残酷な描写あり
母と父と祖父のこと
「君の母親の名前は――巴という。わしの娘だ」
「じゃあ、山科さまが――」
僕の祖父ですかと言いかけて、手のひらを向けられることで、止められる。
「言わないでくれ。わしが君の――そんな資格はない」
山科さまの言葉は僕の胸を締め付けた。隣に居る志乃の顔は強張っている。
山科さまは言葉を続けた。
「親の贔屓目もあるだろうが、巴は美しい娘だった。君によく似ていた。いや、君は父親にも似ている……」
「父親――どのような人だったんですか?」
山科さまは「君には伝えたくないことだが」と前置きして、膝に置かれた手をぎゅっと握りしめた。
「最低の男だ。語るのもおぞましいほどの、唾棄すべき男だ」
「…………」
名も知らぬ父親を罵倒されても傷つきはしなかった。だけど虚しさを覚えていた。
「そういえば、志乃さんから聞いたが、君は優しい性格なのだな」
山科さまが何の脈絡もなく唐突に訊ねてきた。
「ええ。よく言われます」
「巴もそうだった。優しい娘で、わしが勤めで悩んでいたときも励ましてくれるような子だった。笑顔が素敵で、日輪もしくは観音さまのようだった」
先ほどから――過去を語るような口調なのが気にかかった。
「巴が十六のときだった」
空気が変わった――あるいは乾いた。
「巴が外出していたとき、その男と出会った。なんでも巴が侍女と一緒に橋を渡っていたとき、子供が川で溺れていたのを見つけたらしい。当然、巴と侍女では助けられん。しかしそのとき、川に飛び込んで助けたのが、その男――良秀だったという」
「その良秀という人が――」
「いや。おそらく偽名だろう。調べた結果、それしか分からなかった」
偽名を用いて、巴さん――何故か母とはどうしても呼べない――に近づいたのか。
「良秀は仕官を求めて京にやってきた素浪人と名乗っていた。それを聞いて巴が我が家の下男として働くのはどうかと提案した。わしも実際に会って話してみたら、意外と教養があってな。気に入ってしまったよ。今思えば、過ちだったが」
次第に心臓が破裂するくらいに鼓動が早くなってきた。
怖い。なんとなく予想できるのが、怖い。
「良秀はとても良く働いてくれた。朝から晩まで、熱心に。仕事の合間に巴と話すことが多かった。次第に巴は良秀に惹かれていった。良秀のやつも満更ではなかったようだ」
山科さまは大きな溜息を吐いた。後悔しているのだろう。何故か分かってしまった。
「男女の関係になるのは早かった。しかしわしは気づかなかったよ。その頃、朝廷での仕事が忙しく、各地を転々としていたから。だから――巴に良秀との子ができて、その子が産まれたと知らされたのは、全て終わってからだった」
全てが終わってから?
何が終わったんだろう?
「良秀は巴にこう言ったらしい。『身分が違う僕たちが一緒になるには金が必要だ。巴さん、ご主人さまが集めた献金のありかを教えてくれ。何、全部は持ち出さない。後で返せば許してくれる』とな」
隣に居る志乃が「まさか――」と息を飲んだ。
「巴はありかを教えてしまった。しかもそれだけではない……」
目の前の老人は、怒りを込めた目で宙を睨む。
そうしないと、涙が溢れるとでも言わんばかりに。
「駆け落ちするため、約束の場所に来た巴の目の前には良秀と――複数の下衆な男たちが居た」
「……嘘でしょ?」
思わず出た、志乃の驚きの声。
僕は何も言えなかった。不意に戦場で悲しいことをさせられた女たちを思い出す。
「三人目からは、覚えていないと……その様子を良秀は笑って見ていたと……」
「もうやめて! もう、分かったから……」
志乃の制止が遠くに聞こえる。
あまりの衝撃で言葉を失う。呼吸が荒くなるのを感じた。
「私、そんなこと、聞いていなかったわよ! 良秀が、雲之介を捨てたとしか――」
「嘘は言っていない。だが君たちには知っておいてほしかった」
山科さまは僕を哀れむように見つめた。
全身の震えをなんとか静めるのに必死だった僕は――
「そうして産まれたのは、君だったんだ」
頭痛が激しくなる。意識が飛びそうになるほどの激痛。
「雲之介! もういいわ! もう十分――」
「い、いや、まだ聞く……」
やっと、言えた。声に出して、言えた。
「無理しないで! 顔色が悪いわよ!」
「いいんだ。続けて、ください……」
山科さまは「分かった。続けよう」と言って、深呼吸した。
「心身ともに傷ついた巴だったが、君を手放そうとせずに、この屋敷の離れで暮らすようになった」
この屋敷で、僕は育った?
まったく思い出せない。
「君はずっと一言も話さない母親と四六時中居た。だからだろう、五才まで何も話せなかった。君の幼名の猿丸は、そこから名付けられた」
「…………」
「六才になった君は少しずつ言葉を覚え始めた。尋常ではない速度で。そんな君をわしは嫌うようになった。しかしそれでも殺そうとは思わなかった。半分は巴の血が流れているのだから。けれども――」
次の言葉で、僕の記憶の断片が、明るみになる。
「ある日、巴は君を水瓶に沈めて殺そうとした」
『可哀想な子。そして罪悪の子……』
哀れむ女の人の声。
『この子は、生まれてはいけない子』
そのとおりだと、自分でも思う。
『せめていっそう、この手で……』
頭を押さえつけられる。
『この手で、殺したい』
呼吸ができない――
「雲之介……?」
現実に引き戻される。
志乃だった。
「君、大丈夫か?」
山科さままで、僕のことを慮っている。
「大丈夫です……」
「……そうか」
山科さまは悲劇を語り出す。
「そのときは死なずに済んだが、いつ巴が君を再び殺めようとするのか、分からなかった。だから部下に命じた。君を殺すようにと」
志乃は「な、なんで、そんなことができるのよ……」と震える声で山科さまを非難した。
「く、雲之介は、あなたの――」
「わしには孫への愛情がなかった。それどころか清々する気分だった」
「この――最低!」
志乃が立ち上がろうとしたのを――手を引っ張って止める。
「雲之介!?」
「まだ、終わっていないから……」
頭がズキズキと痛む。視界が揺れる。気分が優れない……
「部下は岩で君の頭を割ったと報告した。わしはこれでようやく、重荷が無くなったと思った。しかし――」
山科さまは、目を伏せてしまう。
「巴が首をくくって死ぬとは思わなかった」
「――えっ?」
志乃が間の抜けた声を出した。
頭の痛みが酷くなる。
「君を殺したと話すと、巴は狂ったように笑い出して、狂ったように泣き出した――その三日後に死んだ」
そこまで語ったとき。
山科さまの目から、涙が流れ出た。
「わしは、君と娘を殺してしまった。たとえ君が生きていたとしても、罪は無くならない」
山科さまは、僕に向かって、訴え出した。
「わしは、悪人だ。おそらく地獄に落ちるだろう。許してくれとは言わない。慈悲も乞わない。だが――裁いてほしい」
「裁く――」
「死ねと言われたら死のう。どのような責め苦でも甘んじて受けよう。頼む。わしを――」
「都合の良いこと、言ってんじゃないわよ!」
志乃は僕の手を払って、山科さまの胸ぐらを掴んだ。
「ふざけないでよ! 楽になれると思ってるの!? しかも雲之介に、重荷を背負わそうとしないで!」
「…………」
「あんたは卑怯よ! 最低の卑怯者よ! そんなにつらいなら、さっさと首くくって死ねばいい! 巴さんが死んだときにでも、死ねば良かったのよ!」
僕は脇に置いた刀を握る。
そして立ち上がった。
「この――っ! く、雲之介! 何をする気なの!?」
鞘を捨てた。山科さましか、見えなかった。
「だ、駄目よ! 雲之介――」
志乃を無視して、僕は――
「うわあああああああああああああああああああ!」
雄叫びを上げて――
刀を、山科さまの足元に、突き刺した。
「……殺さないのか?」
全員の呼吸が、荒い。
「……殺さない」
僕は、山科さまに――言う。
「僕は――あなたを、殺さない」
「じゃあ、山科さまが――」
僕の祖父ですかと言いかけて、手のひらを向けられることで、止められる。
「言わないでくれ。わしが君の――そんな資格はない」
山科さまの言葉は僕の胸を締め付けた。隣に居る志乃の顔は強張っている。
山科さまは言葉を続けた。
「親の贔屓目もあるだろうが、巴は美しい娘だった。君によく似ていた。いや、君は父親にも似ている……」
「父親――どのような人だったんですか?」
山科さまは「君には伝えたくないことだが」と前置きして、膝に置かれた手をぎゅっと握りしめた。
「最低の男だ。語るのもおぞましいほどの、唾棄すべき男だ」
「…………」
名も知らぬ父親を罵倒されても傷つきはしなかった。だけど虚しさを覚えていた。
「そういえば、志乃さんから聞いたが、君は優しい性格なのだな」
山科さまが何の脈絡もなく唐突に訊ねてきた。
「ええ。よく言われます」
「巴もそうだった。優しい娘で、わしが勤めで悩んでいたときも励ましてくれるような子だった。笑顔が素敵で、日輪もしくは観音さまのようだった」
先ほどから――過去を語るような口調なのが気にかかった。
「巴が十六のときだった」
空気が変わった――あるいは乾いた。
「巴が外出していたとき、その男と出会った。なんでも巴が侍女と一緒に橋を渡っていたとき、子供が川で溺れていたのを見つけたらしい。当然、巴と侍女では助けられん。しかしそのとき、川に飛び込んで助けたのが、その男――良秀だったという」
「その良秀という人が――」
「いや。おそらく偽名だろう。調べた結果、それしか分からなかった」
偽名を用いて、巴さん――何故か母とはどうしても呼べない――に近づいたのか。
「良秀は仕官を求めて京にやってきた素浪人と名乗っていた。それを聞いて巴が我が家の下男として働くのはどうかと提案した。わしも実際に会って話してみたら、意外と教養があってな。気に入ってしまったよ。今思えば、過ちだったが」
次第に心臓が破裂するくらいに鼓動が早くなってきた。
怖い。なんとなく予想できるのが、怖い。
「良秀はとても良く働いてくれた。朝から晩まで、熱心に。仕事の合間に巴と話すことが多かった。次第に巴は良秀に惹かれていった。良秀のやつも満更ではなかったようだ」
山科さまは大きな溜息を吐いた。後悔しているのだろう。何故か分かってしまった。
「男女の関係になるのは早かった。しかしわしは気づかなかったよ。その頃、朝廷での仕事が忙しく、各地を転々としていたから。だから――巴に良秀との子ができて、その子が産まれたと知らされたのは、全て終わってからだった」
全てが終わってから?
何が終わったんだろう?
「良秀は巴にこう言ったらしい。『身分が違う僕たちが一緒になるには金が必要だ。巴さん、ご主人さまが集めた献金のありかを教えてくれ。何、全部は持ち出さない。後で返せば許してくれる』とな」
隣に居る志乃が「まさか――」と息を飲んだ。
「巴はありかを教えてしまった。しかもそれだけではない……」
目の前の老人は、怒りを込めた目で宙を睨む。
そうしないと、涙が溢れるとでも言わんばかりに。
「駆け落ちするため、約束の場所に来た巴の目の前には良秀と――複数の下衆な男たちが居た」
「……嘘でしょ?」
思わず出た、志乃の驚きの声。
僕は何も言えなかった。不意に戦場で悲しいことをさせられた女たちを思い出す。
「三人目からは、覚えていないと……その様子を良秀は笑って見ていたと……」
「もうやめて! もう、分かったから……」
志乃の制止が遠くに聞こえる。
あまりの衝撃で言葉を失う。呼吸が荒くなるのを感じた。
「私、そんなこと、聞いていなかったわよ! 良秀が、雲之介を捨てたとしか――」
「嘘は言っていない。だが君たちには知っておいてほしかった」
山科さまは僕を哀れむように見つめた。
全身の震えをなんとか静めるのに必死だった僕は――
「そうして産まれたのは、君だったんだ」
頭痛が激しくなる。意識が飛びそうになるほどの激痛。
「雲之介! もういいわ! もう十分――」
「い、いや、まだ聞く……」
やっと、言えた。声に出して、言えた。
「無理しないで! 顔色が悪いわよ!」
「いいんだ。続けて、ください……」
山科さまは「分かった。続けよう」と言って、深呼吸した。
「心身ともに傷ついた巴だったが、君を手放そうとせずに、この屋敷の離れで暮らすようになった」
この屋敷で、僕は育った?
まったく思い出せない。
「君はずっと一言も話さない母親と四六時中居た。だからだろう、五才まで何も話せなかった。君の幼名の猿丸は、そこから名付けられた」
「…………」
「六才になった君は少しずつ言葉を覚え始めた。尋常ではない速度で。そんな君をわしは嫌うようになった。しかしそれでも殺そうとは思わなかった。半分は巴の血が流れているのだから。けれども――」
次の言葉で、僕の記憶の断片が、明るみになる。
「ある日、巴は君を水瓶に沈めて殺そうとした」
『可哀想な子。そして罪悪の子……』
哀れむ女の人の声。
『この子は、生まれてはいけない子』
そのとおりだと、自分でも思う。
『せめていっそう、この手で……』
頭を押さえつけられる。
『この手で、殺したい』
呼吸ができない――
「雲之介……?」
現実に引き戻される。
志乃だった。
「君、大丈夫か?」
山科さままで、僕のことを慮っている。
「大丈夫です……」
「……そうか」
山科さまは悲劇を語り出す。
「そのときは死なずに済んだが、いつ巴が君を再び殺めようとするのか、分からなかった。だから部下に命じた。君を殺すようにと」
志乃は「な、なんで、そんなことができるのよ……」と震える声で山科さまを非難した。
「く、雲之介は、あなたの――」
「わしには孫への愛情がなかった。それどころか清々する気分だった」
「この――最低!」
志乃が立ち上がろうとしたのを――手を引っ張って止める。
「雲之介!?」
「まだ、終わっていないから……」
頭がズキズキと痛む。視界が揺れる。気分が優れない……
「部下は岩で君の頭を割ったと報告した。わしはこれでようやく、重荷が無くなったと思った。しかし――」
山科さまは、目を伏せてしまう。
「巴が首をくくって死ぬとは思わなかった」
「――えっ?」
志乃が間の抜けた声を出した。
頭の痛みが酷くなる。
「君を殺したと話すと、巴は狂ったように笑い出して、狂ったように泣き出した――その三日後に死んだ」
そこまで語ったとき。
山科さまの目から、涙が流れ出た。
「わしは、君と娘を殺してしまった。たとえ君が生きていたとしても、罪は無くならない」
山科さまは、僕に向かって、訴え出した。
「わしは、悪人だ。おそらく地獄に落ちるだろう。許してくれとは言わない。慈悲も乞わない。だが――裁いてほしい」
「裁く――」
「死ねと言われたら死のう。どのような責め苦でも甘んじて受けよう。頼む。わしを――」
「都合の良いこと、言ってんじゃないわよ!」
志乃は僕の手を払って、山科さまの胸ぐらを掴んだ。
「ふざけないでよ! 楽になれると思ってるの!? しかも雲之介に、重荷を背負わそうとしないで!」
「…………」
「あんたは卑怯よ! 最低の卑怯者よ! そんなにつらいなら、さっさと首くくって死ねばいい! 巴さんが死んだときにでも、死ねば良かったのよ!」
僕は脇に置いた刀を握る。
そして立ち上がった。
「この――っ! く、雲之介! 何をする気なの!?」
鞘を捨てた。山科さましか、見えなかった。
「だ、駄目よ! 雲之介――」
志乃を無視して、僕は――
「うわあああああああああああああああああああ!」
雄叫びを上げて――
刀を、山科さまの足元に、突き刺した。
「……殺さないのか?」
全員の呼吸が、荒い。
「……殺さない」
僕は、山科さまに――言う。
「僕は――あなたを、殺さない」