Exspetioa2.7.3
今日、久しぶりに、あのお方と目が合いました。いけないと思っていたのに、上を向いてしまいました。
ちょうど、シスター・アザレアが休息の時間の終わりを知らせる鐘を鳴らしていらっしゃった時でした。シスター・ルドベキアがシスター・サンビタリアに呼ばれ、少し離れることになりました。
「ここにいるんだよ、何かあったら叫ぶように」と言われ、私はうなずき、待っていました。
ぽつぽつと降っていた雨が止まりました。
その時、久しぶりに、あのお方の視線を感じたのです。私は、導かれるように、上を向いてしまいました。
あのお方が、ほほ笑んでいらっしゃいました。いつもと同じように、温かく、やさしいまなざしで……。
あのお方の唇が、動きました。
「大丈夫?」
声は聞こえませんでした。でも、そうお言葉をくださっていることが伝わってきました。
涙が込み上げました。唇を噛んで涙を堪えながら、私は、一生懸命にうなずきました。ぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちました。
その時です。彼女が窓から身を乗り出して、何かを、私に向かって落としました。それは空気に守られながら、ゆっくりと私のもとに運ばれ、やがて、私の手のひらの上にたどり着きました。
あのお方の、青い花でした。
鐘の最後のひと突きが終わりました。残響の中目を上げると、もう、あのお方のお姿はありませんでした。
私は、青い花を見つめました。涙があふれて、あふれて止まらず、力が抜けて、崩れ落ちました。
「シスター・セナ!」
シスター・ルドベキアが駆けつけて、「どうした?」と私の顔を覗き込みました。
「まさか、罪女ニゲラと目が合ったのか」
「ごめんなさい。いけないとわかっていたのに、私……」
「大丈夫だ。マザーは君を厳しく叱ったりはしない。私の落ち度だ」
「違います! シスター・ルドベキアは悪くありません! 私が自分を抑えられなかったから……。でも……」
私の中に、罪悪感が膨れあがっていました。
ただ、それは、マザーのお言いつけを破ってしまった罪悪感ではありませんでした。
私は、あんなにおやさしいお方を「信じない」と決めてしまったこと、そして、たくさん温かい想いとお言葉をいただいたにもかかわらず、悲しくさみしい想いをさせてしまったこと……。そのことに、大きな罪悪感を抱いていたのです。
「私……私、やっぱり、あのお方を信じたい。あのお方の温かな想いは本物です。あの方は、マザーがおっしゃるような、ひどいことをするお方ではありません。マザーのおっしゃることは正しいのです、それは、わかっているのです……。でも、どうしても、信じたいと思うのです。幸せになっていただきたいと思うのです。皆さんにも、マザーにも、神様にも、幸せになっていただきたい。ですが、その代わりに、あのお方が孤独を背負って、ひとりで、悲しくさみしい想いを背負って、傷ついてしまわれるのは、いやなのです……。あのお方を、傷つけたくない。あのお方を信じていたい。私は、あの方にも、幸せになってほしいのです……」
青い花を包む手を大切に抱きしめ、私は、流れる涙に身を任せました。
シスター・ルドベキアが、私の体を、やさしく包み込んでくださいました。
「君の心は、美しいんだね。どんな子の美しさも、みつけてくれるんだね……」
シスター・ルドベキアは、震えるお声で、そうつぶやかれました。
体が離れて、シスター・ルドベキアと見つめ合いました。シスター・ルドベキアも、泣いてしまわれそうな、とても切ないお顔でいらっしゃいました。
「私も、わかるよ。大切な人に幸せになってほしい、ひとりにしたくない、傷つけたくない……その気持ち、全部……」
シスター・ルドベキアが、白い親指で、私の濡れた頬を拭ってくださいました。
「すべての花の修道女が、君のようならいいのに……。君のように、どんな子の美しさも、みつけて、受け入れて、大切にしてくれたらいいのに……」
あまりにも勿体ないお言葉で、私は首を振って、ハンカチーフで涙を拭いました。しばらく目頭にハンカチーフを押さえつけ、しっかりと涙を止めました。
顔を上げると、シスター・ルドベキアが、とても強いまなざしで私を見据えていました。
「シスター・セナ。私は、決めたよ」
シスター・ルドベキアが、突然、片膝をついて、右手を胸に当てました。私はびっくりしました。
「シスター・セナ。私は、君に協力する。そして君が、罪女ニゲラを幸せにしてあげられる状況になれるように――ニゲラが牢から出られるように、力を尽くそう」
まさかのお申し出に、私はびっくりしました。
「ですが、それではマザーのお考えとは反対のことをしてしまうことになるのでは……」
「たしかにそうだ。だけど私は、君がニゲラを信じる姿を、すべての花の修道女に見せたい。そうしてすべての花の修道女の心を、君のような美しい心にしたい。
私に、考えがある。
エスの手紙を配っているものをつきとめるんだ。そいつと罪女ニゲラにかかわりがないことをつきとめられれば、罪女ニゲラは、蟲のことや、ラジアータとは関係がないということになる。うまくいけば、牢から出してもらえるかもしれない。もしそれが叶ったら、君は彼女と一緒に過ごし、幸せにしてあげるんだ」
瞳の中が輝きました。あのお方と一緒に過ごす――あのお方の孤独を埋め、幸せにしてさしあげる。もしそれが叶うなら、叶えたい。そう、強く思いました。
シスター・ルドベキアが、人差し指を唇に当てました。
「ただし、誰にも……特に、マザーには秘密だ。行動を制限されたり、どうしようもない命令を叩きつけられたりしてしまうかもしれないから」
私は、はたと止まりました。
「いいのでしょうか。マザーのご許可がないのに、勝手なことをしてしまって……。もし、これが間違いだったら……」
シスター・ルドベキアが、私の両肩をぐっと掴みました。
「間違いを畏れるな。できることをやらなければ、望むものは手に入らない。自分が動けば、何かが動く。そう信じるんだ。何もしないことだけは、決してしてはいけない」
シスター・ルドベキアは、強い決意を秘めたご様子で、まっすぐ、私を見つめました。
なんて美しいお考え、美しいお心でしょう……。
間違うことは怖いことです。ですが、動かなければ、望むものは手に入りません。あのお方を牢から出すことはできないのです。
私は、あのお方を幸せにしたい。神様だけでなく、皆さんに幸せになってほしい。どんなに神様への愛を唱えても、この想いを失くすことはできないのです。
空を覆っていた白い光が、ゆっくりと明るくなったように感じました。
私は、空を見上げました。
動こう、と思いました。怖さを乗り越えるために、勇気を振り絞ろうと決意しました。
「私、動きたいです。私に、協力させてください!」
「協力するのは私の方だ。いや、一緒に頑張ろう」
「はい!」
私たちは明日から、午前と午後の仕事の時間に、花の修道女たちの部屋をパトロールすることになりました。お二人の騎士の方々にも手伝っていただきます。
「君は、今の君にできることをすればいい。私もそうする。お互いにできることをしていこう」
シスター・ルドベキアの心強いお言葉に、熱くなる胸を握りながら、私はしっかりうなずきました。
あのお方からいただいたお花を、机の上に飾りました。それを見たシスター・ルドベキアが、
「水に浮かべるといい。光が射し込むと、水面に花びらが映って、よりたくさん存在を感じられる」
と教えてくださいました。たしか、エスでいらっしゃる皆さんも、そうやって飾っていらっしゃったと伺ったことがあります。
明日、時間をみつけて、銀食器職人の仕事場に小皿をいただきに伺いたいと思います。
あのお方の花を見つめて――きっと、あのお方は、シスター・アザレアに見守られて過ごされているから、タイミングを見計らって、私に想いを届けてくださったのだろうな、思いました。
私を想ってくださる、あのお方に感謝。どうか、あのお方が幸せになりますように。
神様、どうかあのお方をお赦しください。
ちょうど、シスター・アザレアが休息の時間の終わりを知らせる鐘を鳴らしていらっしゃった時でした。シスター・ルドベキアがシスター・サンビタリアに呼ばれ、少し離れることになりました。
「ここにいるんだよ、何かあったら叫ぶように」と言われ、私はうなずき、待っていました。
ぽつぽつと降っていた雨が止まりました。
その時、久しぶりに、あのお方の視線を感じたのです。私は、導かれるように、上を向いてしまいました。
あのお方が、ほほ笑んでいらっしゃいました。いつもと同じように、温かく、やさしいまなざしで……。
あのお方の唇が、動きました。
「大丈夫?」
声は聞こえませんでした。でも、そうお言葉をくださっていることが伝わってきました。
涙が込み上げました。唇を噛んで涙を堪えながら、私は、一生懸命にうなずきました。ぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちました。
その時です。彼女が窓から身を乗り出して、何かを、私に向かって落としました。それは空気に守られながら、ゆっくりと私のもとに運ばれ、やがて、私の手のひらの上にたどり着きました。
あのお方の、青い花でした。
鐘の最後のひと突きが終わりました。残響の中目を上げると、もう、あのお方のお姿はありませんでした。
私は、青い花を見つめました。涙があふれて、あふれて止まらず、力が抜けて、崩れ落ちました。
「シスター・セナ!」
シスター・ルドベキアが駆けつけて、「どうした?」と私の顔を覗き込みました。
「まさか、罪女ニゲラと目が合ったのか」
「ごめんなさい。いけないとわかっていたのに、私……」
「大丈夫だ。マザーは君を厳しく叱ったりはしない。私の落ち度だ」
「違います! シスター・ルドベキアは悪くありません! 私が自分を抑えられなかったから……。でも……」
私の中に、罪悪感が膨れあがっていました。
ただ、それは、マザーのお言いつけを破ってしまった罪悪感ではありませんでした。
私は、あんなにおやさしいお方を「信じない」と決めてしまったこと、そして、たくさん温かい想いとお言葉をいただいたにもかかわらず、悲しくさみしい想いをさせてしまったこと……。そのことに、大きな罪悪感を抱いていたのです。
「私……私、やっぱり、あのお方を信じたい。あのお方の温かな想いは本物です。あの方は、マザーがおっしゃるような、ひどいことをするお方ではありません。マザーのおっしゃることは正しいのです、それは、わかっているのです……。でも、どうしても、信じたいと思うのです。幸せになっていただきたいと思うのです。皆さんにも、マザーにも、神様にも、幸せになっていただきたい。ですが、その代わりに、あのお方が孤独を背負って、ひとりで、悲しくさみしい想いを背負って、傷ついてしまわれるのは、いやなのです……。あのお方を、傷つけたくない。あのお方を信じていたい。私は、あの方にも、幸せになってほしいのです……」
青い花を包む手を大切に抱きしめ、私は、流れる涙に身を任せました。
シスター・ルドベキアが、私の体を、やさしく包み込んでくださいました。
「君の心は、美しいんだね。どんな子の美しさも、みつけてくれるんだね……」
シスター・ルドベキアは、震えるお声で、そうつぶやかれました。
体が離れて、シスター・ルドベキアと見つめ合いました。シスター・ルドベキアも、泣いてしまわれそうな、とても切ないお顔でいらっしゃいました。
「私も、わかるよ。大切な人に幸せになってほしい、ひとりにしたくない、傷つけたくない……その気持ち、全部……」
シスター・ルドベキアが、白い親指で、私の濡れた頬を拭ってくださいました。
「すべての花の修道女が、君のようならいいのに……。君のように、どんな子の美しさも、みつけて、受け入れて、大切にしてくれたらいいのに……」
あまりにも勿体ないお言葉で、私は首を振って、ハンカチーフで涙を拭いました。しばらく目頭にハンカチーフを押さえつけ、しっかりと涙を止めました。
顔を上げると、シスター・ルドベキアが、とても強いまなざしで私を見据えていました。
「シスター・セナ。私は、決めたよ」
シスター・ルドベキアが、突然、片膝をついて、右手を胸に当てました。私はびっくりしました。
「シスター・セナ。私は、君に協力する。そして君が、罪女ニゲラを幸せにしてあげられる状況になれるように――ニゲラが牢から出られるように、力を尽くそう」
まさかのお申し出に、私はびっくりしました。
「ですが、それではマザーのお考えとは反対のことをしてしまうことになるのでは……」
「たしかにそうだ。だけど私は、君がニゲラを信じる姿を、すべての花の修道女に見せたい。そうしてすべての花の修道女の心を、君のような美しい心にしたい。
私に、考えがある。
エスの手紙を配っているものをつきとめるんだ。そいつと罪女ニゲラにかかわりがないことをつきとめられれば、罪女ニゲラは、蟲のことや、ラジアータとは関係がないということになる。うまくいけば、牢から出してもらえるかもしれない。もしそれが叶ったら、君は彼女と一緒に過ごし、幸せにしてあげるんだ」
瞳の中が輝きました。あのお方と一緒に過ごす――あのお方の孤独を埋め、幸せにしてさしあげる。もしそれが叶うなら、叶えたい。そう、強く思いました。
シスター・ルドベキアが、人差し指を唇に当てました。
「ただし、誰にも……特に、マザーには秘密だ。行動を制限されたり、どうしようもない命令を叩きつけられたりしてしまうかもしれないから」
私は、はたと止まりました。
「いいのでしょうか。マザーのご許可がないのに、勝手なことをしてしまって……。もし、これが間違いだったら……」
シスター・ルドベキアが、私の両肩をぐっと掴みました。
「間違いを畏れるな。できることをやらなければ、望むものは手に入らない。自分が動けば、何かが動く。そう信じるんだ。何もしないことだけは、決してしてはいけない」
シスター・ルドベキアは、強い決意を秘めたご様子で、まっすぐ、私を見つめました。
なんて美しいお考え、美しいお心でしょう……。
間違うことは怖いことです。ですが、動かなければ、望むものは手に入りません。あのお方を牢から出すことはできないのです。
私は、あのお方を幸せにしたい。神様だけでなく、皆さんに幸せになってほしい。どんなに神様への愛を唱えても、この想いを失くすことはできないのです。
空を覆っていた白い光が、ゆっくりと明るくなったように感じました。
私は、空を見上げました。
動こう、と思いました。怖さを乗り越えるために、勇気を振り絞ろうと決意しました。
「私、動きたいです。私に、協力させてください!」
「協力するのは私の方だ。いや、一緒に頑張ろう」
「はい!」
私たちは明日から、午前と午後の仕事の時間に、花の修道女たちの部屋をパトロールすることになりました。お二人の騎士の方々にも手伝っていただきます。
「君は、今の君にできることをすればいい。私もそうする。お互いにできることをしていこう」
シスター・ルドベキアの心強いお言葉に、熱くなる胸を握りながら、私はしっかりうなずきました。
あのお方からいただいたお花を、机の上に飾りました。それを見たシスター・ルドベキアが、
「水に浮かべるといい。光が射し込むと、水面に花びらが映って、よりたくさん存在を感じられる」
と教えてくださいました。たしか、エスでいらっしゃる皆さんも、そうやって飾っていらっしゃったと伺ったことがあります。
明日、時間をみつけて、銀食器職人の仕事場に小皿をいただきに伺いたいと思います。
あのお方の花を見つめて――きっと、あのお方は、シスター・アザレアに見守られて過ごされているから、タイミングを見計らって、私に想いを届けてくださったのだろうな、思いました。
私を想ってくださる、あのお方に感謝。どうか、あのお方が幸せになりますように。
神様、どうかあのお方をお赦しください。