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作者: こむらまこと
第25話 犬吠埼沖糧食盗難事件〈五〉
 あきらは、リュックサックの中から金具が付いた1枚の布を取り出すと、付喪神たちに向かって広げて見せた。
「この旗を使って、船と連絡を取り合ってほしい」
 付喪神たちは、長辺が90cmくらいの青と黄の2色の旗を、まじまじと見つめる。
「これは国際信号旗こくさいしんごうきと言って、旗の模様が1つのアルファベットを表しているんだ。この場合は『Kキロ』だな」
「そして、そのひとつひとつのアルファベットには、それぞれ定型文が定められているのよ」
 明が説明し、横からまりかが補足する。
 国際信号旗は、船と船、船と陸上の間の通信に用いられる旗のことで、26の文字旗と10の数字旗、そして4つの特殊な旗の計40旗で構成されている。
 明は、真ん中で黄色と青色に分かれた「K」の文字旗を見下ろしながら、その定型文を口にした。
「『私は、あなたと通信したい――I wish to communicate with you』」
 そして、再び付喪神たちに目を戻す。
「それが、この旗が表す定型文だ。本当は食糧を要求するような定型文があれば良かったんだけど、残念ながらそういうものは無くてさ。それで、一番使えそうなものを選んでみたんだ」
 明が考えた、船からの食糧盗難に対する解決策。それは、「付喪神たちが船で食事をすることを正式に認めてしまう」というものだった。
 一度、人間の食べ物の味を覚えてしまった怪異や妖が、食べたいという欲求を抑えるのは非常に難しい。というより、基本的に彼らは人間が決めたルールなどお構い無しに自由気ままに振る舞う。禁止を言い渡したところで、すぐに我慢ができなくなることは目に見えていた。
 それならばいっそのこと、人間側が船に招いて食事を振舞い、程よくガス抜きをさせてやればいいのではないかと考えたのだ。問題なのは予期しない事態によって船の食糧の消費計画が狂ってしまうことであり、事前に付喪神たちが来ることが分かっていれば、それを考慮に入れた上で食糧を消費していくだけの話である。
 明は、リュックサックの中から旗をもう1枚取り出した。形は細長い台形で、赤と白の縞模様をしている。
「この旗が『回答旗』だ。犬吠埼灯台に『K』の旗が掲げられているのを見た船が、この『回答旗』を掲げることによって了承の意思を示す。そこで初めて、君たち付喪神は船に乗ることができるという流れになる」
 明は、ひびきとあかりを順に見て、最後にルミエールを真剣な表情で見つめた。
「ここが、一番重要なところだ。もし、船に向かって旗を掲げても、船側から回答旗による返答が無かったら、その時は諦めてほしい。極力、君たちの要望に応えてあげたいとは思うけれど、人間側にも色々と事情があるんだ。この約束は、守れるか?」
 厳しい響きを帯びた明の言葉に、ルミエールはギュッと口を結んで顔を俯かせる。
「ルミエール」
 まりかが、穏やかな声で呼びかけた。
「あなた達は人間ではないけれど、人間の活動圏内で生きていく以上、多少は人間たちの事情についても知っておいてほしいの。そして、できれば協力してほしい。この当たり前の日常を、これからも当たり前に過ごしていけるように」
 まりかは、おもむろに灯台を見た。釣られて、ルミエールも灯台に目を向ける。
 抜けるような青い空を背景にそそり立つ、煉瓦造りの白亜の塔。安全な航海への願いを込めて、140年以上も前の人間たちが技術のすいを集めて造り上げた、美しい建築物。
(そうだ)
 ルミエールは思い出した。
 他ならぬ人間の手によって造られたこの犬吠埼灯台が、自分は大好きであるということを。
「……『I wish to communicate with you』」
 気がつくと、ルミエールはその定型文を呟いていた。
 それから、自分を気遣わしげに見つめる人間たちを振り返り、切なそうに微笑む。
「『私は、あなたと通信したい』か。これを食糧の要求として使うって、結構こじつけなんじゃない?」
「うっ」
「いや、まあ、そこはね……」
 見事に痛い所を突かれて、まりかも明もしどろもどろになってしまう。
「――でも、俺は良いと思う」
 ルミエールが、両手を「K」旗に伸ばした。
 明はハッとして、ルミエールの小さな手にそっと旗を渡す。
 ルミエールは、真ん中で青と黄に分かれた大きな旗をしっかりと掴んで広げると、少しの間じっと見つめる。それから両手を降ろし、おずおずと呟いた。
「食い物盗って、悪かった。ごめんなさい」
「っ!」
 まりかと明は驚いた。そもそも、今回の件について付喪神たちに謝罪を求めるつもりは全く無かったため、予想に反してルミエールがしおらしくなってしまったことを、2人は意外に感じている。
「わ、わたしも。ごめんなさい」
「あたしも、ちょっと食べちゃったから……ごめんなさいね」
 続けて、あかりと響も2人に謝る。
 まりかと明は、付喪神たちの真摯な態度にしばし胸を打たれていたが、やがて明が気を取り直すと、冷静な口調で話しかけた。
「それは俺たちじゃなくて、船の乗組員たちに直接言ってほしい」
 そしてすぐに、こうつけ加える。
「でも、ありがとうな。気持ちは確かに、受け取っておく」
「私も。あなた達のその気持ちは、忘れないわ」
 同じくまりかも、付喪神たちの言葉を受け入れる。
 ルミエールと響、そしてあかりは、安堵の表情を浮かべて互いに顔を見合わせた。
「そういえば、あなた達のために持ってきた物があるの」
 まりかはボストンバッグの中をゴソゴソ探ると、円筒型の物体を取り出した。
「これ、万華鏡っていうの。少しは暇潰しになるかと思って」
「万華鏡?」
「とりあえず、ここを覗いてみれば分かるから」
 不審そうな顔をしつつも、ルミエールは教えられた通りに万華鏡の中を覗いて、少しずつ回してみる。
「――きれい」
 ルミエールが驚嘆した。しばし見蕩れてから、万華鏡をあかりに渡して、覗いてみるように促す。
「良かった、気に入ってくれたみたい」
 代わる代わる万華鏡を覗いて楽しむ3人を眺めながら、まりかは胸を撫で下ろした。
「そういえば、万華鏡を考案したのはイギリスの物理学者だったらしいな」
 回答旗を丁寧に畳みながら、明がふと思い出したことを口にする。
「ええ。なんでも、灯台の光を遠くに届ける実験をしている時に発見したんですってね」
「ほほう。それはなんとも、不思議な巡り合わせじゃのう」
 いたく万華鏡を気に入っていたカナは、その意外な繋がりに素直に感心の声を上げる。
 その時、ふうわりとした優しい潮風が一同の間を通り抜けた。頬を撫でるその一瞬、不思議な温もりを残して去っていく。
 それに後押しされるように、明が腕時計に目を落とした。
「もうすぐ開館時間だな」
「じゃあ、そろそろお開きにしなきゃね」
 まりかと明は、浮かれてはしゃぎ合っている付喪神たちに声をかけると、お菓子のゴミを片付け始める。
 遠くから、自動車の走行音が少しずつ近づいてくる。
 いつもと同じ犬吠埼灯台の1日が、今日も始まろうとしていた。



 犬吠埼灯台が立つ断崖絶壁のすぐ北に広がる砂浜に、幼い人魚の甲高い歓声が響き渡る。
「ひっさびさの海じゃーい!」
 豪快な波飛沫を立てて海面から跳ね上がったのは、クジラの下半身を持った白髪の少女。その堂々たる尾びれを美しくしならせながら空中で見事に身を翻すと、今度は波音ひとつ立てずにと海中に没してしまった。
「あの子、人魚だったんだな」
 遊泳禁止の海で気持ち良さそうに泳ぎ回るカナを眺めながら、明が納得したように呟いた。
「驚かないの?」
 缶コーヒーで一息ついていたまりかが、斜め前に座る明に訊ねる。
「まあ、ひょっとして〈異形〉なのかな、くらいは思ってたから」
 明は緑茶のペットボトルから口を離すと、少しだけ身体を捻ってまりかの方を向いて答える。
「やっぱり、それくらいは分かるものなのね」
「まあ、海異対に〈異形〉の人がいるってのもあるし」
「そう」
 そこでしばし、会話は途切れた。太平洋の荒波が波打ち際で砕け散る音に、2人は思い思いに耳を傾けている。
(もう、今ここで話しちゃった方が良いよね)
 まりかとしては、正直なところ海異対の話も気になってはいるのだが、それよりも今は別の事柄について、どう説明したものかと頭を悩ませている。
「……最初に、響が言ってた事なんだけど」
 そして結局、真正面から核心に切り込むことにしたのだった。
「やっぱり、気になるよね?」
「……ああ、もしかしてあのこと?」
 5秒ほど考え込んでから、明が怪訝そうにまりかを見た。
「気になるというか、風の乙女シルフィードの知り合いがいるのかなって、俺は思ったけど」
「……」
 あっさりとした明の返答に、まりかは軽く言葉を失う。
「そ、そう……そうよね。普通、そう解釈するわよね」
 完全に墓穴を掘った形となったまりかは、明から顔を背けて思わず苦笑してしまった。
 客観的に考えれば確かに、響のあの言葉から、まりかが精霊と親子関係を結んでいるという発想に至る方が難しいと言える。
(とんだ自意識過剰だったわね)
 そういうわけで二の句を継げずにいたまりかだったが、そこへ明が、躊躇いがちに声をかけてきた。
「もし嫌でなければで良いけど、どういう事情か聞かせてくれないか?」
 まりかは顔を上げた。
 明が、少し緊張したような面持ちでまりかを見つめている。
 菊池明は、本来なら他人の事情に首を突っ込むようなことはしない。しかし、この時だけは何故か、むしろ首を突っ込んでやらねばならないと、直感的に思ったのだ。
「えっとね」
 そしてまりかは、そんな明の想いやりに応えるべく、あっけらかんとエリカの正体を口にした。
「お母さんが風の乙女シルフィードなのよ」
「え?でも」
 すぐには言葉の意味が分からず、明はまりかのことをつい凝視してしまう。
 どう見ても、精霊の血が混じっているようには見えない。
「あ、血は繋がってないわ。養子なの。ちなみに、お父さんは普通の人間よ」
 まりかが補足し、明はさらに混乱する。
 しかし、すぐにその意味を理解して驚愕すると、思い浮かんだ言葉をついそのまま口にしてしまった。
「それじゃあ、精霊がわざわざ、人間の子供を養子に取ったってことか?」
「うーん、やっぱり珍しいのかな」
「少なくとも俺は聞いたことがないな……というか、『わざわざ』なんて失礼だよな、ごめん」
「いいの、気にしないで」
 まりかが軽く手を振った。家族の秘密を話せてスッキリしたのか、その顔には屈託のない笑顔が浮かんでいる。
(良かった。家族仲は良いみたいだな)
 まりかの表情からそう判断した明は、心の底から安堵する。
「そういえば、明の出身ってどこなの?三管区勤務ってことは、やっぱり関東?」
 まりかは今度は、明について訊ねてきた。知り合って数週間が経つのに、未だに出身地の1つも知らないままであることに気がついたのだ。
 しかし、普通なら当たり障りの無いはずの話題に、明は言葉を濁した。
「ああ、出身……盛岡、岩手県の」
「岩手かあ。行ったことないなあ。でも、地元から離れた土地で働くなんて、大変じゃない?」
「そうでもねえよ」
「?」
 まりかは、明の表情が曇ってきたことに気がつく。
(地元の話は止めておいた方が良さそう)
 明の変化を敏感に察知したまりかは、すぐさま話題を変えることにした。
「そういえば、海異対ってどんな人がいるの?私、同業者みたいな人との繋がりが全然無いし、実は結構気になってるのよ」
「うーん、そうだな。まず、得意とする技が全員違う感じだな。例えば、榊原さんは――」
 話題が逸れたことにホッとした明は、海異対のメンバーについて一通り説明する。まりかは興味津々な様子で、しきりにふむふむと頷く。
「――というわけだから、朝霧が杖道が得意ってことを伊良部さんが知ったら、手合わせしたいとか言い出すと思うぞ」
「あははっ、きっと私じゃ勝てないだろうなあ」
 砂浜に敷いたレジャーシートの上で、飲み物片手に和やかに談笑する明とまりか。その様子は、さながらピクニックである。
 そして、その平穏な時間は唐突に終わりを告げる。
「とりゃああ!」
「っ!?」
「きゃっ!?」
 目にも留まらぬ速さで海から上がってきたカナが、2人の間に大量に何かをぶちまけた。 
「ちょっと!可哀想だから早く海に戻してあげなさいよ!」
 レジャーシートの上でグネグネと蠢いている大量のナマコを目にしたまりかが、鋭い目付きでカナを見下ろす。
「なんじゃあ、せっかく獲ってきてやったというに」
 人魚姿のカナが、砂浜の上で腹ばいになり、頬杖をついて口を尖らせた。
 見方によっては可愛らしいが、まりかは決して騙されない。
「ホテルじゃ調理できないし、というか食べきれないし、それ以前に私と明が密漁したみたいになっちゃうじゃない!」
「みつりょう?なんじゃあ、そりゃ」
 カナが、薄い眉を顰めてコテンと首を傾げる。
 まりかは、その愛くるしい仕草を完全にスルーして、明に密漁の説明を求めようとした。
「明、密漁についてカナに……って、あれ?」
 ここでまりかは、明の様子がおかしい事に気がつく。
「ナ、ナマ……ナマコ……」
 明が思い切り顔を引き攣らせて、全身を硬直させている。その片手には何故かナマコが握られ、膝の上にも更に数匹散らばっていた。
「うむ、ナイスキャッチじゃな!」
 カナが愉快そうに、ビシッと親指を立ててみせる。
「ちょっと、大丈夫?」
 まりかが、明の肩を揺らした。
 明が、目だけを動かしてまりかを見る。
「ナマコ、だけは、ホ、ホント、ムリ……」
 どうやら、極度のナマコ恐怖症らしい。だったらどうしてナマコを握ったままなのかと一瞬思ったが、ナマコがいきなり手の中に飛び込んでくるという事態に脳がフリーズしたのだろう。
 可哀想になってきたので、まりかは明の手と膝からナマコを退かしてやることにした。
「ハハッ!こやつの弱点が分かったな!」
「だからってナマコを使って苛めたりなんかしないでよね」
「ちょいとおちょくるだけなら」
「ダメ」
 まりかはカナをせっついて、ナマコたちを元の海底に戻させる。ナマコはそこまでヤワな生き物ではないので、すぐに元気を取り戻すだろう。
「この様子だと、ホヤとかも苦手かもしれないわね」
 未だに放心状態の明の横で、最後に残ったナマコのイボをツンツンとつつきながら、帰りの電車で明の好きな食べ物くらいは聞き出してやろうと決めたのだった。
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