残酷な描写あり
2.終幕への招待状-1
真円にほど近い月が、天頂から地平線へと、緩やかな弧を描きながら沈み始めていた。
初夏とはいえ、夜の静寂に包まれた地表は心地の良い空気で満たされており、地上の人々は、やがて来る朝の目覚めのために、まだまだ夢の中にいる頃合いである。
しかし、鷹刀一族の屋敷は、不夜城が如く。執務室にいる面々は、眠りとは対極にあった。
誰もが固唾を呑み、テーブルの上の電話を見守る中、ついに待ちわびていた呼び出し音が鳴り響いた。
皆の視線に促され、ミンウェイが恐る恐る手を伸ばす。けれど、気弱な態度はそこまで。受話器を握りしめた彼女は、毅然とした声を放った。
「……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために」
「どうして、そうなるんだよ……!?」
ルイフォンは呆然と呟いた。
彼はソファーの背もたれに身を投げ出し、虚空を仰ぐ。
執務室の反応は、各人それぞれ。しかし、等しく衝撃に見舞われている。
イーレオは一瞬、虚を衝かれたように息を呑んだのちに、にやりと口角を上げた。それから、エルファンに視線を送り、チャオラウを振り返る。
エルファンは口元をわずかに緩め、氷の瞳をすうっと細めた。軽く目を伏せたチャオラウもまた、小刻みに無精髭を揺らしている。
密やかな興奮に彩られた彼らは、『昔のヘイシャオ』を知る者たちだ。
一方、ルイフォンを含む残りの者たちは、混乱と動揺に支配されていた。
ミンウェイは、受話器を持つ手を震わせながら切れ長の目を大きく見開き、いつの間にか当然のように居座っていたシュアンは、彼女の隣で、ぽかんと間抜けに口を開けている。
ルイフォンは、癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。
「あり得ないだろ……」
打ち合わせ通りに、ミンウェイが〈蝿〉に向かって語りかけた。しかし、〈蝿〉の様子に違和感があった。
だから、ミンウェイが、〈蝿〉に『会いたい』と伝えるよりも先に、まずはリュイセンに状況の説明を求めたのだ。
その結果……。
「あの〈蝿〉が、リュイセンに膝を屈した――だと!?」
深夜であるにも関わらず、ルイフォンの大音声のテノールが響き渡った。
ルイフォンは『現場での判断は、リュイセンに一任する』と宣言していた。
だから、リュイセンには独断が許されていたわけだが、律儀な兄貴分は、事前に『予定を変更して、〈蝿〉を血族として裁きたい。頼む』と、電話越しに頭を下げてきた。
それを聞いたとき、ルイフォンの心は踊った。
まさに『鷹刀の後継者』の在るべき姿だと思った。
感服に、全身が震えた。兄貴分が誇らしかった。
たとえ深手を負っていても、彼の勝利を信じ、彼の行動を認めたい。そして、為すべきことを為し遂げた暁の、彼の勇姿を見てみたい……。
しかし――だ。
あの庭園には、最愛のメイシアが囚われている。
幼いファンルゥも待っている。
リュイセンの双肩には、彼女たちの命が懸かっているのだ。
――リュイセンを止めるべきだ。
そう判断した。
そのとき、回線を通じて繋がっていたメイシアが言ったのだ。
『私のことを心配しているのなら、大丈夫。私には『セレイエさんの記憶』という武器がある。自分自身とファンルゥちゃんは、必ず守る。私は、何があっても絶対に、この庭園から出てみせる』
だから、リュイセンを『鷹刀の後継者』として、送り出そう……!
戦乙女の声が、背中を押した。
ルイフォンは猫の目を光らせ、好戦的に口の端を上げた。
そして、真に伝えたいと望む言葉を、思うがままに兄貴分に告げた。
「リュイセン。俺は、お前に一任すると言った。男に二言はない。お前の思うようにやってくれ。――あとのことは、俺とメイシアに任せろ」
――故に。
リュイセンは満身創痍ながら、辛くも勝ちを収めるのだ――と、ルイフォンは信じていた。
それが……。
「〈蝿〉が、無血で刀を引いた?」
〈蝿〉はリュイセンの怪我に気づいており、自分に勝機があると知っていた。なのに、自ら戦いを放棄して、リュイセンの配下に入ると告げたという。
それが本当なら、リュイセンは不可能を可能にしたと言っていい。大手柄だ。
しかし、相手は、あの〈蝿〉だ。
散々、詭弁を弄され、何度も辛酸を嘗めさせられた怨敵だ。
しかも〈蝿〉は、リュイセンに屈したところで待っているのは『死』だと理解しているというのだ。あれほど『生』に固執していた奴が……あり得ないだろう。
兄貴分の偉業を素直に受け入れられない自分に嫌気が差すが、〈蝿〉の言葉を鵜呑みにするには、これまでの怨恨が深すぎた。
ルイフォンの内部で、猜疑心が広がっていく。
――これからどうすべきか? 予定通りに、〈蝿〉を屋敷まで連れてくるのでよいのか?
彼の意識が、異次元へと飛び立とうとしたときだった。
「ほぉ……、リュイセンの奴、やるじゃねぇか」
妙に甲高く耳障りな声が、ルイフォンの思考を遮った。つい先ほどまで、間抜け面で呆けていたシュアンである。
リュイセンとは今ひとつの仲である彼が、称賛を上げた。
意外に思ったルイフォンが瞳を巡らせれば、皮肉げに口角を吊り上げたシュアンの顔が映り込む。その凶相からは、彼が笑っているのか否かの判別はつきかねる。
シュアンは、傍らのミンウェイを顎でしゃくった。
「ミンウェイ。リュイセンに、なんか言ってやれよ」
「え……? あ……! ええ!」
彼と同じく放心していた彼女は、はっと我に返り、送話口に飛びつく。それを尻目にシュアンはふらりと席を立ち、こちらへと近づいてきた。
ルイフォンの胡乱な視線もなんのその、当然のように隣に座る。無遠慮に腰を下ろした振動でソファーの座面が揺れ、ルイフォンは鼻に皺を寄せたが、気にするようなシュアンではない。
「〈猫〉の活躍が、すっかり霞んじまったな」
「シュアン?」
「リュイセンの野郎、〈猫〉のお膳立てに面目なさげな様子だったが、もはや完全に奴の独壇場だ」
「……別に、いいじゃねぇかよ」
ルイフォン自身、現状を疑問に思い、リュイセンの快挙を諸手を上げて喜べないでいるくせに、シュアンに否定的な口調で言われると無性に腹が立った。猫の目が無意識のうちに険を帯び、シュアンを睨みつける。
「おおっと。俺は別に、リュイセンを悪く言っているわけじゃない」
シュアンは大仰な仕草で、おどけたように肩をすくめた。
「むしろ、尊敬に値すると思っているさ。この事態に至って、命懸けで真正面から〈蝿〉に対峙するなんざ、狂気の沙汰だ。――凶賊の中には、そういう輩がいるってのは知ってはいたが、今どき希少価値だろう?」
凶賊の担当の警察隊員として、もっともらしい発言をしたつもりのようだが、胡散臭い笑みで讃えられても、ちっとも信憑性がない。
「じゃあ、なんだよ」
ルイフォンが口を尖らせると、シュアンは、ちらりとミンウェイの様子を窺った。
彼女は、瞳の端に涙を光らせながら、感極まった様子でリュイセンに祝福を捧げていた。それを確認すると、シュアンは、今までとは違う、一段、低い声をルイフォンの耳元に落とす。
「俺が気にしているのは、〈蝿〉だ。リュイセンの人の良さにつけ込んでいるんじゃねぇか」
シュアンの目線は、ミンウェイに向けられたまま。だから、密かな囁きは、興奮を帯びた華やかな美声の裏側に忍ぶよう――。
事実、その言葉は、満面の笑みを浮かべているミンウェイに水を差さないよう、そして、電話口の向こうのリュイセンや〈蝿〉に気取られぬよう、配慮されたものだった。
「〈猫〉、あんた、この状況をどう読む?」
「どう、って……」
「〈蝿〉は、リュイセンが刀を止めることを見抜いていたんじゃねぇか?」
「!」
兄貴分の手柄に瑕をつけたくなくて、ルイフォンが打ち消そうとしていた疑惑を、シュアンはあっさり口にした。
そう――。
いくら本質を見抜く天性の野生の勘を持つリュイセンでも、今回ばかりは騙されているのではないかと……心のどこかで邪推していた。
リュイセンは〈蝿〉を生かしたまま屋敷に連れてくるようにと、ミンウェイに頼まれていた。だから、殺気が欠けていたことを〈蝿〉に看破されていたのではないか。それで、〈蝿〉は降伏したように見せかけたのではないか――と。
「現状は『危険』じゃねえのか? リュイセンは……その、大丈夫か?」
シュアンにしては珍しく遠慮がちに、しかし、畳み掛けるように告げられた。ルイフォンに作戦を任せた以上、表立って余計な口出しはしないが、予定の変更を視野にいれるべきだと、暗に言っているのだ。
「……っ」
ルイフォンは奥歯を噛み締める。
そのとき。
不意に、ルイフォンの体が傾いだ。彼の隣――シュアンが座っているのと反対側のソファーの座面が沈んだのだ。
驚いて体を返せば、涼やかな微笑を浮かべたエルファンが優雅に足を組んでいる。
「私の目の前で密談とは、たいした輩だな」
「あ……、いや」
密談というわけではない、と言いかけたルイフォンを遮り、シュアンが「そりゃ、仕方ないと思ってくださいよ」と、口の端を上げる。
「〈猫〉とは違って、〈蝿〉のオリジナルを知っている鷹刀の『重鎮』の方々は、〈蝿〉に肩入れしがちですからね。ここまで来て下手を打つのは、ご勘弁願いたい、ってだけです」
「そうだな。緋扇、お前にとって、ヘイシャオの〈影〉は、恩義ある先輩の仇だ。疑うのも無理はなかろう」
エルファンは静かに肯定し、溜め息を落とした。
「だが、あの〈影〉が、ヘイシャオと同じ思考を持つのなら、裁きの手を待っているはずだ。あいつが……私に求めたようにな」
普段は感情を見せない次期総帥の氷の眼差しに、さざ波が立った。ルイフォンは「エルファン……」と呟いたまま、声を失う。
「私は、また、あいつを……、……いや。なんでもない」
エルファンがそう言って、身を翻そうとしたときだった。
執務室のスピーカーから、ひときわ力強いリュイセンの声が流れた。
『ミンウェイ。すっかり段取りが変わっちまったが、ヘイシャオ――〈蝿〉との話の続きを頼む。――今、電話を替わる』
「あ……! そうね。そうだったわね」
わずかに緊張を帯びた、けれど、弾んだミンウェイの返事。
ルイフォンの心臓が、どきりと跳ねた。
〈蝿〉の真意を読み解けていない状態で、話を進めてよいのだろうか。〈蝿〉を屋敷に連れてくるということは、狭い車の中で、〈蝿〉とメイシアが同席することになる。そこに問題はないのだろうか。
しかし、自分の本能的な不安を優先してよいものかとルイフォンは一瞬、迷い……、結果として、彼が制止をかけるよりも先に、勢い込んだミンウェイが口を開いた。
「未来のために。――私は、お父様の記憶を持つ『あなた』にお会いしたいんです。だから、鷹刀の屋敷まで来てください」
祈るように。
ミンウェイの唇が願いを紡ぐ。
波打つ黒髪をなびかせ、遥かな庭園をまっすぐに望む。
優しい草の香と、鋭い眼差しを併せ持つ彼女を前に、ルイフォンは、はっと胸を衝かれた。
「シュアン」
小声で隣に囁く。
「〈蝿〉が何を考えているのかは分からねぇけど、ミンウェイを奴に会わせてやらなきゃ駄目だろ。そうじゃないと、ミンウェイは一生、後悔する。……お前が言ってくれたことじゃねぇか」
正確には、シュアンに明確な発言はなかったかもしれない。けれど、今までの彼の行動からすれば、言ったも同然だ。
「!」
シュアンの瞳が見開かれたのは刹那のこと。彼はすぐに、いつもの皮肉げな三白眼に戻り、ぼさぼさ頭を乱暴に掻いた。
「……そうだな。……すまん」
「いや、俺も〈蝿〉は危険だと思っている。だから、俺のすべきことは、〈蝿〉に二心がある可能性を踏まえた上での、作戦の遂行だ」
〈蝿〉が何を仕掛けてきても対処できるよう先を読み、あの館にいる仲間を全員、無事に脱出させる。そして、ミンウェイと〈蝿〉の対面を果たす――!
ルイフォンとシュアンは好戦的な笑みを交わし、それから、同時にミンウェイへと視線を移した。
初夏とはいえ、夜の静寂に包まれた地表は心地の良い空気で満たされており、地上の人々は、やがて来る朝の目覚めのために、まだまだ夢の中にいる頃合いである。
しかし、鷹刀一族の屋敷は、不夜城が如く。執務室にいる面々は、眠りとは対極にあった。
誰もが固唾を呑み、テーブルの上の電話を見守る中、ついに待ちわびていた呼び出し音が鳴り響いた。
皆の視線に促され、ミンウェイが恐る恐る手を伸ばす。けれど、気弱な態度はそこまで。受話器を握りしめた彼女は、毅然とした声を放った。
「……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために」
「どうして、そうなるんだよ……!?」
ルイフォンは呆然と呟いた。
彼はソファーの背もたれに身を投げ出し、虚空を仰ぐ。
執務室の反応は、各人それぞれ。しかし、等しく衝撃に見舞われている。
イーレオは一瞬、虚を衝かれたように息を呑んだのちに、にやりと口角を上げた。それから、エルファンに視線を送り、チャオラウを振り返る。
エルファンは口元をわずかに緩め、氷の瞳をすうっと細めた。軽く目を伏せたチャオラウもまた、小刻みに無精髭を揺らしている。
密やかな興奮に彩られた彼らは、『昔のヘイシャオ』を知る者たちだ。
一方、ルイフォンを含む残りの者たちは、混乱と動揺に支配されていた。
ミンウェイは、受話器を持つ手を震わせながら切れ長の目を大きく見開き、いつの間にか当然のように居座っていたシュアンは、彼女の隣で、ぽかんと間抜けに口を開けている。
ルイフォンは、癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。
「あり得ないだろ……」
打ち合わせ通りに、ミンウェイが〈蝿〉に向かって語りかけた。しかし、〈蝿〉の様子に違和感があった。
だから、ミンウェイが、〈蝿〉に『会いたい』と伝えるよりも先に、まずはリュイセンに状況の説明を求めたのだ。
その結果……。
「あの〈蝿〉が、リュイセンに膝を屈した――だと!?」
深夜であるにも関わらず、ルイフォンの大音声のテノールが響き渡った。
ルイフォンは『現場での判断は、リュイセンに一任する』と宣言していた。
だから、リュイセンには独断が許されていたわけだが、律儀な兄貴分は、事前に『予定を変更して、〈蝿〉を血族として裁きたい。頼む』と、電話越しに頭を下げてきた。
それを聞いたとき、ルイフォンの心は踊った。
まさに『鷹刀の後継者』の在るべき姿だと思った。
感服に、全身が震えた。兄貴分が誇らしかった。
たとえ深手を負っていても、彼の勝利を信じ、彼の行動を認めたい。そして、為すべきことを為し遂げた暁の、彼の勇姿を見てみたい……。
しかし――だ。
あの庭園には、最愛のメイシアが囚われている。
幼いファンルゥも待っている。
リュイセンの双肩には、彼女たちの命が懸かっているのだ。
――リュイセンを止めるべきだ。
そう判断した。
そのとき、回線を通じて繋がっていたメイシアが言ったのだ。
『私のことを心配しているのなら、大丈夫。私には『セレイエさんの記憶』という武器がある。自分自身とファンルゥちゃんは、必ず守る。私は、何があっても絶対に、この庭園から出てみせる』
だから、リュイセンを『鷹刀の後継者』として、送り出そう……!
戦乙女の声が、背中を押した。
ルイフォンは猫の目を光らせ、好戦的に口の端を上げた。
そして、真に伝えたいと望む言葉を、思うがままに兄貴分に告げた。
「リュイセン。俺は、お前に一任すると言った。男に二言はない。お前の思うようにやってくれ。――あとのことは、俺とメイシアに任せろ」
――故に。
リュイセンは満身創痍ながら、辛くも勝ちを収めるのだ――と、ルイフォンは信じていた。
それが……。
「〈蝿〉が、無血で刀を引いた?」
〈蝿〉はリュイセンの怪我に気づいており、自分に勝機があると知っていた。なのに、自ら戦いを放棄して、リュイセンの配下に入ると告げたという。
それが本当なら、リュイセンは不可能を可能にしたと言っていい。大手柄だ。
しかし、相手は、あの〈蝿〉だ。
散々、詭弁を弄され、何度も辛酸を嘗めさせられた怨敵だ。
しかも〈蝿〉は、リュイセンに屈したところで待っているのは『死』だと理解しているというのだ。あれほど『生』に固執していた奴が……あり得ないだろう。
兄貴分の偉業を素直に受け入れられない自分に嫌気が差すが、〈蝿〉の言葉を鵜呑みにするには、これまでの怨恨が深すぎた。
ルイフォンの内部で、猜疑心が広がっていく。
――これからどうすべきか? 予定通りに、〈蝿〉を屋敷まで連れてくるのでよいのか?
彼の意識が、異次元へと飛び立とうとしたときだった。
「ほぉ……、リュイセンの奴、やるじゃねぇか」
妙に甲高く耳障りな声が、ルイフォンの思考を遮った。つい先ほどまで、間抜け面で呆けていたシュアンである。
リュイセンとは今ひとつの仲である彼が、称賛を上げた。
意外に思ったルイフォンが瞳を巡らせれば、皮肉げに口角を吊り上げたシュアンの顔が映り込む。その凶相からは、彼が笑っているのか否かの判別はつきかねる。
シュアンは、傍らのミンウェイを顎でしゃくった。
「ミンウェイ。リュイセンに、なんか言ってやれよ」
「え……? あ……! ええ!」
彼と同じく放心していた彼女は、はっと我に返り、送話口に飛びつく。それを尻目にシュアンはふらりと席を立ち、こちらへと近づいてきた。
ルイフォンの胡乱な視線もなんのその、当然のように隣に座る。無遠慮に腰を下ろした振動でソファーの座面が揺れ、ルイフォンは鼻に皺を寄せたが、気にするようなシュアンではない。
「〈猫〉の活躍が、すっかり霞んじまったな」
「シュアン?」
「リュイセンの野郎、〈猫〉のお膳立てに面目なさげな様子だったが、もはや完全に奴の独壇場だ」
「……別に、いいじゃねぇかよ」
ルイフォン自身、現状を疑問に思い、リュイセンの快挙を諸手を上げて喜べないでいるくせに、シュアンに否定的な口調で言われると無性に腹が立った。猫の目が無意識のうちに険を帯び、シュアンを睨みつける。
「おおっと。俺は別に、リュイセンを悪く言っているわけじゃない」
シュアンは大仰な仕草で、おどけたように肩をすくめた。
「むしろ、尊敬に値すると思っているさ。この事態に至って、命懸けで真正面から〈蝿〉に対峙するなんざ、狂気の沙汰だ。――凶賊の中には、そういう輩がいるってのは知ってはいたが、今どき希少価値だろう?」
凶賊の担当の警察隊員として、もっともらしい発言をしたつもりのようだが、胡散臭い笑みで讃えられても、ちっとも信憑性がない。
「じゃあ、なんだよ」
ルイフォンが口を尖らせると、シュアンは、ちらりとミンウェイの様子を窺った。
彼女は、瞳の端に涙を光らせながら、感極まった様子でリュイセンに祝福を捧げていた。それを確認すると、シュアンは、今までとは違う、一段、低い声をルイフォンの耳元に落とす。
「俺が気にしているのは、〈蝿〉だ。リュイセンの人の良さにつけ込んでいるんじゃねぇか」
シュアンの目線は、ミンウェイに向けられたまま。だから、密かな囁きは、興奮を帯びた華やかな美声の裏側に忍ぶよう――。
事実、その言葉は、満面の笑みを浮かべているミンウェイに水を差さないよう、そして、電話口の向こうのリュイセンや〈蝿〉に気取られぬよう、配慮されたものだった。
「〈猫〉、あんた、この状況をどう読む?」
「どう、って……」
「〈蝿〉は、リュイセンが刀を止めることを見抜いていたんじゃねぇか?」
「!」
兄貴分の手柄に瑕をつけたくなくて、ルイフォンが打ち消そうとしていた疑惑を、シュアンはあっさり口にした。
そう――。
いくら本質を見抜く天性の野生の勘を持つリュイセンでも、今回ばかりは騙されているのではないかと……心のどこかで邪推していた。
リュイセンは〈蝿〉を生かしたまま屋敷に連れてくるようにと、ミンウェイに頼まれていた。だから、殺気が欠けていたことを〈蝿〉に看破されていたのではないか。それで、〈蝿〉は降伏したように見せかけたのではないか――と。
「現状は『危険』じゃねえのか? リュイセンは……その、大丈夫か?」
シュアンにしては珍しく遠慮がちに、しかし、畳み掛けるように告げられた。ルイフォンに作戦を任せた以上、表立って余計な口出しはしないが、予定の変更を視野にいれるべきだと、暗に言っているのだ。
「……っ」
ルイフォンは奥歯を噛み締める。
そのとき。
不意に、ルイフォンの体が傾いだ。彼の隣――シュアンが座っているのと反対側のソファーの座面が沈んだのだ。
驚いて体を返せば、涼やかな微笑を浮かべたエルファンが優雅に足を組んでいる。
「私の目の前で密談とは、たいした輩だな」
「あ……、いや」
密談というわけではない、と言いかけたルイフォンを遮り、シュアンが「そりゃ、仕方ないと思ってくださいよ」と、口の端を上げる。
「〈猫〉とは違って、〈蝿〉のオリジナルを知っている鷹刀の『重鎮』の方々は、〈蝿〉に肩入れしがちですからね。ここまで来て下手を打つのは、ご勘弁願いたい、ってだけです」
「そうだな。緋扇、お前にとって、ヘイシャオの〈影〉は、恩義ある先輩の仇だ。疑うのも無理はなかろう」
エルファンは静かに肯定し、溜め息を落とした。
「だが、あの〈影〉が、ヘイシャオと同じ思考を持つのなら、裁きの手を待っているはずだ。あいつが……私に求めたようにな」
普段は感情を見せない次期総帥の氷の眼差しに、さざ波が立った。ルイフォンは「エルファン……」と呟いたまま、声を失う。
「私は、また、あいつを……、……いや。なんでもない」
エルファンがそう言って、身を翻そうとしたときだった。
執務室のスピーカーから、ひときわ力強いリュイセンの声が流れた。
『ミンウェイ。すっかり段取りが変わっちまったが、ヘイシャオ――〈蝿〉との話の続きを頼む。――今、電話を替わる』
「あ……! そうね。そうだったわね」
わずかに緊張を帯びた、けれど、弾んだミンウェイの返事。
ルイフォンの心臓が、どきりと跳ねた。
〈蝿〉の真意を読み解けていない状態で、話を進めてよいのだろうか。〈蝿〉を屋敷に連れてくるということは、狭い車の中で、〈蝿〉とメイシアが同席することになる。そこに問題はないのだろうか。
しかし、自分の本能的な不安を優先してよいものかとルイフォンは一瞬、迷い……、結果として、彼が制止をかけるよりも先に、勢い込んだミンウェイが口を開いた。
「未来のために。――私は、お父様の記憶を持つ『あなた』にお会いしたいんです。だから、鷹刀の屋敷まで来てください」
祈るように。
ミンウェイの唇が願いを紡ぐ。
波打つ黒髪をなびかせ、遥かな庭園をまっすぐに望む。
優しい草の香と、鋭い眼差しを併せ持つ彼女を前に、ルイフォンは、はっと胸を衝かれた。
「シュアン」
小声で隣に囁く。
「〈蝿〉が何を考えているのかは分からねぇけど、ミンウェイを奴に会わせてやらなきゃ駄目だろ。そうじゃないと、ミンウェイは一生、後悔する。……お前が言ってくれたことじゃねぇか」
正確には、シュアンに明確な発言はなかったかもしれない。けれど、今までの彼の行動からすれば、言ったも同然だ。
「!」
シュアンの瞳が見開かれたのは刹那のこと。彼はすぐに、いつもの皮肉げな三白眼に戻り、ぼさぼさ頭を乱暴に掻いた。
「……そうだな。……すまん」
「いや、俺も〈蝿〉は危険だと思っている。だから、俺のすべきことは、〈蝿〉に二心がある可能性を踏まえた上での、作戦の遂行だ」
〈蝿〉が何を仕掛けてきても対処できるよう先を読み、あの館にいる仲間を全員、無事に脱出させる。そして、ミンウェイと〈蝿〉の対面を果たす――!
ルイフォンとシュアンは好戦的な笑みを交わし、それから、同時にミンウェイへと視線を移した。