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作者: 清水レモン
お守り
 いや、まだだ。まだ早い。
 なんだったら今から教室に飛び込んでくる生徒すなわち受験生がいたとしても、おかしくない。
 けれどもカウントダウンは容赦なく進み続けていて、そのくせなぜかのんびりしている。
 まだだ。まだか。まだなのか。
 あせっているわけではないが、落ち着いてもいられない。
 とそのとき、ふと。

 『いや。じゅうぶん、おれ落ち着いてるな』

 と実感する。
 心臓から送り出され続けている血液はリズムよく流れているし、おなかが痛いわけでもない。
 念のため、自分の体あちこちに思いをめぐらせて確認してみた。
 頭、異常なし。背中、正常。腸のあたり、あばれる気配なし。視界はクリアで耳をすませば誰かの鉛筆の音が感じられる。呼吸は感じられなかったので、静かに深呼吸することにした。ゆっくり吐く。吐いて吐いて吐いて吐いてなおも息を吐いて。ゆっくりと吸う。音をたてないように。
 いかなる小さな音であっても、決してたてることのないように息を。
 吐く。吸う。吐く。吐く吐く吐く。
 自然にゆっくり吸えるようになった。
 これだけ時を刻んだというのに、まだ時間に余裕があるらしい。

 『なるほど。模試とはちがうな、たしかに』

 おれは消しゴムの位置を確認した。転がる要素なんてない。だが、もし。もしものときは。
 筆箱の中に控えがある。筆箱には、さわらない。さわらなくても、ある。あると知っている。根拠ならある。昨夜も確認したし、いまよりもっと余裕のあるタイミングで確認しているし。
 
 『まあ、いきなり消えてるとか。それならそれで面白いけど』

 おれの妄想が始まりそうになったそのとき、

 『はじめ!』

 先生の声が飛んだ。
 
 あれ?
 チャイムとか、鳴らないのか。
 試合開始のゴングみたいなやつ、なにもない?
 ほぼ一斉に紙をパラッとする音が階段教室いっぱいにこだまする。太鼓の連打のようにも聞こえてくる。おれは、まだ。まだだ。まだ、いじらない。
 教室全体が、しいんとするその一瞬、その瞬間が来るはず。来た、静寂。いまだ。

 おれは紙を、つまむ。
 ふと、思う。思うつもりなんてなかったことだが。
 この手つき、いつものように問題用紙と解答用紙を、開くだけの行為。
 すっかり慣れているし、いまさらなにも思うところもないだろう。
 なのに。
 
 『ついにこの日が来たんだな。本当にホンモノの問題用紙であり解答用紙というわけさ。なあ』

 と自分で自分に言い聞かせるみたいに脳内会話をした直後に、

 あれ。
 紙を、めくる。これ。

 これって。

 違和感があった。
 すぐには理由がわからない。だがしかし、なにかがちがうことだけがたしか。違和感。なにこれ。
 手ざわりがちがう、つまんだ瞬間に感じた厚みが、なにかちがう、ちがうのに懐かしい。
 これ。これって。

 ああ、そうさ。そうだよな。そうだった。
 おれは無意識に名前と受験番号を書き始めていて、間違いないよなと二度三度と再確認を続ける。最初が肝心だ、肝心なにことさえ確実に終わらせておけばあとは思う存分に試験そのものに打ちこめるだろう。
 そんな準備万端の行動を無意識レベルで正常稼働させながら、頭の中では恐ろしいくらいに久しぶりの感覚がよみがえってきてしまっていた。

 この厚み。ななみちゃんのスカートのすそと似ている。
 手ざわり。スイムウェアのようなインナーか、テニススコートか。
 脳内再生された映像は、もうずいぶん前の、とある初夏の夕暮れのこと。
 いつもの公園でテニスボールを交互に壁打ちして遊んでいた。
 あのとき。
 『あのさ』
 思い出しただけ。記憶の再生でしかない、それなのに。
 ドキッとする。
 
 まずい、なんだろうこの…高揚感。
 おれは直感する、これは抵抗するだけムダ。どのみち、記憶の再生は終了する。それまで流しっぱなしにしておくしかないんだよ。知ってる、知ってた。いままでも何度かあったから…決して多い回数ではなかったけれど、あるときは、あった。それは知ってる。そんなときどうすればいいのかも経験済みだ。
 記憶の再生は流しっぱなしにしておけ。じきに終わるから。必ず終わるから。
 どんなにインパクトが強くても、ほとんど一瞬のようなもの。尾を引かなければ問題なく消えてしまうよ。
 おれは手でグーパーグーパーする。右、続いて左。おかしなやつだと思われないか?
 そんなこと気にするな。いまは落ち着くことのほうが重要。いや、もうすでに落ち着いてなんていられない状況になってしまったのだから被害を拡大させないこと。それだけだ。
 ただ、自分のいままでの経験とは少しちがう気がした。
 すうっと、なにか引いていくのがわかったから。体温が下がっていくような感じにも似ていた。
 砂浜をすっかり濡らしてしまった長くて大きな波が、泡立ちながら引いていく。海に戻っていく。海水は砂浜に吸収されて、スーっという音が響き渡る。なんだろう、これ。おれは落ち着いている。うん。落ち着いているみたいだぞ。
 頭の中に、ななみちゃんの姿が残像として消え残った。
 それは笑顔。ありがたい。いつかの笑顔だ。
 おれは心から落ち着いていくのを実感した。
 これは…運がいい。
 こういうとき、残像を自分で選ぶことができないことを知っているから。
 場合によっては笑顔ではなく、怒っている顔のことだってあるだろう。あるいは、どうしようもなく淋しげに声を出せずにいたときの表情のことも、ありえたはず。
 
 『そうだよな。怒っているときの感情は打ち消すすべを知っているけれど、淋しそうにしている彼女をどうすることもできなくて悔しい思いをしたときのことなんて再生されたなら…おれは無力感に落ちただろうに』

 いま、おれは活気を覚えている。悪くない。
 おそろらく周囲の誰よりも出遅れて問題を解き始めることになる、だがそれでいい、なぜならば。

 おれは、いま、むちゃくちゃエネルギーいっぱいの自分を感じているから。できる。できるぞ。やれる、やれるさ。どんなに最悪な問題が出題されていようが、おれはめげたりなんかしない。
 やれるだけのことを精一杯やりとげられる。

 な。


 問題文の頭文字だけ目で追った。
 何問ある。どれが難問。確実に解けるのは、どれ。
 単純計算なら短時間でクリアできるし、見直したとしても時間の無駄遣いにはならないさ。
 かける、わる、カッコでくくられて複雑に並ぶ数式。計算せよ、か。
 問題ない、まったく。数字を消し、数字を足し、導き出した答えを空欄におさめていく。
 予想通りの問題形式だった。想像していたよりも多かったけれど、全体的には少ない問題数だろうな。模試より簡単、いや、問題そのものには油断できないだろうけれど、ざっと見た感じどれも超難問というわけではなさそうだ。なによりも、

 『つるかめざんが、ない』

 おれは叫びたくなった。やったぜ。

 『新幹線と快速列車が向き合って通過することもない』

 やったぜ。ざまあみろだ。おれの苦手なの、ひとつもないじゃないか。

 過去問を検証しているおかけで、おれの苦手分野が出題されたことがないのは知っている。だが、それは過去のこと。過去問とはあくまでも過去に出題された問題なのであり、今年も同じとは限らない。
 むしろ、

 『今年の受験は大変だぞ。生徒数が多いからな。いままでと趣向を変えて出題してくる学校が多いと予想できるわ』

 と、脳内で算数講師の声がよみがえる。いつだっけ、前だっけ最近だっけ。予想される出題傾向について静かに語っていたことがあった。
 
 『過去問は大事よ。だがな、覚えておくように! 過去と同じ保証なんてない。
 あくまでも出題傾向がわかる程度だ。
 けど、わからないからって予想もせず本番に臨むよりは、わからないなりに予想しておくと心の準備につながる。
 恐怖や不安は気持ちの問題。
 おまえたちが向き合うべきは、志望校が出題する問題だけ。
 気持ちの問題で振り回されるなよ!』

 気持ちの問題で振り回されないよ。
 ああ、それに。覚悟していた難問は出題されていなかった。ざっと見ただけでもハッキリわかる。
 
 クリアできそうだぞ?

 勝手にわいて出た算数講師のポニーテール姿が、通過する急行列車の音と映像で遮断された。脳内再生は選べないが、自分に都合よく解釈してしまえば強い味方にできる。
 そうとも。
 おれは不安も恐怖も感じずにいる。いま、目の前の問題文だけに向き合っていればそれだけでいい。この状況、

 うん。まちがいなく、おれは運がいい。

 シンプルな計算問題をクリアして、次に問題文が短いものを解く。すぐに理解できたが念のため、もう一度だけ読み直す。この問題は、振り返らなくて済むようにしたい。おそらく、いちばん時間のかかる問題は別にある。そっちの問題を見直す時間を少しでも確保しておきたい。そのためにも。
 おれは問題文を読み直し、自分の理解が絶対的に正しいと確信してから、解き始めた。

 問題文は短い。だが、過去問に登場したことのないテイストだ。なんだろう、これ。これがもしかすると、

 『いままでと趣向を変えて出題してくる、かな?』

 時間は気にしない。なんなら、いちばん難しい問題は解かなくてもいい。そう思っている。できることだけ、しっかりやれ。おれは自分に語りかけた、

 『これを解いて時間が余っていたら、他のも解こう。な?』

 脳内会話の妄想は併走する。目の前の問題文を解きながら、頭の中では会話が続いている。うるさくない、迷惑でもない、ていうかもうすでに、慣れている。

 慣れって大切だよな?
 と実感した。実感しながら答えを導き出して、空欄におさめる。
 少し字が丸くなってきたか。
 おれは次の鉛筆に交換する。筆箱がカシャリと乾いた音を立てる。消しゴムがある、先端が尖りまくった鉛筆がまだまだある、鉛筆削りも控えている。よし。

 次の問題にいこう。

 時計は見ないでおく。そのほうがいい、と思ったからだ。見てしまうと気になって気になってしかたなくなってしまうのだろう、と勝手に分析する。コンマ撃ち、零点何秒の世界。思考回路は加速していく。ゆっくりでいい、ゆうっくりでいいんだ。とにかく『こんなんじゃ遅すぎるよ!』っていうくらいのスピードで始めていい。だってさ、

 『スピードは加速する。ああ、そうだよ、そうだよ。ほら、わかるよ、わかるし。加速してる』

 次の問題、すらすら解ける。初めて見た問題文だが、なつかしい気持ちになれた。おそらく、似たような問題をどこかで解いたことがあるのだろう。そのときは不正解だったかもしれない、いや、まちがいなく不正解だったはず。それを模試後の講義で納得し復習し自分なりに修得させている、はず。
 これほどまでに、過去問とテイストが異なる問題ばかりだとは…さすがに思わなかったな。あまかったかな、少し。でもまあなんとか、なりそうなんじゃないかな?

 そして、いよいよ。

 おれにとっての、要時間。おそらく今日いちばんの難問。苦手ジャンルでないことはわかっているが、だからといって簡単に解けるとは思っていない。むしろ、油断したら最悪な。なんなら、すでにもう、どっかしら油断しちゃってる気もするしさ。

 じゃあ、ここで時計を確認しておこう。おれは遠くの壁ではなく自分の左腕、手首を意識する。デジタル表示の時刻は、予想よりも早い。

 え? まだこんな時間なのか。

 思わず教室に意識を向けてしまった。黒板のとなり、掲示板スペース、なにげなく目に映るスピーカーやイレイサー。時計の文字盤。おれの腕時計と同じ時刻を示していると思われる。まちがいじゃないよな、と自分の手首を確認した。
 さっきより進んでいる。まもなく一分が経過か。
 時間の経過スピードが速くなってきた、かな。
 おれは呼吸を整えた。
 さあ、おれ。いいかい、解けなきゃ解けなくていいんだぞ。
 解ける問題は、すでにもう解いた。見直しまでしている。ここからは残り時間、あくまでも余り時間だ。残った余りを、すべてもがきまわって過ごしてしまえ。

 問題文だけで数行ある。まいったな、めんどくさい。ちゃんと理解できるだろうか。
 算数だけれど、国語的に「この文章の作者の気持ちになって考えてみなさい」って、やれるかどうか。
 おれは問題文を読み始める…そう、そうさ、これが今回この試験すなわち中学受験本番で一科目目の。

 第一問目だった。

 これが一問目。順番どおりにとりかかっていたら、相当の時間を費やしてしまっていただろう。中学受験予備校で試験解答のテクニックを教わっていなければ、順番どおり問題どおりに解答していったかもしれない。少なくとも、

 『いちばん終わりの問題から解いていけ、ってポニー先生も言っていた。まったくそのとおりだよな』

 おれの脳内に、ふたたび算数講師の厳しい横顔が浮かびあがる。だがその直後には、

 『大丈夫だ。きみたちならクリアできる。なんてったって日本一の授業を受けてきたんだからな!』

 『よう、おまえおまえそこのおまえ、キミ、なまえはなんてったっけ。ええと』

 次から次へと記憶が再生されていく、またしてもどうしよもなく流れている。いまからいちばんの敵を攻略するというのに。しかたないな、こればっかりは。そして、また脳内でポニー先生が語りかけてきた、

 『いつも復習ちゃんとやってるみたいだな。えらいぞ。模試の結果に一喜一憂するな。あくまでも本番は二月の入試。おまえ、いつも色鉛筆すごい使ってるよな。うん。キミなら平気、大丈夫だ。クリアできるぞ。あせりそうになったら全部なにもかも投げ出しちゃえ。一番重要なのは人生そのもの。受験がどんなに重要なものだろうと、せいぜい百番目に大切なこと。そんなもんだ。よく寝て、ちゃんと食え。感情を閉じ込めるな。さらけ出せとは言わん、が、自分で自分を押し込めるなよ』

 揺れる揺れてるポニーテール。それが二カッと白い歯をむき出しにして笑うと、そのまま別人になっていく。ななみちゃんか。それも別人になって、姉の微笑みになっていた。
 思うところありありで油断もスキもありゃしない、そんな姉貴の珍しくも優しい微笑み。

 『これ。よかったら身につけてみて。成功のお守り』

 いま、おれの首にかけられている。

 『えー。なにこれ、まさかペンダント? なにそれ女の子じゃあるまいし』
 と、おれは言っていたっけな。けど、

 『だいじょうぶ。素肌につければシャツのしただもん、誰の目にもわからない。それこそ…おとうさま、おかあさまにも、わからないわ』

 『…ありがとう』
 あのとき、おれは姉から受け取った。とても身につける気になんてならなかったけれども、
 
 『誰の目にもわからない。おとうさま、おやかあさまにもわからないわ』

 という言葉が嬉しかった。父と母に隠れて、なにかする。こんなにワクワクすることがあっただなんて。
 受け取ってからは毎日それこそ塾にもつけていった。学校には、つけていっていない。なにかのひょうしにバレて没収されてもイヤだし。こわされるなんて、もってのほか。
 そういう意味では、塾は安心できる環境だった。
 おれが、おれのままでいられるのは塾だった。
 もちろん今朝も、つけている。つけてきた。忘れてない、よな?

 おれは、おそるおそる自分の心臓あたり、みぞおちから胃の気配が感じられるあたり、さらには肺なのか食道なのか。見えない臓器を想像しながら、自分の素肌で静かに息をひそめるそれを意識する。
 ごろ、っとした。
 指先の感触、ネクタイの脇からシャツの上から、たしかに感じられた。立体的な、存在。そう、これはまぎれもなく、おれのお守り。
 今朝しっかり見てきた。鏡の前で。親には見つからないようにして。でも、いま脳内で光を放っているのは、

 『はい、どーぞ?』

 と、なにかを企んでいるような、無邪気で天然な雰囲気そのまんまの姉の満面の笑顔。その手で揺れる細くて長いチェーン、先端で蛍光灯を受けてきらめく青い石。

 いまはシャツとネクタイの温度。だが、記憶とともに、あのひんやりとした底知れぬ凍えがよみがえる。同時に、

 『あんなに冷たいのに、すぐ体温で暖かくなる…っていうか、なんの違和感もなく自然にここにいるよな?』

 と、自分の胸をおさえながら、よし、やるか、と意気込んだ。
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