残酷な描写あり
R-15
128 遺筆
最愛の妻レリアの身体はもう体温を取り戻すことはなかった。
ビスタークはレリアの遺体の横で呆然としていた。子どもの頃のあの事件直後の状態に近かったかもしれない。周りの音が何も聞こえなかった。視界にも妻の遺体しか目に入らなかった。現実とは思えなかった。
【ちょっと寝るわね。疲れちゃったみたい】
そう手話で伝えられ、ただ眠っただけにしか見えなかった。それが最期の会話になるなど全く思っていなかった。話したいことは他にもたくさんあったはずだ。今までの感謝の気持ちすら伝えきれていない。後悔しかなかった。
ずっと妻の側に座って手を握り俯いていた。感情が追い付かず涙も出てこなかった。
「……ク。ビ……ターク。ビスターク!」
気がつくとニアタに名前を呼ばれながら揺さぶられていた。姉の目は潤んでいた。もう丸一日こうしていたらしい。ずっと無意識だった。
「ああ……悪い……」
なんとか口を動かすとニアタに抱き締められ頭を撫でられた。姉の涙が肌に触れた。大事な人を喪失した経験のある者同士、何も言わずとも気持ちが共有されているようだった。
「……もう子どもじゃねえんだからやめてくれよ。マフティロに睨まれる」
身体を離しながら少し強がってそう言った。
「葬儀は明後日にしたから。あんたが喪主だからね」
「わかってる。……ちゃんとしなきゃな」
「ごはんも食べなさいね」
ニアタは机の上の食事の置かれたトレイを見ながら言った。
「用意してくれてたのか……気付かなかったな」
「声はかけたんだけど、聞こえてなかったのね……」
遺体の保存のために時停石が複数置かれているので料理は出来立てのままだった。
「あれ、そういや……」
きょろきょろと周りを見回した。息子が寝ている小さなベッドが見当たらない。
「赤ちゃんなら私たちで面倒を見てるわよ。……それも気がついてなかったのね」
「すまん……助かる。今ガキがいたら当たっちまいそうだからな……俺の側に置かないほうがいい」
「ビスターク……」
息子の顔を見たら何かの拍子に「お前のせいだ」と八つ当たりして下手すれば殺してしまいそうだった。そんなことをすればレリアの死は本当に無駄になり最悪の結果になってしまうと頭ではわかっている。でも、今の自分にその衝動を抑えきれる自信が無かった。
「ちゃんと眠った?」
「よく覚えてない。眠ってたのかもしれないが……」
「ごはんもそうだけど、身の回りのこと何も出来てないでしょ。お風呂も用意してあるからね」
ニアタが母親のように世話を焼いてくる。昔からそうだった。それで自分の心が慰められるわけではなかったが、気持ちは受け取った。
「ああ、そうだな……食べてから色々済ませるよ」
頰を触ると丸一日経った分、髭も伸びていた。葬儀のためにも身綺麗にしておかなくてはならない。いつまでもこうしてはいられないことを理解はしている。
「棺は今日の夜には出来上がると思うわ」
「そうか」
「一緒に燃やしてあげたい物があったら用意しておきなさいね」
「……ああ」
まだ妻はベッドに寝かせたままだ。棺に移すのは自分一人でやるつもりである。他の男に妻の身体を触られたくなかったのだ。自分がレリアへ贈ったスカーフは本人が気に入っていてずっと身につけていたままだったので、首の傷をそのまま隠し通して一緒に燃やしてしまおうと思った。
まずは最低限のことを済ませようと思い、食事と身支度をした。鬚髯神ラゾルスの石である剃毛石で髭を剃り風呂に入って身綺麗にはしたが、何も考えることができず、ずっと無意識で自動的に行っている感じであった。
いつもならすぐに向かう聖堂には行くのを少し躊躇った。なんで助けてくれなかったのか、とレアフィールを責めてしまいそうだったからだ。神は人間に関わらない決まりがあるし、飛翔神の力では生命をどうにか出来ないこともわかっている。昔ニアタの母親が亡くなったときもレアフィールは「何も出来なくてごめん」と謝っていたそうだ。
気がすすまないながらも聖堂に入ると、供物も用意していないどころかまだ祈ってもいないのにたくさんの反力石が出現した。
「レア兄……」
先に謝られてしまったようだ。おそらく何も出来なかったことを申し訳なく思っているのだろう。もしくは既に何かしてくれていて出産から数日生き存えたのかもしれないとも思えた。跪いて祈った。
「もう俺は生きている意味が無くなったよ……」
石は出ない。昔ニアタの結婚の際に弱音を吐いたときもそうだった。
「そういやまだ息子を連れてきてなかったか……レリアが動けるようになったら家族三人揃って礼拝するつもりだったからな……」
反力石が少しだけ出てくる。連れてこいという意味かもしれないと思った。
「今は連れて来れねえよ。俺は父親の自覚が全然無いんだ。もうあいつがいないのに、子育てなんてとても出来そうにねえよ。俺もあいつと同じところへ行きたい……」
石は出ない。別に反力石を出して欲しいわけでもない。ひたすら弱音を吐いた後、聖堂を後にした。
自室に戻るとレリアの遺体を撫で、キスをしてから妻の使っていた家具をあさり生前の持ち物を引っ張りだした。元々旅生活だったこともありそれほど多くはない。服、神官の勉強に使っていた教本や文房具、身支度用の小道具、神の石などだ。身に付けていた長命石は消滅して紐と金属の部品しか残っていなかった。もしかしたら、出産で死ぬはずが石のおかげで三日分存えたのかもしれない。消えた長命石の部品を見て、そう思った。
他の遺品も戸棚や引き出しを片っ端から見て中身を出してゆく。ひとつひとつに思い出があった。あの時に着ていた服、勉強や筆談の際に使っていた鉛筆、美しく長い紫色の髪を梳かしていた櫛……。しかし何か夢でも見ているようだった。これが悪夢で済むのならどんなによかっただろうか。
深い引き出しの奥のほうに紙の束を複数見つけた。いらない紙を切って穴を開けて紐で纏めただけの粗末な物だ。
「これは……」
それはビスタークとの筆談に使っていた物だった。
【父に拾われた時にはもうこの傷はあったそうです。小さい頃なので覚えてなくて原因はわかりません】
【傷仲間ですね】
【レリア=A=フォスター】
水の都で男共から助けたときの筆談が残っていた。ビスタークが自分で書いた名前も残っていた。あれから二年と少し経っている。色々な感情が自分の中で渦巻いていく。その中に懐かしいと思う感情もあったので紙を捲った。
【貴方が幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたんですか】
【思いません。正当防衛ではないですか。貴方は自分で自分に幸せにならないような呪いをかけていると思います】
自分が子どもの頃に殺人を犯したと告白したことを思い出す。こちらを全く責めず、幸せになっても良いのだと、諦めるなと静かに怒っていたことを思い出す。元々惹かれてはいたが、このことを受け入れてもらったことが結婚する理由として一番大きかった。
今までの筆談が全て保存してあった。神殿の皆やジーニェル夫妻と筆談したときの紙もあった。手話がわかるようになってからは時々わからない動きを紙に書いて意味を教えてもらったくらいだったが、自分とやり取りした筆談は文字を見ると全て思い出せた。
「捨てずに取っておいたのか……」
気がつくと涙が流れていた。一度泣き出したら涙が止めどなく溢れてきた。慌てて部屋用に常備してある静寂石を起動した。声を抑えてはいるが念のためだ。もし泣いている声が外に漏れてしまうとまたニアタ辺りが心配して部屋に入って来てしまう。こんなみっともないところを誰かに見られたくはない。
しばらく嗚咽を漏らしていると後ろから聞き覚えの無い誰かの声が聞こえた。
「ビスタークが泣いてるところを見るのは初めてね」
驚いて振り向くとそこには死んだはずのレリアが立っていた。その更に後ろにはレリアの遺体がある。向こう側が透けて見えるのだ。瞬時に理解した。これは妻の霊魂なのだと。しかし霊魂でも一向に構わなかった。
再び会うことができて、生前には聞けなかった声まで聞くことができたのだから。
ビスタークはレリアの遺体の横で呆然としていた。子どもの頃のあの事件直後の状態に近かったかもしれない。周りの音が何も聞こえなかった。視界にも妻の遺体しか目に入らなかった。現実とは思えなかった。
【ちょっと寝るわね。疲れちゃったみたい】
そう手話で伝えられ、ただ眠っただけにしか見えなかった。それが最期の会話になるなど全く思っていなかった。話したいことは他にもたくさんあったはずだ。今までの感謝の気持ちすら伝えきれていない。後悔しかなかった。
ずっと妻の側に座って手を握り俯いていた。感情が追い付かず涙も出てこなかった。
「……ク。ビ……ターク。ビスターク!」
気がつくとニアタに名前を呼ばれながら揺さぶられていた。姉の目は潤んでいた。もう丸一日こうしていたらしい。ずっと無意識だった。
「ああ……悪い……」
なんとか口を動かすとニアタに抱き締められ頭を撫でられた。姉の涙が肌に触れた。大事な人を喪失した経験のある者同士、何も言わずとも気持ちが共有されているようだった。
「……もう子どもじゃねえんだからやめてくれよ。マフティロに睨まれる」
身体を離しながら少し強がってそう言った。
「葬儀は明後日にしたから。あんたが喪主だからね」
「わかってる。……ちゃんとしなきゃな」
「ごはんも食べなさいね」
ニアタは机の上の食事の置かれたトレイを見ながら言った。
「用意してくれてたのか……気付かなかったな」
「声はかけたんだけど、聞こえてなかったのね……」
遺体の保存のために時停石が複数置かれているので料理は出来立てのままだった。
「あれ、そういや……」
きょろきょろと周りを見回した。息子が寝ている小さなベッドが見当たらない。
「赤ちゃんなら私たちで面倒を見てるわよ。……それも気がついてなかったのね」
「すまん……助かる。今ガキがいたら当たっちまいそうだからな……俺の側に置かないほうがいい」
「ビスターク……」
息子の顔を見たら何かの拍子に「お前のせいだ」と八つ当たりして下手すれば殺してしまいそうだった。そんなことをすればレリアの死は本当に無駄になり最悪の結果になってしまうと頭ではわかっている。でも、今の自分にその衝動を抑えきれる自信が無かった。
「ちゃんと眠った?」
「よく覚えてない。眠ってたのかもしれないが……」
「ごはんもそうだけど、身の回りのこと何も出来てないでしょ。お風呂も用意してあるからね」
ニアタが母親のように世話を焼いてくる。昔からそうだった。それで自分の心が慰められるわけではなかったが、気持ちは受け取った。
「ああ、そうだな……食べてから色々済ませるよ」
頰を触ると丸一日経った分、髭も伸びていた。葬儀のためにも身綺麗にしておかなくてはならない。いつまでもこうしてはいられないことを理解はしている。
「棺は今日の夜には出来上がると思うわ」
「そうか」
「一緒に燃やしてあげたい物があったら用意しておきなさいね」
「……ああ」
まだ妻はベッドに寝かせたままだ。棺に移すのは自分一人でやるつもりである。他の男に妻の身体を触られたくなかったのだ。自分がレリアへ贈ったスカーフは本人が気に入っていてずっと身につけていたままだったので、首の傷をそのまま隠し通して一緒に燃やしてしまおうと思った。
まずは最低限のことを済ませようと思い、食事と身支度をした。鬚髯神ラゾルスの石である剃毛石で髭を剃り風呂に入って身綺麗にはしたが、何も考えることができず、ずっと無意識で自動的に行っている感じであった。
いつもならすぐに向かう聖堂には行くのを少し躊躇った。なんで助けてくれなかったのか、とレアフィールを責めてしまいそうだったからだ。神は人間に関わらない決まりがあるし、飛翔神の力では生命をどうにか出来ないこともわかっている。昔ニアタの母親が亡くなったときもレアフィールは「何も出来なくてごめん」と謝っていたそうだ。
気がすすまないながらも聖堂に入ると、供物も用意していないどころかまだ祈ってもいないのにたくさんの反力石が出現した。
「レア兄……」
先に謝られてしまったようだ。おそらく何も出来なかったことを申し訳なく思っているのだろう。もしくは既に何かしてくれていて出産から数日生き存えたのかもしれないとも思えた。跪いて祈った。
「もう俺は生きている意味が無くなったよ……」
石は出ない。昔ニアタの結婚の際に弱音を吐いたときもそうだった。
「そういやまだ息子を連れてきてなかったか……レリアが動けるようになったら家族三人揃って礼拝するつもりだったからな……」
反力石が少しだけ出てくる。連れてこいという意味かもしれないと思った。
「今は連れて来れねえよ。俺は父親の自覚が全然無いんだ。もうあいつがいないのに、子育てなんてとても出来そうにねえよ。俺もあいつと同じところへ行きたい……」
石は出ない。別に反力石を出して欲しいわけでもない。ひたすら弱音を吐いた後、聖堂を後にした。
自室に戻るとレリアの遺体を撫で、キスをしてから妻の使っていた家具をあさり生前の持ち物を引っ張りだした。元々旅生活だったこともありそれほど多くはない。服、神官の勉強に使っていた教本や文房具、身支度用の小道具、神の石などだ。身に付けていた長命石は消滅して紐と金属の部品しか残っていなかった。もしかしたら、出産で死ぬはずが石のおかげで三日分存えたのかもしれない。消えた長命石の部品を見て、そう思った。
他の遺品も戸棚や引き出しを片っ端から見て中身を出してゆく。ひとつひとつに思い出があった。あの時に着ていた服、勉強や筆談の際に使っていた鉛筆、美しく長い紫色の髪を梳かしていた櫛……。しかし何か夢でも見ているようだった。これが悪夢で済むのならどんなによかっただろうか。
深い引き出しの奥のほうに紙の束を複数見つけた。いらない紙を切って穴を開けて紐で纏めただけの粗末な物だ。
「これは……」
それはビスタークとの筆談に使っていた物だった。
【父に拾われた時にはもうこの傷はあったそうです。小さい頃なので覚えてなくて原因はわかりません】
【傷仲間ですね】
【レリア=A=フォスター】
水の都で男共から助けたときの筆談が残っていた。ビスタークが自分で書いた名前も残っていた。あれから二年と少し経っている。色々な感情が自分の中で渦巻いていく。その中に懐かしいと思う感情もあったので紙を捲った。
【貴方が幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたんですか】
【思いません。正当防衛ではないですか。貴方は自分で自分に幸せにならないような呪いをかけていると思います】
自分が子どもの頃に殺人を犯したと告白したことを思い出す。こちらを全く責めず、幸せになっても良いのだと、諦めるなと静かに怒っていたことを思い出す。元々惹かれてはいたが、このことを受け入れてもらったことが結婚する理由として一番大きかった。
今までの筆談が全て保存してあった。神殿の皆やジーニェル夫妻と筆談したときの紙もあった。手話がわかるようになってからは時々わからない動きを紙に書いて意味を教えてもらったくらいだったが、自分とやり取りした筆談は文字を見ると全て思い出せた。
「捨てずに取っておいたのか……」
気がつくと涙が流れていた。一度泣き出したら涙が止めどなく溢れてきた。慌てて部屋用に常備してある静寂石を起動した。声を抑えてはいるが念のためだ。もし泣いている声が外に漏れてしまうとまたニアタ辺りが心配して部屋に入って来てしまう。こんなみっともないところを誰かに見られたくはない。
しばらく嗚咽を漏らしていると後ろから聞き覚えの無い誰かの声が聞こえた。
「ビスタークが泣いてるところを見るのは初めてね」
驚いて振り向くとそこには死んだはずのレリアが立っていた。その更に後ろにはレリアの遺体がある。向こう側が透けて見えるのだ。瞬時に理解した。これは妻の霊魂なのだと。しかし霊魂でも一向に構わなかった。
再び会うことができて、生前には聞けなかった声まで聞くことができたのだから。