ハナコさんとわすれもの 前編
ハナコさんを呼ぶのに難しい手順はいらない。
放課後、誰も居ない女子トイレに行って。
一番近いドアから順番に、三回ノックしてこう言うのだ。
「ハナコさん、いらっしゃいますか?」
返事がなければ次の個室で、同じ事を繰り返す。
そうすると、どこかで返事がある。
「はーあーい」
そこから先は噂によって異なるのでいくつか列挙すると。
「遊びましょう」と言うと「何して遊ぶ?」と返ってくる。
天井を見上げると、個室から血塗れの頭が覗き込んでいる。
戸を開けると、誰も居ない。けれども、後ろを振り向いてはいけない。
困っていると力になってくれる。ただし後でお菓子を持ってこなくてはならない。
……などなど。
ハナコさんは噂が多様でなかなか忙しい。
の。だが。
□ ■ □
「最近つまらないんだ」
理科室でハナは机に突っ伏していた。長い栗色の髪が黒のテーブルにさらりと流れている。
「つまらないの?」
「ひまなの?」
カガミの二人が問いかけると、「うむ」と、突っ伏したままで肯定が返ってきた。
「なんで?」
「どうして?」
二人は不思議そうに問いを重ねる。
「ハナコさん」は実行しやすい。だから、呼ばれる頻度だって高いはずなのに。つまらないとはどういうことだろう? そういう声だ。
「確かに呼ばれることは多いんだが……返事をすると逃げる子が増えちゃってねえ。時には物音がしただけであっという間に居なくなる。たとえそれが、ボクのせいでなくてもだ」
あと、と言う言葉と共に盛大な溜息。
「なんか罰ゲームに使われることが多いみたいでさあ」
「あー……」
なるほどー。と頷くカガミ。
「ひとりでできる、薄暗くて誰も来ない。来たとしてもすぐに逃げていく……いや、怖がられるのは一向に構わないのだけれども……嗚呼つまらない。誰かボクと遊んでくれる人は居ないものか……」
ぽつりと呟いてしばらくじっと黙っていたハナは、突然ばっと身を起こした。
「よし、ヤミちゃんの所に行こう!」
「でもヤミくん、今見回り中だよ?」
「サクラくんと、表に居るよ?」
「……そうだった」
カガミの言葉にハナはくたりと机に突っ伏す。
「もう今日はこのままカフェーに居座るかの如く、ここでハナブサさんのお茶とお菓子を堪能するかなあ……」
「図書室で本を借りたら?」
「調理室でお菓子作ったら?」
カガミの提案にも返事が乗り気ではない。
「図書館か。図書室はな……実のところ、あまり好きではないんだ」
読書は好きなんだが、とハナはだるそうに言いかけ――。
「む?」
むくり、と起き上がった。
「?」
「ふ。ふふふ……来た。きたよ! ボクを喚んでる誰かがいる!」
瞬間。ゆらりと髪の先から雫が滴るようにハナの姿が崩れていく。
「今日はちゃんと遊んでもらおう! ボクがばっちりしっかり先手を打ってこようじゃないか!」
「おー」
「いってらっしゃいー」
カガミがぱたぱたと手を振ると、嬉しそうに手を振るハナの指先がちらりと揺れて、消えた。
□ ■ □
薄暗い個室にノックの音が響く。
こん
こん、
こん。
すう、と息を吸う音がする。
「は、ハナコさん、……いらっしゃい、ますか?」
返事はない。
ほう、と安堵したように息を吐く。
そしてちら、と入り口を振り返ると、数名の影が見えた。
入り口の方が明るいから、逆光になって顔は見えない。
けれども。
携帯を構えて、こっちを覗き見ているのは分かる。
ほら、早く次に行きなよ。
急かす視線から目を逸らして、次の個室へとゆっくり歩く。
ごくり、と生唾を飲み込んで、ノックをする。
コン
コン、
コン。
息を吸う。
「はなこさん、いらっしゃい……ます、か?」
返事はない。
ほ、っと肩の力を抜いて息をついた瞬間。
す。っと首の横から腕が伸び、ドアに指先が触れたのが見えた。
「――!?」
驚いて振り向いた目の前で、栗色の髪がさらりと揺れた。
至近距離。その距離は呼吸だって届く。
「うん。ここに居るとも!」
振り向いた少女の逃げ道を封じて、声の主は嬉しそうに笑っていた。
「やあやあ、よくぞ呼んでくれたね」
逃がさないぞ、と壁に追い詰めてみたハナは、呼び出した相手に視線を落とす。
小動物のような少女だった、肩でゆるく揃えられた髪は、細くて軽そうだ。胸元で揺れるのは、スカーフではなくリボン。どうやら中等部らしい。なるほど学校に慣れてきた新入生が噂を聞きつけてやってきた。そんなところなのだろう。
そんな彼女は薄暗い中、震えながらも気丈に問いかけてきた。
「あなた……」
「一体どこから出てきたのか、かい?」
ハナは左右に揺れた彼女の視線から、疑問をあっさりと拾い上げる。
これまで出会ってきた相手はみんな同じような反応だったのだから、この程度の疑問、分からない訳がない。けれど、答える義務も同じくらいない。
少女が頷きながら、ちら、と入り口に視線を向けた。
ハナもつられてそっちを見る。
そこには、誰も居なかった。
「あー……もしかして、外にいた子達は逃げてしまったのかな?」
そうかあ、とハナは呟く。
「まあ。いいや」
外に興味を無くした声をぽつりと零し、ドアから手を離す。あんまりやり過ぎると泣かれてしまう気がした。
いや、怖がられるのは本望なんだが、別に泣かせたい訳ではない。
「置いて行かれたのなら仕方ない。呼び出したのも君だから仕方ない」
ね。と小さく首を傾げて笑いかけるが、少女は酷く怯えた目をしている。
「そんなに怯えることはないよ」
ハナはそっと言い聞かせる。
「ハナコさんなんて害のない、至って普通の、語り尽くされた学校の怪談さ。物騒な噂も数あるけれど、なあにちっとも怖い事なんてないよ。所詮は噂話。君の目の前にある今。これから体験する事こそが真実さ」
少女は口を動かすが、声が出ない。目には涙が溜まっている。
「嗚呼、どうか泣かないでおくれよ。ほら。楽しいことをしよう」
ぎゅっと目を閉じると、目尻に涙の雫が膨れた。
「ね。遊ぼう。遊ぼう。たあんと遊ぼう。何をしたい? 双六? あやとり? かくれんぼ? なんなら鬼ごっこでも構わないよ?」
ふるり、と少女は小さく首を横に振った。
そして再びハナを見上げたその目にある色は――どうしようもない恐怖と拒絶。
ハナの言葉が一瞬だけ止まるが、すぐに口元は笑みを取り戻す。
「そんな悲しい態度をとらずにさ。最近はみんなすぐに逃げてしまうから、とっても暇なんだ。だから遊んでおくれよ」
遊ぼうと迫るハナに、少女は距離を取ろうとしたのだろう。
後ずさっても逃げ道などないその背に、閉ざされていた戸が当たる。
内側に開くドアは、彼女の背を受け止めずに少しだけ揺れた。
「――あ」
少女が何かに気付いたように、ドアへ視線を向けた。
ハナが首をかしげる。その一瞬を見逃さず彼女はそのドアに体重をかけ、中へと倒れ込む。
ドアはすんなりと少女を個室に迎え入れ、ハナから隔離するように、バタン! と音を立てて閉じた。続けてかちゃん、と鍵の閉まる音まで聞こえてきた。
「……む。これは困った」
トイレのドアは簡易的だからすぐに開く。上から覗くことだって可能。だが、今この状態だと間違いなく少女はドアを押さえつけているだろう。開く気がしなかった。
「このまま下校時間を過ぎてしまったら“用務員さん”に怒られてしまうな……」
むう、とハナは頬を掻いて呟く。
この場合、不可抗力とは言えトイレに閉じ込めてしまったのはハナが原因。このまま出てこなくなって何かあった場合、ウツロに怒られるのは間違いなく自分だった。
「――仕方ない」
素直に帰ろう。
ちゃんと彼女が帰れるか見送ってから。
そうしてハナはそっと気配と姿を消して洗面台に腰掛ける。
しばらくすると、戸がそっと開いた。
少女はそっと隙間から顔を出し、警戒するように周囲を見渡す。
薄暗くなってしまったトイレは一層不気味に映るだろう。電気も付いてない。人の気配はない。ただ遠くから、部活動を終えようとする声が聞こえてくるだけだ。
けれども少女はほっとしたようだった。廊下の明かりを求めるようにハナの目の前を通っていく。
廊下に出ると、彼女は大きく大きく胸をなで下ろし。
ぱたぱたと足音を立てて去って行った。
「……」
少女を見送ったハナは、ふむ、と考え込む。
外に居たのは彼女の友人達だろう。
だが、自分が姿を見せた瞬間、「ヤバい」「マジで」という声とともに携帯のシャッターオンが響いたのを耳にしていた。
「全く……ボクは度胸試しに使われるのは仕方ないとしても、面白コンテンツは専門外なんだがなあ」
この学校は噂話が多いから肝試しは頻繁に行われる。その時はこちらも全力でお相手する。
ヤミは憂鬱だとか乗り気ではないと言うが、彼はいつだって全力だから仕方ない。
呼び出す側も、呼び出される側も、全力で恐がり、楽しむ。それが楽しい自分達の在り方だ。
写真や録音はうまく写らないのがオチだけど、どうにも得意ではない。
どうして、と聞かれたら「だって魂抜かれるっていうじゃないか」とハナは答えるが――今はどうでもいい話だ。
「……噂話が残ってて、実行されるだけマシとはいえ。多少は対応できるようにしておくべきだろうなあ」
と、溜息をついたところでハナはふと、トイレの奥に落ちている何かを見つけた。
小さなお守りだった。手作りらしく、縫い目も布もボロボロだった。
受験のお守りか、はたまた別の何かか。
しかし、学校にやってきてまでこうして持っているということは。
「きっと大事な物に違いないね」
忘れ物は返してあげないと。
ハナはそっと、それをポケットへと放り込み、そのままトイレの個室へと姿を消した。
□ ■ □
夕飯と雑談をいつものように終えて、ハナは自室のベッドに転がって眠気を待っていた。
「今日呼ばれたなら……また数日は暇だろうか」
ごろごろと転がり、ヤミから借り受けた本をぱらぱらと捲る。
挟んでいた栞を外して続きを読みながら、明日はヤミちゃんについて回ろうか、なんて考える。
暇なら暇で、やりたい事はあるのだ。ただ、途中で呼び出されたら堪らないだけだ。
調理室でハナブサさんとお菓子を作るのも良いかもしれない。
ヤミに本をたくさん借りてきてもらって読みふけるのも良い。
ミサギやスイバと一緒にお茶をするのも良いだろう。
あとは――と、ハンガーに掛けた制服に少しだけ意識を向ける。
夕方に拾った手作りのお守りは、制服のポケットに入れたままだ。
彼女はまた来るだろうか。
お守りが無いことに気付いたら、拾いに来るだろうか?
ふと。思い出した。
自分にも昔、そういう事があった気がする。
何か大事な物をどこかに忘れて、気が気じゃなかった事が。
「それは……見つかったんだっけ」
どうだったっけ。と、ちょっとだけ考えようとして――やめた。
まあ。昔のことだしどうでもいい。
ハナは考えをそこで打ち切って、再び放課後の少女に思考を戻す。
次呼ばれたら。呼ばれることがあったら。
「ちゃんと返してあげなくちゃ」
放課後、誰も居ない女子トイレに行って。
一番近いドアから順番に、三回ノックしてこう言うのだ。
「ハナコさん、いらっしゃいますか?」
返事がなければ次の個室で、同じ事を繰り返す。
そうすると、どこかで返事がある。
「はーあーい」
そこから先は噂によって異なるのでいくつか列挙すると。
「遊びましょう」と言うと「何して遊ぶ?」と返ってくる。
天井を見上げると、個室から血塗れの頭が覗き込んでいる。
戸を開けると、誰も居ない。けれども、後ろを振り向いてはいけない。
困っていると力になってくれる。ただし後でお菓子を持ってこなくてはならない。
……などなど。
ハナコさんは噂が多様でなかなか忙しい。
の。だが。
□ ■ □
「最近つまらないんだ」
理科室でハナは机に突っ伏していた。長い栗色の髪が黒のテーブルにさらりと流れている。
「つまらないの?」
「ひまなの?」
カガミの二人が問いかけると、「うむ」と、突っ伏したままで肯定が返ってきた。
「なんで?」
「どうして?」
二人は不思議そうに問いを重ねる。
「ハナコさん」は実行しやすい。だから、呼ばれる頻度だって高いはずなのに。つまらないとはどういうことだろう? そういう声だ。
「確かに呼ばれることは多いんだが……返事をすると逃げる子が増えちゃってねえ。時には物音がしただけであっという間に居なくなる。たとえそれが、ボクのせいでなくてもだ」
あと、と言う言葉と共に盛大な溜息。
「なんか罰ゲームに使われることが多いみたいでさあ」
「あー……」
なるほどー。と頷くカガミ。
「ひとりでできる、薄暗くて誰も来ない。来たとしてもすぐに逃げていく……いや、怖がられるのは一向に構わないのだけれども……嗚呼つまらない。誰かボクと遊んでくれる人は居ないものか……」
ぽつりと呟いてしばらくじっと黙っていたハナは、突然ばっと身を起こした。
「よし、ヤミちゃんの所に行こう!」
「でもヤミくん、今見回り中だよ?」
「サクラくんと、表に居るよ?」
「……そうだった」
カガミの言葉にハナはくたりと机に突っ伏す。
「もう今日はこのままカフェーに居座るかの如く、ここでハナブサさんのお茶とお菓子を堪能するかなあ……」
「図書室で本を借りたら?」
「調理室でお菓子作ったら?」
カガミの提案にも返事が乗り気ではない。
「図書館か。図書室はな……実のところ、あまり好きではないんだ」
読書は好きなんだが、とハナはだるそうに言いかけ――。
「む?」
むくり、と起き上がった。
「?」
「ふ。ふふふ……来た。きたよ! ボクを喚んでる誰かがいる!」
瞬間。ゆらりと髪の先から雫が滴るようにハナの姿が崩れていく。
「今日はちゃんと遊んでもらおう! ボクがばっちりしっかり先手を打ってこようじゃないか!」
「おー」
「いってらっしゃいー」
カガミがぱたぱたと手を振ると、嬉しそうに手を振るハナの指先がちらりと揺れて、消えた。
□ ■ □
薄暗い個室にノックの音が響く。
こん
こん、
こん。
すう、と息を吸う音がする。
「は、ハナコさん、……いらっしゃい、ますか?」
返事はない。
ほう、と安堵したように息を吐く。
そしてちら、と入り口を振り返ると、数名の影が見えた。
入り口の方が明るいから、逆光になって顔は見えない。
けれども。
携帯を構えて、こっちを覗き見ているのは分かる。
ほら、早く次に行きなよ。
急かす視線から目を逸らして、次の個室へとゆっくり歩く。
ごくり、と生唾を飲み込んで、ノックをする。
コン
コン、
コン。
息を吸う。
「はなこさん、いらっしゃい……ます、か?」
返事はない。
ほ、っと肩の力を抜いて息をついた瞬間。
す。っと首の横から腕が伸び、ドアに指先が触れたのが見えた。
「――!?」
驚いて振り向いた目の前で、栗色の髪がさらりと揺れた。
至近距離。その距離は呼吸だって届く。
「うん。ここに居るとも!」
振り向いた少女の逃げ道を封じて、声の主は嬉しそうに笑っていた。
「やあやあ、よくぞ呼んでくれたね」
逃がさないぞ、と壁に追い詰めてみたハナは、呼び出した相手に視線を落とす。
小動物のような少女だった、肩でゆるく揃えられた髪は、細くて軽そうだ。胸元で揺れるのは、スカーフではなくリボン。どうやら中等部らしい。なるほど学校に慣れてきた新入生が噂を聞きつけてやってきた。そんなところなのだろう。
そんな彼女は薄暗い中、震えながらも気丈に問いかけてきた。
「あなた……」
「一体どこから出てきたのか、かい?」
ハナは左右に揺れた彼女の視線から、疑問をあっさりと拾い上げる。
これまで出会ってきた相手はみんな同じような反応だったのだから、この程度の疑問、分からない訳がない。けれど、答える義務も同じくらいない。
少女が頷きながら、ちら、と入り口に視線を向けた。
ハナもつられてそっちを見る。
そこには、誰も居なかった。
「あー……もしかして、外にいた子達は逃げてしまったのかな?」
そうかあ、とハナは呟く。
「まあ。いいや」
外に興味を無くした声をぽつりと零し、ドアから手を離す。あんまりやり過ぎると泣かれてしまう気がした。
いや、怖がられるのは本望なんだが、別に泣かせたい訳ではない。
「置いて行かれたのなら仕方ない。呼び出したのも君だから仕方ない」
ね。と小さく首を傾げて笑いかけるが、少女は酷く怯えた目をしている。
「そんなに怯えることはないよ」
ハナはそっと言い聞かせる。
「ハナコさんなんて害のない、至って普通の、語り尽くされた学校の怪談さ。物騒な噂も数あるけれど、なあにちっとも怖い事なんてないよ。所詮は噂話。君の目の前にある今。これから体験する事こそが真実さ」
少女は口を動かすが、声が出ない。目には涙が溜まっている。
「嗚呼、どうか泣かないでおくれよ。ほら。楽しいことをしよう」
ぎゅっと目を閉じると、目尻に涙の雫が膨れた。
「ね。遊ぼう。遊ぼう。たあんと遊ぼう。何をしたい? 双六? あやとり? かくれんぼ? なんなら鬼ごっこでも構わないよ?」
ふるり、と少女は小さく首を横に振った。
そして再びハナを見上げたその目にある色は――どうしようもない恐怖と拒絶。
ハナの言葉が一瞬だけ止まるが、すぐに口元は笑みを取り戻す。
「そんな悲しい態度をとらずにさ。最近はみんなすぐに逃げてしまうから、とっても暇なんだ。だから遊んでおくれよ」
遊ぼうと迫るハナに、少女は距離を取ろうとしたのだろう。
後ずさっても逃げ道などないその背に、閉ざされていた戸が当たる。
内側に開くドアは、彼女の背を受け止めずに少しだけ揺れた。
「――あ」
少女が何かに気付いたように、ドアへ視線を向けた。
ハナが首をかしげる。その一瞬を見逃さず彼女はそのドアに体重をかけ、中へと倒れ込む。
ドアはすんなりと少女を個室に迎え入れ、ハナから隔離するように、バタン! と音を立てて閉じた。続けてかちゃん、と鍵の閉まる音まで聞こえてきた。
「……む。これは困った」
トイレのドアは簡易的だからすぐに開く。上から覗くことだって可能。だが、今この状態だと間違いなく少女はドアを押さえつけているだろう。開く気がしなかった。
「このまま下校時間を過ぎてしまったら“用務員さん”に怒られてしまうな……」
むう、とハナは頬を掻いて呟く。
この場合、不可抗力とは言えトイレに閉じ込めてしまったのはハナが原因。このまま出てこなくなって何かあった場合、ウツロに怒られるのは間違いなく自分だった。
「――仕方ない」
素直に帰ろう。
ちゃんと彼女が帰れるか見送ってから。
そうしてハナはそっと気配と姿を消して洗面台に腰掛ける。
しばらくすると、戸がそっと開いた。
少女はそっと隙間から顔を出し、警戒するように周囲を見渡す。
薄暗くなってしまったトイレは一層不気味に映るだろう。電気も付いてない。人の気配はない。ただ遠くから、部活動を終えようとする声が聞こえてくるだけだ。
けれども少女はほっとしたようだった。廊下の明かりを求めるようにハナの目の前を通っていく。
廊下に出ると、彼女は大きく大きく胸をなで下ろし。
ぱたぱたと足音を立てて去って行った。
「……」
少女を見送ったハナは、ふむ、と考え込む。
外に居たのは彼女の友人達だろう。
だが、自分が姿を見せた瞬間、「ヤバい」「マジで」という声とともに携帯のシャッターオンが響いたのを耳にしていた。
「全く……ボクは度胸試しに使われるのは仕方ないとしても、面白コンテンツは専門外なんだがなあ」
この学校は噂話が多いから肝試しは頻繁に行われる。その時はこちらも全力でお相手する。
ヤミは憂鬱だとか乗り気ではないと言うが、彼はいつだって全力だから仕方ない。
呼び出す側も、呼び出される側も、全力で恐がり、楽しむ。それが楽しい自分達の在り方だ。
写真や録音はうまく写らないのがオチだけど、どうにも得意ではない。
どうして、と聞かれたら「だって魂抜かれるっていうじゃないか」とハナは答えるが――今はどうでもいい話だ。
「……噂話が残ってて、実行されるだけマシとはいえ。多少は対応できるようにしておくべきだろうなあ」
と、溜息をついたところでハナはふと、トイレの奥に落ちている何かを見つけた。
小さなお守りだった。手作りらしく、縫い目も布もボロボロだった。
受験のお守りか、はたまた別の何かか。
しかし、学校にやってきてまでこうして持っているということは。
「きっと大事な物に違いないね」
忘れ物は返してあげないと。
ハナはそっと、それをポケットへと放り込み、そのままトイレの個室へと姿を消した。
□ ■ □
夕飯と雑談をいつものように終えて、ハナは自室のベッドに転がって眠気を待っていた。
「今日呼ばれたなら……また数日は暇だろうか」
ごろごろと転がり、ヤミから借り受けた本をぱらぱらと捲る。
挟んでいた栞を外して続きを読みながら、明日はヤミちゃんについて回ろうか、なんて考える。
暇なら暇で、やりたい事はあるのだ。ただ、途中で呼び出されたら堪らないだけだ。
調理室でハナブサさんとお菓子を作るのも良いかもしれない。
ヤミに本をたくさん借りてきてもらって読みふけるのも良い。
ミサギやスイバと一緒にお茶をするのも良いだろう。
あとは――と、ハンガーに掛けた制服に少しだけ意識を向ける。
夕方に拾った手作りのお守りは、制服のポケットに入れたままだ。
彼女はまた来るだろうか。
お守りが無いことに気付いたら、拾いに来るだろうか?
ふと。思い出した。
自分にも昔、そういう事があった気がする。
何か大事な物をどこかに忘れて、気が気じゃなかった事が。
「それは……見つかったんだっけ」
どうだったっけ。と、ちょっとだけ考えようとして――やめた。
まあ。昔のことだしどうでもいい。
ハナは考えをそこで打ち切って、再び放課後の少女に思考を戻す。
次呼ばれたら。呼ばれることがあったら。
「ちゃんと返してあげなくちゃ」