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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百二八話 項叔、白起の思惑に気づく
 蛮河を失った項叔は、漢水の下流に出向き、異変がないか探る。
 鄢 項叔

 蛮河を失った項叔は、秦軍の狙いが分からないながらも、陸路に兵を配置して守りを固めた。正攻法で考えれば、西方の上庸県、北方の登城からの侵攻が最も可能性が高い。項叔は鄢に主力を保ちながらも、敵の進行路を可能な限り全て、塞ぐことに務めた。
「蛮河を失ってから数日、各所で小規模な攻防戦が行われている。軍営を奪われては取り返しを繰り返してはいるが、やはりどこか妙だ。遠征しているのは秦軍の方であり、無作為に時を消費するなど、考え辛い。ましてや敵は白起だ。なにか、裏があるはずだ。私は大将軍だ。その思惑が、読み取れぬはずがない……! 考えろ、考えるのだ……!」


 登城 白起

 白起は各地に散りばめた小部隊から、定期連絡を受け取っていた。
「進捗は滞りないな。楚侵攻が始まって数ヶ月、そろそろ決着がつけられそうだな、李冰殿」
「巴蜀の兵が、僅かながら動員されていて助かりました。彼らは私の教え子です。彼らの手があるお陰で、私は此度の灌漑を行えているのです」
「全て上手くいっているな。全ては天意だ。我が方には、天が味方しているのだ」
 空を見上げれば、雪が降り始めていた。南方の黔中郡では、雪は珍しかった。この雪も白起にとっては、自らを讃えるもののように感じられた。
「鄢を陥としてみせよう。兵の犠牲は少なくて済む。これでようやく私は、神などという分不相応な評価に、少しは見合う戦功を立てられるであろう」


 鄢 項叔

 項叔は、陸路の防衛のみならず、少しの斥候部隊を蛮河周辺の山岳地帯に配置した。数日振り続けている雪に隠れるよう、白い衣の上に甲冑を身につけさせ、斥候を送り出した。しかし斥候は、帰還予定の日時になっても、帰還しなかった。
 やはりなにかがある。そう思った項叔は、蛮河の下流まで馬を走らせ、なにか異変がないかを、自らの目で確かめた。
「川の水が僅かに……濁っている?」
 長江流域で育った項叔にとって、人々の生活を支える川の水の色が、こんなにも濁りきっているはずがないと気づくのは、難しいことではなかった。
「川の水が濁るということは、大量の土が川に入る必要がある。つまり……川の地形を変えているのか!」
 日も暮れ出した頃、項叔は慌てて鄢へ戻った。
「装備を捨てた早馬を出せ! 将軍らを城の宮殿に集めるのだ!」
 項叔は気づいた。蛮河の地形を変えることで川を氾濫させ、周囲の土壌を飲み込み、水位を上げることができれば、高地の鄢もその優位性を失いかねないのだ。
「急がねば、鄢が危ない!」
 鄢に戻った頃には既に夜であったが、項叔は慌てて軍を整えた。城の管理は倅の将軍、項飛に託し、項叔は出撃した。


 蛮河付近 白起

 白起は蛮河周辺にて、土木を用いた自然の堤防を築く為、土を動かし盆地のような地形に造り変えていた。後は予定通りに兵が木材に着火して崖上の山林を焼き、崩れた木々によって川の水を堰き止め、水位が上がるのを待つのみであった。
「報告です! 鄢より敵軍が動いた模様! 松明の数から推察するに二万の大軍です!」
「大軍ならば陸路を通るはずだ。現地の西県軍や漢中軍に迎撃させろ! 少数が松明を使わず蛮河へ急行するやも知れぬ。着火を急がせろ!」
「しかしそれでは……迎撃に当たる味方が川の氾濫に……!」
「案ずるな。迎撃部隊は一刻(三十分)のみ時を稼ぎ、すぐに撤退だ。今から二刻(一時間)の後、着火する」

 両軍は鄢から蛮河へ通じる陸路を昼夜兼行で走り、翌日の午後、交戦した。雪が降る白く大地は、両軍の兵による赤い血に染まった。
 秦側の迎撃部隊で最も数が少なかった西県軍は先頭に立ち、板楯族相手に戦闘を繰り広げ培った戦闘力を遺憾なく発揮し、楚兵を蹴散らした。
 土を固めた仮面を付け、獣の毛皮を甲冑に織り込んだ西県兵は、その高い練度で、十分に時間を稼ぎ撤退した。

 二刻(一時間)経過後、白起は指示を出した。
「やれ。鄢を陥とすぞ!」
 白起の命令で、蛮河の水兵は着火した。瞬く間に大炎が山林を包み、やがて全てが、地鳴りのような音を立てて大地を覆う川の水に飲み込まれ、鎮火された。
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