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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
金色の頁:裁定の行方
遠雷と共に到来した嘶きは誰のものか。
そしてこの戦いの行く末は。
 それは嘶きというよりは咆哮と呼ぶべきものだった。大地を揺るがし、空気を沸騰させるほどの密度を持った音の波が、巨大な獣から発せられたのだ。
 力強く、凛々しくも美しいその声が、耳を塞いだはずのセナの脳を直接揺さぶるかのように響き渡る。同時に全身が震えるような感覚に襲われ、とめどない恐怖が胸中から溢れ出してくるのを、セナは目を瞑り必死に押し留めた。
 永遠にも感じられた咆哮が収まったのを確認して、セナは瞼を上げ、耳を塞ぐのをやめる。そして周囲を見渡してから、肩をすくめた。

「威厳は健在のようです。まったく恐ろしい方ですね」
「ええ、敵でなくてほんとによかったと思う」

 セナとエインヘルが見渡す限り、彼女らに群がっていたアンスールの集団はことごとく蹲っていた。
 それだけではない。各々震え上がっているらしく自らを掻き抱いていた。その姿はまるで彼らにも生存本能が存在し、それが恐怖によって喚起されているかのようだった。

「可笑しなものだ。多くの個体が奪われたのは確かだが、それによって我らに須くこんなものが刻まれてしまうとは。我らには、生き残らなければならない、などという価値観は存在しないというのに」
「簡単なことですよ、ルジャ。個体を減らされること、それは即ち私たちが担えることが減ることを意味するのです。それは当然忌避すべきことでしょう」

 ルジャは毒気を抜かれたように前髪を掻き上げ、ふんと鼻を鳴らした。杖を持つ手が微かに震えており、それを見ながら天使は自嘲気味に笑う。

「貴様の言う通りだエインヘル。我らはこれ以上担い手を減らすわけにはいかぬ。それにしても——互いへの不干渉は締結したはずなんだがな。余程その娘にこだわりがあると見える」
「ええ、私の娘は特別ですから。ふふ、私もあの王があんなにもお熱とは知りませんでしたが」

 他愛のない会話が繰り広げられるのを、セナは一歩引いて見ていた。セナにとって、エインヘルという存在が同胞と談笑をする姿は新鮮だった。エインヘルのそのような姿を、セナはいまだかつて見たことがなかったのである。
 セナが不思議な心持ちでその光景を眺めていると、唐突に影が差し、次に空中庭園が揺れた。

「このような形での闖入、誠に非礼であった。謝ろう、使徒よ」
「なら最初から割り込んでこないでもらえると助かるんだが。——獣の王ニルィク」
「だが割り込まねばその娘に先がなかったであろう。それでは困るのだ」

 セナとエインヘルを腹の下に庇いながら、獣の王はルジャと対峙した。
 龍に似た顔には厳格な皺が刻まれ髭が伸びており、鬣は黄金色を宿す。その肉体は鹿だが牛の尾が生えており、馬の脚が力強く地面を踏み締めている。陽光を照り返す鱗が印象的に煌めいていた。

「何にせよ、先ほどの言葉通りこの娘は余が貰い受けよう。無論、非礼の件もある。其方らが納得いかないのであれば、この場で一戦興じるのも良かろう」

 ニルィクの義理を通そうとする提案に、ルジャがため息まじりに肩をすくめた。やれやれと首を振り、ご冗談を、と言葉をこぼす。

「今更貴様と事を構えるほど愚かではない。勝手に連れていくがいい。……だが一つ条件を飲んでもらう」

 ルジャが杖を地面に突き立てると、天使たちが一斉に立ち上がった。それぞれの翼が大きく広がり、それぞれの瞳がニルィクを睨め付ける。
 条件を飲まなければ、という天使たちの意地だろう。

「その娘を連れ、現時刻を以て融和の国を出てもらいたい」
「なんで……? あたしに、あたしの国から出て行けっていうの?」

 裁定の天使の語る条件を聞いて最も動揺したのはセナだった。
 融和の国は、彼女がようやく建て直した異端者の存在が許される場所なのだ。ゆっくりと国が前に進み出した矢先に、女王自らが出ていくことになるとは考えもしなかったのである。

「裁定はなされなければならない。貴様の命を奪えないのであれば、釣り合いの取れるものを貴様から奪わねばならない。我々はずっと見ていたから知っているのだ。この小さな国こそ——この宝石の箱庭こそが、お前が何より大事にしているものだと」

 ルジャは極めて冷静だった。ニルィクが条件を良しとしても、セナがそれを飲むことができなければ、それはニルィクによる過干渉として追及の余地が存在する。他の誰でもないセナによって否定されれば、獣の王とて勝手はできぬはずだと。

「天秤とは恐ろしいものですね、ルジャ。彼女は人間であるが故に合理性よりも感情に左右されるという可能性をあなたはよく心得ています。しかし彼女は」
「大丈夫だよ」

 セナがエインヘルを制した。目尻からとうとうと涙を流しながらも、その瞳は強い意志を宿しており、覚悟を窺わせる。

「ここで戦われて大事なみんなが怪我をする方があたしは嫌だもの。出ていけば収まるのならあたしは出ていく。そもそも、あたしの力で乗り越えられればこんなことにはならなかったんだから」

 ドレスの袖で乱暴に涙を拭って、セナはルジャを射抜くように見つめた。目の周りが赤く染まるのも構わず、セナは声高に言葉を続ける。

「それで構わないのでしょう?」
「ああ、その決断を私は聞き届ける」

 ルジャが杖を一振りすると、天使たちの臨戦態勢が解かれた。無表情な木偶人形へと変わり、色を宿さぬ瞳たちが、セナへと向けられる。
 セナが国を確かに出るまで、その先に至るまで天使たちは彼女を見届けるつもりなのだと、エインヘルは直感し歯噛みをした。

「あの時よりも強くなりましたね、セナ」
「そんなことないよ。……母さん、後のことをお願いします。みんなにもよろしく伝えておいてほしい。国のことは、あなたとジュディスがいれば、混乱も少ないでしょう」

 エインヘルにはセナの表情を読み取ることができなかった。右目を覆い隠す前髪が作り出した影が、顔を覆っていたのだ。だから、セナの言葉に従うことしかできない。

「えっと、こういう時は——そうだ。行ってきます」

 顔を上げたセナは毅然とし、顔には影一つ残していなかった。彼女はニルィクの足元から白日の下へと身体を晒すと深呼吸をし、懐から笛を取り出し口元へ運ぶ。
 悲哀を宿しながらも透き通った音色が空へと運ばれ始めた。そしてそれはセナを取り囲む天使たち、ルジャ、エインヘル、ニルィク、そしてジュディスに優しく降り注いでいった。
 身体の芯をも震わせるような音色が止まると、セナはどこか吹っ切れた顔をしていた。

「さようなら、あたしを憎み、あたしが憎み、あたしが愛して、あたしを受け入れてくれた場所」

 破れたドレスの裾から覗くセナの素足が、淡い青色を宿した。それは翼の紋様をして、太ももから指先までを輝かせる。ぺたぺたと裸足で地面を踏み鳴らして、強く蹴りつけた。
 一陣の風と共にセナはその場から姿を消した。誰も彼もその姿を追うことはできずに、今し方彼女が立っていた場所を見つめることしかできなかった。

「ふむ。ならば余も行くとしよう。あとを追わねばならぬ」

 獣の王はそれだけ言うと一足飛びに空中庭園を抜け、その巨体を揺らして走り去っていった。

「え? 姉さま? また私を置いて行ったのですか? どうしてですか? 今度こそは一緒にいると決めていましたのに」

 一部始終を呆然と眺めていることしかできなかったジュディスは拳を握りしめ、歯を食いしばった。そして両目を見開き、金色の瞳を輝かせてしばらくすると、ため息と共に身体の力を抜く。
 エインヘルが何かを察した顔でジュディスに近づき口を開いた。

「ジュディス、今後の国のことですが」
「はあ? 私には関係のないことです。姉さま以外が私に命令しないでください。姉さまの言葉以外に従う道理はありませんので。――私は姉さまを追いかけます。今度こそ私は、姉さまと共に生きるのです、エインヘルさま」
「そうですか。残念ですが、あなたならそう言うと思っていましたよ。……ならば脚が必要でしょう。セナに追いつくには必要でしょうから。——

 エインヘルが手を振り上げ、彼女の翼の名を呼んだ。

「ったく、お前もセナも所構わず呼ぶんじゃねえ。そもそも従者契約はとっくに破棄されていてだな――ああ? なんだよこの状況は。なんでアンスールがあんなにもいやがる? オレがいない間に何が起こってやがるんだ、エインヘル」

 黒光りする一本角の獣がどこからともなく光の粒子と共に現れ、きょろきょろと周りを見渡しブルルッと鼻を鳴らした。その姿は馬によく似ていて、光沢のある絹のような白毛であり、鬣も金色に輝いていた。
 呼び出されたは状況が飲み込めないのか、しきりに首を動かしている。エインヘル、ジュディスを視線に捉えて、しばし沈黙した後首をひねった。

「セナはどうした? あいつも一緒にいたんじゃないのか? ここにはあいつの気配がまだ残っているだろう。どこに行った? あいつらと関係があるのか」
「相っ変わらず飲み込みの遅いキザ男ですわね。——姉さまは命が助かる代わりに国を追われたのです。私はあとを追いたい。私の足になりなさい、姉さまの翼よ」

 ジュディスがずいと前に出て、一角獣デゼルに状況をかいつまんで説明し、その背に跨ろうとした。——が、飛び退いて避けられ、威嚇の表情を向けられてしまう。

「痛いっ! 私に尻餅をつかせるとはなんて無礼者ですのこの馬車馬っ」
「だからっ、オレに命令できるのはオレだけなんだよ。呼ばれるとついつい飛んできちまうが、それはそれとして……」
「そういう律儀なところが好きですよ、デゼル」

 警戒の意志を解かないデゼルの頬をエインヘルが撫で、宥める。

「だからこれはただの、私のお願いです。どうかジュディスをセナのところまで送り届けてください。その後のことは、あなたが決めると良いでしょう」
「……わかった。いいだろう。——ほれ、じゃじゃ馬娘、乗れ」

 渋々といった様子で背中を下げるデゼルに、ジュディスは鼻を鳴らしながらも跨った。

「乗り心地だけは褒めて差し上げましょう」
「ああそうかい。なら次はオレの脚も褒めるこったな」
 
 角を天高く掲げ、デゼルが駆け出した。
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