残酷な描写あり
1.月影を屠る朝の始まりを-3
月影が支配する薄闇の部屋に、リュイセンの叫びが木霊した。
『ヘイシャオ、刀を取れ』
あのころのエルファンに、そっくりな顔で――。
あのころのエルファンと、そっくりな声で――。
『お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!』
「――!」
喉元に喰らいついてきた猛き狼は、決して許さぬと告げた。
だのに同時に、不可解な手を差し伸べてくる。
還ってこい。
〈蝿〉の魂が、震えた。
その瞬間の感情は、喜怒哀楽のどれでもなく。けれど、すべてでもあり……。
抗うことのできない郷愁が襲いかかる。懐かしい思い出が否応なく心を駆け巡る。
大切な日々。
大切な人たち。
――否、これは『ヘイシャオ』の記憶だ。
〈蝿〉は『〈蝿〉』だ。『そこ』は彼の還る場所ではない。
流されそうになる意識を必死に繋ぎ止め、〈蝿〉は冷静さを取り戻す。
彼の魂がむき出しになったのは、刹那のこと。それでも、あまりにも大きな心の振動は、おそらく顔に出てしまったに違いない。だから彼は、慌てて眉間に皺を寄せる。
そして――。
「馬鹿馬鹿しい」
望郷の思いを断ち切るように吐き捨てた。
「あなたの言っていることは、自己満足にすぎません。身勝手な論理ですよ」
「……っ」
リュイセンの美貌が苦々しく歪んた。
――無論、承知している。この青臭い若造は、本気で『〈蝿〉』に手を差し伸べた。
許せないと言いながら、救いたいのだと訴えた。『鷹刀の後継者』を名乗るには、あまりにも幼く、甘い。
「正々堂々と刀で勝負? 何をふざけたことを言っているのですか。私より、あなたの技倆のほうが上であることは、何度か刃を交えた経験から明らかです。負けの見えている私が、応じるべくもないでしょう」
話にならぬと、〈蝿〉はこれ見よがしに溜め息をつき、駄目押しの言葉を重ねた。
「凶賊の流儀を掲げるまでして、自らが誇る武力で勝負したいと言うのか? 浅ましいにも、ほどがある!」
口調の変わった、険しく冷淡な声。高圧的でありながら、しかし、それは虚勢だった。
胸中の思いなど、おくびにも出さずに、〈蝿〉は思案を巡らせる。
タオロンの解毒をすると偽って、戸棚の毒を取りに行くことは可能だろうか。――却下だ。すぐに感づかれ、無防備な背中から斬りつけられるのが関の山だろう。
「……」
〈蝿〉に、有効な対抗手段は何も残されていない。もはや彼は、下がることのできぬ縁まで追い詰められている。
――私は、死ぬのか。
初めて実感を持った。
それも、いいか。
それで、いいか……。
ふらりと身を投げ出しかけ……、その瞬間に、艷やかな美声が耳に蘇る。
『ヘイシャオ、――生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
彼を叱咤する、力強い声。妖艶な色香すら漂う、抗いようもない魔性の響き。痩せ細った体から発せられているとは、とても信じられぬほどの……。
――それは『ヘイシャオ』とミンウェイの約束だ。
ならば、『自分』は……?
『あなたの〈悪魔〉としての罪は、私がすべて持って逝く。だから、あなたは〈悪魔〉をやめて鷹刀に戻るの』
「どうした?」
急に黙り込んだ〈蝿〉を不審に思ったのだろう。様子を窺うように、リュイセンが一歩、近づいた。
「!?」
そのとき、〈蝿〉は、リュイセンの足運びに違和感を覚え――、瞬時に理解した。
リュイセンは、背中に傷を負っている。
それも、かなり深い。庇うような挙動からして、激痛が走ったはずだ。
なのに、表情に変化はなかった。傷口をきつく縛り、気力で耐えているのだろう、だが、天才医師〈蝿〉の目は誤魔化せない。
反省房からの脱出の際に、多勢に無勢で、迂闊にも一撃を喰らってしまったのか。
――その怪我で、刀を持った私と勝負する……?
正気とは思えなかった。
いくらリュイセンのほうが技倆が上といっても、それは万全の体調があってのことだ。
神速を誇るリュイセンであるが、動きの素早い〈蝿〉には、いまだかつて、ひと太刀も浴びせたことがない。それでもリュイセンのほうが強いと言い切れるのは、戦闘が長期化すれば、持久力がなく、決定打となるほどの攻撃力も持たない〈蝿〉が、いずれ根負けするのが目に見えているからだ。
しかし、リュイセンが負傷しているとなれば、状況は逆転する。たとえ〈蝿〉が致命傷を与えられなくとも、勝負が長引くだけでリュイセンは自滅するだろう。
「何故……」
〈蝿〉は驚愕に顔色を変えた。わけの分からない苛立ちに、唇がわなわなと震える。
「何故、私に刀を取らせようとするのだ?」
「だから、それは、お前を鷹刀の者として、粛清するためだと――」
「深手を負ったお前に屈するほど、私は落ちぶれてなどいない!」
リュイセンの言葉を遮り、〈蝿〉は言い放つ。
「私が徒手空拳であるのなら、今のお前でも、万にひとつくらいは勝機を見いだせるやもしれん。だが、私が武器を手に取れば、その可能性も皆無! お前の負けは確定している!」
〈蝿〉の叫びに、痛みに対しては彫像のように表情を崩さなかったリュイセンが、あからさまに動揺し、うめきを漏らした。
「俺の怪我に気づいたのか。……さすが、医者だな」
舌打ちでもしそうな口調で呟くリュイセンに、〈蝿〉はすかさず言い募る。
「当たり前だ! 私の目を節穴だとでも思っていたか!?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「その体で私と刃を交えれば、私の刀がお前を捕らえるのと、傷の痛みに耐えかねたお前が膝を付くのと、どちらが早いかの問題にしかならない。――そんなことも分からぬほど、お前は愚かなのか!」
〈蝿〉は白髪混じりの髪を掻きむしり、吐き捨てた。エルファンと同じ顔でありながら、愚かなリュイセンが、無性に腹立たしかった。
無論、黙って勝負に応じていれば、苦もなくリュイセンを倒せたことは分かっている。けれど、問わずにはいられなかったのだ。
対して――。
リュイセンは微苦笑を浮かべた。
「ああ。自分でも、愚かだと思う」
清々しい顔で肯定し、しかし、間髪を容れずに「けど――」と続ける。
「俺は勝つ」
双刀を宿したかのような双眸が、鋭く煌めいた。
夜闇に浮かぶ美貌は自信に満ち溢れ、威風堂々とした立ち姿に揺るぎはない。
「ルイフォンとメイシアからお前の『情報』を得て、俺はお前の中に『鷹刀』を感じた。……理屈じゃねぇ。けど、俺は、お前を血族だと思った」
「……」
「だから、俺は鷹刀の名のもとに、血族のお前を裁くと決めた。――ならば、刃でお前を屈服させる必要があり、負けることは許されない」
「は……!?」
〈蝿〉は絶句した。
滅茶苦茶だ。『勝つ』と宣言しようが、『負けることは許されない』と自分を鼓舞しようが、無理なものは無理だ。
しかし、リュイセンは一段と強く、そして深く、鷹刀一族の直系を具現化したかのような姿と声で告げる。
「『鷹刀の後継者』であることを選んだ俺には、負傷などに関係なく、不動の強さを示す義務がある。それが俺の、鷹刀を受け継ぐ者としての矜持だ」
リュイセンは口角を上げ、不敵に笑った。その根拠なき自尊に〈蝿〉は正体不明の焦りを覚える。
「お前の主張は、志さえあれば、すべてが叶うと信じる、子供のたわごとだ!」
「なんとでも言えよ。俺は、やるべきことをやる。為すべきことは為す」
打てば響くように返ってくる、心地の良い低音。
「一族を背負うと決めたからには、俺は不可能だって可能にする。――そうでなければ、誰も俺について来たいと思わないだろう?」
「なっ……」
「一度、鷹刀を裏切った俺が、再び戻ろうとしているんだ。生半可な覚悟じゃねぇんだよ。――だから俺は、鷹刀の後継者の名に恥じない、誰もが納得し、誰もの期待を超える人間になる」
「……」
「お前のことは、ルイフォンが指示したように寝込みを襲うことができなくとも、怪我人の俺が毒の香炉を踏み潰し、タオロンの無言の一刀で斬り捨てることもできた。確実を取るなら、そうすべきだった。……でも、それじゃあ、駄目なんだ」
リュイセンはそこで大きく一歩、踏み出した。
「俺が為すべきは『完璧な裁き』だ」
薄闇の中で、絹布の衣が優雅になびき、滑らかに輝く。
光をまとう雄姿は、あたかも王者の如し――。
事実、見慣れぬその装いは、王の衣服なのであろう。怪我のため、メイシアの与えた部屋に残されていた服に着替えたのだ。けれど、まるでリュイセンのために誂えたかのように、しっくりと馴染んでいる。
気高き狼は月に誓う。
「俺は一族に対して、強く、高潔でありたい。だから、お前のことも、血族と認めたからには、礼節をもって裁きを与える。――それが、俺の目指す『鷹刀の後継者』の在り方だ」
惹き込まれるようなリュイセンの声に、〈蝿〉は――……。
……瞠目した。
「後継者の裁きに……、礼節……?」
穴が開くほどに、リュイセンの顔を見つめる。
そして、気づく。
「……そうか」
時代が変わったのだ。
かつての鷹刀一族は〈七つの大罪〉の顔色を窺い、多くの血族の犠牲のもとに総帥とその一派のみが栄華を誇る、捕食者と被捕食者にはっきりと分かれた組織だった。
しかし、今は違う。
〈七つの大罪〉とは縁を切り、すべての人間と義理を尊む、誇り高き一族なのだ。
……虚を衝かれた。
リュイセンが語るのは、『ヘイシャオ』の知らない世界。
『ヘイシャオ』が一族を抜けたあとに築かれた、新しい鷹刀一族……。
「…………」
〈蝿〉は小さく息を吐き、それから喉の奥をくつくつと鳴らす。
笑いがこみ上げてきた。ちっとも可笑しくなどないのに、喉から、腹から、あふれてくるものが止まらなかった。
「これが、お義父さんの掲げた『理想』か……」
〈蝿〉は天を仰ぐ。
遥かな次元にたどり着いたイーレオに、敬服と称賛を捧ぐ。
「ヘイシャオ……?」
急に笑い出した〈蝿〉に、リュイセンは大真面目な顔で眉を曇らせていた。
エルファンとそっくりな姿形でありながら、まるで違う彼の息子に〈蝿〉は口元を緩め、微笑を漏らす。
「私に、名前などないよ」
突っぱねるような言葉でありながら、柔らかな語尾だった。
「私は、過去の亡霊だ。無論、鷹刀の血族でもない」
振り払うように首を振ると、白髪混じりの髪が揺れた。砕けた月影の欠片が如き光が、音もなく散っていく。
「……」
リュイセンは途方に暮れたように溜め息をついた。
彼はしばらく無言で顔をしかめていたが、やがて静かに口を開く。
「ともかく。刀を取れ。――お前は、枕元に刀を隠しているだろう?」
「何故、それを……?」
リュイセンの指摘は、的中していた。
目を見張る〈蝿〉に、猛き狼は長い裾を舞わせながら、更に一歩、詰め寄る。
「鷹刀の人間なら、そうするからだ」
「――っ!」
彼我の間隔が近づく――。
……距離が、……魂が。
「言ったろ。お前は鷹刀の血族だって」
リュイセンが笑う。
強く高潔で、愚かしいほどの優しさを持つ、一族の未来を担う――覇王。
「…………」
〈蝿〉は黙って踵を返した。
敵対している相手に背を見せることは『死』を意味する。けれど、〈蝿〉の足取りに迷いはなく、リュイセンもまた身じろぎひとつしない。
そして〈蝿〉は、静謐な面持ちで、枕元に隠した刀を取り出した。
体を鍛えるよりも、医師としての技能を高めることを選んだ彼にふさわしい、やや重量の軽い、細身の愛刀。
手に馴染む心地の良い感触に、知れず、安堵のような息を吐き、〈蝿〉は元の位置へと戻る。
刀を手に対峙した〈蝿〉に、リュイセンは満足そうに頷いた。
「ヘイシャオ、勝負だ」
鋭い声が響き、双刀が抜き放たれた。闇の静寂を斬り裂き、リュイセンの両手に鮮烈な光が宿る。
対する〈蝿〉も、リュイセンに勝るとも劣らぬ速さで、鞘走りの音を響かせた。
どちらから先に、ということはなかった。
ふたりは、互いに自分とそっくりな、けれど、過去の――あるいは未来の自分を映したかのような姿の相手を瞳に灼きつけ、同じ刹那に銀光を閃かせた。
〈蝿〉は床を蹴り、ふわりと軽く跳躍する。
その次の瞬間には、まるで時空を飛び越えたかのように、リュイセンの間合いへと一気に迫っていた。
一方のリュイセンは、左右の腕の動きを絶妙にずらしながら、円を描くように刀を旋回させる。
〈蝿〉の刃を受ける一の太刀と、〈蝿〉を斬りつける二の太刀。
双つの刀が迎え討つ。
〈蝿〉の細身の愛刀が、月影を斬りつけたかのような眩しい光をまとい、大きく振りかぶられた。
〈蝿〉の凶刃が、リュイセンの双刀の片割れと火花を散らす――!
……と、思われた瞬間のことだった。
〈蝿〉の手首が、くるりと返された。
リュイセンに襲いかからんと勢いに乗っていたはずの刀が、大きく後ろへと引かれる。
「ヘイシャオ!?」
驚愕の叫びと共に、リュイセンの一の太刀が〈蝿〉の喉を、二の太刀が〈蝿〉の腹を、それぞれ掻っ斬らんばかりのところで、――ぴたりと静止した。
――――…………。
先に口を開いたのは、〈蝿〉だった。
「どうして、刀を止めた?」
月明かりに照らし出されたのは、リュイセンに向けられた、壮絶な……笑顔。
衝撃の事態に、呆然と〈蝿〉の顔を凝視していたリュイセンは、はっと弾かれたように正気に戻り、眦を吊り上げた。
「お前こそ、どうして刀を引いた!?」
「質問に質問で答えるのは、礼儀がなっていないぞ」
「あ……。いや、しかし、これは!」
「私のことは生け捕りにして、鷹刀の屋敷に連行するように、とでも命じられていたか」
実に無粋だ、と言わんばかりの口ぶりで〈蝿〉が溜め息をつくと、リュイセンが気まずげな顔で首肯した。
「まぁ、仕方ない」
〈蝿〉はそう漏らし、かちりと鍔鳴りの音を立てて、愛刀を鞘に収める。
そのまま流れるような所作で、リュイセンに向かって優雅に一礼すると、その場にひざまずいた。
「お前に刀を預ける」
愛刀を高く捧げ持ち、柔らかに告げる。
「お前はどうしても、私を血族と認めて譲らないのであろう? ならば、そこは私が折れよう。――私は『お前の作る鷹刀』の一員となろう」
過去の遺物である〈蝿〉は、未来の覇王に魂を貫かれた。
リュイセンの作る世界を望むならば、彼を殺してはならない。
ならば、潔く敗北を認めるのみだ。
そして、託す――。
「お前の配下に入ったからには、お前の裁きを受けよう」
リュイセンは呆けたように口を開けたまま、微動だにしなかった。おそらく現状に頭がついていかないのであろう。
〈蝿〉は、くすりと苦笑する。
「未来の総帥、少しは賢くなれ」
「あ、ああ……」
いまだ困惑の中にありながらも、リュイセンは促されるように頷き、神妙な顔で刀を受け取った。
しばらくの間、リュイセンは〈蝿〉の愛刀を無言で見つめていたが、やがて、ふと気づいたかのように呟く。
「この鍔飾りの花が『ベラドンナ』なのか」
「!?」
「ルイフォンが教えてくれた。ルイフォンは父上から聞いたらしい。……ヘイシャオは、妻のミンウェイのためには蝶の鍔飾りを、『娘』のミンウェイのためには花の――ベラドンナの鍔飾りを使ったのだ、と」
「エルファンの奴……」
〈蝿〉は瞳を瞬かせた。
それから視線を落とし、吐息のような声を漏らす。
「ミンウェイ……か……」
言葉に言い表せない思いが胸をよぎり、〈蝿〉の脳裏に一葉の写真が浮かんだ。
鷹刀セレイエの〈影〉であった、〈天使〉のホンシュアに見せられた写真。華やかに成長した『娘』のミンウェイの……。
「リュイセン。〈ベラドンナ〉――ミンウェイは……、……。……ああ、いや、なんでもない」
今更、彼女の何を訊こうとしたのだろう。
〈蝿〉は自嘲し、頭を振る。
床に膝を付いたままの姿勢でうつむいた〈蝿〉に、リュイセンの静かな声が落とされた。
「ヘイシャオ。お前に与えるものは『死』だ。それは絶対だ。そうでなければ道理が通らない。――だが、その前に……」
話の途中のようであるのに、〈蝿〉の頭上で、リュイセンがごそごそと衣擦れの音をさせた。不審に思って顔を上げると、携帯端末を渡された。
そして――。
『……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために』
流れてきたのは、艷やかな美声。
妖艶な色香すら漂う、落ち着いた魅惑の響き。
少女だった『娘』とは違う。
懐かしく愛しい女と同じ音律でありながら、けれど、彼女にはなかった遥かな未来を望む音色……。
「ミン……ウェイ……」
初めは震えていた指先が白くなるほどに、〈蝿〉は携帯端末を強く握りしめた。
『ヘイシャオ、刀を取れ』
あのころのエルファンに、そっくりな顔で――。
あのころのエルファンと、そっくりな声で――。
『お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!』
「――!」
喉元に喰らいついてきた猛き狼は、決して許さぬと告げた。
だのに同時に、不可解な手を差し伸べてくる。
還ってこい。
〈蝿〉の魂が、震えた。
その瞬間の感情は、喜怒哀楽のどれでもなく。けれど、すべてでもあり……。
抗うことのできない郷愁が襲いかかる。懐かしい思い出が否応なく心を駆け巡る。
大切な日々。
大切な人たち。
――否、これは『ヘイシャオ』の記憶だ。
〈蝿〉は『〈蝿〉』だ。『そこ』は彼の還る場所ではない。
流されそうになる意識を必死に繋ぎ止め、〈蝿〉は冷静さを取り戻す。
彼の魂がむき出しになったのは、刹那のこと。それでも、あまりにも大きな心の振動は、おそらく顔に出てしまったに違いない。だから彼は、慌てて眉間に皺を寄せる。
そして――。
「馬鹿馬鹿しい」
望郷の思いを断ち切るように吐き捨てた。
「あなたの言っていることは、自己満足にすぎません。身勝手な論理ですよ」
「……っ」
リュイセンの美貌が苦々しく歪んた。
――無論、承知している。この青臭い若造は、本気で『〈蝿〉』に手を差し伸べた。
許せないと言いながら、救いたいのだと訴えた。『鷹刀の後継者』を名乗るには、あまりにも幼く、甘い。
「正々堂々と刀で勝負? 何をふざけたことを言っているのですか。私より、あなたの技倆のほうが上であることは、何度か刃を交えた経験から明らかです。負けの見えている私が、応じるべくもないでしょう」
話にならぬと、〈蝿〉はこれ見よがしに溜め息をつき、駄目押しの言葉を重ねた。
「凶賊の流儀を掲げるまでして、自らが誇る武力で勝負したいと言うのか? 浅ましいにも、ほどがある!」
口調の変わった、険しく冷淡な声。高圧的でありながら、しかし、それは虚勢だった。
胸中の思いなど、おくびにも出さずに、〈蝿〉は思案を巡らせる。
タオロンの解毒をすると偽って、戸棚の毒を取りに行くことは可能だろうか。――却下だ。すぐに感づかれ、無防備な背中から斬りつけられるのが関の山だろう。
「……」
〈蝿〉に、有効な対抗手段は何も残されていない。もはや彼は、下がることのできぬ縁まで追い詰められている。
――私は、死ぬのか。
初めて実感を持った。
それも、いいか。
それで、いいか……。
ふらりと身を投げ出しかけ……、その瞬間に、艷やかな美声が耳に蘇る。
『ヘイシャオ、――生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
彼を叱咤する、力強い声。妖艶な色香すら漂う、抗いようもない魔性の響き。痩せ細った体から発せられているとは、とても信じられぬほどの……。
――それは『ヘイシャオ』とミンウェイの約束だ。
ならば、『自分』は……?
『あなたの〈悪魔〉としての罪は、私がすべて持って逝く。だから、あなたは〈悪魔〉をやめて鷹刀に戻るの』
「どうした?」
急に黙り込んだ〈蝿〉を不審に思ったのだろう。様子を窺うように、リュイセンが一歩、近づいた。
「!?」
そのとき、〈蝿〉は、リュイセンの足運びに違和感を覚え――、瞬時に理解した。
リュイセンは、背中に傷を負っている。
それも、かなり深い。庇うような挙動からして、激痛が走ったはずだ。
なのに、表情に変化はなかった。傷口をきつく縛り、気力で耐えているのだろう、だが、天才医師〈蝿〉の目は誤魔化せない。
反省房からの脱出の際に、多勢に無勢で、迂闊にも一撃を喰らってしまったのか。
――その怪我で、刀を持った私と勝負する……?
正気とは思えなかった。
いくらリュイセンのほうが技倆が上といっても、それは万全の体調があってのことだ。
神速を誇るリュイセンであるが、動きの素早い〈蝿〉には、いまだかつて、ひと太刀も浴びせたことがない。それでもリュイセンのほうが強いと言い切れるのは、戦闘が長期化すれば、持久力がなく、決定打となるほどの攻撃力も持たない〈蝿〉が、いずれ根負けするのが目に見えているからだ。
しかし、リュイセンが負傷しているとなれば、状況は逆転する。たとえ〈蝿〉が致命傷を与えられなくとも、勝負が長引くだけでリュイセンは自滅するだろう。
「何故……」
〈蝿〉は驚愕に顔色を変えた。わけの分からない苛立ちに、唇がわなわなと震える。
「何故、私に刀を取らせようとするのだ?」
「だから、それは、お前を鷹刀の者として、粛清するためだと――」
「深手を負ったお前に屈するほど、私は落ちぶれてなどいない!」
リュイセンの言葉を遮り、〈蝿〉は言い放つ。
「私が徒手空拳であるのなら、今のお前でも、万にひとつくらいは勝機を見いだせるやもしれん。だが、私が武器を手に取れば、その可能性も皆無! お前の負けは確定している!」
〈蝿〉の叫びに、痛みに対しては彫像のように表情を崩さなかったリュイセンが、あからさまに動揺し、うめきを漏らした。
「俺の怪我に気づいたのか。……さすが、医者だな」
舌打ちでもしそうな口調で呟くリュイセンに、〈蝿〉はすかさず言い募る。
「当たり前だ! 私の目を節穴だとでも思っていたか!?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「その体で私と刃を交えれば、私の刀がお前を捕らえるのと、傷の痛みに耐えかねたお前が膝を付くのと、どちらが早いかの問題にしかならない。――そんなことも分からぬほど、お前は愚かなのか!」
〈蝿〉は白髪混じりの髪を掻きむしり、吐き捨てた。エルファンと同じ顔でありながら、愚かなリュイセンが、無性に腹立たしかった。
無論、黙って勝負に応じていれば、苦もなくリュイセンを倒せたことは分かっている。けれど、問わずにはいられなかったのだ。
対して――。
リュイセンは微苦笑を浮かべた。
「ああ。自分でも、愚かだと思う」
清々しい顔で肯定し、しかし、間髪を容れずに「けど――」と続ける。
「俺は勝つ」
双刀を宿したかのような双眸が、鋭く煌めいた。
夜闇に浮かぶ美貌は自信に満ち溢れ、威風堂々とした立ち姿に揺るぎはない。
「ルイフォンとメイシアからお前の『情報』を得て、俺はお前の中に『鷹刀』を感じた。……理屈じゃねぇ。けど、俺は、お前を血族だと思った」
「……」
「だから、俺は鷹刀の名のもとに、血族のお前を裁くと決めた。――ならば、刃でお前を屈服させる必要があり、負けることは許されない」
「は……!?」
〈蝿〉は絶句した。
滅茶苦茶だ。『勝つ』と宣言しようが、『負けることは許されない』と自分を鼓舞しようが、無理なものは無理だ。
しかし、リュイセンは一段と強く、そして深く、鷹刀一族の直系を具現化したかのような姿と声で告げる。
「『鷹刀の後継者』であることを選んだ俺には、負傷などに関係なく、不動の強さを示す義務がある。それが俺の、鷹刀を受け継ぐ者としての矜持だ」
リュイセンは口角を上げ、不敵に笑った。その根拠なき自尊に〈蝿〉は正体不明の焦りを覚える。
「お前の主張は、志さえあれば、すべてが叶うと信じる、子供のたわごとだ!」
「なんとでも言えよ。俺は、やるべきことをやる。為すべきことは為す」
打てば響くように返ってくる、心地の良い低音。
「一族を背負うと決めたからには、俺は不可能だって可能にする。――そうでなければ、誰も俺について来たいと思わないだろう?」
「なっ……」
「一度、鷹刀を裏切った俺が、再び戻ろうとしているんだ。生半可な覚悟じゃねぇんだよ。――だから俺は、鷹刀の後継者の名に恥じない、誰もが納得し、誰もの期待を超える人間になる」
「……」
「お前のことは、ルイフォンが指示したように寝込みを襲うことができなくとも、怪我人の俺が毒の香炉を踏み潰し、タオロンの無言の一刀で斬り捨てることもできた。確実を取るなら、そうすべきだった。……でも、それじゃあ、駄目なんだ」
リュイセンはそこで大きく一歩、踏み出した。
「俺が為すべきは『完璧な裁き』だ」
薄闇の中で、絹布の衣が優雅になびき、滑らかに輝く。
光をまとう雄姿は、あたかも王者の如し――。
事実、見慣れぬその装いは、王の衣服なのであろう。怪我のため、メイシアの与えた部屋に残されていた服に着替えたのだ。けれど、まるでリュイセンのために誂えたかのように、しっくりと馴染んでいる。
気高き狼は月に誓う。
「俺は一族に対して、強く、高潔でありたい。だから、お前のことも、血族と認めたからには、礼節をもって裁きを与える。――それが、俺の目指す『鷹刀の後継者』の在り方だ」
惹き込まれるようなリュイセンの声に、〈蝿〉は――……。
……瞠目した。
「後継者の裁きに……、礼節……?」
穴が開くほどに、リュイセンの顔を見つめる。
そして、気づく。
「……そうか」
時代が変わったのだ。
かつての鷹刀一族は〈七つの大罪〉の顔色を窺い、多くの血族の犠牲のもとに総帥とその一派のみが栄華を誇る、捕食者と被捕食者にはっきりと分かれた組織だった。
しかし、今は違う。
〈七つの大罪〉とは縁を切り、すべての人間と義理を尊む、誇り高き一族なのだ。
……虚を衝かれた。
リュイセンが語るのは、『ヘイシャオ』の知らない世界。
『ヘイシャオ』が一族を抜けたあとに築かれた、新しい鷹刀一族……。
「…………」
〈蝿〉は小さく息を吐き、それから喉の奥をくつくつと鳴らす。
笑いがこみ上げてきた。ちっとも可笑しくなどないのに、喉から、腹から、あふれてくるものが止まらなかった。
「これが、お義父さんの掲げた『理想』か……」
〈蝿〉は天を仰ぐ。
遥かな次元にたどり着いたイーレオに、敬服と称賛を捧ぐ。
「ヘイシャオ……?」
急に笑い出した〈蝿〉に、リュイセンは大真面目な顔で眉を曇らせていた。
エルファンとそっくりな姿形でありながら、まるで違う彼の息子に〈蝿〉は口元を緩め、微笑を漏らす。
「私に、名前などないよ」
突っぱねるような言葉でありながら、柔らかな語尾だった。
「私は、過去の亡霊だ。無論、鷹刀の血族でもない」
振り払うように首を振ると、白髪混じりの髪が揺れた。砕けた月影の欠片が如き光が、音もなく散っていく。
「……」
リュイセンは途方に暮れたように溜め息をついた。
彼はしばらく無言で顔をしかめていたが、やがて静かに口を開く。
「ともかく。刀を取れ。――お前は、枕元に刀を隠しているだろう?」
「何故、それを……?」
リュイセンの指摘は、的中していた。
目を見張る〈蝿〉に、猛き狼は長い裾を舞わせながら、更に一歩、詰め寄る。
「鷹刀の人間なら、そうするからだ」
「――っ!」
彼我の間隔が近づく――。
……距離が、……魂が。
「言ったろ。お前は鷹刀の血族だって」
リュイセンが笑う。
強く高潔で、愚かしいほどの優しさを持つ、一族の未来を担う――覇王。
「…………」
〈蝿〉は黙って踵を返した。
敵対している相手に背を見せることは『死』を意味する。けれど、〈蝿〉の足取りに迷いはなく、リュイセンもまた身じろぎひとつしない。
そして〈蝿〉は、静謐な面持ちで、枕元に隠した刀を取り出した。
体を鍛えるよりも、医師としての技能を高めることを選んだ彼にふさわしい、やや重量の軽い、細身の愛刀。
手に馴染む心地の良い感触に、知れず、安堵のような息を吐き、〈蝿〉は元の位置へと戻る。
刀を手に対峙した〈蝿〉に、リュイセンは満足そうに頷いた。
「ヘイシャオ、勝負だ」
鋭い声が響き、双刀が抜き放たれた。闇の静寂を斬り裂き、リュイセンの両手に鮮烈な光が宿る。
対する〈蝿〉も、リュイセンに勝るとも劣らぬ速さで、鞘走りの音を響かせた。
どちらから先に、ということはなかった。
ふたりは、互いに自分とそっくりな、けれど、過去の――あるいは未来の自分を映したかのような姿の相手を瞳に灼きつけ、同じ刹那に銀光を閃かせた。
〈蝿〉は床を蹴り、ふわりと軽く跳躍する。
その次の瞬間には、まるで時空を飛び越えたかのように、リュイセンの間合いへと一気に迫っていた。
一方のリュイセンは、左右の腕の動きを絶妙にずらしながら、円を描くように刀を旋回させる。
〈蝿〉の刃を受ける一の太刀と、〈蝿〉を斬りつける二の太刀。
双つの刀が迎え討つ。
〈蝿〉の細身の愛刀が、月影を斬りつけたかのような眩しい光をまとい、大きく振りかぶられた。
〈蝿〉の凶刃が、リュイセンの双刀の片割れと火花を散らす――!
……と、思われた瞬間のことだった。
〈蝿〉の手首が、くるりと返された。
リュイセンに襲いかからんと勢いに乗っていたはずの刀が、大きく後ろへと引かれる。
「ヘイシャオ!?」
驚愕の叫びと共に、リュイセンの一の太刀が〈蝿〉の喉を、二の太刀が〈蝿〉の腹を、それぞれ掻っ斬らんばかりのところで、――ぴたりと静止した。
――――…………。
先に口を開いたのは、〈蝿〉だった。
「どうして、刀を止めた?」
月明かりに照らし出されたのは、リュイセンに向けられた、壮絶な……笑顔。
衝撃の事態に、呆然と〈蝿〉の顔を凝視していたリュイセンは、はっと弾かれたように正気に戻り、眦を吊り上げた。
「お前こそ、どうして刀を引いた!?」
「質問に質問で答えるのは、礼儀がなっていないぞ」
「あ……。いや、しかし、これは!」
「私のことは生け捕りにして、鷹刀の屋敷に連行するように、とでも命じられていたか」
実に無粋だ、と言わんばかりの口ぶりで〈蝿〉が溜め息をつくと、リュイセンが気まずげな顔で首肯した。
「まぁ、仕方ない」
〈蝿〉はそう漏らし、かちりと鍔鳴りの音を立てて、愛刀を鞘に収める。
そのまま流れるような所作で、リュイセンに向かって優雅に一礼すると、その場にひざまずいた。
「お前に刀を預ける」
愛刀を高く捧げ持ち、柔らかに告げる。
「お前はどうしても、私を血族と認めて譲らないのであろう? ならば、そこは私が折れよう。――私は『お前の作る鷹刀』の一員となろう」
過去の遺物である〈蝿〉は、未来の覇王に魂を貫かれた。
リュイセンの作る世界を望むならば、彼を殺してはならない。
ならば、潔く敗北を認めるのみだ。
そして、託す――。
「お前の配下に入ったからには、お前の裁きを受けよう」
リュイセンは呆けたように口を開けたまま、微動だにしなかった。おそらく現状に頭がついていかないのであろう。
〈蝿〉は、くすりと苦笑する。
「未来の総帥、少しは賢くなれ」
「あ、ああ……」
いまだ困惑の中にありながらも、リュイセンは促されるように頷き、神妙な顔で刀を受け取った。
しばらくの間、リュイセンは〈蝿〉の愛刀を無言で見つめていたが、やがて、ふと気づいたかのように呟く。
「この鍔飾りの花が『ベラドンナ』なのか」
「!?」
「ルイフォンが教えてくれた。ルイフォンは父上から聞いたらしい。……ヘイシャオは、妻のミンウェイのためには蝶の鍔飾りを、『娘』のミンウェイのためには花の――ベラドンナの鍔飾りを使ったのだ、と」
「エルファンの奴……」
〈蝿〉は瞳を瞬かせた。
それから視線を落とし、吐息のような声を漏らす。
「ミンウェイ……か……」
言葉に言い表せない思いが胸をよぎり、〈蝿〉の脳裏に一葉の写真が浮かんだ。
鷹刀セレイエの〈影〉であった、〈天使〉のホンシュアに見せられた写真。華やかに成長した『娘』のミンウェイの……。
「リュイセン。〈ベラドンナ〉――ミンウェイは……、……。……ああ、いや、なんでもない」
今更、彼女の何を訊こうとしたのだろう。
〈蝿〉は自嘲し、頭を振る。
床に膝を付いたままの姿勢でうつむいた〈蝿〉に、リュイセンの静かな声が落とされた。
「ヘイシャオ。お前に与えるものは『死』だ。それは絶対だ。そうでなければ道理が通らない。――だが、その前に……」
話の途中のようであるのに、〈蝿〉の頭上で、リュイセンがごそごそと衣擦れの音をさせた。不審に思って顔を上げると、携帯端末を渡された。
そして――。
『……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために』
流れてきたのは、艷やかな美声。
妖艶な色香すら漂う、落ち着いた魅惑の響き。
少女だった『娘』とは違う。
懐かしく愛しい女と同じ音律でありながら、けれど、彼女にはなかった遥かな未来を望む音色……。
「ミン……ウェイ……」
初めは震えていた指先が白くなるほどに、〈蝿〉は携帯端末を強く握りしめた。