▼詳細検索を開く
作者: 喉飴かりん
残酷な描写あり
14.兄弟
 市役所を飛び出した後、私は半ば小躍りしながら街道を歩いていた。

 昨日、母からお前は娘じゃない、私の心を切り裂くユミンだと言われた時の底しれぬ悲しみなど微塵にもなかった。

 今私の頭の中を満たすのは、コンフェシオンコルリスに行った時に父をどう殺すか考えを巡らせることだけ。

 自分の身の安全を考えて、殺害方法は三年前と同じく毒殺にする。

 困ったのは殺害する場所だ。

 今候補に上がっている殺害場所は、普段父が暮らす精神障害者専用共同住宅『やすらぎの巣』と、戦争体験講演会の開かれる東区市民会館。

 正直どちらも人目に付く場所なので、なんとかして父を外、或いは人けのない場所へ連れ出さなければならない。そして時を見計らって毒を飲ませ、殺そう。

 今考えられるのはそこまでだ。なんとも面倒なやり方だ。

 ヨト駅からヤケ村に向かい帰宅した。家や畑に新たないたずらは見つからなかった。犯人はもう飽きたのかもしれない。

 部屋の扉を開けると、ソニさんが作り置きしておいた里芋と山菜の雑炊を食べていた。娘じゃないと言っておきながら夕食だけはちゃっかり食うんだな、ずるいと少し呆れた。

 口から汁を垂らしてずるずると雑炊を啜るソニさんを私は見つめた。

 昨日の一件以来、今までこの女性に対し抱いていたあらゆる思いが心から全部剥がされてどこかへ行ってしまった。そのせいだろうか。私の中で母だった人はソニさんという赤の他人になってしまったような気がする。

 ソニさんを見ていると、段々と彼女に対し興味が失せてきた。もうどうでもいい、と思ってしまったことが少し悲しかった。

 鞄と上着を居間に置いて、私は外に出た。生温い春の空気が頬を撫でる。峰の上に満月が浮いていて、降り注ぐ月光が畑の畝を白く染めている。

 また知らない世界に独り取り残されたような孤独感が湧いてくる。

 いや、ようなではなく私は今まさに世界で独りぼっちなのだ。

 自分と繋がっていた全てから切り離されて、私はここにいる。

「私には、生まれたときから家も家族もなかったんだわ」

 何もかも、全部自分の錯覚に過ぎなかったんだ。

 ソニさんと私の間に親子関係などありもしなかったのに、寂しさゆえにすがっていたという事実が発覚して正直虚しい。

 けれど、これで自分の人生も未来も何もかも捨てる決心がついた。

 十二歳の頃、チャグと分遣隊基地へ向かった時に『父を殺せば殺人者となり未来が閉ざされるのでは』という不安を抱いたことがある。

 成長した今となっては、復讐を遂げるには決して避けては通れぬ運命だと覚悟していた。

 帝国では殺人罪は確実に死刑か終身刑になるという。父殺しの後、私は死刑になるか、刑務所で一生を過ごすことになるだろう。

 戦争調査、歴史書の読書など、やりたいことは三年間で十分できた。

 思い残すことは何もない。

 故郷の土を二度と踏めなくったってかまわない。

 ソニさん、村人の皆、私が帝国へ行って父を殺し、殺人事件の報道が共和国に伝わって知ったらどう思うだろうな。

 みんな私のこと、認めてくれるかな⋯⋯。

 瞼裏に、狼羊が羊たちから認められた場面が浮かんだ。


 ◆ ◆ ◆


 翌日は仕事が早く終わったので、さっそく父の戦争体験講演会が開かれる今月二十五日に合わせて多めに七日間の有給を取った。

 続いて国際旅行所へ向かい、帝国へ渡るための旅券発行と外貨両替の手続きをした。旅券発行と外貨両替は約一週間後に完了する。

 有給と旅券、これで準備は整った。後は有給初日に帝国へ旅立つのを待つのみだ。

 そして週末三月七日の朝、私はユゴ埠頭にある連絡船入場口の桟橋で叔父の乗った船を待っていた。

 水平線の彼方に横たわる、北大陸の黒い影。その影よりも更に濃い黒い点のような影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。船だ。

 やがて船は黒い点から徐々に灰色に変わり、白くて大きな姿を見せた。

 徐々に近づいてきた連絡船はユゴ埠頭に入港し、桟橋に沿って停泊した。折り畳まれていたタラップが伸び出し、徐々に桟橋の入場口まで降りてきて設置される。

 連絡船から十数人の帝国人がタラップを降って、入場口をくぐる。共和国での暴動を知ってみんな渡共を控えているのか、客は極端に少なかった。

 最後尾にいた橙色の髪と背広姿の帝国人がこちらへ来た。二重のぱっちり開いた瞼と丸い青い瞳が優しそうな印象を醸し出している。映像を見た時は画像が荒くてはっきり見えなかったが、実物を間近で見ると爽やかな優男といった感じだった。

 ロト・ネメントは共和国語で挨拶し、頭を下げた。
 このおじさんが私の叔父なのか。生まれて初めてソニさん以外の血縁者と出会い、私は興奮を抑えきれなくなる。

「ロト・ネメントさんですね?」

 叔父は微笑んだ。

「はい、そうです。僕がロト・ネメントです。はじめまして」

「ユミン・ナリメです。はじめまして」

 お互い挨拶を交わした後、私達は握手した。

 彼を初めて見た時、遠い異国の地に見知らぬもう一人の血縁者がいたという物語のような事実に信じ難い気持ちであった。だがこうして手を握り合うと、現実なんだということが実感できた。

 それから私達はタクシーに乗り、博物館へ向かった。

 窓越しを最終日の祭り会場と、未だ騒いでいる左翼団体の大行列の光景が流れてゆく。

 片車線を交通規制された車道を大行列が練り歩いている。並ぶ人々は戦前使われていた共和党の旧国旗や帝国への罵詈雑言を書いた看板を掲げ、『共和党は戦後賠償破棄を撤回せよ』と吠えている。

 中には拡声器を持ってがなり立てる人、帝国の国旗を燃やしたり踏みつける人、銃声を鳴らす人、帝国文化店の硝子を割ったり火瓶を投げ入れる人もいた。

 警官隊は下手に鎮圧するとかえって騒ぎが酷くなることを学んだのか、片車線に沿って並んで突っ立ち行列を見守っているだけだった。

 叔父は窓に顔を向けながら溜め息混じりに言った。

「まだ騒いでるんだねぇ」

「共和党が解体されるまで続くかもしれませんね。あとは、帝国が戦後賠償破棄を撤回するとか」

「戦後賠償破棄された理由、最近になって報道されてたね。帝国の政府が国の復興予算が足りなくて渇々だから賠償金額を低くしろと散々ごねたり、賠償予算編成案の改竄とか度々不正があったせいで共和国の不信感を買って、共和党代表が『もういいです、国の復興や戦争被害の補償は自分たちでやります』と帝国との交渉を完全に突っぱねたからだって」

 田舎では新聞も受像機もないので政治の話題はほとんど知らなかった。賠償問題に関する帝国側の不正が相次いで
、呆れた共和国が自ら手を切ったのか。帝国側も自己保身に走っていてあくどいが、この十年間ずっと戦争被害者を放置していた共和国も無責任だなと私は溜め息をつく。
 その無責任がヤケ村の人々を十三年も苦しめ続けてきたのだと思うと、やりきれない気持ちになった。

 どの道も交通規制されており、タクシーの運転手は進める道を何度も探して迂回するはめになった。おかげでいつもなら十五分でたどり着くところが到着に一時間三十分もかかってしまった。運転手は「仕方ないよ今週ばかりは」と言って長い長い迂回にかかった運賃は省いてくれた。

 正面玄関から博物館の敷地に入った私達は、長いこと椅子に座っていたせいで足腰が痺れ、すっかり疲れていた。

「大変だったね」

「腰が痛いです」

 敷地内の中央道を進み、博物館の玄関口に入る。

「博物館は警備が厳重なので安全です。たぶん左翼団体も来ないでしょう」

「そりゃよかった」

 共和国民は暴動に夢中なのか博物館に客は一人もいなかった。一階の喫茶店にも誰もおらずガラ空きだ。ちょうどよかったので喫茶店で叔父と話すことにした。

 一番奥の隅の席に着いて、お互い紅茶を頼んだ。注文を聞きに来た店員が去っていった後、叔父が口を開いて私に訊いた。

「今はお母さんと二人で暮らしているのかい?」

「はい」

「どこに住んでいるの?」

「ヤケ村です」

 叔父の顔がかげった。不意に表情を変えたことからして、どうやらヤケ村虐殺事件のことを知っているようであった。
 暗い表情のまま叔父は訊いてきた。

「お母さん、仕事はしているの?」

「はい。母は畑仕事、私は市役所で戦争調査の仕事をしています」

「⋯⋯そうか」

 重苦しい沈黙を一拍置いてから、叔父はそう言った。ヤケ村に関して何か思うことがあるのだろうか、という疑惑が私の中でより濃くなった。

 叔父の兄を大切に思う気持ちを汚したくないので事実は隠しておきたい。だが、話の流れ次第では打ち明けなければならないかもしれない。

「お兄さ⋯⋯父が叔父さんの暮らす家に住もうとしなかったのは精神障害のためですか」

「そうだね。兄は戦犯管理所で自殺未遂や自傷行為を何度も繰り返したり、自分の殺した人々が出てくる悪夢にうなされたりして、職員や囚人たちにいつも迷惑をかけたらしくてね。精神障害のことで家族に負担をかけたくないから一緒にはいられない、遠い街で暮らすと言って、結局僕の住む家には一度も帰って来なかった」

 自分のことで家族に負担をかけたくないから、遠い街で暮らすことを決意した――叔父や喫茶店のお姉さんが語っていた父の優しい一面が垣間見える話だ。

「向こうで暮らす父の様子は『やすらぎの巣』から聞いていますか?」

「たまに手紙や電話で聞くよ。前より落ち着いた様子だけど、未だに精神薬無しではまともな生活ができない状態らしい。幻聴、悪夢が酷いんだと。⋯⋯何か、十年以上経っても女性の苦痛に泣き叫ぶような悲鳴の幻聴が四六時中頭の中で聞こえて、気が狂いそうだとか言っていたよ」

 女性の苦痛に泣き叫ぶような悲鳴――その言葉を聞いた途端、脳内に分遣隊基地跡にあった縄と血溜まりの映像が過り、母の悲痛な悲鳴がこだまし、動悸が一気に激しくなる。
 まさか、その幻聴の悲鳴って⋯⋯。

「もしかしてその悲鳴、私の母さんの⋯⋯」

 そこで口にしてはいけない言葉を無意識に言ってしまったことに気づき、恐慌して私は口を両手で塞いだ。迂闊だった。叔父には兄の裏の顔を知ってほしくないがため隠そうと思っていたのに。

 残念ながら叔父には今の私の呟きが聞こえてしまったようだ。

「今、母さんって言ったかい?」

「あ⋯⋯いや、その⋯⋯」

 言ってしまったと後悔し、かつソニさんではなく咄嗟に母さんと言った自分にも驚いていた。

 その時、叔父の眼差しが鋭くなる。

「ナリメさんはヤケ村で暮らしていると言っていたね。あの村でお父さんたちが村の人達を虐殺したのは知っているかな。だから⋯⋯本当はね、まさかって思うんだけど」

 私がヤケ村に住んでいると答えた時から、叔父はヤケ村虐殺事件と母の身に起きたことの関連性に気づいていたようだ。もう隠しようがないかもしれない。思い切って言ってしまおうかと勇気を振り絞って、私は正直に答えた。

「はい⋯⋯父はヤケ村を虐殺し、そして母を⋯⋯」

 叔父は意外にも納得したように頷いた。

「そうか。そういうことだったのか」

 叔父にとっては知らなかったほうが幸せだった真実だったろう。今、彼の中で兄に対して抱いていたあらゆるものが崩壊したような気がして申し訳ない気持ちになり、私は頭を垂れた。

「ごめんなさい⋯⋯今のでお兄さんのこと、嫌いになっちゃいましたよね⋯⋯」

 叔父は首を横に振り、先程まで深刻そうに歪めていた表情を緩めて答える。

「いや、別に。そんなの戦場じゃあ日常茶飯事だったし、お父さんもそういうことしてても別におかしいとは思わないよ。だから嫌いになんかなってない。僕も酷い目に遭わされた女性たちを見てみぬふりしてきたしね、お父さんを責める資格なんてないさ」

 叔父の意外にもあっさりしすぎた口調に驚いて、私は目を丸くしながら顔を上げた。

 叔父は私から目を逸らし、窓辺に広がる庭を見ながら呟く。

「僕にはお父さんの気持ちがわかる気がする」

「お父さんの気持ち⋯⋯」

 優しかったらしい父が、母を虐げたいという悪魔の心を抱いた理由。

 私は父を憎む一方で、善良な人柄と鬼畜な人柄の二面性を持つ彼のあやふやな人物像を追求したい気持ちを抑えられなかった。自分の中で完全に父の人物像を固めておかないと、心がぶれそうになってしまいそうだったから。

 所属部隊は違えど狂気の戦場にいた叔父なら、優しい人間が鬼畜に陥る所以を知っているかもしれないと思って私は訊いた。

「聞きたくないですけど⋯⋯私、どうして父が鬼畜になったのか、母を虐げたのか知りたいんです」

 叔父はこちらに顔を向けると、重苦しい声色で聞き返した。

「被害にあった母を持つあなたにはとても聞き苦しい話になるが⋯⋯それでもいいかね?」

「はい⋯⋯」

 固唾を呑んで覚悟を決める。

 叔父は語り始めた。

「僕は戦場で何度も見てきたさ。行軍途中に通った農村に侵入して、家の中に隠れていた少年から中年男がいれば敵性検閲し、民兵である疑いがあれば酷いやり方で処刑し、女がいれば遊び道具にした。

 僕は見ただけでやったことは一切ないけどね。まだあの時は二年兵だったから、殺すだの犯すだのの遊びは古参兵たちが許さなかった。遊びは古参兵たちの気休めの嗜みだった」

 その気休めの嗜みのためだけに、母は廃人になり、家族はばらばらになり、私達は村人からいじめられるはめになったのか。なんとくだらないことで私とソニさんの人生は台無しにされたのだろう。やりきれなさと怒りが込み上げてきて、私は痛いくらい唇を強く噛んだ。

 私が怒りに震えるのをよそに叔父は語り続ける。

「補給がないので煙草とかの嗜好品はなかなか手に入らないし、煙草が手に入ったとしてもそれだけでは気が休まらない。そこで選ばれた嗜好品が女だった。攻め込んだ街や村に行って徴発してくればすぐ手に入るからね。

 売春宿で高い金を払わなくてもタダやり、使い回しできるから便利だ。『生肉の徴発』との隠語で僕も女狩りに行かされたよ。古参兵曰く性欲の発散は煙草以上に激しい快感をもたらして、疲労困憊の身体を癒やしてすっきりさせてくれるらしいんだ。お父さんもそうだったんだろう」

 やりきれなさと怒りはやがて悲しみに変わり、涙が溢れ出す。私の泣き顔を見て気まずさを覚えたのか、叔父は一旦口を閉ざして謝罪する。

「⋯⋯すまなかった」

「いいんです。知りたいと言ったのは私なんですから」

 と言いつつ、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔した。

「お父さんが憎いかい?」

「当然です。父のせいで私達の人生は狂わされたのですから」

 叔父は苦々しげに顔を歪めた。兄のせいで姪の人生が狂わされたことと、彼を援護したい気持ちが叔父の内心でせめぎ合っているような気配を感じた。

 泣いてばかりでは話にならないので、私は涙を拭って話題を変更がてら次に聞きたいことを考えた。
 父は母のこと、母にしでかしたことを覚えているのだろうか。覚えていたなら、父は叔父にそれを打ち明けていただろうか。

「父は母のことをあなたに打ち明けたことがありますか?」

「いいや、何も。戦中に悪いことをやらかした話は何一つ打ち明けなかったよ」

 忘れているか、覚えているけれどあえて隠しているのかのどちらかだろう。どちらにしろ父は母にしたことを反省していない気がした。当然といえば当然だろうけれど。

「というかお父さんだけでなく、みんなそうだ。戦場を何も知らない人たちが大多数の一般社会でそんなこと言いふらしたら鬼畜! と罵られるしね」

「叔父さんは、兵隊たちのやらかしたことを今は鬼畜の所業と認識していますか?」

「そうだねえ。今は鬼畜の所業だと思っている。それがかつての残虐行為に対する今の時代の見方だからね。現在の一般社会の秩序に準じて生きざるを得ない以上、僕たち兵隊も過去に対する考えを改めなきゃいけない」

「昔は鬼畜の所業に対してどう認識していましたか?」

「あの時はみんな殺す犯すは普通にやってるし常識だろ、むしろ非難するほうがおかしいって認識だった。共和国民は軍に協力する敵だから皆殺せ、戦争だから当然だってのがあの時その場の秩序だったからね。

 僕も命令ならば罪のない民間人をたくさん殺した。民兵に関与していた共和国民を女子供だろうが、何人殺そうが心はちっとも痛まなかった。上官から民間人の虐殺命令が出たら従わざるを得なかったし、殺した責任は命令した上官にあると思っていたから自分は何も悪くないと思っていた」

「叔父さんは、今はかつて殺した人たちに申し訳ないと思っていますか?」

「⋯⋯」

 叔父は黙り込む。

「命令だったから自分は悪くないと?」

 すると叔父は、もうこれ以上問い詰めないでくれと言うように苦笑いを浮かべた。

「あはは⋯⋯君は辛辣だなあ」

 叔父の困ったようににやつくその顔を見て私は察する。叔父はかつて殺した人々に対し何の罪悪感も抱いていないのだと。

 戦争だったから、命令だったから、だから自分は悪くない。責めるな。目がそう私に訴えているような気がした。

 叔父にとってはやらざるをえなかったことで責める気にはなれないけれど、村が虐殺された事件を知る者としては胸の片隅に嫌悪感を感じてしまった。

「叔父さんは父のように、悪夢を見たり、人の悲鳴が聞こえたりすることもないですか?」

「ないね。仲間が死ぬ夢は見るけれど、殺した共和国人は夢にも出て来ないし記憶にもないよ」

 夢にも記憶にもない――。
 そこで私は、父と叔父の精神状態の違いに違和感を覚えた。 
 父も叔父のように、殺すことに対して何とも思っていなかったはずだ。
 父はなぜ殺した人の悪夢に苛まれたり、女の泣き叫ぶ声の幻聴に十年以上も苦しめられているのか。
 叔父と父の違いは何なのだ。

「父はなぜ殺した人たちの悪夢に苛まれていると思いますか?」

「それは⋯⋯」

 叔父は何か言いたげに口を開きかけたが、やっぱりやめようというように首を横に振って苦笑した。

「言わないほうがいいね。お父さんを心底憎んでいる君にはあまりにも耐えがたいことだろうから」

 言いはぐらかされ、私は問い詰める。

「何ですか、言ってください」

「ごめん、やめておこう」

 遮られ、私はそれ以上詮索するのをやめた。

 それから私達の間に長い沈黙が流れた。


 ◆ ◆ ◆


 叔父とタクシーに乗ってユゴ埠頭へ向かった。

「姪っ子に会えて本当によかった。また機会があれば君に会いたい」

「私もです。本当にありがとうございました」

 連絡船の前で、私達は別れを惜しむように握手を交わした。

 叔父は丁度停泊していた連絡船に乗り、帝国へ帰っていった。

 船は水平線に差し掛かると、黒い点になって北大陸の影に溶け込んでいく。

 急に寂しさが込み上げて胸の奥がきゅっと縮こまるのを感じた。

「叔父さん⋯⋯」

 実質的に母を失った今、血縁者である叔父は私にとって一番近しい存在に感じられた。

 家系上の繋がりはないので家族とは言い難いけれど、それでも私と同じ血を持つ人。

 今この時初めて、自分にとって呪縛でしかなかった『血の繋がり』を温かく、優しいもののように感じられた。

 また機会があれば会いたいと叔父は言ってくれた。私もまた会いたい。しかし残念ながら、会える日は二度とないだろう。

 父を殺せば私は死刑、或いは刑務所で生涯囚われの身。大切な兄を殺された叔父は私を憎むことだろう。

 これが叔父との最初で最後の『邂逅』になるのだ。

 さようなら、叔父さん。⋯⋯永遠に。

 名残惜しさを噛み締めながら私は埠頭を去った。

 倉庫の並ぶ通路を進んで一般道の祭り会場に出た。店じまいしていた屋台はほとんど消え、歩道には串や紙皿などのゴミが大量に散乱していいる。暴動を恐れてか通行人はほとんどいなかった。

 交通規制された車道では相変わらず反対運動が盛んに行われており、警察官たちが呆れたような顔で並んで警備している。

 まるで世紀末のような廃れた光景だった。

 ガラ空きの歩道を歩いていると、ふと叔父の言っていた『言わないほうがいいね。お父さんを心底憎んでいる君にはあまりにも耐えがたいことだろうから』という言葉が気になった。

 あの時、叔父はなんと言いたかったのだろう――。

 もっと問い詰めればよかったと後悔する。

 ユゴ駅に近づくと、広間を埋め尽くすほどの人々の大群が見えた。各々、看板を掲げて「反対! 反対!」と怒号を上げている。駅の改札口の中まで人だらけだ。

 まずい。これだとヤケ村に帰れないではないか。タクシーで帰れば道のりの長さから運賃は数万、乗車時間は丸一日かかることだろう。

 とりあえず、人混みを掻き分けながら切符売り場まで向かうしかないかと諦めて私は広場へ向かった。

 万が一帝国人だと言われて暴行されては困るので、布を頭に巻いて顔が見えないようにし、群れの中に入ってゆく。

 人々の共和党への怒りと興奮が熱となって各々の全身から放たれており、熱くて身体中の毛穴から汗が滲み出た。

 狭い人混みの中を縫うように進んで行った時、押すな馬鹿! と誰かに怒られて私は思わず顔を上げてしまった。

 前にいたおじさんと目が合う。おじさんは私を見るやにやりといたずらな笑みを浮かべ、「帝国人がいるぞ!」と叫んだ。

 獰猛な猛獣に狙われたような恐怖感が、悪寒となって背筋を走る。

 咄嗟に踵を返して逃げ出そうとした時、おじさんに腕を掴まれて拘束されてしまった。

「やめて! 離して!」

「捕まえたぞー!」

 おじさんの歓喜に呼応するように周りから声が上がる。

「どこだ!」

「引っ張り出せ!」

 おじさんに広場の中央に停められている左翼団体の街宣車のところまで連れて行かれる。演説台に乗っていた奴が私を見るなり、「自分から死にに来ましたか、バーカ!」と笑って言い、手に持っていた拳銃の銃口をこちらへ向けた。

 全身を氷のように冷たい衝撃が走る。

「な、何を⋯⋯っ!」

 群衆の輪の外にいる警察官が左翼の奴の拳銃を見たのか、慌てたように笛を鳴らす。笛の音の後、警察官の声が響いた。

「銃を下ろせ! 言うことを聞かなければ手を撃つ!」

「撃つなら撃ってみろ!」

 挑発するように左翼の奴が叫んだ途端、遠くから銃声が響くと共に頭上から血の雫と、かん高い悲鳴が降ってきた。

 目の前を黒い物体が落下していき、カンッと足元で金属物の落下音がする。

「う⋯⋯撃ちやがったぁっ!」

 群衆が悲鳴を上げて散り散りに走り出し、辺りは騒然とする。

 一瞬何が起きたのかわからずぼんやりとしていたが、悲鳴を聞いているうちに 警察官が左翼団体に向けて発砲したのだ、と私は理解した。

 九死に一生を得られたらしいと胸を撫で下ろす。

 周りが混乱する中、私は足元に落ちた黒光りするそれを見た。

 左翼団体の持っていた一丁の黒い拳銃。

「おい! 誰か拳銃拾え!」

 演説台から声が轟いた。拾われたら今度こそ撃たれると危惧した私は無我夢中で拳銃を拾い上げ、急いで鞄の中にしまって駅まで駆けてゆく。

 走り交う群衆の中をひたすら駆け抜け、駅出入口の階段を昇り改札口へ向かう。

 背後から左翼の叫び声が響いた。

「帝国人の小娘が拳銃持ってたぞ! 追いかけろ!」

 追手に捕まったら殺されるか、或いは警察に引き渡されて私が危険物所持違反で逮捕されてしまう。そうなったら一環の終わりだ。

 人々でぎゅうぎゅう詰めになった駅内を進んで、改札口を無切符で通る。暴徒と警察から逃げ切ること以外何も考えられず、切符を買うことなど頭になかった。

 丁度乗り場に停まっていた汽車の客車内に飛び込む。入口付近にあった掃除用具庫の扉を開けて中に隠れ、息を殺した。ひとまず身を隠すことができたと内心で安堵する。

 扉の上部にある三つ開いた除き穴越しから外の様子を窺う。乗り場に隣接する改札口の向こうから、人々の騒ぎ声が響いてくる以外何も聞こえなかった。どうやら追っ手は来ていないようだ。

 やがて汽車は甲高い汽笛を鳴らし、走り出す。うまく逃げ切れたと安堵して、私はその場にへたり込んだ。

 ごめんね駅員さん、二回も無賃で汽車に乗ってしまって。ヨト村に着いたらちゃんと払いそびれたお金を払おうから。

 ユゴ駅を離れて山間を通る道に入ると、私は掃除用具庫から出て客車に入った。客は一人もいなかった。先程左翼の奴が叫んだ「拳銃を拾った帝国人の小娘」という声を訊いた者が車内にいないことに安堵し、窓辺の席に座る。

 私は膝の上に置いた鞄を見下ろす。中には先程拾い上げた拳銃が入っている。民間人が許可なく銃を持てば銃刀法違反になる。一つ犯罪を犯してしまったが、これからもっと大きな罪を犯すことになるので何のこれしきだ。

 そっと鞄の蓋を開けて、中を覗き込む。書類を挟んだ物入れの隙間に、柄が血で濡れた拳銃が入っていた。

 手に血が付かないよう銃身を持ち、そっと鞄から取り出す。物入れの隙間からするりと銃が抜けた時、発砲してしまうのではないかと思わずぞっとしたが、何事もなく私の手に収まる。

 拳銃の機能は兵器の資料から得た知識で知っているので、私は迷うことなく安全装置の留め金を引いた。これで引き金を引いても銃弾は出ないはず。そう思っても怖くて引き金など引く気には到底なれないが。

 微かに血なまぐさい臭いを発する銃を両手に収めながら、私は黒光りする銃身を眺めた。危険極まりない物を手に入れてしまったという危機感と罪悪感もある。だがそれ以上にこれで父をわざわざ外におびき出さなくても出会い頭に発砲できるかもしれない、という喜びのほうが強かった。銃があれば、人目に付こうが遠距離だろうが、相手を狙って引き金を引けば即死させることができる。

 こんな優れものを突然恵んでくれた運命の女神には感謝したい。

 父殺し決行日、ぜひ使わせてもらおうじゃないかと私は微笑んだ。
Twitter