残酷な描写あり
R-15
第百八九話 狡猾な丞相
秦王へ邯鄲侵攻を中止する様直談判すべく、咸陽に帰還した白起。秦王と話し合う席を設け足を運ぶも、そこには丞相張禄の姿があった。
咸陽に帰還した白起は、朝議に参内するよりも前に、秦王と二人で話し合うべきだと考えていた。秦王は、戦に詳しくはない。つまり朝議という時間が限られた環境では、誤解なく説明をすることは難しいと思ったのだ。
白起は従者を通じて、秦王と酒を呑みながら話す機会を設けることができた。しかし、いざ向かってみると、そこには丞相の張禄がいた。
「遅かったですな、武安君。早速、酒を温めましょう」
「秦王様、なに故、丞相を招いたのですか」
「私は呼ばれてはいけませんでしたかな、武安君。秦王様は多忙だ。そなただけの時間を作ることは、容易ではない」
目が合った瞬間に、張禄に対する憎悪を感じた。殴り倒したいと思う程の憎悪であった。しかし、なぜそれ程までの憎悪を感じたのかは、自分には分からなかった。
秦王に、席にかける様にいわれ、白起は座った。
一つの、少し大きめな卓を、三人で囲った。
秦王は酒を一口呑むと、単刀直入に白起へ尋ねた。
「なに故咸陽へ戻ったのだ。邯鄲は陥さぬのか」
白起は、器を持つ手を止め、口へ付ける前に、卓へ戻した。そして単刀直入に、秦王へいった。
「陥せぬ故、攻撃はしません。それを伝える為、戻って参りました」
秦王は酒がまだ回っていないからか、冷静であった。
「左様か。では尋ねる。なに故そなたは、邯鄲を攻められぬと思うのか」
「それは、丞相共々既に竹簡にて一読された通りだと存じますが、改めて申し上げます。趙は数年に渡り七雄各国と、不可侵の約束事を取り決めております。それにより、軍の力を邯鄲一つに集め、我らを討伐すべく守りを固めています。つまり我々は邯鄲を攻めるのではなく、七雄を攻めることになるのです。今の秦軍には、その様な強行は下策です」
「そなたのいい分は、理解できる。しかし覚えているか、そなたが長平へ向かう前、楚の黄歇めが人質の太子熊完を連れ、楚へ戻りよった。楚王が危篤であるが、余が楚の混乱を狙い、帰国を許さなかったからだ。よくもまぁ咸陽を抜け出せたものだ」
「覚えております。秦王様は咸陽の校尉を罰し、咸陽はより堅牢な城となりました」
「そうだ。そしてそなたが長平へ向かった後、黄歇は、太子の弟であり自身の親戚でもある熊顛(ゆうてん)を連れ、のこのこと戻って来よった。これがなにを意味するのか分かるか」
「分かりません」
「楚は黄歇という若き重鎮の影響が、強く及んでいる。それにより国は、再び一つにまとまっているのだ。楚は、長年戦をしていなかった故、兵力が蓄えられており、いずれ確かな驚異となる。黄歇は春申君と号し、その仲間らが宮廷を、仕切っているのだ。聞けば黄歇の師は、屈原という優れた文官であったようだ。流石楚だ。優れた人材に事欠かぬ」
「つまり秦王様は、楚が勢力を盛り返すよりも前に、趙を滅ぼし、中原を平らげたいと仰るのですね」
単刀直入に話しておきながら、遠回しなことをいう。長い話になりそうだ、と白起は思った。
それから数刻、酒を呑み交わしながら、話を続けた。しかし話は平行線であった。
白起は困り果てた。その間張禄は、余り口を開かなかった。相槌を打ったり、中身のないことをいうだけであった。
白起は今回の席が、張禄の策略なのだと、悟った。
激情家の秦王は酔いが回り、次第にその態度に横暴さが見えだした。白起を中傷するだけに留まらず、秦軍さえも、中傷する始末であった。
これまで影を潜めていた張禄の口数が増えだし、秦王と白起のあいだを取り持つように、立ち回った。そして秦王を宥めた後、決定的なひとことを述べた。
「武安君は、戦いたくないのです。しかし秦軍は精強です。他の将に、邯鄲を攻めさせるれば良いのです。それで手打ちと致しましょう」
「残念だ。しかしやむを得まい。では武安君よ、誰に率いらせるすべきか」
白起は退路を絶たれていた。最早、攻めないという選択肢は存在しなかった。しかし自身が指揮を執ることは、できなかった。
張禄を、睨むことしかできなかった。
白起は全ての兵を統括する国尉として、咸陽の守備兵の訓練をする責務があった。数日前に張禄が期限を設け、秦王が裁可を下していた。咸陽へ向かう敵がいない今、それは急ぐ必要はなかった。それがこの日の為にであることが、今理解できた。しかし最早、状況を変えることはできなかった。
「後進の育成の為、再び王齮に指揮をさせます。敵を恐れさせる為、王齕の旗を掲げさせます。副将には司馬靳、胡傷、楊摎を」
秦王と張禄は、満悦至極の顔をしていた。白起は、不味い酒を、呑んだ。
白起は従者を通じて、秦王と酒を呑みながら話す機会を設けることができた。しかし、いざ向かってみると、そこには丞相の張禄がいた。
「遅かったですな、武安君。早速、酒を温めましょう」
「秦王様、なに故、丞相を招いたのですか」
「私は呼ばれてはいけませんでしたかな、武安君。秦王様は多忙だ。そなただけの時間を作ることは、容易ではない」
目が合った瞬間に、張禄に対する憎悪を感じた。殴り倒したいと思う程の憎悪であった。しかし、なぜそれ程までの憎悪を感じたのかは、自分には分からなかった。
秦王に、席にかける様にいわれ、白起は座った。
一つの、少し大きめな卓を、三人で囲った。
秦王は酒を一口呑むと、単刀直入に白起へ尋ねた。
「なに故咸陽へ戻ったのだ。邯鄲は陥さぬのか」
白起は、器を持つ手を止め、口へ付ける前に、卓へ戻した。そして単刀直入に、秦王へいった。
「陥せぬ故、攻撃はしません。それを伝える為、戻って参りました」
秦王は酒がまだ回っていないからか、冷静であった。
「左様か。では尋ねる。なに故そなたは、邯鄲を攻められぬと思うのか」
「それは、丞相共々既に竹簡にて一読された通りだと存じますが、改めて申し上げます。趙は数年に渡り七雄各国と、不可侵の約束事を取り決めております。それにより、軍の力を邯鄲一つに集め、我らを討伐すべく守りを固めています。つまり我々は邯鄲を攻めるのではなく、七雄を攻めることになるのです。今の秦軍には、その様な強行は下策です」
「そなたのいい分は、理解できる。しかし覚えているか、そなたが長平へ向かう前、楚の黄歇めが人質の太子熊完を連れ、楚へ戻りよった。楚王が危篤であるが、余が楚の混乱を狙い、帰国を許さなかったからだ。よくもまぁ咸陽を抜け出せたものだ」
「覚えております。秦王様は咸陽の校尉を罰し、咸陽はより堅牢な城となりました」
「そうだ。そしてそなたが長平へ向かった後、黄歇は、太子の弟であり自身の親戚でもある熊顛(ゆうてん)を連れ、のこのこと戻って来よった。これがなにを意味するのか分かるか」
「分かりません」
「楚は黄歇という若き重鎮の影響が、強く及んでいる。それにより国は、再び一つにまとまっているのだ。楚は、長年戦をしていなかった故、兵力が蓄えられており、いずれ確かな驚異となる。黄歇は春申君と号し、その仲間らが宮廷を、仕切っているのだ。聞けば黄歇の師は、屈原という優れた文官であったようだ。流石楚だ。優れた人材に事欠かぬ」
「つまり秦王様は、楚が勢力を盛り返すよりも前に、趙を滅ぼし、中原を平らげたいと仰るのですね」
単刀直入に話しておきながら、遠回しなことをいう。長い話になりそうだ、と白起は思った。
それから数刻、酒を呑み交わしながら、話を続けた。しかし話は平行線であった。
白起は困り果てた。その間張禄は、余り口を開かなかった。相槌を打ったり、中身のないことをいうだけであった。
白起は今回の席が、張禄の策略なのだと、悟った。
激情家の秦王は酔いが回り、次第にその態度に横暴さが見えだした。白起を中傷するだけに留まらず、秦軍さえも、中傷する始末であった。
これまで影を潜めていた張禄の口数が増えだし、秦王と白起のあいだを取り持つように、立ち回った。そして秦王を宥めた後、決定的なひとことを述べた。
「武安君は、戦いたくないのです。しかし秦軍は精強です。他の将に、邯鄲を攻めさせるれば良いのです。それで手打ちと致しましょう」
「残念だ。しかしやむを得まい。では武安君よ、誰に率いらせるすべきか」
白起は退路を絶たれていた。最早、攻めないという選択肢は存在しなかった。しかし自身が指揮を執ることは、できなかった。
張禄を、睨むことしかできなかった。
白起は全ての兵を統括する国尉として、咸陽の守備兵の訓練をする責務があった。数日前に張禄が期限を設け、秦王が裁可を下していた。咸陽へ向かう敵がいない今、それは急ぐ必要はなかった。それがこの日の為にであることが、今理解できた。しかし最早、状況を変えることはできなかった。
「後進の育成の為、再び王齮に指揮をさせます。敵を恐れさせる為、王齕の旗を掲げさせます。副将には司馬靳、胡傷、楊摎を」
秦王と張禄は、満悦至極の顔をしていた。白起は、不味い酒を、呑んだ。