残酷な描写あり
R-15
第百九十話 常闇の灯火
白起は咸陽から前線の秦軍へ、攻撃命令を下す。無謀な攻撃命令を下すことになった白起は、またしても悪夢に魘される様になる。
白起は侵攻の命令を竹簡に認(したた)め、国尉の印を押した。そして上奏し、秦王はそれを勅として発布した。白起は、秦軍がいくら精強であろうとも、邯鄲を陥せる筈がないと考えていた。
今はただ、敗戦後に万が一にも大軍に攻め込まれ、咸陽が攻められても王を守れる様に、咸陽の守備兵を全身全霊で鍛えるしかなかった。
それからというもの、白起は再び、悪夢に魘される様になった。暗い丑三つ時、目が覚めては、常闇の寝所に不安を煽られた。
頼れる友である蒙驁は無謀な侵攻に従事しており、側にはいない。そして齕もまた、故郷の郿県や雍城へ、義両親(りょうしん)や元(げん)の供養、そして親戚の援助の為、遣いに出していた。
「戦から離れたにも関わらず、家族の墓に手を拝せてやることもできんとは。これ程までに親不孝な者は他にいまいて」
白起は自分に呆れ、無念そうに、自身を嘲笑った。
「元殿……あなたが永久(とこしえ)の眠りに就く時、穏やかな顔をしていたのを覚えています。あなたは……復讐心をとうに忘れ、ただ私や公孫の家族の幸いを、願っておりましたな……。あなたが正しかったのやも知れません」
灯り一つない常闇の寝所にて白起は、ぼんやりと脳裏に浮かぶ健やかそうな元に、語りかけた。
「復讐の為に生き、将軍となって義渠を滅ぼした折り、私は故郷へ凱旋しました。なれど数少ない老人衆は喜べど、既に臣下に甘んじた義渠や、影を潜めた板楯の恐れを知らぬ若者らは、よく分かっていない様相でした。私が慰めたかった人らは最早少なく、私はただ秦将としての責務のみが残りました。あなたが願った、自由な人生を、私は送れたのでしょうか。現世(うつしよ)の私が幸いでなければ、黄泉の国のあなたを悲しませてしまうというのに……」
孤独に押し潰されそうになった瞬間、寝所に一つの灯りが灯った。火を着けたのは、妻の春であった。
「寝言を申しているのかと思いましたが、悲しそうでしたので、起こしに参りました」
「近う寄れ……。今は独りで居たくないのだ」
「いつでもお側におりますよ。旦那様、なにか怖い夢でも、見られたのですか?」
「怖い夢を見ていた。あの日からずっとな。初めて人を刺したあの日から、ずっと……」
「その夢は覚めそうですか?」
「分からない。手遅れであるやもしれぬ」
「なに故そう思うのですか。この春も、お手伝い致します。家中をまとめるのだけが、妻の務めではありません」
「長平で……十数万人を生き埋めにした。復讐の為に生き、戦で人を殺めることが好きだった頃とは異なり、敵国の人であっても、無抵抗な弱者を殺めることは、間違ったことだと分かっている。それにも関わらず私は、味方を飢餓から救う為、命の選別をした。将は不満ながらも理解してくれたが、兵らには、私が怪物に見えたに違いない。私は立つ瀬を失ったのだ。最早、兵の信頼はないであろう」
「旦那様は神だと持て囃されていますが、人間です。全てを救うことなどできません。守りたい人を守ったということは、女である私にも分かるのですから、兵も理解してくれるでしょう。旦那様が恐れる過去の……水攻めの時とは、違うのです」
「そうか……それも一理あるな。ありがとう……」
頭では納得することはできたが、すぐに気が晴れることはなかった。
「もしあの日、白家村が襲われていなかったならば、私の人生は、全く異なるものになっていたであろう。いや、それも違うかもしれない。私の様な不幸な者が頭角を現し、秦王様の夢の為に侵攻を繰り返し、私も徴兵され戦ったであろう。もし秦王様の時代でなければ……いいや、もしも話しなど、無駄であるな。秦軍に入らなかった人生など、ある筈もないのだ」
「私は旦那様が今の人生を歩んでくれたことに、感謝しています。私はそのお陰で、旦那様の妻となれました。お側にいられました。お支えすることができました。そして、その幸いを願うことができました」
白起は、俯いていた自身の顔を、春がいる横の方へ向けた。常闇の中、小さな灯りに照らされた顔は、どこか元に似ていた。
出会った時から、側にいると、どこか心地が良かった。その理由が、分かった気がした。面長の顔に、微笑んで目尻にできたシワ。そして自分を見詰める、優しさに満ち溢れたその目は、元を想起させる程に、似ていたのだった。
「旦那様。旦那様の長い人生が悪い夢であったとしても、その中には、蒙驁様や司馬錯様など、旦那様を笑顔にしてくれた方々が傍らにいてくれたのです。そして今は、私がお側におります」
「ありがとう。私もそなたに出会えて良かったと、心から思っている」
白起は献身的な妻を抱き、火を消した。
今はただ、敗戦後に万が一にも大軍に攻め込まれ、咸陽が攻められても王を守れる様に、咸陽の守備兵を全身全霊で鍛えるしかなかった。
それからというもの、白起は再び、悪夢に魘される様になった。暗い丑三つ時、目が覚めては、常闇の寝所に不安を煽られた。
頼れる友である蒙驁は無謀な侵攻に従事しており、側にはいない。そして齕もまた、故郷の郿県や雍城へ、義両親(りょうしん)や元(げん)の供養、そして親戚の援助の為、遣いに出していた。
「戦から離れたにも関わらず、家族の墓に手を拝せてやることもできんとは。これ程までに親不孝な者は他にいまいて」
白起は自分に呆れ、無念そうに、自身を嘲笑った。
「元殿……あなたが永久(とこしえ)の眠りに就く時、穏やかな顔をしていたのを覚えています。あなたは……復讐心をとうに忘れ、ただ私や公孫の家族の幸いを、願っておりましたな……。あなたが正しかったのやも知れません」
灯り一つない常闇の寝所にて白起は、ぼんやりと脳裏に浮かぶ健やかそうな元に、語りかけた。
「復讐の為に生き、将軍となって義渠を滅ぼした折り、私は故郷へ凱旋しました。なれど数少ない老人衆は喜べど、既に臣下に甘んじた義渠や、影を潜めた板楯の恐れを知らぬ若者らは、よく分かっていない様相でした。私が慰めたかった人らは最早少なく、私はただ秦将としての責務のみが残りました。あなたが願った、自由な人生を、私は送れたのでしょうか。現世(うつしよ)の私が幸いでなければ、黄泉の国のあなたを悲しませてしまうというのに……」
孤独に押し潰されそうになった瞬間、寝所に一つの灯りが灯った。火を着けたのは、妻の春であった。
「寝言を申しているのかと思いましたが、悲しそうでしたので、起こしに参りました」
「近う寄れ……。今は独りで居たくないのだ」
「いつでもお側におりますよ。旦那様、なにか怖い夢でも、見られたのですか?」
「怖い夢を見ていた。あの日からずっとな。初めて人を刺したあの日から、ずっと……」
「その夢は覚めそうですか?」
「分からない。手遅れであるやもしれぬ」
「なに故そう思うのですか。この春も、お手伝い致します。家中をまとめるのだけが、妻の務めではありません」
「長平で……十数万人を生き埋めにした。復讐の為に生き、戦で人を殺めることが好きだった頃とは異なり、敵国の人であっても、無抵抗な弱者を殺めることは、間違ったことだと分かっている。それにも関わらず私は、味方を飢餓から救う為、命の選別をした。将は不満ながらも理解してくれたが、兵らには、私が怪物に見えたに違いない。私は立つ瀬を失ったのだ。最早、兵の信頼はないであろう」
「旦那様は神だと持て囃されていますが、人間です。全てを救うことなどできません。守りたい人を守ったということは、女である私にも分かるのですから、兵も理解してくれるでしょう。旦那様が恐れる過去の……水攻めの時とは、違うのです」
「そうか……それも一理あるな。ありがとう……」
頭では納得することはできたが、すぐに気が晴れることはなかった。
「もしあの日、白家村が襲われていなかったならば、私の人生は、全く異なるものになっていたであろう。いや、それも違うかもしれない。私の様な不幸な者が頭角を現し、秦王様の夢の為に侵攻を繰り返し、私も徴兵され戦ったであろう。もし秦王様の時代でなければ……いいや、もしも話しなど、無駄であるな。秦軍に入らなかった人生など、ある筈もないのだ」
「私は旦那様が今の人生を歩んでくれたことに、感謝しています。私はそのお陰で、旦那様の妻となれました。お側にいられました。お支えすることができました。そして、その幸いを願うことができました」
白起は、俯いていた自身の顔を、春がいる横の方へ向けた。常闇の中、小さな灯りに照らされた顔は、どこか元に似ていた。
出会った時から、側にいると、どこか心地が良かった。その理由が、分かった気がした。面長の顔に、微笑んで目尻にできたシワ。そして自分を見詰める、優しさに満ち溢れたその目は、元を想起させる程に、似ていたのだった。
「旦那様。旦那様の長い人生が悪い夢であったとしても、その中には、蒙驁様や司馬錯様など、旦那様を笑顔にしてくれた方々が傍らにいてくれたのです。そして今は、私がお側におります」
「ありがとう。私もそなたに出会えて良かったと、心から思っている」
白起は献身的な妻を抱き、火を消した。