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作者: 喉飴かりん
残酷な描写あり
16.宿敵
 私は迫りくる北大陸の全貌を見つめていた。

 ユゴ市にいた時は、海の彼方の水平線に浮く未知の世界にしか見えなかった北大陸。

 北大陸は世界の陸地の半分を占める。帝国はその馬鹿にでかい大陸の四分の一を領土にしているという。大陸を端から端まで徒歩で横断するには、半年以上かかるとか。
 
 北大陸の影はやがて色味を帯びてきて、海岸沿いの風景が明確になってきた。空まで届きそうなほど標高高く険しい連峰、その麓には煉瓦屋根の街並みが連なっている。

 絵画に出てくるような質素で美しい煉瓦の港町だった。帝国の一番東にあるハーバーポートという街で、そこからコンフェシオンコルリス行きの特急寝台列車に乗れる。

 埠頭に到着して船を降りると、私は港町へ向かった。街路に出ると、私は目の前に広がる麗美な光景に思考停止する。

 街路の両側に並ぶ煉瓦屋根の各建物は、全て集合住宅だった。窓に備え付けられた柵には色とりどりの花が植えられた鉢植えが引っ掛けられており、美しい色彩を描いている。

 頭上には、帝国の赤い国旗の吊るされた縄が何本もひしめいていた。物々しい雰囲気はあるものの鮮やかな赤が綺麗だ。帝国は立憲君主制で今や皇族に絶対的権力は無いものの、皇族を未だに国家の象徴、国民の代表として神様のように崇めている。旗が飾られているのはその証だろう。

 街路上空を白い鳩の群れが飛んでいった。共和国にあんな真っ白な鳩はいない。頭上の光景に見惚れていると、前方から馬車の音が迫ってきて咄嗟に私は顔を下げ、避ける。乳母車の日避け屋根のような形の馬車に、純白のドレスを纏った金髪の貴婦人が乗っていた。上流階級の貴族なのかもしれない。

 街路の歩道を行き交う人々はみんな金髪、茶髪、橙色など温暖色の髪で、顔立ちは彫り深い。彼らの日に当たってキラキラ光る髪の毛と相まって、街の何もかもが輝いて見えた。

 コンクリート作りの建物ばかりで地味な共和国の街と近い、帝国は異常にきらびやかだった。

 ちょっと観光したいな⋯⋯という気持ちになるものの、あと一時間で特急寝台列車が来る。それまでに駅へ辿り着かなければならない。なんとか街をぶらつきたい気持ちを抑えて、私はハーバーポート駅へ向かった。

 郊外の山沿いにあるハーバーポート駅の乗り場に行くと、既に特急寝台列車が停まっていた。最前列の一号車両に乗り、事前予約していた部屋へ向かう。予約したのは、見ず知らずの人たちと二段ベッドで寝泊まりする最安の部屋だ。昼夜他人と乗り合わせることになる。治安的にあまりよろしくないし、居心地は悪いが貧乏人は我慢するしかない。

 自分の部屋を見つけて仕切り布を捲ると、室内左右に備え付けられた二段ベッドが目に入った。中央の狭い通路奥には窓があり、景色を眺めることができる。

 右側ベッドの下段には大きなリュックを持つ旅人らしいおじさんがいた。

 出発時刻になると汽笛が鳴り響き、寝台列車が動き出す。コンフェシオンコルリスに辿り着くのは三日後だ。それまでずっと寝台列車の中で過ごすことになる。

 走り出した寝台列車は、ハーバーポートを抜けて標高高い連峰の連なる山間の路線を駆けてゆく。車窓越しには、見るだけで背に悪寒が走るほど深い渓谷が広がっていた。脱線したら助からないだろうなと怖くなる。

 顔を上げて連峰を見た私は、圧倒されて息を呑んだ。頂に塩を降ったような白雪が積もっていて、切り立った岩肌が地上まで伸びている。山の周囲にかかる霞の中を猛禽類と思われる鳥たちが旋回していた。まるで御伽噺に出てくるような幻想的な山だ。
 この標高高い連峰があったおかげで、昔からハーバーポートは陸続きの他国からの襲撃を避けることができたという。

 夕方になっても岩山連峰の光景は延々と続いた。いい加減見飽きてきて、私は寝台に寝転がる。

 天井を見つめながら、私はふと父の顔を思い浮かべる。

 今まで想像してきた、亡霊のような濁った青い瞳を持つ不気味な父。
 お姉さん、叔父曰く皆から慕われていたという心優しい好青年の父。

 この目に映る父の姿はどちらなのだろうか。

 三日後の朝、いよいよコンフェシオンコルリス駅が迫ってきた。

 私は三日前からずっと変わらない岩山連峰とその麓に広がる畑のみの殺風景な風景を眺めた。
 進むに連れ徐々に連峰が遠ざかり、周囲に段々と民家や商店街が増えてきて、だいぶ街らしくなってきた。

 やがて畑がほぼ無くなり、煉瓦屋根の建物の密度が増してきた。街だ。遠くの岩山の緩やかな丘には並ぶ住宅街が広がっている。

 岩山盆地に囲まれた小さな丘の街――コンフェシオンコルリスにようやく辿り着いた。

 列車内に車掌の声が響く。

『次はコンフェシオンコルリス。コンフェシオンコルリスでございます。お降りのお客様は手荷物などをお忘れにならないようお気をつけください』

 コンフェシオンコルリス駅に辿り着き、客車から乗り場に降りると突然秋並みの冷風が身体を掠めて、私は震え上がった。時差や季節は共和国とそんなに変わらないはずだが、なんと寒いのだろう。ハーバーポートにいた時はこんなに寒くなかったのに。山風の影響だろうか。

 寝台列車が去っていき走行音も消えると、物音一つ聞こえない深い静寂が訪れた。線路沿いの一般道には車一つ通らず、通行人もほとんどおらず殺風景だ。

 乗り場から改札口へ向かい、木造平屋の小さい駅を出る。駅前には広場もタクシーもなく、すぐ目の前に道路が左右に伸びている。道路沿いには煉瓦または木造の一軒家の民家が並んでいた。

 私はリュックの側面の物入れから地図を取り出し、『やすらぎの巣』の場所を示す赤点を指差した。東区西六条三丁目二番地の十。叔父から教えてもらった住所を調べ、地図に赤点を書き込んでおいた。

 殺害場所候補の一つ目が『やすらぎの巣』だ。建物内に侵入して父に会えたその時、頭に銃弾を叩き込んでやる。

 徒歩で歩き続けること一時間、住宅街から中央街に出た。繁華街だというのに周りは中古建築の平屋ばかりで、シャッターを降ろしている店が多い。通行人もニ、三人ほどしかいない。

 こんな閑静な場所で銃声を鳴らせば、かなり遠くまで音が響くはずだ。警察が駆けつけるのもすぐだろう。失敗は許されない。

 地図に従って人けのない中央街を進むと、『精神障害者共同住宅 やすらぎの巣』という看板が一階玄関上部に掲げられた建物を発見した。

 建物の側面に並ぶ各窓のほうを見て、父の姿がそこにあるのではないかと探る。しかしどこにも人の姿はなかった。

 私は玄関に近寄った。硝子張りの扉の取手を開けようとしたが、勝手に出入りできないようにしているのか鍵がかかっている。

 玄関横に呼び出しボタンがあったので押した。音が鳴って暫くすると、玄関戸奥の廊下からエプロンをした女性職員が出てきた。見知らぬ訪問者で警戒したのだろう、彼女は半ば訝しむような表情で私を見ながら訊いた。

「何か御用でしょうか?」

「ここにアト・ネメントさんはいらっしゃいますか?」

「はい、いますが」

 頭蓋骨の中で爆発が起きたような衝撃を受け、理性が一瞬吹き飛びかける。

 ここにいるのだ。
 父が。
 ここにいるのだ。

 長年追いかけてきた私の宿敵が。

 我を忘れてしまいそうなほどの興奮で全身の毛穴から熱気が吹き荒れ、すぐさま汗だくになる。

 昂りを抑えられず呆然とする私を見て、女性職員は不審そうに眉をひそめて訊いた。

「どうなさいました?」

 興奮で頭がのぼせる中、なんとか思考を働かせて私は答える。

「い、いえ⋯⋯それより、彼に会いたいのですが」

「ネメントさんとはどういったご関係で?」

 眉をひそめ声を低めてそう訊く女性職員の態度から、関係者以外は立ち入るなという拒否の意思を感じた。

 どうにかして彼の知人ですと嘘を付かなくては入れないだろう、と私は焦りながら考えを巡らせる。友達というには年が離れすぎているし、家族だと言っても本人確認すればすぐ嘘だとばれる。

 私がいつまで経っても答えられないのを不審に思ったのか、女性職員は険しい表情を浮かべて言った。

「答えられないのですか? ではお帰り下さい。ここは関係者以外立ち入り禁止です」

「そんな⋯⋯」

 女性職員は無言で硝子張り扉を閉め、鍵をかけた。あっさりと門限払いを食らった私は、その場に突っ立つ。

 殺すには一番人目に付きにくく適切だった殺害場所を失ってしまった。

 今更開けてくださいお願いしますなんて言っても、無理だろう。興奮が一気に冷めて心が萎え、私はその場に膝をつく。

 もうここからずらかるしかない。やりきれなさを噛み締めながら私は立ち上がって後ろを振り返り、宿のある道を歩く。だがこのまま帰るのは宿敵に負けたような気がして煮えきらず、私は立ち止まる。
 背後に聳えるやすらぎの巣の中で今、門前払いされた私を父が嘲笑っている気がして、胃のねじ曲がるような悔しさが込み上げてきた。

 せめて一発、憎悪を浴びせてやらねばこちらの気が済まない。

 燻るやり場のない感情を深呼吸に込めて、私はやすらぎの巣のほうに身体を向けて叫ぶ。

「アト・ネメント! いるなら聞け! 私はあんたを絶対許さないっ!」

 その時だった。三階の玄関側にある一つの窓の遮蔽布の隙間から、まるで私の叫びに応えるように人影がふと現れた。

 背景の暗闇に紛れて顔はよく見えないが、確かに誰かが窓辺に立っている。

 そこにいるの? 父さん。

 暫しすると、人影は興味が失せたのか踵を返して闇中に消えた。


 ◆ ◆ ◆


 父は確かにやすらぎの巣にいた。そして父との距離は目と鼻の先だった。

 近くの空いていた民宿に宿泊した私は、コンクリート壁の狭い監獄みたいな部屋の寝台にうずくまって、悔しさに歯を噛み締めていた。

 あと少しだった。あと少しで奴に近づき、銃弾を放つことができたのに。

 掛け布団を握りしめながら私は負け惜しむ。

「関係者以外立ち入り禁止だったか。私の情報不足だったわ」

 残る殺害場所は二日後の二十五日に開かれる戦争体験講演会。ここは思いっきり人目に付く。銃を向けた時に誰かに取り押さえられたら終わりだ。危険度は高いが、もう他に方法はない。

 私は明日の講演会で父をどう殺すか脳内で演習してみた。

 父が演説台に立った時、走って彼の隣に行きそこで銃殺してやろうか。しかし、後ろから取り押さえられる可能性がある。

 何度も案を考えては捨てを繰り返し、結局良案は思い浮かばず私は考えるのをやめた。

 夜が明けてついに迎えた二十五日の早朝。私は民宿の食堂で朝ご飯を食べた後、リュックの中にしまっておいた小さい雑嚢を取り出し、その中に財布、地図、鉄箱を入れた。

 準備は整った。私は雑嚢の紐を肩にかけて立ち上がり、部屋から出た。

 宿の外に出ると、柔らかな日光が私の顔を照らした。昇り始めた太陽が峰から顔を出し、岩山連峰の灰色の肌を黄金に染めている。
 日の目を見られるのも今日が最後だろう。明日からはきっと真っ暗で殺風景な牢屋の中だ。今のうちにしっかり外の光景を目に焼き付けておかねばと思い、私は岩山の連峰を眺めた。

 相変わらず人けのない街中を独り進んでいき、私は東区北七丁目四条三番地の東区市民会館を目指した。

 宿から徒歩で三十分かかるところに東区市民会館はあった。市民会館は日焼けして飴色になった木板で構成された三階建ての建物で古そうだった。玄関の硝子扉には『戦争体験講演会』という見出しの書かれた貼り紙があり、午前十時から三階第一会議室にて開演、入場無料とある。

 今はまだ午前七時。開演まであと三時間もある。私は玄関扉横の長椅子に座って、施設関係者が来るのを待った。

 午前八時に館長らしき中年男がやって来て、玄関扉の鍵を開けて私に「どうぞ」と言ってくれた。私は彼に促されて中に入り、講演会の開かれる三階第一会議室に向かった。

 外壁は木造だが内部はリノリウム材質の白い壁と床で出来ている。中央玄関広間の左右に通路があり、正面に階段があった。階段を上がって三階に行き、第一会議室と書かれた札のある扉の前へ行き取っ手を回す。

 扉を開けると、パイプ椅子が部屋の左右に三つずつ整列されていた。椅子の行列は奥の黒板までずらりと続いている。結構な数の傍聴者が来ることを想定しての席数なのかと思い、心臓が緊張で高鳴る。

 すぐ移動できかつ銃を取り出すのを前方から見られないよう、私は前列から三番目の通路側の席に座った。向かいの黒板前にはマイク付き演説台が置かれている。演説台の横には講演する者たち用らしい長机が置かれていて、椅子が三つある。あのどれかに父が座るのだろう。

 やがて時刻は九時三十分になり、室内の前後の出入口から次々と傍聴者がやって来た。十五分経つと席は満席になり、人々の話し声で騒がしくなる。

 凄まじい緊迫感に私は身震いし固唾を呑んだ。こんな大勢の人間がいる中で自分は殺人を行うのだ。

 ついに時刻は十時を迎えた。前方の扉が開いて、背広を身に着けた初老の男性が入ってきた。両裾が筋肉で盛り上がっていて全体的に厳つい体付きだ。たくましい肉体からしてもしかすると軍人なのかもしれない。

 彼に続き私服姿の三十代か四十代くらいの男性二名が入ってきて、黒板前の専用席に座る。金髪と茶髪の中年男で、叔父と顔は似ていない。

 二人だけ? と私は困惑する。もう一人はどうしたのだろう。

 背広の初老男性は演説台に立ち、マイクを手に取って挨拶した。

「皆様、こんにちは。本日は市民会館にお集まり頂き誠にありがとうございます。私はコンフェシオンコルリス戦友会代表で現役陸軍大佐です。さっそく帝国軍元兵士の方々による戦争体験講演会を始めようと思います。まずはご挨拶願います」
 
 金髪が「スェードです」と答えると、続いて茶髪が「ロータスです」と答える。やはり二人は父ではなかった。

 なぜ父が来ない。参加予定が破棄されたのか。しかし、席はもう一つ空いている。出席しないなら置かないはずだ。なぜだ。まさか父が参加を急遽キャンセルしたというのか。だったら全てが台無しじゃないか、と絶望感のあまり目の前が真っ暗になるような気持ちになった時、大佐が心配そうな面持ちで自分の入ってきた扉の向こうをじっと眺めた。

「大丈夫ですか?」 

 扉の向こうに誰かいるのか。私は扉のほうを見つめた。開いた扉から二人の女性職員に肩を支えられ、びっこを引きながら歩く白いワイシャツと黒いズボン姿の青年が現れた。

 青年の髪は鮮やかな橙色で、寝癖みたいに毛先がぼさぼさしている。長い前髪が口元辺りまでだらりと伸びており、顔は見えなかった。

 大佐が彼を見て訊いた。




「大丈夫ですか、アト・ネメントさん?」



 周りの音と光景が全て停止したような気配が私を包む。



 時間を止めたように何も動かない世界の中で、私の目は橙色の髪の不気味なその青年だけを捉えていた。





 アト・ネメント。



 私の実の父親。




 夢にまで見た宿敵の姿が、今ここに。






「父さん⋯⋯」



 その呟きは、意識が現実に帰ると共に戻ってきた周囲の雑音に掻き消される。

 女性職員が困ったような声色で大佐に答える。

「今日は鬱状態が酷くて起き上がるのも大変だったのですが、薬を飲んで無理矢理にでも講演会に行くって聞かなくて⋯⋯」

 アト⋯⋯私の父は女性職員に支えられながら扉側の端の席に座り、顔を俯かせた。

 女性職員が父に訊く。

「話せますか、ネメントさん?」

 父は無言で頷いた。

 気怠そうに俯く父は、黒く毒々しい瘴気を放つような気配を纏っていた。



 父さん、私はここよ。




 目眩がするほど意識は恍惚とし、心臓は破裂寸前にまで激しく高鳴り、全身の血管が痛いくらい強く脈打つ。








 やっと⋯⋯やっと会えたね、父さん。

 この日をずっと待っていた。




 私の視線に気づいたのだろうか。

 父が微かに顔を上げてこちらを見た。

 前髪に出来た隙間越しの薄闇から、魚の目のように濁った青い瞳が現れる。

 亡霊の眼のごとく不気味極まる眼差しに見つめられ、戦慄のあまり全身の毛穴が寒気を伴って開いた。


 ああ⋯⋯あの眼だ。


 彼が見せたのは、私が父の姿を想像する度に何度も描いた、あの意思疎通の効かないような獰猛な瞳だった。
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