミちゃん良い所に」
「うん?」
首を傾げるヤミに、ハナは一冊の本を掲げる。
「これ、返してもらおうと思って」
「ああ。分かった」
軽く頷いてその本を受け取る。
「その本。面白かったよ。あの召喚師がまさかあんな理由で生け贄にされたとは――続きが気になるから、また借りてきておくれ」
「ん。借りてくる。で。どうした?」
「うん?」
何がだい? と答えるハナの隣にヤミは並んで、窓際に肘をつく。
「お前がこんな所で黄昏れてるのが物珍しい」
「あはは、ヤミちゃんに言われるとはな」
ハナはからからと笑う。
「たまにはそう言う日もあるって事だ」
「なるほど」
いやねえ、とハナはくすりと笑った。
「昔さ。大事な物をどこかに無くしてしまったことがあってな」
ヤミは答えない。じっと聞いている。
「それが何だったのかも、見つかったのかも覚えてないけどさ。ただ――気が気じゃなかった。それだけ思い出したんだ」
「へえ。それが黄昏てた理由?」
ヤミの言葉に彼女はうむと頷いた。
「だから、これからは大事な物はしっかり持っておかないとなあ、と再認識した次第さ」
「なるほど?」
そうして二人の間に軽い沈黙が落ちる。
「ところで」
ふと、ハナの声がした。
「うん?」
「ボクがその時無くした物、何だったか知らないかい?」
「なんで俺が知ってると思った?」
知らねえよ、とヤミは溜息をつく。
「いやあ、ヤミちゃんならもしかしたら、と思ってな?」
「期待に応えられなくて残念だったな」
「全くだ。そのくらい覚えておいてくれたまえよ」
「なんでだよ。自分の事くらい自分で覚えとけ」
「そうか。そう言われては仕方ない」
ハナがそう言って笑っていると、ふと、ハナが何かに気付いたように、すん、と鼻を鳴らした。
「お。そろそろご飯ができる頃か」
ハナはいそいそと窓辺を離れ、匂いにつられるように歩きだした。
ヤミもその後ろをついていく。どうせ方向は同じだ。
「今日の夕飯は何かな。この匂いだと……魚。味噌煮だろうか」
「お前の鼻はどんだけ利くんだ」
ヤミも匂いを嗅いでみる、が、なにせ調理室までは距離がある。まだまだ匂いは分からなさそうだった。
「さあねえ。ただの勘かもしれないよ? 答えは実際に見てみないと分からないものさ。お腹も丁度空く頃合いだ。ほらほら行こう、さあ行こう」
「いや、俺先にこれを部屋に……はいはい」
手を引かれたヤミは小さく溜息をつく。
今の後ろ姿と声は、いつも通りのハナだった。
さっき。窓辺で憂いているように見えたのは気のせいだったのだろうか?
そんな疑問が微かに残った。
実際の所、ハナにも色々あるのだろうが。
それ以上話さないのならば、自分が何か問う理由もない。
ヤミはもう一つだけ溜息をつき、自分の腕を掴む手を見る。
ぎゅっと掴まれたそれは、いつもより少しだけ力が入っているような。
そんな気がした。
「あ、あれ……」
ポケットに入れていたはずのお守りがなかった。
制服のポケット、鞄の中、あちこちひっくり返しても見つからない。
昼休みにはあった。取り出したハンカチに引っかかって出てきたのを押し戻したから、確かにあった。
心当たりは――ひとつだけ。
「あの時に落としちゃったかな……」
理科棟にある、薄暗いトイレ。
普段使う分には何もないのに、今日はなんだか重苦しい空間だったあの場所。
軽い気持ちでハナコさんを呼ぼうとしてしまった後ろめたさや緊張感だろうか。ううん、夕暮れの薄暗さ。旧校舎の古びた感じ……色々ある。きっとそれが重なっているだけなんだ。
そう思っても、思い出せば気が重くなる。あんまり行きたくはない。
でも、心当たりがあるのならば探しに行かなくちゃ。
遊ぼうと笑っていた彼女を思い出す。
長い前髪。高等部の制服。少し大きなカーディガン。格好だけなら、校内のどこにでも居そうだった。思い出してみれば、普通の生徒だし、ずっとニコニコ笑っていた……と、思う。
突然背後に現れた彼女は、本物のハナコさんなのだろうか? 考えても分からない。
みんなはよく見ていなかったというし、携帯には薄ぼんやりとした影しか映っていなかった。
思い出せるのはあの時のふわっとした、つかみ所のない恐怖感だけだ。
「でも……何も、されてはないんだよね……」
あの時はとても怖かったけど、ハナコさんは遊ぼうとしか言わなかった。
ただ遊び相手が欲しかっただけかもしれない。
でも、それに答えたらどうなるか分からない。でも……あれは大事なお守りで……。
うー。と唸りながらしばらくベッドで頭を抱えた結果。
「あした……もう一回行くしかないかなあ……」
恐怖と憂鬱と不安が混じったその言葉は、小さな溜息に混じって消えた。
□ ■ □
次の日の放課後。
「えー、ミカ。ホントにまた行くの?」
「うん。落とし物見つからなくて」
「他の所じゃなくて?」
「……多分」
「もーさあ。昨日の動画ヤバかったんだって。投稿しようとしたらエラーばっかり出て気味悪いんだもん」
「うちも-。投稿できてもみれなくてさー。怖くて消しちゃった」
「だよねー」
昨日一緒だった友達に頼んで、そのトイレに付いてきてもらった。
本当はお昼休みにも一度来たんだけど、静かで薄暗い空間が広がっているだけだった。誰も居ないし、何もなかった。
ただ、記憶にあるよりきれいで明るかったと分かったくらいだ。
話しながら、トイレの入り口に立つ。
「あたし達、そこで待ってるからさ。すぐ戻ってくるんだよ?」
昨日の今日だ。あの一件であまり近寄りたくないらしい。心配だけど近付きたくないという気持ちは分かる。
だから、彼女にできるのは頷くことだけだった。
ひとりで彼女はトイレの前に立った。
ひとつ目の個室に向かい合う。
そっと手をあげて、ノックをする。
コン
コン、
コン。
息を吸う。
「ハナコ、さん。いらっしゃいますか?」
「ああ。ここに居るよ」
びくう! と背が伸びたのが自分でも分かった。
「……え。えっ」
声は入り口の方から聞こえてきた。
思わず振り返ると、洗面台に腰掛けるようにして昨日の少女が座っていた。
「あ、あれ……まだ」
ひとつ目なのに、という言葉を飲み込むと、少女は。ハナコさんは紺色のカーディガンの袖から人差し指を覗かせてちっちっち、と振った。
「ひとつめも三つ目も変わらないよ。どのタイミングで出てくるかは、気まぐれなんだ」
「……そう……です、か……」
言葉が出ない。何を言えば良いのだろう。
戸惑いが伝わったのか、ハナコさんはにこりと笑った。
「連日のお呼び出しありがとう。それでそれで、今日はどうしたんだい? 遊ぶ気になった? お喋りをしたい?」
「え、えと……その」
「それとも――探し物かい?」
「え……」
心の中をさくりと読まれた気がして、思わず声が詰まる。
ハナコさんは指をしまい込んだ袖を口に当てて笑った。
「驚く事なんてないよ。昨日あれだけ脅かしたじゃないか。それなのにこうして連日ここに来ると言うことは、よっぽどだ。ハナコさんについて大事なことがあったか、それとも大事な物を忘れてきてしまったか。可能性としては後者だろう、という簡単な話だよ。それで――探し物は」
袖からするりと見覚えのあるお守りがぶら下がった。
「これかな?」
「――!」
やっぱりここにあった、という嬉しさが先に出た。
次いでよぎったのは、どうしたら返してもらえるだろう、という心配。
「あはは、別に取って食ったりなんてしないから、そう怖がらないでおくれよ」
ハナコさんはからからと笑いながら言う。その姿は、普通のクラスメイトや先輩のような、そんな感じに見えた。
ぴょい、と軽く洗面台から飛び降りて、すたすたと近寄ってくる。
一瞬身構えたけれど、昨日のような恐怖はない。
ハナコさんはそっと彼女の手を取り。
「はい」
お守りをすとん、と手の中に優しく落とした。
「え……」
あまりにあっさりと返ってきたので、思わず手の中のお守りとハナコさんの顔の間で視線が彷徨う。
「言っただろ? 昨日の今日でここに来ると言うことはよっぽどだ。それだけ大事な物なんだろう?」
ならば返さなければならない事くらい分かるよ、とハナコさんは笑った。
前髪で目は隠れているけれど、優しい笑顔に見えた。
ああ、この人は怖くない。
昨日あんなに怖がったことを、少しだけ後悔した。
「あ……ありがとう、ございます」
「いやいや礼には及ばないよ」
離された手は、ぱたぱたと振られる。
「でも、大事な物なら、もう決して手放しちゃいけないよ」
「は、はい……」
「それじゃあね」
そう言って彼女は少女の横をすり抜けていく。
その姿を追うように振り返る。
なにか。何か言わなきゃ。
一番奥の個室の前に立つ。
何か。
カーディガンの袖から出た指がドアにかかり――。
「あ、あの……!」
「うん?」
お守りをぎゅっと握りしめてかけた声に、ハナコさんの手が止まった。窓の前に立っているから、逆光で顔が見えない。
「その。……これ。拾ってくれて、ありがとう、ございます」
ハナコさんは笑ったのだろうか。少しだけ髪が揺れた。
「それはさっきも聞いたよ」
「そっか……えっと。それじゃあ……」
言葉は自然と口をついて出た。
「また、呼んでも良いですか?」
なんとなく。もっと話をしたかった。
なんか。どこか他のクラスに居るけど、時々挨拶を交わす人のような、そんな関係になりたい気がして。
思わず、言ってしまった。
でも。ハナコさんは何も言わずに戸を押し開けた。
「んー。それは駄目だね」
「え……」
彼女は振り向きもせず。ドアの奥へ向いたまま言う。
「ハナコさんは学校の怪談だよ。単なる噂話に過ぎない。そして君達生徒は、噂をして、興味本位で実行して、時々出会って、さらに噂する。嘘か誠か分からない。それが一番の関係なのさ。深く関わろうとしちゃいけない」
だから、とハナコさんは言う。
「ボクは。もう君からの呼びかけには応えない」
それじゃあね、とハナコさんは個室の中に姿を消す。
「あ……待っ……!」
慌てて追いかけてみたけれど。
そこには誰も居ない個室があるだけだった。
□ ■ □
「――ん?」
図書室から部屋に戻ろうとしたヤミは、廊下で外を眺めているハナを見つけた。
「あ。ヤミちゃん良い所に」
「うん?」
首を傾げるヤミに、ハナは一冊の本を掲げる。
「これ、返してもらおうと思って」
「ああ。分かった」
軽く頷いてその本を受け取る。
「その本。面白かったよ。あの召喚師がまさかあんな理由で生け贄にされたとは――続きが気になるから、また借りてきておくれ」
「ん。借りてくる。で。どうした?」
「うん?」
何がだい? と答えるハナの隣にヤミは並んで、窓際に肘をつく。
「お前がこんな所で黄昏れてるのが物珍しい」
「あはは、ヤミちゃんに言われるとはな」
ハナはからからと笑う。
「たまにはそう言う日もあるって事だ」
「なるほど」
いやねえ、とハナはくすりと笑った。
「昔さ。大事な物をどこかに無くしてしまったことがあってな」
ヤミは答えない。じっと聞いている。
「それが何だったのかも、見つかったのかも覚えてないけどさ。ただ――気が気じゃなかった。それだけ思い出したんだ」
「へえ。それが黄昏てた理由?」
ヤミの言葉に彼女はうむと頷いた。
「だから、これからは大事な物はしっかり持っておかないとなあ、と再認識した次第さ」
「なるほど?」
そうして二人の間に軽い沈黙が落ちる。
「ところで」
ふと、ハナの声がした。
「うん?」
「ボクがその時無くした物、何だったか知らないかい?」
「なんで俺が知ってると思った?」
知らねえよ、とヤミは溜息をつく。
「いやあ、ヤミちゃんならもしかしたら、と思ってな?」
「期待に応えられなくて残念だったな」
「全くだ。そのくらい覚えておいてくれたまえよ」
「なんでだよ。自分の事くらい自分で覚えとけ」
「そうか。そう言われては仕方ない」
ハナがそう言って笑っていると、ふと、ハナが何かに気付いたように、すん、と鼻を鳴らした。
「お。そろそろご飯ができる頃か」
ハナはいそいそと窓辺を離れ、匂いにつられるように歩きだした。
ヤミもその後ろをついていく。どうせ方向は同じだ。
「今日の夕飯は何かな。この匂いだと……魚。味噌煮だろうか」
「お前の鼻はどんだけ利くんだ」
ヤミも匂いを嗅いでみる、が、なにせ調理室までは距離がある。まだまだ匂いは分からなさそうだった。
「さあねえ。ただの勘かもしれないよ? 答えは実際に見てみないと分からないものさ。お腹も丁度空く頃合いだ。ほらほら行こう、さあ行こう」
「いや、俺先にこれを部屋に……はいはい」
手を引かれたヤミは小さく溜息をつく。
今の後ろ姿と声は、いつも通りのハナだった。
さっき。窓辺で憂いているように見えたのは気のせいだったのだろうか?
そんな疑問が微かに残った。
実際の所、ハナにも色々あるのだろうが。
それ以上話さないのならば、自分が何か問う理由もない。
ヤミはもう一つだけ溜息をつき、自分の腕を掴む手を見る。
ぎゅっと掴まれたそれは、いつもより少しだけ力が入っているような。
そんな気がした。