残酷な描写あり
R-15
143 最期
この地域ではあまり降らない雨のせいで視界が悪くなっていた。それでもビスタークはまだ力尽きるわけにはいかない。もう地元の飛翔神の町は晴れていれば見える距離なのだ。夜ということもあるが眼神の町や友神の町から見えていた世界の果ての崖も今は見えない。
輝星石を握りしめ、レリアの星を見上げて気力を奮い立たせる。妻が応援している気がする。毒のためだんだん重くなっていく脚を動かし必死に歩みを進めた。反力石が無ければ途中で力尽きていただろう。本当に気力だけで進んできた。いつもなら朝早く出れば夜には飛翔神の町へ到着するが、夜に休憩小屋を素通りしたというのに丸々一日かかり、また夜になってしまった。もう、身体は限界である。
長命石を自分も持っておくべきだったかと今更ながら後悔した。この衰弱した状態で神殿前の長い階段を上りきれる自信が無かった。ソレムやニアタ、マフティロにこの破壊神の子を頼むつもりだった。神官なら神の子の存在を知っている。ましてやソレムなど神の子を育てた経験者である。我が子のように育てた子がいずれ神の世界へ帰ってしまい会えなくなるという覚悟も持っている。神殿で育てるのが一番良いはずだ。しかし、もうビスタークの身体は神殿まで持ちそうになかった。
階段から数軒手前にジーニェルの食堂がある。仕方がないが息子のフォスターを養子に貰ってくれたジーニェルとホノーラ、そして息子に託そう、そう思った。息子は破壊神神官になるはずだった妻が産んだ子だ。この神の子と縁がある。神の力は封じられているのだ。普通の子どもとして育ててもらおう。神殿で育ててもらうと神の子だと思われる可能性もある。むしろここに預けるほうが好都合かもしれない、と考えることにした。ジーニェル達にはまた負担をかけてしまうが、もう、こうするしか無い――ビスタークはそう考えて、食堂へ行くことにした。
食堂に入るには少しだけ階段を上らなければならない。震えがきている脚で転ばないように一歩ずつ確実に上ると食堂の扉をノックもせずにいきなり開けた。夜暗い中ずっと歩いてきたので店の中の明るさで目が眩む。まるで別世界のように感じ、とても眩しく感じた。店の中は外の気温と比べて暖かく、少しほっとして力が抜けていった。もう、終わるのだ。
客は都合良く誰もいなかった。そのかわり目の前のカウンター席に子どもが座っていた。ああ、息子のフォスターだ、と思った。髪の色がレリアと同じで、何とも言い様のない感情が湧いてきた。顔は妻に似ていなかったが、自分が子どもの頃はこんな姿だったのかもしれないと思った。ビスタークは右頬の痣のせいで鏡が嫌いだったので、自分の子どもの頃の顔など覚えていなかった。
カウンターの向こう側にジーニェルとホノーラがいるのも見えた。しかし一番近くにいたのがフォスターだったため、息子へ託すことにした。もう、自分の命の残り時間がない。被っていたフードを取り自分が誰なのか分かりやすくした。
息子のフォスターはビスタークを見て驚くのと同時に怖かったのだろう。表情がこわばり固まっていた。ああ、そういえば血で汚れていたのだ。子どもには怖いかもしれないな、などと思いつつ手短に必要なことを伝える。
「俺だ」
ジーニェルとホノーラに不審者ではなく自分だと教えた。二人とも驚いて寄って来ようとしていた。しかしそれを待っている余裕は無かった。
「お前がフォスターか……?」
一応確認のため名前を出したが息子の表情は強ばったまま返事をしなかった。そんなことは気にせず続けて言う。
「この子を護れ」
そう言ってルナと名付けた神の子を渡してフォスターに抱えさせた。
「俺は……もう駄目みたいだ。お前に託す」
赤ん坊を抱いたことなどなかったのだろう。息子は焦って落とさないよう腕に必死に力を入れているようだった。
「いいか、誰にも渡すなよ。外から来た奴を……誰も信じるな……」
神の子だとは言えなかった。神殿の人間でない者にこんな少しの時間で説明など出来ない。とにかく匿ってもらえればいいのだ。
フォスターはビスタークが実の父親だということをおそらく知らない。生まれてすぐ顔を合わせなくなったのだから実の親が別に存在するということ自体知らないだろう。自分を見て怯えるのも無理はない、そう思ったが気遣う言葉を出している時間の猶予はない。
「水の都で……ストロワと落ち合うことになっている……」
今後の予定を伝える。ストロワ達がここへ来る可能性もある。大神官の名前だけは伝えておかなければと思った。もうビスタークは立っていられなかった。力が抜けて膝をついた。視界がどんどんぼやけていく。身体を巡る血が少なくなっているのがわかる。それでもビスタークはフォスターから目を離さなかった。
「俺と……レリアの息子なら……それを……護る責任がある……絶対に……護れ……」
そう言うと、ビスタークは完全に力尽きて床へ倒れた。ジーニェルが大声で自分の名前を呼んでいるのが聞こえる。おそらく身体を軽く揺すっているのがジーニェルだろうと思ったが、声はとても遠くから聞こえてくるように感じた。
「ビスターク! おい! しっかりしろ! 何があったんだ!?」
「しっかりして! この赤ちゃんはどうしたの!? 貴方の子なの!? 名前はあるの?」
ジーニェルがこちらの身を案ずる声とホノーラが赤ん坊について色々言っている声が聞こえる。名前など自分が適当にでっち上げただけだから好きな名前をつければいい――そう言いたかったが、もう声を発することは出来なかった。
レリアが星になってから、自分も早く死んで妻の近くへ行きたいと思っていた。生きていても仕方がないと思っていた。ようやく願いが叶う。叶うのだが、何かが心に引っ掛かっている。
「何か嫌な予感がするの。だからお父さんたちの助けになってほしい」
「……ビスタークはすぐこっちに来ちゃダメだからね」
「私の分もあの子に親らしいことをしてあげて」
「あの子が困ってたり悩んでたりしたら心の支えになってあげて」
死にかけの脳裏にレリアの霊から言われた言葉がよぎる。妻の嫌な予感は当たった。ストロワの助けにはなったとは思うが、まだ全部達成出来ていない。破壊神の子を無事にストロワ達へ送り届けなければならない。息子のフォスターは水の都へ連れて行ってくれるだろうか。まあ今は子どもだから当分無理であろうが。
停止しかかっている脳内で考える。
――今、俺がここで死んでしまったら、後はどうなる?
――ストロワ達に引き渡さなければならないのに連れてきた神の子を誰が導くんだ?
――この赤ん坊が神の子だと知っているのはこの町では俺だけだぞ?
――もし神の子がこのまま育って神の自覚もなく大人になったらどうなる?
――神の力がどうやって封じられているのか知らんが、力が暴走することは無いのか?
これからどうなってしまうのか、放置するのもあまりに無責任ではないか。それにビスタークは他の心残りもあった。
自分を殺した神衛兵達を操って破壊神の子を狙っているのは誰なのか。
レリアの故郷を滅ぼし声を奪った犯人は誰なのか。
その二つが繋がっているということはないのか。
まだだ、まだ、やり残したことが沢山ある。息子へ自分の後始末を押し付けてはレリアに顔向け出来ない。親らしいことなど何一つしていない。
ビスタークの身体は冷たくなってしまったが、意思だけは強く残っていた。まだ、星になるわけにはいかなかった。
――俺が残って、やり遂げなければ――。
そう強く決意した。
長い夢は、そこで終わった。
輝星石を握りしめ、レリアの星を見上げて気力を奮い立たせる。妻が応援している気がする。毒のためだんだん重くなっていく脚を動かし必死に歩みを進めた。反力石が無ければ途中で力尽きていただろう。本当に気力だけで進んできた。いつもなら朝早く出れば夜には飛翔神の町へ到着するが、夜に休憩小屋を素通りしたというのに丸々一日かかり、また夜になってしまった。もう、身体は限界である。
長命石を自分も持っておくべきだったかと今更ながら後悔した。この衰弱した状態で神殿前の長い階段を上りきれる自信が無かった。ソレムやニアタ、マフティロにこの破壊神の子を頼むつもりだった。神官なら神の子の存在を知っている。ましてやソレムなど神の子を育てた経験者である。我が子のように育てた子がいずれ神の世界へ帰ってしまい会えなくなるという覚悟も持っている。神殿で育てるのが一番良いはずだ。しかし、もうビスタークの身体は神殿まで持ちそうになかった。
階段から数軒手前にジーニェルの食堂がある。仕方がないが息子のフォスターを養子に貰ってくれたジーニェルとホノーラ、そして息子に託そう、そう思った。息子は破壊神神官になるはずだった妻が産んだ子だ。この神の子と縁がある。神の力は封じられているのだ。普通の子どもとして育ててもらおう。神殿で育ててもらうと神の子だと思われる可能性もある。むしろここに預けるほうが好都合かもしれない、と考えることにした。ジーニェル達にはまた負担をかけてしまうが、もう、こうするしか無い――ビスタークはそう考えて、食堂へ行くことにした。
食堂に入るには少しだけ階段を上らなければならない。震えがきている脚で転ばないように一歩ずつ確実に上ると食堂の扉をノックもせずにいきなり開けた。夜暗い中ずっと歩いてきたので店の中の明るさで目が眩む。まるで別世界のように感じ、とても眩しく感じた。店の中は外の気温と比べて暖かく、少しほっとして力が抜けていった。もう、終わるのだ。
客は都合良く誰もいなかった。そのかわり目の前のカウンター席に子どもが座っていた。ああ、息子のフォスターだ、と思った。髪の色がレリアと同じで、何とも言い様のない感情が湧いてきた。顔は妻に似ていなかったが、自分が子どもの頃はこんな姿だったのかもしれないと思った。ビスタークは右頬の痣のせいで鏡が嫌いだったので、自分の子どもの頃の顔など覚えていなかった。
カウンターの向こう側にジーニェルとホノーラがいるのも見えた。しかし一番近くにいたのがフォスターだったため、息子へ託すことにした。もう、自分の命の残り時間がない。被っていたフードを取り自分が誰なのか分かりやすくした。
息子のフォスターはビスタークを見て驚くのと同時に怖かったのだろう。表情がこわばり固まっていた。ああ、そういえば血で汚れていたのだ。子どもには怖いかもしれないな、などと思いつつ手短に必要なことを伝える。
「俺だ」
ジーニェルとホノーラに不審者ではなく自分だと教えた。二人とも驚いて寄って来ようとしていた。しかしそれを待っている余裕は無かった。
「お前がフォスターか……?」
一応確認のため名前を出したが息子の表情は強ばったまま返事をしなかった。そんなことは気にせず続けて言う。
「この子を護れ」
そう言ってルナと名付けた神の子を渡してフォスターに抱えさせた。
「俺は……もう駄目みたいだ。お前に託す」
赤ん坊を抱いたことなどなかったのだろう。息子は焦って落とさないよう腕に必死に力を入れているようだった。
「いいか、誰にも渡すなよ。外から来た奴を……誰も信じるな……」
神の子だとは言えなかった。神殿の人間でない者にこんな少しの時間で説明など出来ない。とにかく匿ってもらえればいいのだ。
フォスターはビスタークが実の父親だということをおそらく知らない。生まれてすぐ顔を合わせなくなったのだから実の親が別に存在するということ自体知らないだろう。自分を見て怯えるのも無理はない、そう思ったが気遣う言葉を出している時間の猶予はない。
「水の都で……ストロワと落ち合うことになっている……」
今後の予定を伝える。ストロワ達がここへ来る可能性もある。大神官の名前だけは伝えておかなければと思った。もうビスタークは立っていられなかった。力が抜けて膝をついた。視界がどんどんぼやけていく。身体を巡る血が少なくなっているのがわかる。それでもビスタークはフォスターから目を離さなかった。
「俺と……レリアの息子なら……それを……護る責任がある……絶対に……護れ……」
そう言うと、ビスタークは完全に力尽きて床へ倒れた。ジーニェルが大声で自分の名前を呼んでいるのが聞こえる。おそらく身体を軽く揺すっているのがジーニェルだろうと思ったが、声はとても遠くから聞こえてくるように感じた。
「ビスターク! おい! しっかりしろ! 何があったんだ!?」
「しっかりして! この赤ちゃんはどうしたの!? 貴方の子なの!? 名前はあるの?」
ジーニェルがこちらの身を案ずる声とホノーラが赤ん坊について色々言っている声が聞こえる。名前など自分が適当にでっち上げただけだから好きな名前をつければいい――そう言いたかったが、もう声を発することは出来なかった。
レリアが星になってから、自分も早く死んで妻の近くへ行きたいと思っていた。生きていても仕方がないと思っていた。ようやく願いが叶う。叶うのだが、何かが心に引っ掛かっている。
「何か嫌な予感がするの。だからお父さんたちの助けになってほしい」
「……ビスタークはすぐこっちに来ちゃダメだからね」
「私の分もあの子に親らしいことをしてあげて」
「あの子が困ってたり悩んでたりしたら心の支えになってあげて」
死にかけの脳裏にレリアの霊から言われた言葉がよぎる。妻の嫌な予感は当たった。ストロワの助けにはなったとは思うが、まだ全部達成出来ていない。破壊神の子を無事にストロワ達へ送り届けなければならない。息子のフォスターは水の都へ連れて行ってくれるだろうか。まあ今は子どもだから当分無理であろうが。
停止しかかっている脳内で考える。
――今、俺がここで死んでしまったら、後はどうなる?
――ストロワ達に引き渡さなければならないのに連れてきた神の子を誰が導くんだ?
――この赤ん坊が神の子だと知っているのはこの町では俺だけだぞ?
――もし神の子がこのまま育って神の自覚もなく大人になったらどうなる?
――神の力がどうやって封じられているのか知らんが、力が暴走することは無いのか?
これからどうなってしまうのか、放置するのもあまりに無責任ではないか。それにビスタークは他の心残りもあった。
自分を殺した神衛兵達を操って破壊神の子を狙っているのは誰なのか。
レリアの故郷を滅ぼし声を奪った犯人は誰なのか。
その二つが繋がっているということはないのか。
まだだ、まだ、やり残したことが沢山ある。息子へ自分の後始末を押し付けてはレリアに顔向け出来ない。親らしいことなど何一つしていない。
ビスタークの身体は冷たくなってしまったが、意思だけは強く残っていた。まだ、星になるわけにはいかなかった。
――俺が残って、やり遂げなければ――。
そう強く決意した。
長い夢は、そこで終わった。