残酷な描写あり
R-15
第百二九話 白起、鄢を陥す
鄢は秦軍による水攻めに遭う。
鄢 項飛
大将軍の嫡男で、一時的に鄢の守備軍の統括を任されている項飛は、朝になっても前線から戦況報告が届かないことを、訝っていた。
「項飛将軍、昨晩我が軍が大軍で慌てて出撃したことで、鄢の民が困惑しております」
「そうだな……落ち着いて家に居られぬのか、まだ夜も更けていないというのに、街が騒々しい」
そう話していた次の瞬間、付近の山林から一斉に鴉(カラス)の群れが飛び出し、暁は遮られ、鄢の上空は黒く染まった。
不吉な予感がした。その光景に人々は鬱々とした感情になり、街から慌てて出ていこうとする者まで現れる始末であった。
そんな時であった。
感じたこともない程の大きな揺れが発生した。直立出来なくなる程のその揺れは更に大きくなり、次第に建物が割れだし、瓦屋根が落下し、灯篭の火が漏れ、街は瞬く間に喧騒の様相を呈した。
「なんだ、敵か!」
「分かりません! とにかく将軍は避難なさってください!」
副官に連れられ建物が密集する繁華街を抜けようとした時、門の方向から、乗馬した兵が叫んで回る声が聞こえた。
「川の氾濫だ! 水が押し寄せて来ているぞ! 高台へ逃げるのだ!」
項飛は訳が分からないながらも、副官に連れられ、城壁に登った。そこから更に背の高い櫓に登った時、彼は絶句した。
川の水が山々を飲み込み、鄢へ続く道へ、一直線に流れ込んで来ていたのである。
「天変地異だ……これは……秦兵にもこんなことは……できぬはずだ!」
土砂を含んだ茶色い濁流は、瞬く間に鄢へ到達し、城壁を殴るように押し寄せる。
その姿を見た人々は、逃げ惑っていた。
濁流は数分と経たずに一部の城壁を決壊させ、城内に浸入していった。
項飛は街を見下ろし、右へ目を向けた。
「母さん! 早く走って!」
「待って……もう走れないわ……!」
青年は倒れた老婆を抱えて走り出すも、一瞬にして濁流に飲み込まれた。
左へ目を向けた。すると、孤立した背の高い建物の屋上で抱き合う夫婦が、抱き合ったまま濁流へ身を投げた。二人がいた屋上は、助からないことを悟った若い二人の悲痛さを残すこともなく、濁流に飲まれ、跡形もなく消え去った。
気がつけば、城壁は避難した民で溢れかえっていた。
子供は家が流されたことを嘆き、大人達の中にはは、これ以上高い所がないことを悟り、青ざめていた。
項飛は、副官に尋ねた。
「私も櫓から降りても良いか」
「なにを仰るのですか……!」
「私は父上の代理であっても、この城の民を守る責務を負った将だ。民と共に、秦軍の攻撃に抗いたい……!」
「御意……! お供いたします!」
巨大な鄢は水没し、城壁は次々に破壊され、濁流は漢水に合流するように、低地へ進んでいく。しかし依然として浸入する水量が多く、項飛らが避難した城壁にも、濁流が押し寄せた。
息を止め、項飛は柱に捕まった。流されそうになる副官の手を掴むも、流れの速さに耐えきれず、二人の手は剥がれた。やがて項飛も窒息し、城と運命を共にした。
大将軍の嫡男で、一時的に鄢の守備軍の統括を任されている項飛は、朝になっても前線から戦況報告が届かないことを、訝っていた。
「項飛将軍、昨晩我が軍が大軍で慌てて出撃したことで、鄢の民が困惑しております」
「そうだな……落ち着いて家に居られぬのか、まだ夜も更けていないというのに、街が騒々しい」
そう話していた次の瞬間、付近の山林から一斉に鴉(カラス)の群れが飛び出し、暁は遮られ、鄢の上空は黒く染まった。
不吉な予感がした。その光景に人々は鬱々とした感情になり、街から慌てて出ていこうとする者まで現れる始末であった。
そんな時であった。
感じたこともない程の大きな揺れが発生した。直立出来なくなる程のその揺れは更に大きくなり、次第に建物が割れだし、瓦屋根が落下し、灯篭の火が漏れ、街は瞬く間に喧騒の様相を呈した。
「なんだ、敵か!」
「分かりません! とにかく将軍は避難なさってください!」
副官に連れられ建物が密集する繁華街を抜けようとした時、門の方向から、乗馬した兵が叫んで回る声が聞こえた。
「川の氾濫だ! 水が押し寄せて来ているぞ! 高台へ逃げるのだ!」
項飛は訳が分からないながらも、副官に連れられ、城壁に登った。そこから更に背の高い櫓に登った時、彼は絶句した。
川の水が山々を飲み込み、鄢へ続く道へ、一直線に流れ込んで来ていたのである。
「天変地異だ……これは……秦兵にもこんなことは……できぬはずだ!」
土砂を含んだ茶色い濁流は、瞬く間に鄢へ到達し、城壁を殴るように押し寄せる。
その姿を見た人々は、逃げ惑っていた。
濁流は数分と経たずに一部の城壁を決壊させ、城内に浸入していった。
項飛は街を見下ろし、右へ目を向けた。
「母さん! 早く走って!」
「待って……もう走れないわ……!」
青年は倒れた老婆を抱えて走り出すも、一瞬にして濁流に飲み込まれた。
左へ目を向けた。すると、孤立した背の高い建物の屋上で抱き合う夫婦が、抱き合ったまま濁流へ身を投げた。二人がいた屋上は、助からないことを悟った若い二人の悲痛さを残すこともなく、濁流に飲まれ、跡形もなく消え去った。
気がつけば、城壁は避難した民で溢れかえっていた。
子供は家が流されたことを嘆き、大人達の中にはは、これ以上高い所がないことを悟り、青ざめていた。
項飛は、副官に尋ねた。
「私も櫓から降りても良いか」
「なにを仰るのですか……!」
「私は父上の代理であっても、この城の民を守る責務を負った将だ。民と共に、秦軍の攻撃に抗いたい……!」
「御意……! お供いたします!」
巨大な鄢は水没し、城壁は次々に破壊され、濁流は漢水に合流するように、低地へ進んでいく。しかし依然として浸入する水量が多く、項飛らが避難した城壁にも、濁流が押し寄せた。
息を止め、項飛は柱に捕まった。流されそうになる副官の手を掴むも、流れの速さに耐えきれず、二人の手は剥がれた。やがて項飛も窒息し、城と運命を共にした。