残酷な描写あり
R-15
第二十三話 張賓
「孟孫! 何やってるんだ。 汝の兄上達はもう逃げたぞ。 我らも急ぎこの街を離れよう……聞いているのか」
窓際に腰掛け、花窓を覗く白皙の美青年を、腰に短剣を差して大荷物を背負った青年が急き立てる。
青州の斉郡は臨朐、かつての斉の国の故地であるこの都市は、漢軍の手に落ちてしまった。
壺関が漢軍によって陥落したという知らせに、この斉郡はもちろん大騒ぎになった。
しかし、漢軍が壺関から目と鼻の先であるはずの冀州魏郡の鄴に向かわず、猛烈な勢いで青州に向かってきたときの混乱は、その比ではなかった。
臨朐防衛の部隊は予期せぬ敵の襲撃にあっけなく粉砕された。
太守は逃げたとも死んだともわからない。
人々は詰めるだけの財産を馬車につめ、あるいは背負って逃げ出した。
「素晴らしい。 最高だ」
陶然とした表情で張孟孫こと張賓は呟いた。
柳のように細い体、細い顎、病的に白い肌に若干ながら朱が差しているように見える。
「なんの話だ。 もう街は攻め落とされた。 最悪の間違いじゃないのか」
「一度攻め落とされた鄴は、今は固く守られている。 今度は前のようにはいかない。 そして、長期戦になったとき、冀州の東に位置するこの青州から後背を突かれたら、一巻の終わりだ。 故に壺関を落としたら僅かな兵を壺関に残し、青州を屠るが上策。 石勒とやら、夷狄ながら私と同じ考えに至るとは、素晴らしいぞ。 臨朐の子房たるこの私をうならせるとは……」
荷物を持った青年、田戒は怒鳴る。
「妄想はいい加減にしろ! お前は漢の張良の子孫でも、生まれ変わりでもなんでもない。 俺だって斉に住んではいるが、先祖は夷陵から流れてきた食い詰め者だ。 斉の田横の子孫じゃない。 俺はつまらん貧乏人だし、お前はただの引きこもりだ。 目を覚ませ。 現実に戻れ。 死んでしまうぞ」
張賓は田戒を眺めながら、その実は過去の彼のことを思い出していた。
早くに亡くなった父から、「仔細は言えないが、ご先祖様は英雄だったんだぞ」と言われて間に受けていた幼き日の田戒。
書物の虫になって古の謀士や軍師と自分を重ね合わせていた張賓は、似た境遇のこの少年とすぐに仲良くなった。
成長するに連れ、田戒は押し寄せる日常にすり潰されて、父の言ったことを信じなくなった。
わずかに先祖伝来だという脇差を捨てずに持っておくだけだ。
張賓は逆で、色彩のない日常に背を向けて、夢想への没入の度を深めていった。
仕官もせずに「我が知謀と見識は張子房にも劣らない。ただ、高祖たる者に出会えていないだけだ」などと言って読書に耽る彼のことを、家族さえもが嘲笑い、変人扱いした。
「わかった……ここを離れよう。 だが、最後に敵の将軍の姿を一目見ておきたい。それだけなら良いだろ?」
◇
二人は逃亡者によって開け放たれた門に向かう。丁度、漢の将軍、石勒が騎兵に囲まれて入城してくるところだった。
側近と思しき異様な騎兵達、茶色い肌に黄色いねじり布の被り物をした者もあれば、半月に反り返った刀を持つ目の青い者、鳥の巣のような髪型をした黒坊主もいる。
その中央に位置する男、短めの赤い翎子が三本ついた鉢型の兜を被り、その下から編み上げた長髪が覗く。
強い意志を湛えたまなこに尖った鼻、豊かな顎髭。
ぎらぎらと輝く明光鎧の下には青みがかった紫――龍胆紫――の戎衣が覗く。
腰に差す長剣は、一体何人を手にかけたのだろう。
「この城では掠奪をするな! 反した者はこの石勒、自らの手で斬る」
岩陰から覗く二人の耳に、力強い声が響く。
あれが石勒……。
「さ、満足したか。行くぞ、孟孫」
「駄目だ」
張賓は全身を小刻みに振るわせていた。
「一緒には行けない。私は、あの将軍に仕官する」
「ついに気が触れたか?」
張賓は左肩を掴む田戒の手を更に上から掴む。
「至って正気だ。私にはわかるのだ。 私がこれまで観察してきた諸将は多いが、ただあの胡の将軍だけがともに大事を成すべきお方だ。 だから、ここでお別れだ」
張賓と田戒は見つめ合った。それは一瞬の出来事だったが、二人には永遠にさえ感じられた。
田戒はおもむろに脇差を外すと、張賓の手を取って握らせた。
「君は本気なんだな。 俺は自分の可能性を信じることができなかった。 どこかで静かに生きていくよ。……これは君が持っていってくれ。 英雄の剣だというのが本当ならば、道を切り開いてくれるさ」
二人はひしと抱き合った。
やがて離れると、田戒は岩陰から林道に消えていった。それを見届けた張賓は、剣を抜いて石勒達の行列の前に躍り出た。
「新時代の沛公よ! 遅ればせながら、貴殿の子房が参上つかまつった」
石勒は張賓をしげしげと眺めて言った。
「可哀想に。 頭がおかしいのだな」
半月の刀を抜いた支雄がぼそりと囁く。
「斬り捨てます」
「いや、いいよ。飯をめぐんでやれ」
しかし、張賓は更に進み出て叫んだ。
「私はッ! 狂人でも、ましてや乞食でもない! 謀士として、将軍の覇業をお助け申す! 必ずや、必ずや、貴方を龍として天に昇らせようぞ」
石勒は喚く張賓の目に狂気を超えた何物かを見出した。
「よし……連れていってやる。 ただし、お前の策を用いるかはその策次第だ。 つまらん事を言ったら叩き出すからな」
「ここには下策を入れておく隙間は残っておりません」
張賓は不敵に笑って頭をコツコツと叩いた。
◇
張賓は石勒の軍営に早変わりした太守の館の一室で一息ついた。なんの気なしに、灯りに脇差を抜いて照らした。
いつも田戒が持ち歩いていたが、彼は抜いて人に見せてはならぬと父に言われていたらしく、親友だった張賓もその刀身を見るのは初めてだ。
すり減った短剣の腹には何か文字が刻まれている。
「“翼江王、成家龍興帝より之を賜わる”……翼江王、翼江王……! まさか、田戎、夷陵の田戎の剣か!」
後漢の始まりの頃、夷陵に割拠した群雄、田戎。
蜀にあった国、成の公孫述を頼り、王に封じられ、やがて光武帝劉秀との戦いに敗れて死んだ。
その王号は記憶が正しければ、翼江王である。
なるほどひとかどの英雄には違いないが、扱いに困る部類の英雄だ。
後漢の世では賊として扱われ、後漢を簒奪した魏でも、魏から禅譲を受けた晋の世になっても、彼ら光武帝と争った群雄達の名誉が回復されることはなかった。
田戒の父が息子に先祖の仔細を言えないのは仕方がないことだったのだ。
張賓はふと、仮に自分に子が出来ても、その子が自分を誇りに思えるか疑問に思った。
晋を捨てて、異民族に仕えた裏切り者だと思わないだろうか。
実際、その通りなのだが。
いや、石勒を天下の主に押し上げれば、そんなことは杞憂に終わるのだ。
この剣のように日陰者では終わらない。
言い聞かせるように短剣を鞘にしまって、灯りを吹き消すと、やがて夢に落ちていった。
窓際に腰掛け、花窓を覗く白皙の美青年を、腰に短剣を差して大荷物を背負った青年が急き立てる。
青州の斉郡は臨朐、かつての斉の国の故地であるこの都市は、漢軍の手に落ちてしまった。
壺関が漢軍によって陥落したという知らせに、この斉郡はもちろん大騒ぎになった。
しかし、漢軍が壺関から目と鼻の先であるはずの冀州魏郡の鄴に向かわず、猛烈な勢いで青州に向かってきたときの混乱は、その比ではなかった。
臨朐防衛の部隊は予期せぬ敵の襲撃にあっけなく粉砕された。
太守は逃げたとも死んだともわからない。
人々は詰めるだけの財産を馬車につめ、あるいは背負って逃げ出した。
「素晴らしい。 最高だ」
陶然とした表情で張孟孫こと張賓は呟いた。
柳のように細い体、細い顎、病的に白い肌に若干ながら朱が差しているように見える。
「なんの話だ。 もう街は攻め落とされた。 最悪の間違いじゃないのか」
「一度攻め落とされた鄴は、今は固く守られている。 今度は前のようにはいかない。 そして、長期戦になったとき、冀州の東に位置するこの青州から後背を突かれたら、一巻の終わりだ。 故に壺関を落としたら僅かな兵を壺関に残し、青州を屠るが上策。 石勒とやら、夷狄ながら私と同じ考えに至るとは、素晴らしいぞ。 臨朐の子房たるこの私をうならせるとは……」
荷物を持った青年、田戒は怒鳴る。
「妄想はいい加減にしろ! お前は漢の張良の子孫でも、生まれ変わりでもなんでもない。 俺だって斉に住んではいるが、先祖は夷陵から流れてきた食い詰め者だ。 斉の田横の子孫じゃない。 俺はつまらん貧乏人だし、お前はただの引きこもりだ。 目を覚ませ。 現実に戻れ。 死んでしまうぞ」
張賓は田戒を眺めながら、その実は過去の彼のことを思い出していた。
早くに亡くなった父から、「仔細は言えないが、ご先祖様は英雄だったんだぞ」と言われて間に受けていた幼き日の田戒。
書物の虫になって古の謀士や軍師と自分を重ね合わせていた張賓は、似た境遇のこの少年とすぐに仲良くなった。
成長するに連れ、田戒は押し寄せる日常にすり潰されて、父の言ったことを信じなくなった。
わずかに先祖伝来だという脇差を捨てずに持っておくだけだ。
張賓は逆で、色彩のない日常に背を向けて、夢想への没入の度を深めていった。
仕官もせずに「我が知謀と見識は張子房にも劣らない。ただ、高祖たる者に出会えていないだけだ」などと言って読書に耽る彼のことを、家族さえもが嘲笑い、変人扱いした。
「わかった……ここを離れよう。 だが、最後に敵の将軍の姿を一目見ておきたい。それだけなら良いだろ?」
◇
二人は逃亡者によって開け放たれた門に向かう。丁度、漢の将軍、石勒が騎兵に囲まれて入城してくるところだった。
側近と思しき異様な騎兵達、茶色い肌に黄色いねじり布の被り物をした者もあれば、半月に反り返った刀を持つ目の青い者、鳥の巣のような髪型をした黒坊主もいる。
その中央に位置する男、短めの赤い翎子が三本ついた鉢型の兜を被り、その下から編み上げた長髪が覗く。
強い意志を湛えたまなこに尖った鼻、豊かな顎髭。
ぎらぎらと輝く明光鎧の下には青みがかった紫――龍胆紫――の戎衣が覗く。
腰に差す長剣は、一体何人を手にかけたのだろう。
「この城では掠奪をするな! 反した者はこの石勒、自らの手で斬る」
岩陰から覗く二人の耳に、力強い声が響く。
あれが石勒……。
「さ、満足したか。行くぞ、孟孫」
「駄目だ」
張賓は全身を小刻みに振るわせていた。
「一緒には行けない。私は、あの将軍に仕官する」
「ついに気が触れたか?」
張賓は左肩を掴む田戒の手を更に上から掴む。
「至って正気だ。私にはわかるのだ。 私がこれまで観察してきた諸将は多いが、ただあの胡の将軍だけがともに大事を成すべきお方だ。 だから、ここでお別れだ」
張賓と田戒は見つめ合った。それは一瞬の出来事だったが、二人には永遠にさえ感じられた。
田戒はおもむろに脇差を外すと、張賓の手を取って握らせた。
「君は本気なんだな。 俺は自分の可能性を信じることができなかった。 どこかで静かに生きていくよ。……これは君が持っていってくれ。 英雄の剣だというのが本当ならば、道を切り開いてくれるさ」
二人はひしと抱き合った。
やがて離れると、田戒は岩陰から林道に消えていった。それを見届けた張賓は、剣を抜いて石勒達の行列の前に躍り出た。
「新時代の沛公よ! 遅ればせながら、貴殿の子房が参上つかまつった」
石勒は張賓をしげしげと眺めて言った。
「可哀想に。 頭がおかしいのだな」
半月の刀を抜いた支雄がぼそりと囁く。
「斬り捨てます」
「いや、いいよ。飯をめぐんでやれ」
しかし、張賓は更に進み出て叫んだ。
「私はッ! 狂人でも、ましてや乞食でもない! 謀士として、将軍の覇業をお助け申す! 必ずや、必ずや、貴方を龍として天に昇らせようぞ」
石勒は喚く張賓の目に狂気を超えた何物かを見出した。
「よし……連れていってやる。 ただし、お前の策を用いるかはその策次第だ。 つまらん事を言ったら叩き出すからな」
「ここには下策を入れておく隙間は残っておりません」
張賓は不敵に笑って頭をコツコツと叩いた。
◇
張賓は石勒の軍営に早変わりした太守の館の一室で一息ついた。なんの気なしに、灯りに脇差を抜いて照らした。
いつも田戒が持ち歩いていたが、彼は抜いて人に見せてはならぬと父に言われていたらしく、親友だった張賓もその刀身を見るのは初めてだ。
すり減った短剣の腹には何か文字が刻まれている。
「“翼江王、成家龍興帝より之を賜わる”……翼江王、翼江王……! まさか、田戎、夷陵の田戎の剣か!」
後漢の始まりの頃、夷陵に割拠した群雄、田戎。
蜀にあった国、成の公孫述を頼り、王に封じられ、やがて光武帝劉秀との戦いに敗れて死んだ。
その王号は記憶が正しければ、翼江王である。
なるほどひとかどの英雄には違いないが、扱いに困る部類の英雄だ。
後漢の世では賊として扱われ、後漢を簒奪した魏でも、魏から禅譲を受けた晋の世になっても、彼ら光武帝と争った群雄達の名誉が回復されることはなかった。
田戒の父が息子に先祖の仔細を言えないのは仕方がないことだったのだ。
張賓はふと、仮に自分に子が出来ても、その子が自分を誇りに思えるか疑問に思った。
晋を捨てて、異民族に仕えた裏切り者だと思わないだろうか。
実際、その通りなのだが。
いや、石勒を天下の主に押し上げれば、そんなことは杞憂に終わるのだ。
この剣のように日陰者では終わらない。
言い聞かせるように短剣を鞘にしまって、灯りを吹き消すと、やがて夢に落ちていった。