残酷な描写あり
2.終幕への招待状-2
静まり返った、深夜の執務室にて。
皆の見守る中、落ち着き払ったミンウェイの美声が、〈蝿〉へと語りかける。
「もし、私と会ってくださるのなら、私は『あなた』が知りたがっている、『オリジナルのお父様が、自ら『死』を望んだ理由』をお教えします」
『なっ……!?』
遥かな庭園にいる〈蝿〉の姿は、遠く離れた場所にいるルイフォンからは見ることはできない。しかし、〈蝿〉が驚愕に眉を吊り上げたことは、彼が千里眼でなくとも明らかに分かった。
「『あなた』の持つ記憶が保存されてから、お父様が亡くなるまでの間に何があったのか。……私は、知っています」
『――っ!』
短く息を呑む音にスピーカーが震え、部屋の空気が波打った。
それは、〈蝿〉の感情の振動に他ならなかった。
しばらくの沈黙ののちに、〈蝿〉は『そうか……』と、静かに呟く。
『君は……、……いや、君が……、ずっと『私』のそばにいたのだね……。……ミンウェイ』
長距離を繋げた通話だからだろうか。〈蝿〉の声は、ところどころ音がひずんでいた。――先ほどのリュイセンとの会話では、明瞭に聞こえていたのではあるが……。
不鮮明な音声からでは、〈蝿〉の真意を読み取ることは難しい。少なくとも、ルイフォンには不可能だ。
しかし、ミンウェイは、〈蝿〉の微妙な言葉の綾を解したのだろう。彼女は目頭を押さえ、吐き出すように告げる。
「確かに私は、お父様のそばにいました。でも、それだけです。……子供の私は、何も言えなかった。何ひとつ、できなかった。自分の思いを伝えることも、お父様の心を理解することも。甘えることも、支えることもできなかった」
『……』
「私は、自分がお母様のクローンだったと知って、お父様が取ってきた態度に納得しました。……それから、しばらくして、気づいたんです」
『気づいた? ――何に?』
硬い声で尋ねる〈蝿〉に、ミンウェイは赤い目でふわりと笑う。
「私は、お父様が一番、辛かったころの年齢をもう越えているんだ……ってことに」
『……?』
「気づいた瞬間、目から鱗が落ちました。……私よりも『小さな』お父様は、たった『ひとり』で苦しんでいたんです。だって、私がそばにいても、お父様は『ひとり』だったから……。とても切ない……です」
ミンウェイは、そっと目元を拭い、強気の視線を閃かせた。
「今更かもしれません。しかも、『あなた』の持つ『記憶』はお父様だとしても、『あなた』はお父様ではありません。『あなた』にとってはいい迷惑。単なる私の我儘な感傷にすぎません」
波打つ黒髪から草の香を漂わせ、鮮やかな緋色の衣服で胸を張る。
うつむいてばかりだった小さな少女が、十数年の時を経て、艶やかに咲き誇る。
「それでも私は、お父様と対等な『ひとり』と『ひとり』の人間として、向き合いたい。……だから、『あなた』に会いたいんです」
回線を通じて、ミンウェイの言葉は、遠い庭園へと流れていく。
長い時すらも超えて、今は亡き人の『記憶』へと響いていく。
彼女の思いが、遥かな時空を超える……。
『君は……、強くなったね』
小さく、笑うような息遣いが聞こえた。
ミンウェイは戸惑うように瞳を瞬かせ、それから、言葉を重ねる。
「鷹刀の屋敷まで、来てくださいますか? ――その……、途中で暴れて逃げるようなことはせずに……」
『私はリュイセンに膝を折ったのだから、彼に従うよ』
「ありがとうございます……!」
〈蝿〉の返事に、ミンウェイが喜色を浮かべた。真夜中をとうに回った時間であるがために紅は薄れていたが、華やかな赤みを帯びた唇がすっと上がった。
その一方で――。
ルイフォンの顔には緊張が走った。
ミンウェイの気持ちを思うと、〈蝿〉を疑いたくはない。聞いたままが、〈蝿〉の真の姿だと思いたい。けれど、冷静に見極めることがルイフォンの役目だ。
神経を張り詰めるルイフォンとは裏腹に、〈蝿〉が軽やかな声を上げる。
『ああ、なるほど』
得心がいったとばかりに独り言ちた。
ミンウェイが「え?」と首をかしげると、それが見えていたかのように〈蝿〉は口を開く。
『まさか、私が素直に従うとは思っていなかったから、君たちは『取り引き材料』を用意しておいたというわけか。なかなか周到だ。――確かに私は、オリジナルの『死』の理由を知りたいと思っている。良いところを突いてきたな』
知的な策が〈蝿〉の好奇心を掻き立てたらしい。彼は楽しそうに喉の奥を鳴らし、今までとは違う声色で、興味深げに問う。
『こんな駆け引きを、いったい誰が思いついた?』
「メイシアです」
隠すこともなかろうと、ミンウェイは正直に答えた。
「オリジナルのお父様は『死』によって救われたと、彼女は言いました。だからといって、別人である『あなた』が、お父様の『死』の理由を知って同じように救われるかは分からないけれど、きっと意味があるはずだから、教えてあげたい。――と」
『……っ!?』
破裂するような吐息が、スピーカーで弾けた。
「メイシアにとって、『あなた』は父親の仇です。……だけど、彼女はセレイエの記憶を受け取ったがために、ただ『あなた』が憎いというだけじゃない、不幸な被害者だとも思っています。だから、少しでも『あなた』に救いが欲しい――そう言ってくれました」
『…………っ』
がたん、と。
突然、大きな音がした。
それは〈蝿〉が携帯端末を取り落した音であったのだが、遠い執務室にいるルイフォンたちには何が起きたのか分からなかった。
見えない先での出来ごとを不審に思い、一同は耳をそばだて、音を――気配を拾う。
『リュイセン、すまない』
『ヘイシャオ?』
『私は、最高に『私』らしい在り方を思いついてしまったよ』
『いきなり、どうしたんだよ?』
『私は『〈悪魔〉の〈蝿〉』として、決着をつけるべきだ。それがきっと、『お前の鷹刀』に一番、ふさわしい形だろう。――だから、私は鷹刀の屋敷には行かずに、この館に留まる。それが似合いだ』
『どういうことだ?』
リュイセンの声が警戒を帯びた。
『ケジメだ。――私は決めた』
言葉の語尾で、〈蝿〉の声音が低い嗤いを含んだ。
そして、高らかに。
魅了の響きを謳い上げる。
『最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく……、最高に『私』らしく……。この庭園で、最高の舞台を演出して魅せよう……』
床に落ちた端末が送ってくる音声は、充分な情報量を持っていなかった。
だから、リュイセンでも〈蝿〉でも、どちらでもよい、早く状況の説明をしてくれと、執務室の皆は焦燥に駆られていた。
そのとき――。
『――っ! ……ヘイ、シャオ……、何を……?』
リュイセンのくぐもった叫びが聞こえ、どさりと重たい音が響いた。
まるで、腹に一撃を受けて倒れたかのような……。
普段のリュイセンならば、不意打ちなどあり得ない。しかし、今は大怪我を負っていて……。
「〈蝿〉!」
不吉な符丁に、ルイフォンは思わずミンウェイから受話器を奪い、噛み付かんばかりに声を張り上げた。
「リュイセンに何をした!?」
『その声はルイフォンですね。お久しぶりです』
「答えろ!」
『リュイセンには少し、眠ってもらっただけです。舞台を整えるまで、邪魔をされたくなかったのでね』
「なっ……!?」
『ご安心ください。命に別状はありません。背中の傷も、医師である私が責任を持って診ておきます。ああ、タオロンの解毒もしておきましょう』
さも親切な善人のような口ぶりに、ルイフォンは激昂した。
「ふざけんな!」
もしも〈蝿〉がこの場にいたのなら、とっくに殴りかかっていた。しかし、遥かな庭園にいる相手には手を出すことができない。彼は苛立ち、歯噛みする。
しかし、〈蝿〉は何処吹く風で、淡々とした低音を静かに響かせる。
『それより……、あなたの最愛の姫君は、実に素晴らしいですね。なるほど、鷹刀セレイエが、彼女にすべてを託したわけです。……彼女に敬意を表して、私は最高の終幕をご用意いたしましょう』
「――!」
その瞬間、ルイフォンは総毛立った。
「メイシアに何をする気だっ!?」
腹の底から憎悪が噴き上がり、憤怒の炎が揺らめく。
しかし、〈蝿〉から直接的な答えはなかった。
その代わりに、彼はこう告げた。
『これから私は、この庭園の門を守っている近衛隊に連絡を入れます。『私の大事な研究を盗み、逃げようとしている私兵がいる。だから、門を封鎖し、裏切り者を外に出すな』――と』
「なっ……!」
脱出の道が閉ざされた――!?
ルイフォンの背に戦慄が走る。
まさかの展開だった。
彼の隣で、ミンウェイが「どうして!?」と悲鳴のような声を上げた。
それが聞こえたのだろう。〈蝿〉は、ルイフォンに対するのとは別人のように柔らかな口調で、彼女に呼びかける。
『ミンウェイ、驚かせてすまないね』
「私に会いたくないのなら、それでも構いません! でも、リュイセンやメイシアは……!」
『早とちりしないでほしい。私に会いたいと言ってくれた君に、私も会いたいと思っている。是非、君の口から、オリジナルのヘイシャオの『死』について教えてほしい』
「それなら、何故!」
『〈悪魔〉としての決着は、〈悪魔〉の根城である、この庭園こそがふさわしい。……だから、ミンウェイ。『この館で』会おう』
「……え?」
『夜が明けたら、君のほうから、この庭園に来てほしい』
「……っ!?」
『君を招待する。近衛隊には、私の客人が来たら門を開くように言っておこう』
「…………!」
ミンウェイは困惑に柳眉を寄せ、すがるように視線をさまよわせた。
当然だろう。
ルイフォンとて、この事態はまったくの予想外だ。
……どうすべきか。
彼自身のことであれば、『罠だとしても、行く』の一択だ。しかし、ミンウェイを危険に晒すとなれば、即断できない。
彼が唇を噛んだときだった。
不意に。
『ルイフォン』
――と。
〈蝿〉が彼を名指しした。
地底から響くような低い声に、猫の目が反射的にぎらりと光る。
「なんだ?」
警戒心をむき出しにした彼に、〈蝿〉がくすりと嗤う。
『あなたも、ミンウェイと共に来てください。……いえ、私としたことが、この言い方では正しく伝わりませんね。――あなたのほうが主役ですのに』
恥じ入るような物言い。けれど、どうにも演技じみていて、ルイフォンの神経が逆なでされる。
「分かりやすく言え」
彼は険しい声を返した。
しかし同時に、ミンウェイに同行できるのであれば、まったく話が変わってくると、彼の明晰な頭脳は方策を練り始める。
〈蝿〉は告げる。
『私がミンウェイに会うことは、私の楽しみにすぎません。……最高の終幕に必要なのは、ルイフォン――あなたです』
ルイフォンこそが渦中の人物であるのだと、〈蝿〉は彼を舞台に引き上げた。
『他には誰が来ても構いません。どんな武器を持ち込んでも構いません』
「――!?」
『近衛隊には『客人は、車で来る』とだけ伝え、その車はノーチェックで出入りさせてよいと申し付けておきます。私に会ったあとは、何食わぬ顔でリュイセンたちを乗せて帰るとよいでしょう』
どういうことだ――!?
〈蝿〉の意図がまるで読めない。
奴の真意は何処にある?
疑問が渦巻き、知れず握りしめた拳が、しっとりと汗ばむ。
『ルイフォン。この庭園に来たら、まずは塔にいる姫君を迎えに行ってあげてください。そして、ふたり揃って、私のもとに来てください』
「メイシアと……?」
『鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。――鷹刀セレイエが作った『〈蝿〉』として、私は、あなた方をお待ちしております』
皆の見守る中、落ち着き払ったミンウェイの美声が、〈蝿〉へと語りかける。
「もし、私と会ってくださるのなら、私は『あなた』が知りたがっている、『オリジナルのお父様が、自ら『死』を望んだ理由』をお教えします」
『なっ……!?』
遥かな庭園にいる〈蝿〉の姿は、遠く離れた場所にいるルイフォンからは見ることはできない。しかし、〈蝿〉が驚愕に眉を吊り上げたことは、彼が千里眼でなくとも明らかに分かった。
「『あなた』の持つ記憶が保存されてから、お父様が亡くなるまでの間に何があったのか。……私は、知っています」
『――っ!』
短く息を呑む音にスピーカーが震え、部屋の空気が波打った。
それは、〈蝿〉の感情の振動に他ならなかった。
しばらくの沈黙ののちに、〈蝿〉は『そうか……』と、静かに呟く。
『君は……、……いや、君が……、ずっと『私』のそばにいたのだね……。……ミンウェイ』
長距離を繋げた通話だからだろうか。〈蝿〉の声は、ところどころ音がひずんでいた。――先ほどのリュイセンとの会話では、明瞭に聞こえていたのではあるが……。
不鮮明な音声からでは、〈蝿〉の真意を読み取ることは難しい。少なくとも、ルイフォンには不可能だ。
しかし、ミンウェイは、〈蝿〉の微妙な言葉の綾を解したのだろう。彼女は目頭を押さえ、吐き出すように告げる。
「確かに私は、お父様のそばにいました。でも、それだけです。……子供の私は、何も言えなかった。何ひとつ、できなかった。自分の思いを伝えることも、お父様の心を理解することも。甘えることも、支えることもできなかった」
『……』
「私は、自分がお母様のクローンだったと知って、お父様が取ってきた態度に納得しました。……それから、しばらくして、気づいたんです」
『気づいた? ――何に?』
硬い声で尋ねる〈蝿〉に、ミンウェイは赤い目でふわりと笑う。
「私は、お父様が一番、辛かったころの年齢をもう越えているんだ……ってことに」
『……?』
「気づいた瞬間、目から鱗が落ちました。……私よりも『小さな』お父様は、たった『ひとり』で苦しんでいたんです。だって、私がそばにいても、お父様は『ひとり』だったから……。とても切ない……です」
ミンウェイは、そっと目元を拭い、強気の視線を閃かせた。
「今更かもしれません。しかも、『あなた』の持つ『記憶』はお父様だとしても、『あなた』はお父様ではありません。『あなた』にとってはいい迷惑。単なる私の我儘な感傷にすぎません」
波打つ黒髪から草の香を漂わせ、鮮やかな緋色の衣服で胸を張る。
うつむいてばかりだった小さな少女が、十数年の時を経て、艶やかに咲き誇る。
「それでも私は、お父様と対等な『ひとり』と『ひとり』の人間として、向き合いたい。……だから、『あなた』に会いたいんです」
回線を通じて、ミンウェイの言葉は、遠い庭園へと流れていく。
長い時すらも超えて、今は亡き人の『記憶』へと響いていく。
彼女の思いが、遥かな時空を超える……。
『君は……、強くなったね』
小さく、笑うような息遣いが聞こえた。
ミンウェイは戸惑うように瞳を瞬かせ、それから、言葉を重ねる。
「鷹刀の屋敷まで、来てくださいますか? ――その……、途中で暴れて逃げるようなことはせずに……」
『私はリュイセンに膝を折ったのだから、彼に従うよ』
「ありがとうございます……!」
〈蝿〉の返事に、ミンウェイが喜色を浮かべた。真夜中をとうに回った時間であるがために紅は薄れていたが、華やかな赤みを帯びた唇がすっと上がった。
その一方で――。
ルイフォンの顔には緊張が走った。
ミンウェイの気持ちを思うと、〈蝿〉を疑いたくはない。聞いたままが、〈蝿〉の真の姿だと思いたい。けれど、冷静に見極めることがルイフォンの役目だ。
神経を張り詰めるルイフォンとは裏腹に、〈蝿〉が軽やかな声を上げる。
『ああ、なるほど』
得心がいったとばかりに独り言ちた。
ミンウェイが「え?」と首をかしげると、それが見えていたかのように〈蝿〉は口を開く。
『まさか、私が素直に従うとは思っていなかったから、君たちは『取り引き材料』を用意しておいたというわけか。なかなか周到だ。――確かに私は、オリジナルの『死』の理由を知りたいと思っている。良いところを突いてきたな』
知的な策が〈蝿〉の好奇心を掻き立てたらしい。彼は楽しそうに喉の奥を鳴らし、今までとは違う声色で、興味深げに問う。
『こんな駆け引きを、いったい誰が思いついた?』
「メイシアです」
隠すこともなかろうと、ミンウェイは正直に答えた。
「オリジナルのお父様は『死』によって救われたと、彼女は言いました。だからといって、別人である『あなた』が、お父様の『死』の理由を知って同じように救われるかは分からないけれど、きっと意味があるはずだから、教えてあげたい。――と」
『……っ!?』
破裂するような吐息が、スピーカーで弾けた。
「メイシアにとって、『あなた』は父親の仇です。……だけど、彼女はセレイエの記憶を受け取ったがために、ただ『あなた』が憎いというだけじゃない、不幸な被害者だとも思っています。だから、少しでも『あなた』に救いが欲しい――そう言ってくれました」
『…………っ』
がたん、と。
突然、大きな音がした。
それは〈蝿〉が携帯端末を取り落した音であったのだが、遠い執務室にいるルイフォンたちには何が起きたのか分からなかった。
見えない先での出来ごとを不審に思い、一同は耳をそばだて、音を――気配を拾う。
『リュイセン、すまない』
『ヘイシャオ?』
『私は、最高に『私』らしい在り方を思いついてしまったよ』
『いきなり、どうしたんだよ?』
『私は『〈悪魔〉の〈蝿〉』として、決着をつけるべきだ。それがきっと、『お前の鷹刀』に一番、ふさわしい形だろう。――だから、私は鷹刀の屋敷には行かずに、この館に留まる。それが似合いだ』
『どういうことだ?』
リュイセンの声が警戒を帯びた。
『ケジメだ。――私は決めた』
言葉の語尾で、〈蝿〉の声音が低い嗤いを含んだ。
そして、高らかに。
魅了の響きを謳い上げる。
『最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく……、最高に『私』らしく……。この庭園で、最高の舞台を演出して魅せよう……』
床に落ちた端末が送ってくる音声は、充分な情報量を持っていなかった。
だから、リュイセンでも〈蝿〉でも、どちらでもよい、早く状況の説明をしてくれと、執務室の皆は焦燥に駆られていた。
そのとき――。
『――っ! ……ヘイ、シャオ……、何を……?』
リュイセンのくぐもった叫びが聞こえ、どさりと重たい音が響いた。
まるで、腹に一撃を受けて倒れたかのような……。
普段のリュイセンならば、不意打ちなどあり得ない。しかし、今は大怪我を負っていて……。
「〈蝿〉!」
不吉な符丁に、ルイフォンは思わずミンウェイから受話器を奪い、噛み付かんばかりに声を張り上げた。
「リュイセンに何をした!?」
『その声はルイフォンですね。お久しぶりです』
「答えろ!」
『リュイセンには少し、眠ってもらっただけです。舞台を整えるまで、邪魔をされたくなかったのでね』
「なっ……!?」
『ご安心ください。命に別状はありません。背中の傷も、医師である私が責任を持って診ておきます。ああ、タオロンの解毒もしておきましょう』
さも親切な善人のような口ぶりに、ルイフォンは激昂した。
「ふざけんな!」
もしも〈蝿〉がこの場にいたのなら、とっくに殴りかかっていた。しかし、遥かな庭園にいる相手には手を出すことができない。彼は苛立ち、歯噛みする。
しかし、〈蝿〉は何処吹く風で、淡々とした低音を静かに響かせる。
『それより……、あなたの最愛の姫君は、実に素晴らしいですね。なるほど、鷹刀セレイエが、彼女にすべてを託したわけです。……彼女に敬意を表して、私は最高の終幕をご用意いたしましょう』
「――!」
その瞬間、ルイフォンは総毛立った。
「メイシアに何をする気だっ!?」
腹の底から憎悪が噴き上がり、憤怒の炎が揺らめく。
しかし、〈蝿〉から直接的な答えはなかった。
その代わりに、彼はこう告げた。
『これから私は、この庭園の門を守っている近衛隊に連絡を入れます。『私の大事な研究を盗み、逃げようとしている私兵がいる。だから、門を封鎖し、裏切り者を外に出すな』――と』
「なっ……!」
脱出の道が閉ざされた――!?
ルイフォンの背に戦慄が走る。
まさかの展開だった。
彼の隣で、ミンウェイが「どうして!?」と悲鳴のような声を上げた。
それが聞こえたのだろう。〈蝿〉は、ルイフォンに対するのとは別人のように柔らかな口調で、彼女に呼びかける。
『ミンウェイ、驚かせてすまないね』
「私に会いたくないのなら、それでも構いません! でも、リュイセンやメイシアは……!」
『早とちりしないでほしい。私に会いたいと言ってくれた君に、私も会いたいと思っている。是非、君の口から、オリジナルのヘイシャオの『死』について教えてほしい』
「それなら、何故!」
『〈悪魔〉としての決着は、〈悪魔〉の根城である、この庭園こそがふさわしい。……だから、ミンウェイ。『この館で』会おう』
「……え?」
『夜が明けたら、君のほうから、この庭園に来てほしい』
「……っ!?」
『君を招待する。近衛隊には、私の客人が来たら門を開くように言っておこう』
「…………!」
ミンウェイは困惑に柳眉を寄せ、すがるように視線をさまよわせた。
当然だろう。
ルイフォンとて、この事態はまったくの予想外だ。
……どうすべきか。
彼自身のことであれば、『罠だとしても、行く』の一択だ。しかし、ミンウェイを危険に晒すとなれば、即断できない。
彼が唇を噛んだときだった。
不意に。
『ルイフォン』
――と。
〈蝿〉が彼を名指しした。
地底から響くような低い声に、猫の目が反射的にぎらりと光る。
「なんだ?」
警戒心をむき出しにした彼に、〈蝿〉がくすりと嗤う。
『あなたも、ミンウェイと共に来てください。……いえ、私としたことが、この言い方では正しく伝わりませんね。――あなたのほうが主役ですのに』
恥じ入るような物言い。けれど、どうにも演技じみていて、ルイフォンの神経が逆なでされる。
「分かりやすく言え」
彼は険しい声を返した。
しかし同時に、ミンウェイに同行できるのであれば、まったく話が変わってくると、彼の明晰な頭脳は方策を練り始める。
〈蝿〉は告げる。
『私がミンウェイに会うことは、私の楽しみにすぎません。……最高の終幕に必要なのは、ルイフォン――あなたです』
ルイフォンこそが渦中の人物であるのだと、〈蝿〉は彼を舞台に引き上げた。
『他には誰が来ても構いません。どんな武器を持ち込んでも構いません』
「――!?」
『近衛隊には『客人は、車で来る』とだけ伝え、その車はノーチェックで出入りさせてよいと申し付けておきます。私に会ったあとは、何食わぬ顔でリュイセンたちを乗せて帰るとよいでしょう』
どういうことだ――!?
〈蝿〉の意図がまるで読めない。
奴の真意は何処にある?
疑問が渦巻き、知れず握りしめた拳が、しっとりと汗ばむ。
『ルイフォン。この庭園に来たら、まずは塔にいる姫君を迎えに行ってあげてください。そして、ふたり揃って、私のもとに来てください』
「メイシアと……?」
『鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。――鷹刀セレイエが作った『〈蝿〉』として、私は、あなた方をお待ちしております』