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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
変わらずにいられるのか?
 僕の失われた記憶――
 もちろん知れるものなら知りたいに決まっている。
 ぽっかりと空いた僕の空白。それを埋められる日を長年待ち望んでいたのだから。
 だけど――

「私は――知ってほしくない」

 目の前の妻は、目を伏せて、悲しそうに言うのだった。

「し、志乃。それは一体――」
「全て聞いたわけじゃないのよ。大体の話だけ。でも……」

 声を詰まらせる志乃。とてもじゃないけど言えないようだった。

「私はあなたを愛しているわ。だからあなたが傷つくようなことはしたくない」
「……記憶を知ったら、僕は傷つくのか?」
「そうよ。私だって、胸が張り裂けそうになった。雲之介のことを思うと、つらくて悲しかった。だから――お願い。記憶のことを探るのは……」

 志乃が記憶のことを諦めるようにと言おうとしたとき、正勝が「それは違うぜ」と反論した。

「志乃さんよ。兄弟は知るべきだ。知らないといけねえんだ」
「正勝の兄さん……」
「どんなに残酷な記憶でも取り戻さないとな」

 まるで断定的な物言いの正勝に志乃は睨みながら「どうしてそんなことが言えるのよ?」と厳しく言う。

「あなたは、雲之介の記憶を知らないから――」
「ああそうさ。俺は兄弟の記憶を知らねえ。でもな、俺は雲之介という男は知っているのさ」

 正勝は僕の肩に手を置いた。しっかりと握ってくる。

「兄弟の根性はすげえよ。俺が知り合う前にもいろんなことをやったようだが、知り合ってからもすげえことしている。少し賢いだけの男がよ。山賊やっていた俺と初めて会ったとき、俺の部下に囲まれながら啖呵を切ったんだぜ?」

 にやりと笑って僕と目を合わせる。

「だからさ。どんな記憶でも受け入れると思うぜ」
「――私だって、雲之介を信じているわよ」

 志乃はきゅっと眉を寄せる。苦しそうだった。

「でもね、それでも私は、怖いのよ」
「ふうん。怖いのね。ま、気持ちは分かるわ」

 半兵衛さんが志乃に気遣うように優しく言う。

「志乃ちゃんが恐れるのも無理はないわ。失った記憶を知ってしまったら、人がどうなるかなんて、分からないから」
「おいおい半兵衛。それじゃあ兄弟は知らないほうがいいってことか?」
「あたしとしては知っても知らなくてもどっちでもいいわ。所詮他人事だし」

 冷静な言葉だった。冷たくすらある。

「決めるのは雲之介ちゃんよ。雲之介ちゃんが知りたいのなら、知るべきよ。知りたくないのなら、黙っていればいいわ」
「おいおい。まあそのとおりだが――」
「正勝ちゃん。志乃ちゃんだってそう思っているはずよ」

 半兵衛さんの言葉に志乃は黙って何も答えなかった。

「そうでしょう? もしも知ってほしくないのなら、そのまま黙っておけばいいじゃない」

 厳密には明智さまから『志乃が僕の記憶を知っている』ことは告げられたけど、志乃はそのことを知らない。

「……軍師ってのは大したもんだな。人の頭の中も見抜いちまう」
「でも人の心は変えられないわ。そうねえ、後は雲之介ちゃん次第だわ」

 半兵衛さんは僕に問う。

「あなたは本当に記憶を知りたいの?」

 僕は目を瞑って、その問いを深く噛み締める。
 記憶を知ったら――思い出したら僕は僕で無くなるかもしれない。
 記憶があったときの別の人間になるかもしれない。
 そう考えたこともあった。

 それでも、僕は知りたかった。
 土台がぐらぐらしているような。
 空高く舞い上がっているような。
 根がしっかりしていないような。
 そんな風に生きてきた。
 どんな原因で失くしたのか。それを知ることで僕は――

「僕は、知りたいよ」

 ようやく、それが言えた。

「……雲之介。怖くないの?」

 志乃が僕を見つめる。心配そうな顔。僕を気にかけているような目。
 だから正直に話す。

「……怖いよ。とても怖い」
「それなのに、知りたいの?」

 志乃にしっかりと見つめ返して答える。

「うん。それでも、知りたい。僕は記憶を取り戻さなければいけないんだ」
「…………」
「知ってしまえば、知らなかった僕では居られないけど、それでも知らないといけないと思うんだ」

 志乃が僕の手をそっと握る。それで自分の手が震えていることに気づく。
 臆病者だ、僕は。
 だけど僕は言葉を紡げた。

「どんな最悪な出来事でも、それを乗り越えなくちゃいけない。それに頭じゃなくて心が欲しがっているんだ。記憶を取り戻したいって」
「…………」
「だから、志乃。教えてくれ。僕の記憶を」

 志乃は大きく溜息を吐いた。そして――

「あなたの記憶を知っている人に会わせるわ。私の口からはとてもじゃないけど、言えない」

 僕は「ありがとう、志乃」とお礼を言った。そしてにっこりと笑う。

「後悔しないでよね」
「うん。なるべくしない」
「……なるべく?」
「いやだって何も知らないし」
「そこは絶対しないとか言いなさいよ」

 いつもどおりの夫婦の会話だった。

「まったく。世話が焼けるわね。この夫婦は」
「ああ。でもそういうの嫌いじゃねえよ」

 半兵衛さんと正勝には感謝しないとな。
 二人が居てくれて、良かった。

「でも、その前にやることあるわよ」
「うん? なんだい半兵衛さん」

 半兵衛さんはびしっと僕を指差す。

「きちんとご飯が食べられるようになること。そんな身体じゃその人のいるところまで行けないわよ!」
「あ。そうだった」

 まるで餓鬼か幽鬼のような身体の僕。
 早く元に戻さないと。

 
◆◇◆◇

 
 普通の状態に戻るまで、一月ほどかかってしまった。
 すっかり冬となり、そこら中に雪が積もっている、京の都。
 晴太郎とかすみが歩けるようになり、簡単な言葉を喋れるようになった。やはり子供の成長は早い。

 子供たちを秀長殿に預けて。
 志乃と一緒に、その人――山科言継さまのところに向かった。

 山科言継さまはお屋形様とも親交のある公家の一人で、周りの大名を説得して朝廷に献金させて財力を回復させた人物だ。確か角倉からそんな話を聞いたことがある。
 その方の屋敷は公家風だったけど、ところどころ古びていた。

 名乗って用件を告げると、下人に部屋を案内された。そこでしばらく待っていると、山科さまがやってきた。
 痩せぎすの老人。総白髪。目がぎょろりとしている。まるで山伏か修行僧のような、厳しい修行をしてきたような、印象。
 背丈はそれほど大きくない。むしろ小柄だ。
 目の下の隈が凄い。腰も曲がっている。
 それはまるで寝る暇もないほど忙しく、腰が曲がるほど重いものを背負ってきた――

 不意に頭痛に襲われる――

「大丈夫? 雲之介?」

 隣で座っている志乃が心配そうに僕の背中をさする。

「あ、ああ。平気だよ……」
「そうか。頭が痛むのか……」

 よく通る声。みずみずしく老人とは思えない――

「すまないな。ああ、本当にすまない。全てわしの責任だ。本当にすまない……」

 山科さまは正座して、僕に深く頭を下げた。
 それは土下座だった。公家にあるまじき行ないだった。

「ど、どうして――」
「わしのせいだ。君が記憶を失ったのも、全てわしの責任だ」

 山科さまはそう言って、頭を上げた――泣いている。

「……山科さま。私は全てを聞いていません。雲之介にも一切話していません」

 志乃は感情を殺した声で言う。

「あなたさまの口から、雲之介に言ってください」
「ああ。そのつもりだ。分かっている。分かっているさ」

 涙を懐紙で拭きながら山科さまは僕に問う。

「猿丸……この名前に聞き覚えあるか?」
「……いえ。誰ですか?」

 答えると山科さまは一呼吸置いてから僕を指差す。

「――君のことだ」

 思わず息を飲む――

「猿丸。それが君の幼名だ。そして――わしの孫の名前でもある」

 山科さまは、僕に告げた。

「君の記憶を奪い、君を捨てたのは、わしの意思なんだ――」

 僕の記憶が語られる。
 僕の過去が語られる。
 僕の秘密が暴かれる。

 僕は変わるのだろうか。
 あるいは変わらないのだろうか。
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