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作者: konoyo
R-15
悲しいと可哀そうはまるで違う
 あたしは割と最近、一緒に暮らしていたお爺ちゃんを亡くしている。お爺ちゃんは癌だったらしく、そう宣告されて一年くらいでこの世を去った。

みんな涙を流して、心を痛めて、死という運命を呪っていたみたい。あたしは異常なのだろう。涙も出なかったし、亡くなったことが特別なことではなく、そういう定めであってついにお迎えが来たのだな、としか思えなかったのだ。そう、他人事だったのだ。自宅の和室に置かれた遺体の顔を見て、あたし以外のみんなはずっと嗚咽を漏らしていた。お母さんは、

「お爺ちゃん生き返って。」

と言いながら大粒の涙を流していた。

 幼くて死など理解していない岳人でさえ、

「じいたん。じいたん。早くおはようしてよお。」

と泣きじゃくっていた。お葬式が終わってもみんなすごく元気がなくて、お父さんが、

「いつまでもめそめそしていたら、お爺ちゃんが安心して天国に行けないからもう泣くのは止めよう。」

と言って、みんなやっと涙を流すのを止めた。あたしにはお爺ちゃんの話をしなくなったこと、無理に亡くなったという事実から目を逸らすのが不思議で、違和感があった。

 一応言っておくけどあたしだって、悲しいと思ったよ。だけど、他の家族との違いは、みんなには「悲しい」だったものが、あたしには「可哀そうと思う」ものだったのだろう。 ほんの少しの違いなのかも知れないけど、あたしはみんなより心に優しさが足りなかったのではないだろうか。

 お爺ちゃんは亡くなる瞬間どんな気持ちだったのだろう。やはり死が怖いと怯えていたのだろうか。それにしては、お爺ちゃんの死に顔はとても清々しく見えたのだけど。

 あたしは今、死が怖いし、悲しい。お爺ちゃんが亡くなったときは他人事だった死というものが身近なものだと痛感する。おじいちゃんの前で泣きじゃくっていた岳人を幼いと言ったが、実は幼いのはあたしの方だったのではないだろうか。
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