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作者: 水無月 龍那
残酷な描写あり
4.恐怖に溺れて愚かさで沈んで
「――……」
 目が、覚めた。
 身体が酷く重い。重力に身を任せて布団に沈んでいたい。そんな感覚。
 だけどそうはいかない。なんとか首だけ動かして時計を見ると、アラームが鳴る数分前だった。
 随分朝に強くなったもんだ。なんて。そんな言葉すら笑えない。

 最近は目覚ましひとつ止めてしまえばそれで事足りるようになってしまった。全てはあの夢のせいだ。ああ……苛々するのも体力を使う。
 重い身体を引きずるように着替える。鞄を持って部屋を出ると、トーストの匂いがした。

「おはよう、ございます」
 今日は具合どうですか? としきちゃんがそっと声を掛けてくる。
 少しだけ視線を向けても彼女の姿は見えないが、カウンタの上には既にお弁当箱が包まれていた。
「うん……大丈夫」
 ソファに鞄を置いて洗面台へ向かう。
 台所を見ることはしなかったけど、スクランブルエッグを焼いているらしい。フライパンを箸でかしかしと混ぜる音と卵の匂いがした。

 顔を洗って鏡を見る。ああ。これは具合が悪いと人から心配されるのも無理はない。
 目の下のクマが酷い。
 顔色も結構酷かった。元々色白ではあるけれども、それを通り越して貧血でも起こしそうな色だった。
 とりあえず朝食を食べれば少しは持ち直すだろう。……彼女と顔を合わせて消耗する分とどっちが大きいかは分からないけれど。ヘアクリップを外し、髪を手櫛でさっさと整えて食卓へ向かう。

 僕が戻ってくる頃には、テーブルの上に食事の準備ができていた。
 皿の上に乗ったサラダとベーコン。それからスクランブルエッグ。
 テーブルの真ん中にはトーストとマーガリン。
 しきちゃんがぱたぱたとコップに注いだ牛乳を持ってきて、それぞれの席に置いた。
「いつも。ありがとうね」
「いいえ。ボクは、これくらいしか……できませんから」
 ふるふると首を横に振ったらしく、肩で揃えられた髪が揺れたのだけが視界に入った。
 朝食を食べながらニュースを聞き流し、天気予報だけ把握して。食べ終えた食器を片付ける。
「あ。お皿はボクが洗います」
 流しに立った僕の袖を、彼女がそっと引いた。
「――っ!」
 思わず彼女を見下ろす。そのまま硬直してしまう。
 腕を振り払うなんて行動も思いつかなかった。

 随分久しぶりに見る彼女の目は、こんなに赤かっただろうか。
 肌の色。揺れる髪。僕の袖を掴むその指は――こんなにも細くて、華奢で。美味しそうで。おいしそう、で……。
 色んな感想と感情がぐるぐると回る。なんだかくらくらする。胸がぎゅっと締められたような感じもする。これは良くない。

「え。っと……うん。お願い。していいかな」
 学校行かなきゃ……、と視線を逸らす口実に壁掛け時計を見ると、「はい」という返事と共に袖が解放された。
 少しだけ残念な気が……いや。何を考えているんだか。
 僕はソファに置いていた鞄を手に、玄関へ向かう。
 見送りにとついてきた彼女は、靴を履く僕の背に「あの」と声をかけてきた。
「お兄さん……お休みしなくても、大丈夫ですか?」
「ん。大丈夫」

 体力的にはちょっと自信ないけれど。
 ここで一日彼女と過ごすのもまた、自信がない。

「無理はしないから。それじゃあ――行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
 そして僕は、ドアに鍵を掛けて学校へと向かった。
 
 □ ■ □
 
 学校生活は平和そのものだ。
 授業を受けて、昼食を食べて。授業を受ける。
 柿原とは授業が重なってなかったけど、校内ですれ違った。
 曰く「お前ホント顔色悪いぞ」とのことで、ブロック状の栄養補助菓子と野菜ジュースを投げつけてきた。
 空き時間はぼんやりとして過ごした。校内を行き交う人々を眺めてみたり、図書室で本を探してみたり。いつも通りと言えばいつも通りに過ごした。違う事と言えば、この体力の心許なさだろうか。

 人は少ないけれども男女共に歩き回っているこの空間。
 それが別に苦痛じゃなかったと気付いたのは、夕方――帰宅間際になってからだった。
 
 気付いたって僕の身体はしっかり家に帰るようになっている。
 なんでかって言われても、単なる癖だ。
 元々外で一晩過ごすという事はあまりなく、何があっても必ず一度は家に帰るようにしていた。そんな生活が長年の間にすっかり染み付いてしまっていた。
 外で過ごすのは、落ち着かない。
 けど。今この状況で家に帰るのも辛い。

「しばらく……家を離れようかな……」
 ぽつりと零れたそれは、とても良い考えのように思えた。
 彼女を追い出す気にはなれなかった。外で過ごすなら僕の方が色んな意味で適してるだろうし、最近は寝泊まりをする所なんて山ほどある。最悪柿原に事情を……いや、無理だ。話せない。
 彼のことだから詳しい事情なんて聞かずに泊めてくれそうな気もするけど、巻き込みたくはない。
 
 そんなこんなで、具体的にどうするかは決めないまま。
 とりあえず数日家を離れよう、という結論だけ出した。
 
 とはいえ。荷物をまとめるためには、一度は家に帰らなくてはならない。
 いつも通りに食材を買って、いつも通りを装って。
 玄関を開けて。のろのろと靴ひもを解く。
「おかえり、なさい」
 しきちゃんの声がする。それだけで手元が狂って、指先が紐に絡まる。
「……うん。ただいま」
 靴紐に集中する。はあ、と溜息が零れた。
「お兄さん……やっぱり具合悪いですか?」
「……ん」
 落ち着けと言い聞かせる。ようやく解き終えた靴を揃えて立ち上がると、そこにはしきちゃんがいつものように立っていた。

 見上げるその目が、悲しげな色に見える。
 悲しませてるのはきっと。いや、確実に僕だ。
 平気そうな顔をしてみたけれど、彼女の反応を見るに失敗したのは明らかだった。

 僕にできたのは、彼女から目をそらして、どうにかこうにか自分の言葉を探そうとするだけ。手の平を口に押し当てて、見つかりそうにない言葉を。言い訳を。探す。
 いくら探しても、出てくるのは情けないの一言。それから、どう表現すれば良いか分からないこの気持ち。

「あ……あの」
 しきちゃんがそっと、声をかけてきた。
 酷い態度を取ってると自覚している。なのに、彼女は変わらず僕を心配してくれているのが分かる。
 それは、座敷童だからかもしれない。
 僕の体調不良は自分に原因があるのかもと、責任を感じているのかもしれない。
 だから。せめて。
 やっと見つかった言葉を。
 膝をついて、ぐっと顔をあげる。彼女と視線を重ねる。
「ごめん。体調……心配させて」
「……」
 ああ。僕はこれ以上何か口にしたらいけないような気がする。
 その。と、僕の視線があっという間に足元に落ちる。
 そこに有意義な何かなんて存在しない。あるのは言い訳だけだ。
「季節の変わり目だから、かな……疲れが、取れなくて」
 僕は嘘をつく上手さには割と自信があったんだけど。今この瞬間においてそれはあっけなく砕けたし、なんだか酷い罪悪感があった。ああ、早く離れてしまいたい。
 けれども彼女は「そう、ですか」とだけ言った。
 そうなんだ、と頷くのがやっと。
 僕は立ち上がって「だから」となんとか言葉を繋ぐ。
「夕飯は……いいや。材料はあるから、食べてて。僕、もう寝るよ」
「……はい」
 鞄と買い物袋を拾い上げて、彼女から視線を逸らしたまま通り過ぎると「あの」と小さな声が僕の足を引き止めた。
「……何?」
 振り返らずに答える。自分で声のトーンが落ちたのが分かる。
 
 また悲しい顔をさせただろうかと心配になる。同時に、一刻も早くここから立ち去りたくてたまらない。混乱した感情は次第に苛立ちへと変わっていく。いや、この感情に対応できない自分への苛立ちなのかもしれない。

「明日の、お弁当は」
「イラナイ」
 思わず強く出た言葉に、彼女が息を飲んだのが分かった。
 こんな時でも僕の昼食の心配をする。どうして。こんなにも八つ当たりに近い言葉に、反論のひとつもせずに居られるのか。
 なんて思ってるのに。
「あの……お兄さんの体調、やっぱり、ボクの――」
「違うから!」

 まだ君はそう言うのか。これ以上、何も言わないでくれ。
 僕の血が、ざわりと騒ぐ。夢の中の僕が、にたりと嗤って肩を抱く。そんな気がする。
 それを全部握り潰す。
 
「ごめん。……ごめんね。今、ちょっと辛いんだ。だからちょっと……、いや、しばらく。ほっといてくれるかな」
 ぽつりと零れたこの言葉は、彼女にどんな顔をさせたのだろう。「はい」という小さな返事でなんとなく察する事はできたけれども、表情を見る事はできなかった。
「あの、ボク……リビングに居ますから」
 何かあったら呼んでください、と言い残すような声がした。
 掠れた悲しい悲しい声に、心臓が掴まれたような感覚がする。
 その感覚も、彼女の声も全部無視して、僕は足早に部屋へと戻った。

  □ ■ □
 
 後ろ手にドアを閉めて、ずるずると座り込む。頭を抱えて、深い深い溜め息をついた。

 もう自分が分からなくなってきていた。
 苛々する。
 僕は。私は。一体彼女をどうしたいと言うのだろう。悲しませたい? 自分のものにしたい? 一緒に居たい? ああ、分からない。どれもが正解のようで、どれもが間違っている気がする。
 とりあえず分かったのは、僕は自分自身を過大評価しすぎていたって事だ。

 これまで飲み込んだ命の数なんて物ともしない程の感情。しきちゃんを安心させるために言った言葉は、僕自身にも言い聞かせたものだったのかもしれない。なんて無意味で、馬鹿で、愚かなんだろう。
 彼女に謝りたい。でも、今の僕は彼女と顔を合わせることができない。こんなにも自分の感情を整理できないままじゃあ、言葉をいくら重ねても足りない。
 どうすれば良いんだろう。どうすれば。どうすれば。どうすれば。
「――ああ」
 しばしの自問の後。帰る前に思いついた答えをようやく思い出す。
 そうだ。この家を出て行けば良いんだ。
 しばらく。しばらくでいい。

 その間にこの感情と向き合うことができれば儲けもの。
 解決できれば最高だ。
 ……できる気は、あまりしないけど。
 これ以上、彼女にあんな顔させたくないし、見たくない。やれるだけやってみよう。

 のろのろと立ち上がって、クローゼットを覗く。
 服を数着。隅に転がっていたスポーツバッグに詰める。
 玄関からは出て行けない。
 ならば。窓だ。

 そっと窓を開けて、ベランダに出る。
 夜風が部屋に吹き込んで、カーテンを巻き上げた。

 もしかしたら気付かれたかもしれない。
 そうでなくても、いつかは気付かれる。
 でも。今はこれが最善のような。そんな気がした。

「いってきます」
 いつかちゃんと帰ってくる。それだけは約束して。
 僕はそっと、窓を閉めた。
 
 月は雲に覆われている。隠れるには良い夜だった。
 そしてそのまま、僕は彼女の前から姿を消した。
 
 □ ■ □
 
 答えは見えないまま、時間は刻々と過ぎていく。
 眠れば夢のあいつが、考えなくて良いのにと言い聞かせてくる。うるさいと押さえ付ける。向き合うなんてできなかった。聞く姿勢を見せれば感情に飲まれる。一方的に語り、一方的に黙らせる。その繰り返し。

 目を覚まして、学校へ行って。そのまま夜の街に姿を消して。
 何日くらいそういう生活をしただろう。
 疲れは一向に取れない。夢のあいつの言葉が強く残って仕方ない。
 感情が、声が。身体に染みついて、香るような気すらする。
 目の色が変わっていないか、不安になる。

 彼女はどうしてるだろうか。会って何か言える気もしないけど、やっぱり気になる。
 手は伸ばせない。触れたらきっと、掴んで離さなくなってしまう。
 あるいは、また自分の手で失ってしまうかもしれない。

 何でだろう。平穏な日々を求めていた僕の何かがそう問いかける。
 僕は。平穏に過ごすと決めた時から、その努力だけは怠らないようにしてきたつもりなのに。
 
 何で、こんな事になってるんだろう?
 何で、こうして逃げてるんだろう?

 自問自答は、終わらない。

 向かい合う勇気がない? うん。
 どうして? どうしてだろう。
 彼女が愛おしいから? それは、座敷童の力あってこその感情だ。
 あの血が美味しかったから? それは事実だけど、違う。
 夢に感化された? 違う。というか嫌だ。
 意志が弱かったから? 答えられなかった。
 
 そうして今日も、ぼんやりと街をふらつく。
 適当なネットカフェにでも、と足を向けようとしたその時。
 すれ違う人混みの中に金髪を見た。

 人混みの中に金髪を見た。

 いや、金髪なんてそう珍しくない。街中なら尚更だ。
 でも。それでも目を引く程に綺麗な。染めた色じゃないと分かるような色。

 そんな髪の少女は、僕の横をふわりと通り過ぎていった。
 すれ違う一瞬で見えた瞳は琥珀色。しきちゃんと同じくらいの背丈。駆け足でさらさらと揺れる……いや、ふわりと浮くような髪。足取りもひどく軽い。
 あのような少女は知らない。
 ただ、あの子は人間じゃないと感覚が告げた。

 思わず足を止めて振り返った。
 少女が駆けていく先に居たのは、ひとりの男性だった。
 バス停のベンチに座ってうなだれている。具合が悪いのだろうか。手で口元を押さえている。
 長袖の上着を羽織った黒髪の彼は、座ってても分かるくらい背が高い。年齢は、僕と同じくらいか、少し上だろうか。
 そんな彼は、少女が差し出した水を受け取ろうと顔を上げ――僕を見た。

 髪が野暮ったく顔を覆っていたけれど。驚くように見開かれたのが隙間から見えた。
 手が口から外れて宙に浮く。水を受け取ることも忘れて数度瞬きをして。
「――見つ、けた」
 口元を歪ませて、呟いた。
 前髪からの視線が、僕を刺す。

 僕は動けない。
 喉が詰まって。思考が止まって。目が離せない。

 隣の少女はそれに気付いていないのか、何か言いながら水を彼に押しつけた。
 その拍子に視線が外れる。
 彼は水を飲んで、ふらつきながらも少女に促されて立ち上がる。
「――」
「――」
 2人は少しだけ会話をして、歩き出す。

 雑踏の中に消えてしまう直前。
 青年が少しだけ振り向いた。
 何か言いたげな顔をしてたけど、特に何を言う訳でもなく。
 ただ、気難しい顔で僕を一瞥し。そのまま姿を消した。

 動けなかった僕は、二人をそのまま見送り。
 姿が完全に見えなくなって初めて、ようやく息ができた。
 
「なんで……」
 背筋が寒い。喉が渇く。

 彼には、会ったことがある。
 いや。会ったことがある、なんてもんじゃない。

 フラッシュバックする、足元で波立つ血液。
 僕の足を掴もうと伸ばされた、筋張った細い指。
 もう空を映すだけになってしまった、榛色の目。

「確かに……死んだじゃないか……」
 なんでこんな所に居るんだ。

「見つけた」
 彼は、確かにそう言った。

 その意図は分からないけど、これ以上ここに居てはいけない気がした。
 逃げろ。この場から。隠れて。見つかった。きっと僕は――。
 頭の中がそんな警告じみた言葉で埋め尽くされる。

 踵を返して、僕はその場を離れる。
 どこに行けばいい。
 どこに行けば。
 どこに――!
 
 気が付くと、僕は家の玄関に立っていた。
 足は自然と家へと向かい、そのまま駆け込んだらしい。

 目の前には、数日ぶりに見た少女が何か言いたげに立っていた。
 久しぶりに見たその姿に、なんだかとても安心した。
 ひどく安堵して。なんだか泣きそうになって。
 何か言いたかったけど、言葉が出なくて。何も言えなくて。
 ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしって。
 そのまま部屋に逃げ込んだ。
 
 ああ、僕の馬鹿め。愚か者め。
 ドアを背にして座り込む。
 僕ってこんなに思い切りの悪い奴だったか? 平穏に生きようとして、その生活に浸って。すっかり爪も牙も無くしてしまったか?
 いや。それで良かった。良かったんだ。
 むしろ、それを望んでいたのに。

「――考える必要なんて、ないだろう?」
 そんな声がする。幻聴だ。夢じゃないのに、声がする。
「ほら、考えるのは苦しい。ならば考えなくて良い」
 幻聴のくせに。僕のイライラした思考をゆっくりと飲み込んでいく。
 ゆっくりと。どこまでも穏やかな声で。
 僕の意識を蝕み、溶かし、沈めていく。
「ほら。何もかも忘れたって構わないよ。いっそ――消えても構わない」

 馬鹿を言うな。これは、この意識は、感情は。僕のものだ。
 
 なんて反論の言葉ひとつ返すこともできないまま。 
 僕の意識は、飲み込まれていった。
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