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残酷な描写あり R-15
第二十二話 壺関の戦い
 太行山脈たいこうさんみゃく
華北平野と山西高原との間の千里――晋代の一里は四百米――に連なる長大な山脈である。
その峰は雲を貫き、見ることは叶わない。
後の世の人々はこの山脈を基点として東を山東、西を山西と呼んだ。
現在の山西省側に位置する壺関こかんは古から并州と魏郡を結ぶ要害の地であり、度々争乱の舞台となった。
今、新たな争乱がその歴史の一頁に加わろうとしていた。

劉聡りゅうそうを総大将とする漢軍は石勒を先鋒とし、魏郡への攻撃の足掛かりとしてこの壺関へ攻め入った。
しかし、壺関回廊を守る晋将、黄秀こうしゅうは関所から出撃して石勒せきろく率いる漢軍を度々破っていた。

「黄将軍! 漢軍が先日までの位置よりも後退しております」

「待て、罠かもしれん。 主からは軽率に敵を追うなと言い含められているからな」

黄秀は元々はここの守将ではない。
壺関への攻撃を予見した主人から命を受けて、救援に来た者であった。
元の守将は半信半疑であったが、実際に漢軍が押し寄せると怯えて早々に指揮権を黄秀に渡してしまった。
黄秀は主の期待に背く事のないよう力戦し、ついに漢軍は後退を始めたのである。
黄秀は偵探に漢軍を着けさせたが、漢軍はどんどん後退を続け、野営地のかまどを破却したという。

「もう戻るつもりはないということか。 ならば、強壮の騎兵二千を出せ! 私が自ら率い、追撃する!」

漢軍がこのまま後退を続ければ、太行山の大渓谷にぶつかる。
あそこで騎兵が追いつけば敵は左右に逃げ場がなく、渓谷の口に殺到して押し潰され、一方的な殺戮の場となるだろう。
黄秀は自信を顔にみなぎらせ、悍馬に跨り、大刀を握って出撃した。
遂に大渓谷で追いつくと、漢軍は慌てふためいた様子を見せた。
毛布をもぞもぞと畳んだり、焚き火跡に臥したりと混乱している。
悠久の時を重ねて切り立った崖が、無常にもその逃げ道を狭めている。
中央に位置した石勒が叫ぶ。

「大変だ、追いつかれた。 逃げ場がないッ、どうしよう……とでも、言うと思ったか」

石勒は愛剣の石氏昌せきししょうを高く掲げた。

烏桓うがんども!出番だぞッ」

黄秀率いる騎兵達の左右の崖を猛烈な勢いで駆け降りてくるのは、十八騎が指揮する烏桓の軽騎兵であった。
左右を見て蒼ざめた黄秀は、前方への注意を怠った。
左手に激痛が走る。毛布や焚き火跡に隠してあった弩で、前方から矢が放たれている。
矢は黄秀の左上腕に深々と刺さっていた。
それでも右手で大刀を保持し、左右から奇声を挙げて殺到する騎兵を打ち払う。
しかし、黄秀の部下達は弩に撃たれ、あるいは騎兵に討ち取られ、急速にその姿を減らしていった。

「石勒ぅ!」

黄秀は決死の覚悟で血煙の中を逃れ、石勒に肉薄する。渾身の力で放った突きは、しかし石勒の胸を刺し貫くことはなかった。
傍に侍していた十八騎の一人、支雄しゆう径路刀けいろとう――径路剣は匈奴等が広く用いる直剣だが、月氏げっし出身の支雄のそれは半月形に反り返っていた――が、黄秀の大刀の穂先を切り払ってしまったからである。
黄秀は突いた勢いのまま落馬してしまった。

「しかし、中々手こずらせてくれた。……今降れば命までは取らん。俺の下で、共に漢の将として働かないか」

膝をついたままの黄秀に、石勒が勧誘の言葉を投げかける。

「笑わせるな、蛮族め。何が漢だ。野蛮人の分際で中華民族の猿真似をしおって」

黄秀は主のいる北の方角に面すると、折れた大刀の柄を首に押し当てた。

劉琨りゅうこん様、申し訳ありませぬ」

そして、首を貫くと、しばらくして果てた。


 壺関を抜いた石勒軍は、水面に全身が映り込むほど澄んだ湖を見つけ、しばしの休息を取ることにした。湖の辺りには石碑が据えられていて、“青龍潭せいりゅうたん”と刻まれていた。
小鳥の囀りが響き、若い兵士達は真裸になって泳いだりしている。勝利に気を良くしていた石勒は特に咎め立てることをしなかった。

「しかし、魏武の曹操そうそうが群雄の高幹こうかんを破ったというこの地で勝利を収めたと思うと、感慨深いですね」

十八騎の一人、桃豹とうひょうがそう言うと、石勒はその肩を殴った。

「イタッ!何するんですか」

「お前、そういう気分の上がる話は戦う前にしろよ!」

「将軍は、こういう歴史の話とか興味ないのかと思ってました。書物もお読みにならないし……」

「ちがーう! お読みにならないんじゃなくて、お読み出来ないの! 俺は字が読めないの! 話を聞く事自体はめっちゃ好きだからな。なめんな!」

桃豹にせがむとスラスラと様々な話が出てくるが、それは全て魏の武帝こと曹操の話ばかりであった。
桃豹は大の曹操好きで、そして曹操の話以外に引き出しはないのである。
そこで孔豚こうとんに聞いてみると、兵法の話が聞き出せた。
郭黒略からは仏の教えが聞き出せたが、堅苦しくて苦痛を伴った。
石勒はいずれの話も一度聞くと大略を覚えることが出来て、話者を驚嘆させた。
曹操の話や兵法の話を突き合わせると、石勒にある考えが浮かんだ。

「うーん、俺らにも、謀士ぼうしが必要なんじゃないか? 郭嘉かくかとか荀彧じゅんいくみたいなさぁ」

先の戦いは石勒が考えた戦法に孔豚が肉付けをした。鮮やかな勝利を得ることが出来たが、戦いの規模が大きくなり、戦術を超えた戦略のようなものが必要になったら、そんなものは自分たちからは捻り出せる気がしなかった。
しかし、敵に投降を誘っても、有能そうな奴ほど自害してしまったりで上手く行きそうにもない。
どこかにノリノリで俺に馳せ参じる謀士とかいないかなぁ、そんな非現実的な事を思いながら、しばしの休息を取る石勒であった。
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