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作者: 喉飴かりん
残酷な描写あり
13.母にさよなら
 市役所からチャグ宅に向かい、預かってもらっていた母を迎えに行った。

 呼び出し鈴を鳴らすと、玄関扉からおばさんが出てきた。白髪がちょっと増えたこと以外、おばさんの姿は三年前とほとんど変わっていない。

「おかえりなさい、ユミンちゃん」

「お母さん、暴れたりしなかったですか?」

 おばさんには、母は精神疾患を患っていると伝えている。
 おばさんは首を横に振り、にっこりする。

「大丈夫よ。朝から晩まで裏庭の縁側に座って呆然としていたわ。話しかけても全く反応しないから、ずっと放置しちゃったけど」

 私は安堵する。

「ありがとうございます。⋯⋯暴れてなくてよかった」

「じゃあ、お母さんを呼んでくるね」

 おばさんは中へ戻り、居間の奥に隣接する裏庭の縁側に座る母に声をかけた。

「お母さん、娘さん迎えに来ましたよ。行きましょう」

 玄関越しの遠くに見える母の背は全く動かなかった。このままではいつまで経っても家に帰れないとうんざりし、私はかまちを上がって裏庭に行った。

 私は縁側に腰掛ける母の肩を揺すりながら呼びかけた。

「母さん、行くよ」

 母は石像のごとく微動だにしない。おばさんもちょっと困ったような声で言った。

「お母さん、娘さん待ってますから、ほら⋯⋯」

 すると母は後ろを振り返り、おばさんのほうを見上げて「娘?」と訊いた。

「ほら、ここに娘さ⋯⋯」

「これが娘⋯⋯ですって?」

 母はくすくすと笑い、私を見上げた。

「やだなぁ⋯⋯これを娘だと思ったことは一度もないですよ」

 周囲から音が消え去る。

 私の出自を知るおばさんも、気まずそうな表情を浮かべて黙り込んでいた。

 私は今母から言われたことを反芻する。

 ――これを娘だと思ったことは一度もないですよ。

 確かに今、そう言われた。

 張り詰めた空気を振り払うように、おばさんが苦笑いしながら母に言った。

「ソニさん⋯⋯あ、あの⋯⋯」

「何か文句でも?」

 半ば怒りのこもった声で母にそう言い返されて言葉を失ったのか、おばさんは口ごもってしまう。

 再び重い沈黙が流れた。

 私は受け入れ難い事実に気づく。

 ああ、そうか。私は母から娘だと思われていなかったんだ。
 この十六年間、ずっと。

 それもそうか、望まずに産んだ子だものね。そう納得する一方で、私に泣きついてきた母に感じた愛おしさが、心の中で母と私を繋いでいたものが、あらゆる感情が全て色褪せて、闇の奥へ消え去ってゆくのを感じた。

 私がこの人を母だと一方的に思い込んでいただけななのだ。唯一母が私をいじめないからと、勝手にすがっていただけなのだ。

 心が空っぽになって悲しみも寂しさも何も湧いてこなかった。

 かろうじて動く頭に浮かんできたのは、今まで自分が母と思っていたこの女性に対してとんでもない甘えと勘違いと侮辱をしていたという反省。

 ごめんね、ソニさん。
 私、勘違いしていたんだね。
 私があなたの娘だって、一方的にそう思い込んでいたんだね。
 あなたが私に泣きついてきたから私のこと必要としてくれたのかと思っていたけど、身勝手な思い違いだったんだね。
 私、そういえば産みたくないのに産まざるを得なかった望まない子供だったんだよね。
 すっかり忘れていたわ。
 ごめんなさい、ソニさん。

 謝罪の言葉が脳内に羅列されてゆく。

 私は踵を返して、母だと思い込んでいた女性に言った。

「ヤケ村に帰るよ⋯⋯母さ⋯⋯いや、ソニさん」

 私が歩き出すと、背後でソニさんの立ち上がる音がした。

 チャグ宅を出てソニさんと汽車に乗り、ヨト駅に付き、ヤケ村へ続く道を歩いてゆく。

「ソニさん、ごめんね。私、てっきり自分のことをあなたの娘だと思い込んでいたの。ずっと小さい頃から。あなたが私にユミンという名前を付けて、育ててくれたし⋯⋯」

 自分の名前がユミンだと自覚するようになったのは、四、五歳の頃だ。ソニさんが私を遠くから指差して異父兄妹たちに「あれはユミンっていうんだ」と何度も言っていたから、私は自分の名をユミンだと思うようになった。

 私を自分の娘だと思っていなかったら名前なんか付けないし、育てもしないだろう。

 そう思っていたのに。

 それなのに私はずっとずっとこの十六年間、彼女の娘ではなかったのだ。

 先をゆくソニさんがいきなり立ち止まってこちらを振り返り、口を開いた。

「ユミン⋯⋯」

 突然名前で呼ばれて驚き、私は硬直した。名前で呼ばれたことは今まで一度もなかったから。

 ソニさんは私の前に進み出て、能面のような顔でくすくすと笑いながら言った。

「ユミンっていう名前の意味は⋯⋯剣だ」

「剣?」

 共和国でもユミンという名前の女性はたくさんいるが、由来が『剣』だとは聞いたことがない。

「アッちゃんが、私の股間を裂いた剣のことをユミンって言ってた。だからあんたの名前はユミンにした」

 剣――銃剣のことだろうか。確か帝国語で銃剣は『ヨェミン』と言う。

 ソニさんは『ヨェミン』のことをユミンと聞き間違えて覚えたのではないだろうか。なんとなく『ヨェ』と『ユ』は発音が似ている。

「あんたは剣だ。私の心を壊してくれるユミンなんだ」

 ソニさんはこちらを振り返って、いつもの無機質な笑みを浮かべた。

「アッちゃんは夢でも、起きていても、いつでも私をいじめてくる。村人たちも、旦那もみんなが私をいじめてくる。だから私は壊れたかった。壊れてしまえばみんなにいじめられても心は痛くないから。心を壊してくれるものが私には必要だった。壊れるには村人たちのいじめも必要だけど、でもそれだけじゃ足りないから私は反吐が出るらい気持ち悪いあんたを育てた」

 ソニさんの心を壊すために私を育てた。
 皆からいじめられて寂しかったから育てたという言葉を薄ら期待していたが、予想外かつ心を突き刺す理由に私は身をすくめる。

「私が、心を壊してくれるものなの?」

 ソニさんは頷いて続けた。

「あんたに母乳を飲ませるとき、いつも吐き気がした。あんたが吸い付いてきた感触が気持ち悪すぎて、何度乳首切り落とそうかと思ったか。でも心を壊すためだからって思って我慢した。あんたが這い這いして私に近づいてきた時は、でかい芋虫が近づいてきたような気持ち悪さを感じた。何度あんたを捨てようかと思ったけれど、ひたすらひたすら心を壊すために堪えて我慢して育てたの。村人たちと、あんたからいじめられて私はようやくアッちゃんのいじめから解放されるんだ」

 ずっと気になっていた。どうしてソニさんは自分を虐げた鬼畜の子供を間引かず育てたのか。

 その答えが十六年間越しの今、判明した。

 私はソニさんの心を壊すヨェミンとして育てられたのだ。

 父と同じく、ソニさんの心と人生を壊す鬼畜として――。

 生まれてきたことが一生償っても許されぬほどの大罪のように思えてきた。身の切れるような罪悪感に身体がわなわなと震え出す。

「そんなことのために、私は⋯⋯」

 人一人の人生を崩壊させるために私は今まで生きてきたのか。

 なんと残酷な存在理由だろう。

 それならいっそ産まれたときに殺してくれたほうがよかった。


 ◆ ◆ ◆


 翌日、今日まで毎日のように見てきたはずのユゴ市の光景が、まるで別世界のように見えた。自分という存在が母親と思っていた人から、社会から、この世のあらゆるものから切り離されて、自分だけが世界から浮いているような感じがして、見えている世界に現実味を感じられなかった。

 歩いている人も、歩道脇に並ぶ街並みも、自分が歩いている地面の感触も全てが希薄している。

 私はここを歩いていいのだろうか。
 私はここにいていいのだろうか。
 自分のいる世界があやふやに感じる一方、そんな不安にも駆られる。

 左横から突然カシャッと撮影機の音がして、私は驚き肩を震わせた。音のしたほうを向くと、中年男が周囲を見回して撮影機で写真を取っていた。新聞記者かもしれない。

 写真――。

 そういえば今日、セントベルク市役所に送る顔写真を撮りに行くんだっけ。

 虚ろな思考の中でふと思い出し、半ば意識がはっきりしてきた。

 ロト、私の叔父さん――私は彼に会うのだ。すっかり忘れていた。

 天涯孤独になってしまったところ、叔父という存在が唯一私に寄り添ってくれるような気がしてきた。

 虚ろだった世界が半ば鮮やかになって、現実味を帯びてくる。

 仕事が終わった写真屋へ行こう。私は頷いて歩く足を早める。

 午後五時に仕事を終えて市役所を出た後、帝国に送る顔写真を取得するため近所の写真館へ向かった。平日は注文がほとんどないということで、予約無しですぐに撮影可能だった。

 顔写真を撮影し、現像終了日の四日後に再び写真館へ向かい、写真を受け取る。続いて郵便局の国際郵便課へ向かい、出来上がった写真を封筒に入れてセントベルク市役所住民課へ送った。

 写真を送ってから三日後。定時で仕事を切り上げて帰ろうとした時、職場に国際通信課担当の職員が入ってきて私に「ナリメさん、セントベルク市役所からお電話がありました」と告げた。

 緊張と興奮で心臓が高鳴り、全身の脈が速くなるのを感じる。

 国際通信課に入り、セントベルク市役所住民課に電話をした。電話交換手と話した後、住民課に接続されて前回話した女性職員が電話に出た。

『ナリメ様、顔写真をお送りくださってありがとうございます。さっそく送って頂いた顔写真はロト様に開示させて頂きました。ロト様にご覧になって頂きましたところ、亡くなられたお姉様と顔がとてもよく似ていると大変驚かれておりましたよ』

 よかった、似ていると思ってもらえたかと私は心底安堵する。

『ところで実は⋯⋯今、ロト様が住民課のほうへいらっしゃっております。あなたとぜひお話がしたいそうで』

「えっ!? 本当ですか!」

『はい。ロト様と代わりますね、少々お待ちくださいませ』

 受話器が卓上に置かれる音がした。音声穴の向こうで、雑音混じりに会話が聞こえる。一瞬、おじさんの低い声がした。今のが叔父の声ではないかと思った時、脳裏に博物館の射影室で見たあの目鼻立ちの整ったおじさんの顔が浮かんだ。

 やがて受話器が持ち上げられる音がし、先程のおじさんの声が聞こえた。

『はじめまして、ユミン・ナリメさん。あなたは帝国語に不自由ないと聞きましたので、帝国語で話してもよろしいですかね?』

「は、はい⋯⋯」

 叔父の声を聞いた途端、行く先真っ暗だった中から突然救いの手を差し伸べられたような喜びが込み上げた。胸が熱くなって思わず泣きそうになる。

『この度は顔写真を送ってくれてありがとう。市役所からいきなりあなたを探している人がいると連絡が届いて、顔写真を見せられて本当にびっくりしたよ。十数年前に空襲で亡くなった姉の顔にとてもよく似ていて、まるで彼女が帰ってきてくれたようで嬉しいやら悲しいやらだったよ。今聞いたあなたの声も姉そっくりだ。間違いなくあなたはネメント家の血を引いていると確信した』

「あ、ありがとうございます⋯⋯」

『で、兄貴が現地にあなたたち母子をほったらかして帰ってきたんだってね。⋯⋯本当に申し訳ない。多大なご迷惑をおかけした』

「いや、あの、ロトさんが謝ることではありません」

『ありがとう。それにしても全く兄貴の奴、無責任なことをしたもんだ』

 無責任どころか筆舌に尽くしがたい非人道的行為なのだが、そんなこと直接言えるわけがなかった。

『それで、兄貴⋯⋯じゃなくてお父さんに会いたいんでしょう? 居場所を教えてあげるよ』

 私は慌てて胸の物入れから帳面と万年筆を取り出した。

『お父さんはね、今は帝国中部レディプティオ州のコンフェシオンコルリスという街にいるよ』

「コンフェシオンコルリス⋯⋯」

 帝国語で『懺悔の丘』という意味だ。

『コンフェシオンコルリスの東区西六条三丁目二番地の十』

「コンフェシオンコルリスの、東区、西六条、三丁目、二番地、十、ですね」

 私は復唱しながら帳面に住所を書き込む。

『そこに精神障害者専用の共同住宅『やすらぎの巣』がある。そこで今お父さんは暮らしているよ。お父さんは戦争の後遺症で重度の精神障害を患ってしまってから普通の生活を送れなくなってね、帰国してからはずっと『やすらぎの巣』に住んでいるんだ』

 共同住宅なのか。それだと殺す際に人目に付きやすいなと私は危機感を覚えた。

『あ、そうだ。今月の二十五日の日曜日に戦争体験講演会がコンフェシオンコルリスで行われるんだ。東区北七丁目四条三番地の東区市民会館でね。その講演会にお父さんも参加することになっているから、行けば直接会えるかもね』

 講演会だと余計人目につくじゃないかと内心で愚痴を吐きながらも、私は「ありがとうございます」と告げた。

『それと⋯⋯急なお願いで申し訳ないんだが』

「はい?」

『共和国のほうは確か三月七日は週末だよね。あなたもお休みかな? その日もし時間があったら、直接あなたにお会いしたいと思う。この出会い、僕は何かの運命だと思っている。せっかく姪っ子に会えたんだ、もっとゆっくり話がしたい』

 姪っ子――まさか今会ったばかりの私をそう呼んでくれるとは思ってもいなかった。彼は私を親族だと思ってくれているのだ。喜びが込み上げて目の奥が熱くなった。

 私も叔父と話がしたい。今まで自分がどれだけ父のせいで苦しめられてきたか。⋯⋯でもそんな話は叔父を悲しませてしまうかもしれないと思い直して、心の奥に引っ込めた。

「ありがとうございます。今週末は特に予定はないです。私もぜひロトさんにお会いしたいです」

 そう告げると叔父はさも嬉しそうに言った。

『それはよかった。どこで会おう?』

 私は帝国と共和国を繋ぐ連絡船が出入りするユゴ埠頭で待ち合わせして、帝共国際博物館で話そうと提案した。未だに街の混乱は収まっておらず喫茶店などで話すのは危険なので、警備が厳重な博物館なら安全かもしれない。

『わかった。その日を楽しみにしているよ』

「というか、今週末までに国外旅行申請を出せるんですか?」

『僕は九年前まで、毎年一、二回戦犯管理所にいるお父さんと面会するために、いつでも共和国に渡れる年間入国許可書を持っていたんだ。更新は三日ほどで終わるから、すぐ行けるよ』

 毎年共和国へ旅立って戦犯管理所へ面会にしいくほど、叔父は父のことが大切だったのか。
 これから私は叔父の大切な兄を殺しに行く。叔父には申し訳ないが。

『では、失礼します』

「こちらこそありがとうございました、ロトさん。会える日を楽しみにしています」

 電話が切られると私は受話器を置き、身体に染み渡る深い恍惚感に暫し放心した。

 その素晴らしい快感は、天にも昇るような心地と表現するべきか。

 私は天を仰いで両手を広げ、人目をはばからず高らかに笑った。

 自分の口から溢れ出るその笑いは文字通り『狂笑』だった。

 ようやく⋯⋯。

 ようやく、父の居場所がわかった。

 三年間、この日をずっと待っていた。

 これで私の復讐は、ついに成し遂げることができる。
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