残酷な描写あり
R-15
金色の頁:予言、そして旅立ち
外に出ることになったセナ。
これは旅立ちのお話。託される予言と、追いかけてきたのは。
これは旅立ちのお話。託される予言と、追いかけてきたのは。
セナは笛を吹いていた。
巨大な岩に腰掛け、背を預けるようにして空を見上げながら、ひたすらに笛を吹いている。音が乱れがちなのは、彼女の目尻からこぼれ落ちる雫と、込み上げてくる嗚咽のせいだ。
がむしゃらだった。国を支えるというのは一介の狩人であったセナには重くのしかかり、それでもやれることをひたすらにやっていくだけの日々だった。忙しくも充実し、国もうまく回り始めていたというのに、国を出ることになってしまった。
彼女は過去にも一度国を出たことがあるが、その時とは真逆の感情を抱いている。
笛の音が止む。
「結局あたしは、外にいる方がいいのかしら」
空に呟きをこぼすも、風が吹き抜けるだけだった。彼女の問いに答えるものは存在しない。
ドレスもボロボロで、靴も履いていない。眼帯だけは付け直しているが、セナが酷い格好をしているのは間違いなかった。燃え尽きてしまったかのように呆然と翡翠色の空を見上げる彼女は、痛々しいほどに虚を纏っていた。
「これからどうしよう。まあ、とりあえずは生きてみようか」
獣の威嚇する声を、セナの耳が捉えていた。視線を動かすと、小ぶりな猪が走ってきているのが見える。その獣にとっては巨大な岩など障害にもならないとでも言わんばかりに、セナへと一直線のようだった。
「はは、久しぶりだねこの感じ。今はあの子もいないけれど、心配をかけるわけにもいかないな」
セナはひょいと立ち上がり、身体をぐぐっと伸ばしながらんん、っと可愛らしい声を漏らした。そして岩の上で足踏みをすると、一思いに岩から飛び出し猪の頭上へと躍り出る。そのまま空間を蹴り付け、猪へと真っ直ぐに飛び込み、後頭部へ踵を見舞った。
猪は自らの勢いのまま前方に転がり、身体を強張らせるもやがて脱力して動かなくなった。
「ふぅ、ごめんね。ちゃんとありがたくいただくから」
セナが感謝を捧げつつ懐から取り出した、彼女には大ぶりなナイフで猪を処理しようとした矢先のことだ。
空に色彩が走ったのは。
カーテンのようにゆらゆらと揺れる極彩色が、セナの上空を覆い始める。
地面が色づき始めたのを見て、セナはようやくそのことに気がついて空を見上げた。
「何あれ……」
目を丸くするセナだが、尋常でないことを直感で察知して咄嗟に右目の眼帯を外した。
金色の右目が顕になり、その現象の情報を少しでも得ようとセナが目を見開く。しかし、その現象に関して理解を得ることは叶わなかった。――アンスールも知り得ない超常の現象だという理解を得るには十分だったのではあるが。
「ふうん。幻想的で綺麗だ。新しいことに触れるのはいいね、心が踊る。外に出るのも悪くない、か」
呟きをこぼしながら、その極彩色の行末を見守るセナの前で、光が弾けた。
様々な色彩が雨のように降り注ぐ。それは地面に到達するとそこに色を映し出した。
ぽつぽつと波紋が広がる様を不思議そうに眺めているセナ。その瞳が、朧げな存在を視認した。右目をもってしても存在を捉えきれないそれは、ただただ光が歪んで形が浮かんでいるようだった。
「こんにちは」
ほぼ透明な存在が、澄んだ声音でセナへと挨拶を落とした。
その声は、自然が織りなす音のように美しい。
「こんにち、は? きみは、誰?」
セナは戸惑いながらも挨拶を返し、質問を投げる。その額には僅かに汗が滲んでいた。
「ええ、こんにちはセナ。そしてごめんなさい。私にはまだ名前も、存在すらも確かなものはありません。ですので、その質問には答えられません」
空間の歪みが頭を下げたように、セナの目には映った。
セナがよくよく目を凝らすと、浮遊する存在の背中にそれはそれは美しい翼があることに気がついた。
「綺麗な翼だね。まるで色の雲みたい」
「……ふふ、やはり特別なのですね、あなたは」
「そんなことないよ。あたしはただの異端者だもの」
会話を重ねるごとに、セナは自身の緊張がほぐれてくるのを感じていた。誰かとの会話がここまで助けになることを改めて感じ、口元が緩む。
「いいえ、異端者だからこそ世界を変える存在に足るのです。ですから私は少しだけズルをして、僅かな時間を作ってあなたに会いにきたのです」
どこまでも透き通る声が、セナの耳から脳へと染み渡る。しかしその言葉の意味を捉えかねて、首を傾げた。
「あたしに、会いにきた?」
「ええ、私はあなたに、来たる星の終末を伝えにきたのです」
セナが彼女の言葉を反芻し、目を丸くする。
色彩の雨がセナの頬にぽつぽつとこぼれ落ち、それは涙のように滴った。
「その時がくれば、あなたの大切な宝石たちの国も、なくなってしまうのです。ですから、協力してほしいのです」
「協力? いったい何をしたら、いいの?」
セナは、よくできた話だ、などと思っていた。
現在の己の生きる理由を失いつつあったセナの元へ偶然現れた存在。それが提示する、彼女の大事なものが失われる可能性。それを餌に利用されるのだということは、勘のいいセナには理解できていた。それでも、と思考する。
「協力してくださるのですか?」
「ええ。あたしは大事な場所を出ることになったけれど、そこが失われたわけじゃない。でも、失うことになると言うのならば、協力しない理由はないもの。きみが都合よくあたしを利用しようとしてるんだとしてもね」
セナは澄ました顔でそう言ってのけ、上から見下ろす存在を睨め付ける。
「それで、結局あたしは何をしたらいいのかしら?」
「――星創龍の力を集めてください。この星に生きとし生きる生物たちの礎となった、祖たる存在の力を。さすれば闇を晴らす一助になるでしょう」
「星創龍……?」
「ええ。あと伝えておくべきことは、終末は冒涜の夜を契機に引き起こされる、でしょうか」
「冒涜の夜……?」
しきりに首を捻るセナ。彼女が持つ力でも、その言葉の一端すら理解することはできなかった。しかも、その存在によって説明がされるわけでもない。
あまりにも情報が少なすぎやしないか、などとセナが考えているうちに、色彩の雨はまばらに、そして止んでいく。
「もう少し情報をくれてもいいのではないかしら?」
「それは私の役目ではありません。伝えるべき予言は確かに伝えました。後のことは、彼に任せるとしましょう。それでは、そろそろ雨が止んでしまいますので」
「ちょっと待って」
「私ももう少しお話ししたいのですがそれは――またいずれ」
空にかかる極彩色のカーテンが色彩の粒となって世界に溶けていくのを、セナは歪みの向こうに見届ける。程なくして晴れ渡った翡翠色へと空の色が変わる頃には、降り注ぐ色彩も、雲であった翼も、空間の歪みも跡形もなく消えていた。
セナは現在が昼間であったことを思い出し、呆気に取られた。手足を動かし、全身で少しだけ運動をして、確かに現実であることを確認する。
「ん……よし。――それにしても、なんだったんだろう今の。昼でも夜でもない感じ。それに予言? あれは誰だったのかしら? 悪戯じゃないといいけれど」
理解の及ばないことにモヤモヤする感覚。それを久しぶりに味わうセナの顔は明るい。思えば昔はいつもこうだった、なんて懐古に囚われる自分にやれやれと首を振るが口角は上がっている。
一息ついたところで、セナの耳が大きな蹄の足音を拾った。その方向へと顔を向けると、視線の先にニルィクの姿が映る。
「余を振り切るとは大した脚だ、女王よ」
「今のあたしは女王じゃない」
「否。あの決断をできるのは王たるものの器よ。敬服に値する」
「そうかしら? でも、どうせ呼ぶならセナって呼んで」
セナはつっけんどんに吐き捨てると、ふいと顔を背けた。それが身勝手な感情からであることを彼女は理解しているが、ニルィクの姿を見るとどうにも先ほどの件と繋ぎ合わせてしまうのである。
「まだまだ若いな、セナ。だが、それは其方にまだまだ伸び代があるということでもある」
「ごめんなさい。あなたは、助けてくれただけなのに」
「感情の揺れ動きは大切にすることだ。それが希薄になればなるほどに、其方は異端ではなくなるだろう」
ニルィクはセナの負の感情を向けられても動じることすらない。それどころか安堵したように皺を緩ませ微笑むほどだった。強者の、王としての威厳がそこには張り付いている。
「ねえ、どうしてついてきたの?」
「それが余の此度の意味であると余の心が叫んだからだ」
「わけわかんない」
「それで良い。――セナよ、余が行動を共にすることを許してくれるか?」
巨大にして強大な獣の王が膝を折り、矮小な異端の女王に恭しく首を垂れた。
「あなたの方が王に相応しいじゃない。あたしの方が頼むべきでしょう」
「いいや、頼む側が頭を下げるのだ」
「……好きにすればいいじゃない。――よろしくお願いします」
「心得た」
ニルィクが顔を上げ、頬をセナへと寄せる。
セナが戸惑いながらもその大きな皺を撫でると、撫でた部分から炎のように猛る熱が流れ込んでくるのを感じた。それが心を奮い立たせてくれることに気がついたセナは、もう片方の手を胸に当てる。
「あなたは、温かいのね」
「あー! 姉さまがニルィクさまと懇ろにしてるー!」
「お前、よくあの空気に飛び込んでいけるな」
セナは突然の声にニルィクの頬から手を離した。ニルィクはくつくつと笑う。
「ジュディ……と、デゼル?」
「ああ……その、久しぶり、だな」
「追って来ちゃいましたっ」
「えぇ……」
セナは妹の到来にも驚きを隠せなかったが、気まずそうな一角獣を見てより一層目を丸くした。
「ああ、その、なんだ。エインヘルに頼まれたんだ」
「そっか。きみも、一緒に来るの?」
「いや。悪いがオレは戻る。あいつだけじゃ心配だからな。それに、お前のやりたいこと、やりたかったことをオレは理解してるつもりだ」
「そうだね。きみがいれば安心だ。お母さんのこと、お願いね」
任せておけ。とデゼルはこぼして黙り込んだ。ここで話は終わりなのだと察したセナは妹へと振り返る。その顔は呆れ果てていた。
「どうして追って来たの?」
「もう、置いていかれるのはごめんですから。今度は私も、共に立ち向かわせてください」
「国のことはどうするの?」
「エインヘルさまに任せてきました。それに、姉さまのいないあの場所に私の居場所はありませんから」
あくまで真剣な声色、表情で告げるジュディスにセナは髪を前髪を掻き上げやれやれと呟いた。
「……わかった。そこまで言うなら、一緒に行こう」
「はい、必ずお守りいたします」
跪いたジュディスがセナの手を取り、甲に口付けをした。
デゼルがブルルッと鼻を鳴らして薄く笑う。
「じゃじゃ馬娘、追い返されなくてよかったじゃないか。ま、なんにせよこれで身軽に帰ることができる。――セナのことを頼むぞ」
「あなたに言われなくてもわかっていますわ。帰りの道中、気をつけることですね」
言われるまでもない、とデゼルはぼやいて走り去っていった。
「此度は道を分つか。――しかし、これはこれで賑やかな旅となりそうだ。して、妹君よ、余は邪魔にならぬか」
「ええ、ニルィクさまはこの旅路に必要なお方ですから、ぜひ共に参りましょう。――目指すは」
ジュディスが遙かな空へと腕を振り上げ、指を差した。
「嵐の取り巻く島です!」
セナが頭の上に疑問符を浮かべる隣で、ニルィクがなるほどといった顔をした。
巨大な岩に腰掛け、背を預けるようにして空を見上げながら、ひたすらに笛を吹いている。音が乱れがちなのは、彼女の目尻からこぼれ落ちる雫と、込み上げてくる嗚咽のせいだ。
がむしゃらだった。国を支えるというのは一介の狩人であったセナには重くのしかかり、それでもやれることをひたすらにやっていくだけの日々だった。忙しくも充実し、国もうまく回り始めていたというのに、国を出ることになってしまった。
彼女は過去にも一度国を出たことがあるが、その時とは真逆の感情を抱いている。
笛の音が止む。
「結局あたしは、外にいる方がいいのかしら」
空に呟きをこぼすも、風が吹き抜けるだけだった。彼女の問いに答えるものは存在しない。
ドレスもボロボロで、靴も履いていない。眼帯だけは付け直しているが、セナが酷い格好をしているのは間違いなかった。燃え尽きてしまったかのように呆然と翡翠色の空を見上げる彼女は、痛々しいほどに虚を纏っていた。
「これからどうしよう。まあ、とりあえずは生きてみようか」
獣の威嚇する声を、セナの耳が捉えていた。視線を動かすと、小ぶりな猪が走ってきているのが見える。その獣にとっては巨大な岩など障害にもならないとでも言わんばかりに、セナへと一直線のようだった。
「はは、久しぶりだねこの感じ。今はあの子もいないけれど、心配をかけるわけにもいかないな」
セナはひょいと立ち上がり、身体をぐぐっと伸ばしながらんん、っと可愛らしい声を漏らした。そして岩の上で足踏みをすると、一思いに岩から飛び出し猪の頭上へと躍り出る。そのまま空間を蹴り付け、猪へと真っ直ぐに飛び込み、後頭部へ踵を見舞った。
猪は自らの勢いのまま前方に転がり、身体を強張らせるもやがて脱力して動かなくなった。
「ふぅ、ごめんね。ちゃんとありがたくいただくから」
セナが感謝を捧げつつ懐から取り出した、彼女には大ぶりなナイフで猪を処理しようとした矢先のことだ。
空に色彩が走ったのは。
カーテンのようにゆらゆらと揺れる極彩色が、セナの上空を覆い始める。
地面が色づき始めたのを見て、セナはようやくそのことに気がついて空を見上げた。
「何あれ……」
目を丸くするセナだが、尋常でないことを直感で察知して咄嗟に右目の眼帯を外した。
金色の右目が顕になり、その現象の情報を少しでも得ようとセナが目を見開く。しかし、その現象に関して理解を得ることは叶わなかった。――アンスールも知り得ない超常の現象だという理解を得るには十分だったのではあるが。
「ふうん。幻想的で綺麗だ。新しいことに触れるのはいいね、心が踊る。外に出るのも悪くない、か」
呟きをこぼしながら、その極彩色の行末を見守るセナの前で、光が弾けた。
様々な色彩が雨のように降り注ぐ。それは地面に到達するとそこに色を映し出した。
ぽつぽつと波紋が広がる様を不思議そうに眺めているセナ。その瞳が、朧げな存在を視認した。右目をもってしても存在を捉えきれないそれは、ただただ光が歪んで形が浮かんでいるようだった。
「こんにちは」
ほぼ透明な存在が、澄んだ声音でセナへと挨拶を落とした。
その声は、自然が織りなす音のように美しい。
「こんにち、は? きみは、誰?」
セナは戸惑いながらも挨拶を返し、質問を投げる。その額には僅かに汗が滲んでいた。
「ええ、こんにちはセナ。そしてごめんなさい。私にはまだ名前も、存在すらも確かなものはありません。ですので、その質問には答えられません」
空間の歪みが頭を下げたように、セナの目には映った。
セナがよくよく目を凝らすと、浮遊する存在の背中にそれはそれは美しい翼があることに気がついた。
「綺麗な翼だね。まるで色の雲みたい」
「……ふふ、やはり特別なのですね、あなたは」
「そんなことないよ。あたしはただの異端者だもの」
会話を重ねるごとに、セナは自身の緊張がほぐれてくるのを感じていた。誰かとの会話がここまで助けになることを改めて感じ、口元が緩む。
「いいえ、異端者だからこそ世界を変える存在に足るのです。ですから私は少しだけズルをして、僅かな時間を作ってあなたに会いにきたのです」
どこまでも透き通る声が、セナの耳から脳へと染み渡る。しかしその言葉の意味を捉えかねて、首を傾げた。
「あたしに、会いにきた?」
「ええ、私はあなたに、来たる星の終末を伝えにきたのです」
セナが彼女の言葉を反芻し、目を丸くする。
色彩の雨がセナの頬にぽつぽつとこぼれ落ち、それは涙のように滴った。
「その時がくれば、あなたの大切な宝石たちの国も、なくなってしまうのです。ですから、協力してほしいのです」
「協力? いったい何をしたら、いいの?」
セナは、よくできた話だ、などと思っていた。
現在の己の生きる理由を失いつつあったセナの元へ偶然現れた存在。それが提示する、彼女の大事なものが失われる可能性。それを餌に利用されるのだということは、勘のいいセナには理解できていた。それでも、と思考する。
「協力してくださるのですか?」
「ええ。あたしは大事な場所を出ることになったけれど、そこが失われたわけじゃない。でも、失うことになると言うのならば、協力しない理由はないもの。きみが都合よくあたしを利用しようとしてるんだとしてもね」
セナは澄ました顔でそう言ってのけ、上から見下ろす存在を睨め付ける。
「それで、結局あたしは何をしたらいいのかしら?」
「――星創龍の力を集めてください。この星に生きとし生きる生物たちの礎となった、祖たる存在の力を。さすれば闇を晴らす一助になるでしょう」
「星創龍……?」
「ええ。あと伝えておくべきことは、終末は冒涜の夜を契機に引き起こされる、でしょうか」
「冒涜の夜……?」
しきりに首を捻るセナ。彼女が持つ力でも、その言葉の一端すら理解することはできなかった。しかも、その存在によって説明がされるわけでもない。
あまりにも情報が少なすぎやしないか、などとセナが考えているうちに、色彩の雨はまばらに、そして止んでいく。
「もう少し情報をくれてもいいのではないかしら?」
「それは私の役目ではありません。伝えるべき予言は確かに伝えました。後のことは、彼に任せるとしましょう。それでは、そろそろ雨が止んでしまいますので」
「ちょっと待って」
「私ももう少しお話ししたいのですがそれは――またいずれ」
空にかかる極彩色のカーテンが色彩の粒となって世界に溶けていくのを、セナは歪みの向こうに見届ける。程なくして晴れ渡った翡翠色へと空の色が変わる頃には、降り注ぐ色彩も、雲であった翼も、空間の歪みも跡形もなく消えていた。
セナは現在が昼間であったことを思い出し、呆気に取られた。手足を動かし、全身で少しだけ運動をして、確かに現実であることを確認する。
「ん……よし。――それにしても、なんだったんだろう今の。昼でも夜でもない感じ。それに予言? あれは誰だったのかしら? 悪戯じゃないといいけれど」
理解の及ばないことにモヤモヤする感覚。それを久しぶりに味わうセナの顔は明るい。思えば昔はいつもこうだった、なんて懐古に囚われる自分にやれやれと首を振るが口角は上がっている。
一息ついたところで、セナの耳が大きな蹄の足音を拾った。その方向へと顔を向けると、視線の先にニルィクの姿が映る。
「余を振り切るとは大した脚だ、女王よ」
「今のあたしは女王じゃない」
「否。あの決断をできるのは王たるものの器よ。敬服に値する」
「そうかしら? でも、どうせ呼ぶならセナって呼んで」
セナはつっけんどんに吐き捨てると、ふいと顔を背けた。それが身勝手な感情からであることを彼女は理解しているが、ニルィクの姿を見るとどうにも先ほどの件と繋ぎ合わせてしまうのである。
「まだまだ若いな、セナ。だが、それは其方にまだまだ伸び代があるということでもある」
「ごめんなさい。あなたは、助けてくれただけなのに」
「感情の揺れ動きは大切にすることだ。それが希薄になればなるほどに、其方は異端ではなくなるだろう」
ニルィクはセナの負の感情を向けられても動じることすらない。それどころか安堵したように皺を緩ませ微笑むほどだった。強者の、王としての威厳がそこには張り付いている。
「ねえ、どうしてついてきたの?」
「それが余の此度の意味であると余の心が叫んだからだ」
「わけわかんない」
「それで良い。――セナよ、余が行動を共にすることを許してくれるか?」
巨大にして強大な獣の王が膝を折り、矮小な異端の女王に恭しく首を垂れた。
「あなたの方が王に相応しいじゃない。あたしの方が頼むべきでしょう」
「いいや、頼む側が頭を下げるのだ」
「……好きにすればいいじゃない。――よろしくお願いします」
「心得た」
ニルィクが顔を上げ、頬をセナへと寄せる。
セナが戸惑いながらもその大きな皺を撫でると、撫でた部分から炎のように猛る熱が流れ込んでくるのを感じた。それが心を奮い立たせてくれることに気がついたセナは、もう片方の手を胸に当てる。
「あなたは、温かいのね」
「あー! 姉さまがニルィクさまと懇ろにしてるー!」
「お前、よくあの空気に飛び込んでいけるな」
セナは突然の声にニルィクの頬から手を離した。ニルィクはくつくつと笑う。
「ジュディ……と、デゼル?」
「ああ……その、久しぶり、だな」
「追って来ちゃいましたっ」
「えぇ……」
セナは妹の到来にも驚きを隠せなかったが、気まずそうな一角獣を見てより一層目を丸くした。
「ああ、その、なんだ。エインヘルに頼まれたんだ」
「そっか。きみも、一緒に来るの?」
「いや。悪いがオレは戻る。あいつだけじゃ心配だからな。それに、お前のやりたいこと、やりたかったことをオレは理解してるつもりだ」
「そうだね。きみがいれば安心だ。お母さんのこと、お願いね」
任せておけ。とデゼルはこぼして黙り込んだ。ここで話は終わりなのだと察したセナは妹へと振り返る。その顔は呆れ果てていた。
「どうして追って来たの?」
「もう、置いていかれるのはごめんですから。今度は私も、共に立ち向かわせてください」
「国のことはどうするの?」
「エインヘルさまに任せてきました。それに、姉さまのいないあの場所に私の居場所はありませんから」
あくまで真剣な声色、表情で告げるジュディスにセナは髪を前髪を掻き上げやれやれと呟いた。
「……わかった。そこまで言うなら、一緒に行こう」
「はい、必ずお守りいたします」
跪いたジュディスがセナの手を取り、甲に口付けをした。
デゼルがブルルッと鼻を鳴らして薄く笑う。
「じゃじゃ馬娘、追い返されなくてよかったじゃないか。ま、なんにせよこれで身軽に帰ることができる。――セナのことを頼むぞ」
「あなたに言われなくてもわかっていますわ。帰りの道中、気をつけることですね」
言われるまでもない、とデゼルはぼやいて走り去っていった。
「此度は道を分つか。――しかし、これはこれで賑やかな旅となりそうだ。して、妹君よ、余は邪魔にならぬか」
「ええ、ニルィクさまはこの旅路に必要なお方ですから、ぜひ共に参りましょう。――目指すは」
ジュディスが遙かな空へと腕を振り上げ、指を差した。
「嵐の取り巻く島です!」
セナが頭の上に疑問符を浮かべる隣で、ニルィクがなるほどといった顔をした。