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作者: 喉飴かりん
残酷な描写あり
19.絶望の底に降る光
 会場に甲高い悲鳴がこだまする中、私は銃を握る手に今まで抱いていた憎しみを込めて父の額を狙った。

 父は向けられた銃口を呆然と眺めていた。今殺されそうになっているというのに、怯える様子を見せないのが余計に胃を煮えくり返らせる。殺さないでくれ、と惨めに懇願してくれたほうがすっきり殺せるのに。

「ここで死んで頂戴、父さん」

 父は無言を貫いた後、微笑んで言った。

「⋯⋯はい、喜んで」

 父の見せた意外な態度に面食らい、私は硬直してしまう。まるで殺されることを望んでいるかのような返答に返す言葉が見つからない。

 私がぼうっとしたのが仇となった。視界の端に大佐の厳つい身体が現れた瞬間、私の腕に素早く手が伸びた。

 危機を感じた身体が咄嗟に動き、私は廊下に飛び出た。

「待てぇっ!」

 大佐の空気を揺るがすような怒声が廊下に響き渡る。まずい捕まる、と焦って私は廊下を走った。突き当りにあった階段を駆け下り、勢い余って足を挫き、私は踊り場に倒れてしまう。

 階段の上から「捕まえろ!」という大佐の叫び声が轟いてきた時、父の「待ってください」という気怠げな制止する声が上がった。

「僕が⋯⋯行きますから」

「しかしネメント君、行ったら殺されるぞ! 相手は銃を持っているんだ! 危険だ!」

「それでも構いません。行かせてください」

 自ら殺されに来るのか。父が階段に姿を表した時が最後の殺害の好機だ、絶対に逃がすなと自分に言い聞かせて、私は両手で銃を握り階段の上に銃口を向ける。

 来い、アト・ネメント。今度こそ撃ち殺してやる。

 やがて足音が静かに近づいてきて、階段上に父が姿を表した。壁に手を付いてよろけながら一歩一歩こちらへ近寄ってくる。

 父が踊り場を見下ろし、私と目が合った。照準の先に父の額が見えた時、私は引き金に指をかけた。銃を向けられているというのに、相変わらず父は怯える様子を見せない。

「殺されるのは本望? ちょうどよかった、じゃあさようなら」

 引き金にかけた指に力を込めた時、指が意思に反して動かなくなる。腕が震えて、手に力が入らなくなった。

 何かに引き金を引くのを止められているかのように全ての指が硬直する。自分の身体に起きた拒絶反応に私は混乱し、麻痺した指の関節へ必死に力を込めようとする。

 何、これ。

 私が引き金を引けないのを察したかのように、父が口を開いた。

「殺せませんか? そうですよね、初めは誰でも人殺しを躊躇うものです」

 人殺しを躊躇っている。自分の手の震えが父の言葉を物語っていた。

 嘘だ、と私は自分の身に起きている事態を否定する。だって今まであんなにも父を憎み、殺そうと何度も心に決めてきたじゃないか。それなのにどうして、どうして。復讐を誓ってきた自分自身に手のひらを返され、混乱は意識を掻き乱すほどに激しくなる。

 父は階段の手すりに掴まって、びっこを引きながら階段を降りてきた。

「僕も初めはそうでした。殺人訓練の時、共和国兵の顔を見て歩兵銃を握る手が固まったのです。どんなに憎い相手でも、同じ姿を持つ者を殺せないよう本能にそう刻まれているのですよ。残念なことに」

 淡々とした父の声が、殺害を躊躇う私を嘲っているように聞こえた。

 彼が一歩ずつこちらへ接近する度、私の両腕の震えは激しさを増す。

 撃て、撃て、撃てよ! と言い聞かせても、指は言うことを聞いてくれない。

「僕はこれまで何度も自分の罪深さに押し潰されて自殺しようとしても、未遂に終わりました。⋯⋯僕はずっと死にたかったんです。親友を殺されたのが憎いからと、子供も年寄りも誰彼構わず好き放題殺した僕に生きている資格などないですから」

 父は私の前に立ち、さも嬉しそうな口調で言った。

「さぁ、引き金を引いて。この罪深い鬼畜の僕を殺してください。あなたもそれを望んでいたのでしょう?」

 踊り場の壁から差し込む陽光が、父の整った目縁に浮かぶ潤んだ青い瞳を照らす。憂いを讃えた綺麗な眼差しに束の間気を取られてしまった。

 彼がもう一歩前へ進み出た時、顔全体が光の中に晒け出される。

 人形のように目鼻立ち整った女性的な顔立ち、切れ細った顎の輪郭、雪のように真っ白な肌。微笑む唇が艶やかな雰囲気を放つ。柔らかで母性的なその顔は、鬼畜といった印象からは遥かにかけ離れていた。

 まるで絵に描いたような凄まじいなまでの美しさであった。

 一瞬、目の前にいる父への憎しみを忘れて私は彼の顔を呆然と見つめてしまう。小さく開いた口から溜め息が溢れた。

 束の間の硬直が不運を招いた。階段の下から複数の足音が響いてくる。意識が足音のほうに引き寄せられ、私は階段の下を向いた。

 現れたのは大佐と警備員が三人。

「銃を下ろしなさい。警察には通報した。もうじきパトカーが来る。殺人未遂、及び銃刀法違反で君は逮捕される」

 警察、通報、逮捕という言葉に脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受け、反射的に身体が後ずさる。

「け、警察⋯⋯逮捕⋯⋯っ?」

 父が慌てて説得するように大佐に言った。

「やめてください、大佐。僕はこの子の人生をめちゃくちゃにしてしまったのです。裁かれるべきは僕なのです、だから⋯⋯」

「貴様は黙っておれ!」

 大佐に叱責されて父は黙り込む。

「娘を取り押さえろ」

 警備員たちは素早く駆け出し、銃を持つ私の片腕を力いっぱい捻り上げた。拗られた関節に激痛が走り、私は悲鳴を上げる。

 痛みに悶える中、私は今まで積み上げてきたもの全てが呆気なく打ち砕かれるのを感じていた。

 父が覚束ない足取りでこちらに駆け寄ろうとするが、大佐に突き飛ばされて転んでしまう。床に転倒しても父は震えながら立ち上がろうとし、大佐に懇願する。

「大佐⋯⋯やめてください⋯⋯その子を逮捕しないで⋯⋯お願いします、お願いします⋯⋯っ!」

 父の語尾が涙に震える。

 警備員に手から銃を取り上げられた時、底の見えない谷の絶壁から突き落とされたような感覚に襲われた。 

 掴まれ拘束された腕で、私は取り上げられた拳銃を必死に掴もうとする。

「いや⋯⋯」

 まだ、終わってない。

「返してっ!」

 まだ父を殺していないのに。

 取り上げられた拳銃が手の届かない距離まで遠ざけられた時、全てが終わったと予感した。あまりに残酷すぎる最後に、理性の壁が吹き飛んで私は絶叫する。

「いやぁっ! 返してっ! 離してっ!」

 私は今まで、何のためにここまで。

「大人しくしろ!」

 両手を縄で縛られ、両脇を警備員にがっちりと掴まれ、私は完全に身動きが取れなくなる。

 踊り場の壁にある硝子窓越しから、複数のパトカーの警笛が聞こえてきた。

「そんな⋯⋯」

 愕然として膝から力が抜け、私は床に倒れ込む。

 それは、私の復讐が失敗に終わった合図だった。


 ◆ ◆ ◆


 逮捕されてからの記憶は曖昧だった。一階広間で警察官に手錠をかけられ、市民会館の前に止まったパトカーに乗せられ、私はコンフェシオンコルリス警察署の留置所に連行された。

 背の高い塀に囲まれた、箱型の白い塗装の壁の建物に入る。塀の看板には『コンフェシオンコルリス警察署付属留置所』と書かれていた。塀の鉄柵が開かれ、建物の中に連れて行かれる。白い壁と床に囲まれた廊下には、逮捕された者たちを監禁する部屋の扉が並んでいた。

 留置所職員の監視下の元、更衣室で患者着みたいな白い囚人服に着せ替えられ、勾留部屋に入れられた。一畳間の狭い勾留部屋には衝立なしの便所の臭気とかび臭さが満ちていて息ができなかった。

 職員が部屋の鉄扉を閉め、鍵をかける。廊下に響き渡った重厚な閉錠音が、牢屋に閉じ込められたことを改めて実感させた。

 私は逮捕されて、牢屋行きになったんだ。頭では理解できるようになったが現実味を感じられなかった。

 私は壁にもたれかかってうずくまる。両手にかけられた手錠の鎖がジャラリと音を立て、自分が罪人になったことを意識させた。

 結局父を殺せぬまま、最悪な最後を迎えてしまった。

 今までチャグに助けられながら様々な資料を読み、聞き込み調査をして、一本の細い糸を手繰り寄せるように父を探し求め、ようやく行き着いた場所がこことは。

 私を導いてくれていたと思っていた神は、最後の最後で思わぬ落とし穴を用意していたらしい。

 神の嘲笑う声がどこかから聞こえてくるようだった。

 こうなってはもう外には一歩も出られないだろう。

 実刑判決を受けたらかび臭くて汚い刑務所に数十年も閉じ込められて、何の楽しみもない空虚な人生を送るのだろう。その間、父はまた普通に社会生活を送るのだ。

 終わった。全部終わった。必死に掴もうとしていたいじめられない人生は、牢屋に永く監禁される人生に終わったのだ。惨めさと情けなさで乾いた笑いが込上げてくる。

「あはは⋯⋯ははは⋯⋯はは⋯⋯」

 語尾が揺らいで途切れ、すすり泣く声に変わる。やりきれなさで胸が張り裂けそうになり、涙が絶え間なく溢れ出て、私は泣きじゃくった。


 ◆ ◆ ◆


「⋯⋯お母さんが帝国兵に犯されて妊娠して産まれた子、ねぇ」

 警察署の取り調べ室で、机を挟んで私は刑事と向き合い、今までの生い立ちと犯行動機を正直に全て打ち明けていた。部屋の隅では聞き取り係の警察官が忙しなく帳面に筆を走らせている。

「⋯⋯ナリメ君が生まれたのを期に家族は分散、鬼畜の子供と村人たちに差別されて、学校ではいじめられ。お母さんは犯された時の心傷で精神を病んでしまった。悲惨な生い立ちだねぇ」

 同情するような口振りだが、声色は全く持って興味なさげというように素っ気なかった。

「ナリメ君は今十六歳だから、大人と同じ刑事裁判になるね。殺人未遂と銃刀法違反だから無罪はないと思ってね。裁判で情緒酌量、もらえるといいねぇー」

 刑事はアハハと嘲笑うような笑いを語尾に付け足した後、続けた。

「ところで弁護士は付けるのかい?」

「⋯⋯いいえ」

 金がなくても国選弁護士を付けられるが、どうせ弁護があろうがなかろうが数十年間の懲役が言い渡されると予想して諦めていたので、今更弁護してもらう気にはなれなかった。

「そうかぁ。情状酌量がもらえなかった場合、殺人未遂と銃刀法違反、合わせて懲役六十年になるかもね」

 人生の何もかもを諦めていた私だが、長すぎる刑期に改めて深い落胆を覚えた。

「六十年⋯⋯ですか」

「びっくりだろ? 帝国は他国より刑罰が厳しいんだよ。建国した百年前から戦時中まで、反帝国主義者、犯罪者には容赦なく死刑、終身刑を下してきた国だからね。とにかく君は、出所する頃には七十六歳の婆さんさ。あっはっは⋯⋯」

 私が出所する頃には父は九十代、寿命で既に死んでいる可能性は高い。

 追いかけていた父は遥か遠い闇の中へ消え、届かぬ星になってしまった。


 ◆ ◆ ◆


 勾留されてから一週間が過ぎた。朝昼晩に出される食事はパン、チーズ、ザワークラフト、サラミだけ。今まで味付けの薄い質素な共和国料理ばかり食べていたため、脂っこい帝国料理は胃に重たかった。
 ムショの飯はまずいと言われるがまさにその通りで、パンは湿気っていて酸っぱく、チーズはほんのりカビ臭い。

 朝ご飯の後は、夜まで敷布団に籠もってずっと眠っていた。勾留期間が過ぎるまで外には出られないし、娯楽品も出されない。大好きな歴史書が読みたくて仕方なかった。

 刑務所へ移されたら、刑事が言うように約半世紀以上は外に出られないかもしれない。食って寝て、生理的に生きているだけの何もない人生がこれから訪れると思うと益々気怠さで身体が重たくなっていくのを感じた。

 その日も退屈な時間を過ごしていた。共和国の日付ではとっくに有給期間を過ぎており、今頃チャグやおじさんは帰ってこない私を心配していることだろう、と申し訳なく思った。

 その時、扉越しに足音が迫ってきて「一三七番」という看守の声が聞こえた。一三七番は私のことだ。私は布団から出て立ち上がると、扉を開けた。

「⋯⋯はい」

 看守は開かれた扉の隙間から腕を伸ばし、一枚の白い封筒を私に差し出す。封筒に書かれた「アト・ネメント」という名前を見た途端、臓腑を焼くような怒りが込み上げた。

 謝罪の手紙でも寄越してきやがったのか。

 看守から封筒を受け取った後、私は封を切った。ごめんなさいという旨の手紙だったら即行捨ててやる。苛立ちに身を震わせながら私は封筒の中の手紙を抜き取り、広げた。

『ユミン・ナリメ様

 帝国語に不自由なさそうだったので帝国語で書きます。読めなかったらすみません』

 その後は七行くらい私と母に対する謝罪の文が書かれていた。気安くごめんなさいと言われているようで腹が立ち、読み飛ばす。

『あなたが勾留されたという知らせを聞き、急遽手紙を送らせて頂きました。鬼畜である僕に人生を滅茶苦茶にされた上、罪人として刑務所に入れられるのは僕としては決して許せぬことです。僕はあなたを絶対に無罪にしたい。これ以上、僕のせいであなたが地獄に落ちるのは耐えられません』

「私を絶対に無罪にしたい⋯⋯だって?」

 私の人生を台無しにした奴がどの面下げてと私は苦笑したが、次の文で思わず面食らった。

『裁判の際、あなたに弁護士を付けたいのです。情状酌量を狙うためです。僕は法律事務所に行き、誠に勝手ではありますが弁護士にあなたの弁護を依頼することにしました。といっても弁護決定には当然本人の承諾が必要です。五月七日に弁護士が弁護の承諾の確認をしにあなたのいる留置所へ向かいます。あなたが弁護してもらうことを承諾した際に発生する契約金は、僕が全額負担致します』

 弁護士が五月七日に留置所に面会しに来るという文面からして、本当に父は法律事務所へ赴き私のために弁護してくれと頼んだらしいことが察せられた。

 しかも、会いに来る弁護士に私が弁護を頼むことが決定した際の契約金を、父が全額負担するとは。

 困惑とも驚きとも似つかぬ表現し難い感情に襲われて、手紙を持つ手が震えた。

「何なのよ、あいつ⋯⋯何のつもりで⋯⋯」


 ◆ ◆ ◆


 五月七日、父が依頼したという弁護士は本当に留置所へ訪れた。

 私は面会室に通され、硝子張りの壁越しに座る黒い背広姿の金髪中年男と向き合った。太い眉と二重のくっきりとした目が、堅苦しく真面目そうな印象を受ける。弁護士は固い表情を半ば綻ばせて、口を開いた。

「はじめまして。クレイズ法律事務所のジェームズ・クレイズです。本日はお父様があなたに弁護を付けてほしいとのご依頼を承り、本人に弁護を付けてほしいか否かの承諾のご確認へ参りました」 

「ユミン・ナリメと申します。よ⋯⋯よろしくお願いします」

 父さん、本当に弁護士を寄越しやがった⋯⋯と信じられない気持ちで私はクレイズに挨拶する。

 クレイズは口元の笑みを消して固い表情に戻る。

「警察が聞き取ったあなたの犯行動機、生い立ちを全て見させて頂きました。まずは、大変残念ではありすがお父様のご希望通りにあなたが無罪になることは決してないでしょう。計画的な犯行、明確な殺意、拳銃を国外から持ち出したこと⋯⋯これは決して言い逃れはできません」

 わかりきったことだと苦笑しながら私は「はい」と答える。

「しかし、情状酌量の余地はあると思います。裁判官があなたの証言に同情してくれれば、減刑の可能性もあります。

 農民という身分ゆえ村から出られなかったこと、お母様やあなたを救済してくれる福祉機関が周りになかったこと。それゆえ差別と迫害を受ける一方でしかなかったあなたは、父を殺すことで自分も村人たちと同じ帝国を憎む一員なのだと証を立てることにした。

 追い詰められて、考え抜いたゆえの最終手段として父の殺害を企てた。あなたが犯行を計画するに至ったのは、お父様の犯した戦争犯罪は勿論、村人たちがあなたを帝国人の混血だからと差別し続けたことと、救いの手が周りになかったのも一因だと思います」

 今初めて会った人間なのに、犯行動機を追い詰められてやむなく行ったことと理解してくれて、陰っていた心に光が射したような気がした。

「私としても色々と同情さぜるをえない点がたくさんあります。裁判で証言する際、裁判官に同情してもらえるような話の筋建てをすれば減刑判定を手にすることができるでしょう」

「減刑⋯⋯」

 思いもよらぬ希望に、胸に立ち込める闇が晴れていくのを感じた。裁判官に同情してもらえば、約半世紀もの刑務所生活を短縮できる可能性があるというわけか。重荷が下りたように心身ともに軽くなった。

 クレイズが上半身を微かに乗り出し、真剣な鋭い眼差しで私に聞いてきた。

「ナリメさん、弁護を受けますか?」

 姿勢を正し、口元に小さな弧を描いて私は頷く。

「⋯⋯はい」

 当然だ。減刑されて一日でも早く出所して、再び父に刃を向けてやりたいから。

 そうこなくっちゃというようにクレイズは微笑んだ。

「承知いたしました。では、弁護の契約は決定とさせて頂きます」


 ◆ ◆ ◆


 検察が裁判所に公判請求し、公判が決定した。今年地方で重大事件が数件起きたため遅れが生じ、初公判までニヶ月かかるという。それまでクレイズと面会室で、情状酌量の余地を得るための筋建てを作る会議が週に二回行われた。

 検察側は計画的犯行、殺意、武器の所有の点を攻めてくると思うので、こちらはひたすら裁判官に同情を乞う作戦で行こうという。

 勾留から一ヶ月経った日のことだった。私の部屋に三枚の謎の手紙が届けられた。差出人はどれも見知らぬ帝国人の名前ばかり。手紙に書かれた宛先はどれも留置所のもので、間違えて送られてきたものではなさそうだ。

「⋯⋯この人たち、誰だろ?」

 眉をひそめながら一枚の手紙の封筒を切って読んだ。

『ユミン・ナリメ様へ。突然の手紙すみません。あなたのお父様が主催している「ユミン・ナリメさんを救う会」に参加した者です』 

 いきなり理解不能な文面が目に飛び込んできて私は仰天して、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「は? ユミン・ナリメさんを救う会?⋯⋯父さんが?」

 救う会というのはつまり、支援団体ということだろうか。あいつ何を考えているんだと混乱しながら、私は手紙の続きを読んだ。文面には私の生い立ちに胸を痛めたこと、父が自分の犯した戦争犯罪のせいで娘が罪人になってしまったことを悔いて、救済活動に励んでいることが書かれていた。

 二枚目、三枚目も『ユミン・ナリメさんを救う会』の参加者からで、一枚目と似たような内容が書かれていた。

 外部で起きている異様な状況を全く掴めず、まるで得体の知れない宗教団体に絡まれたような恐怖感に襲われた。

「ユミン・ナリメさんを救う会って⋯⋯何なのよっ!」


 ◆ ◆ ◆


 初公判の一週間前、この日も面会へ訪れたクレイズに「ユミン・ナリメさんを救う会」から送られてきた手紙を見せた。

「父が変な支援団体を設立して⋯⋯そこから手紙が⋯⋯」

「あー、これですねぇ」

 知っているかのような口振りが気になって私は訊いた。

「団体のこと、ご存知ですか?」

 クレイズは頷いた。

「実はつい最近お父様からこの団体のことを知らされたのですよ。ナリメさんの減刑を実現するために世論を味方にしようと、自分の属する戦友会、帝国の史料保存委員会などと協力して設立した民間救済組織だそうです」

「世論を味方に⋯⋯?」

「本来裁判は世論を排除して行われるものです。しかし、全く影響がないというわけでもありません。かつて両親から虐待された子供が親殺しをして一審で懲役五十年判決が下りましたが、被虐待児支援市民団体や弁護団が減刑を望む運動を盛んに行って、世間からも支援の声が上がり、二審で懲役五十年から七年に減刑されたこともあります。偶然か世論の影響かはわかりませんが、少なからず裁判官の心に何か響くものがあったのかもしれません。お父様は裁判官の心証に影響を与えたいのでしょう」

 クレイズは俯き、深い溜め息を付いた。随分無謀なことをする父親だと半ば呆れている様子なのが見て取れる。似たような心境の私も溜め息混じりに苦笑した。

「本当、どこまで愚かな奴なの」

「確かに私もお父様の行動は無茶ではあると思います。しかし、私は今までの人生の中でこれほど真摯に償いをする方は見たことがないと酷く感心しました。お父様は本当に心の底から自分の罪を悔やみ、償いに励んでいらっしゃるのだと」

 父の肩を持つようなクレイズの言い方に腹が立ち、私の訊く声に怒りが滲む。

「どういうことですか?」

 クレイズは俯いたまま沈黙し、暫ししてから重い口を開くように言った。

「お父様は、この救済組織の設立、講演、署名活動、冊子の頒布に、十五歳から今まで自分が仕事で貯めてきた全財産を使い果たしたそうです」

 父を鬼畜と憎む私でも、あまりにも大きすぎる自己犠牲的な行為に思わず唖然としてしまう。

「全⋯⋯財産を⋯⋯?」

 自分の憂さ晴らしのために弄んだ女が妊娠して産んだ子供のために、なぜそこまでのことができるのか理解できなかった。

 父を愚かだと嘲る気持ちもどこかに吹っ飛んでしまった。クレイズもたまげたというような表情で続ける。

「精神障害者共同施設に払う高い月額金を惜しんで施設入居を止め、今は格安のボロい宿で寝泊まりしているらしいです。お父様は、自分の何もかもを捨ててでもあなたを救済したいのでしょう。⋯⋯信じられないという顔をしていますね。ではその証拠に、支援団体から頂いた写真をご覧ください」

「写真?」

 クレイズは傍らの鞄の中から四枚の写真を取り出し、私の方へ向けて机に並べた。

 一つ目の写真には、街頭で『ユミン・ナリメさんの減刑を望みます』という横断幕を掲げる人々、父と叔父の姿が写っていた。横断幕の左右では、支援団体員数名が通行人に署名を募っている。通行人が二、三人立ち止まって差し出された署名書に書き込みしていた。

 支援団体員数名は全く見知らぬ人物だった。彼らも私の犯行動機を知って支援することを決意し、減刑を望んでいるのか。

 二つ目の写真には、どこかの会議所らしき場所で机に並んだ傍聴者を前に講演をする父の姿があった。背後の黒板には『ユミン・ナリメさんを救う会』の横断幕が貼られている。会の参加者に向けて講演している時の写真なのだろう。

 講演する父の顔は見違えるほど生き生きとしていて、あの亡霊のような病的な雰囲気は微塵にもなかった。 

「何で⋯⋯父さん⋯⋯」

 困惑に心を掻き乱され、写真を持つ手が震えた。

 三つ目の写真を見た時、想像にもしていなかった信じ難い光景が目に飛び込んできて、声にならない悲鳴が私の口から飛び出た。

 チャグ、おじさん、おばさん、帝共国際博物館の職員たち、父、叔父が集まって救う会の横断幕を持ち、博物館の敷地で署名活動を行っている。

「チャ⋯⋯グ⋯⋯」

 チャグ、おじさん、おばさんが救う会に参加しているということは、殺人未遂を犯したのを彼らに知られてしまったのか。彼らの中で私は罪人になってしまった。チャグたちとの繋がりがぷつりと途切れてしまったような喪失感に襲われ、喉がからからに乾いて声が出なくなる。
 ホル一家は私にとって血の繋がらない家族のような存在だっただけに、一番知られたくなかった。自分の殺人未遂事件は、帝国の中の小さな事件で終わってほしかったのに。

「お父様の活動は、共和国でも少しずつ広まっているそうです」

 父さん、余計なことを⋯⋯。全身の神経を逆なでするような激しい苛立ちに襲われ肩を震わせていると、クレイズはまた鞄の中を探って一枚の封筒を取り出し、郵便物差し出し穴から私に渡した。

「支援団体から預かった、あなたのご友人からの手紙です」

 封筒に書かれていたチャグ・ホルという名前を見た途端、全身を電撃のような衝撃が駆け巡って私は身震いする。

 人殺し、見損なったよという文がその中に書かれているのではないかと思うと封を開ける手に力が入らなくなった。私が見切られたのかと恐怖しているのを察したようにクレイズは訊いた。

「ご友人から見切られたのではと思いましたか?」

 無言で私は頷いた。

「そんなことはないと思いますよ。彼が支援団体にいること自体が、あなたを見切っていないという何よりの証拠では?」

 クレイズの言葉で封を握る指に力がこもる。彼の励ましに心押されて、私は封を切って手紙を広げた。

『ユミン・ナリメ様へ

 チャグ・ホルです。何週間ぶりかな? ユミンちゃんが有給期間を過ぎても帰ってこないから心配になって、警察に捜索願い出したんだ。そうしたら何日かして、帝国警察からユミンちゃんが殺人未遂で逮捕されたって話を聞いて僕、気絶しそうになったよ。

 でも殺そうとした相手がユミンちゃんのお父さんだって聞いて、何か腑に落ちた。そうかぁ、お父さんを殺すために今まで必死に探していたんだね。何でユミンちゃんがお父さんを探しているのか理由をずっと言ってくれなかったからもやもやしてたけど、ようやく動機がわかってすっきりした。

 ユミンちゃんを人殺しだとは思いません。むしろ殺したくて当然だと思います。一方で、こうなるまで追い詰められていたユミンちゃんを救えなかったと自分の無力さに憤っています。

 二年くらい前、実はユミンちゃんをホル家の養子にしようという話を母さんと話したことがあったんだけど、父さんが「母親がいるのに無理言うな」って突っぱねちゃって。あの時、父さんの反対を押し切ってでもユミンちゃんを養子にしていれば、ユミンちゃんが独りで苦しむことなんてなかったのかもなと後悔しています。

 僕にとっては、ユミンちゃんは大切な友人であり血の繋がらない妹のような人です。ユミンちゃんのいない毎日が寂しくて仕方ありません。

 最後になるけれどユミンちゃん、必ず共和国に帰ってきてね。皆待ってるよ』

 皆待ってるよ⋯⋯という最後の言葉で胸の震えるような昂りに襲われ、目の奥が熱くなった。

「チャグ⋯⋯みんな⋯⋯っ」

 涙が滝のように溢れ出て止まらなくなる。

 手紙を涙で濡しながら、私は声を押し殺して泣いた。

 私、人を殺そうとしたんだよ? 

 それなのに、チャグもみんなも私を見捨てようとせず、帰りを待ってくれているの? 
 
 何で皆、私にそんなに優しくできるの?

 皆に迷惑をかけてしまったと申し訳なく思う一方、皆が惜しみなく手を差し伸べてくれたことが嬉しくて仕方なかった。

「皆⋯⋯ごめんなさい⋯⋯ごめんなさい⋯⋯」


 皆、ごめんなさい。

 皆、ありがとう。
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