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作者: 霜月かつろう
ないものねだり その1
「寒いっす」

 上下おそろいのジャージを着込み。さらにその上からジャケットを一枚。靴下は厚手のもので手袋までしたのに出てきたのはそんな感想だ。まるで子どもみたいな感想に川島良二はそんな自分にさえ嫌気が差す。

 スケートリンクの中は平日なのと夏休みが終わったばかりということもあり人は殆ど見られない。しかし上手な人たちはいる。スイスイと横を通り過ぎていくその姿を見ていてそう思う。まるで高速道路を自転車で走っている気分にさせる。ここは一般道だと言うのに。それでいてこちらを気にしながら横を通り過ぎていくのだから悪態をつくこちらが情けないと思えてくるのだからタチが悪い。

 そもそもだが。スケートリンクなんて小学生の頃以来で、最初の時はスケート靴を履くことすら困難を極めた。ゆっくり教えてもらうのだけれど足首がしっかり固定されなくて何度もやり直しをした。

『パソコンは得意なのに手先は不器用なんだね』

 そんなのまったく関係ないことじゃないか。気分が悪い。付き合いもあって頼まれてやっているというのにそんな言われ方してやる気になるはずもない。

 日々、だれかに物を教えている立場としてはいい悪い見本だなと思う。

 そして残暑厳しい中でさえスケートリンクの中は寒く感じた。いや、残暑厳しいからこそか。温度差が尋常ではないこんなの毎日のように経験していたら体調を崩してしまいかねない。

「寒いのは動かないからだね。ちゃんと足を動かしていれば体は温まるはずだよ」

 そう、なにごともないかのように氷の上を自由自在に動き回る相手にじっと立っているだけで精一杯なのにどうしろって言うんだと悪態をつきたくらいだ。

「できたらそうしてるっつうの」

 相手に聞こえないくらいの声量で吐き捨てる。

「前に氷の上に立ったのはいつだったっけ」

 二ヶ月前だ。思い出したくもない。

「良二くん?」

 気がつくと心配そうにしている顔が目の前まで来ていて、川島良二は二ヶ月前と同じ様に派手に転んでしまいそうになる。

 この上里コーチとやらはにこにこしていい人にしか見えないが気が付けば近くにいたり、余計な一言を指してきたりとその身に纏う空気感とちぐはぐだったりする。それでいて、氷の上に乗るとその空気感がカチッとなにかがハマったかのようにその雰囲気が固まるのだ。

 初めてその光景を目の当たりにして驚いた。水を得た魚じゃないが氷の上に立った瞬間、上里コーチの存在感が増した。まるで自分の居場所はここだ。そう言わんばかり。

 気に入らないな。なにがだ? 自分でもわかりやしない。

「二ヶ月ですよ」

 つっけんどんな態度を取ってしまうのはそんな自信満々な態度が受け入れられないというのもあるし。商店街会長にお願いされでもしない限り氷の上に立つことなんてなかったのにという思いからだ。

「そっか。じゃあ、また最初から教えたほうがいいよね」

 そんな良二の態度を気にした様子もない大人な対応にも反抗したくなる。
 なんでこんなに意地を張りたくなるのだろう。

「お願いしますっ」

 お願いも何もお願いされたのはこちらだ。
 栄口南商店街。そこの商店街の会長から直々のお願いだ。断れるはずもない。タダでさえ借りてる場所を値引きしてもらっているのだ。

 パソコン教室をやってくれないかとお願いされたのは大学を出てしばらくしてからだ。特にやれることもなくブラブラとしていた良二に目をつけたのは父の知り合いのまた知り合い。良二からすれば知らない人からのお願いに警戒もしたのだけれど、それ以上に口うるさく毎日のように仕事をしないのかと詰め寄られていた身としては受けざるを得なかった。

 WEBデザイナーになりたいんだ。ちょっとパソコンが得意だっただけの良二がそう言い放ったのは大学の卒業間近。文系大学で卒論も適当にこなしていただけの身から出た発言は周囲に相手をされなかった。

『あっそ。がんばってね』

 大体の反応はそんな感じだ。両親ですら最初はそうだった。
 おそらくすぐに諦めて就職すると思っていたのだろう。当然だ。内定はもらっていたし、研修にも行っていた。

 でも。その研修がどうにも肌に合わないとそう思ってしまった。
 それなりにやれば出来るだろうと言う圧。
 なんで出来ないんだと言う圧。
 将来のビジョンについてうまく説明できないとちょっと圧が来る。
 同期を含め飲み会は多く、断ると少し険悪な空気も出る。
 調子のいい同期が先輩たちにどんどんと気に入られていく。
 などなど。

 それくらい普通じゃん。と相談した大学の同期からは言われてしまった。社会とはそういうものだから慣れるしかないと。そう説かれた。それは大学の教授だって両親だって同じだった。だから反抗してやった。

 WEBデザイナーになりたいんだ。

 二度目にそう言った時。両親は心底呆れたようにため息をついた。

『そこまで言うならやってみろよ』

 結論からすれば未だにWEBデザイナーとして手に職はまだない。お願いされたパソコン教室を日々こなすだけ。それも相手はおじいちゃん、おばあちゃんがメインで。そこら辺の小学生に教える内容よりも簡単なもの。
良二だって助かっているのは間違いないのでパソコン教室をやることには文句はない。でも気が付けば家賃を請求され経理関係を自分でやるようになり、はたまた教室の受講生の募集や管理まで気が付けばひととおりやることになっているのだから、逃さないというより、両親の思惑が入ったものだと言うのも理解してきている。

 悔しいから全部やってるけどさ。それもわりとクタクタだ。

「じゃあ。まずは足の置き方からね。足は肩幅で体と氷に対してまっすぐになるように置く。こうするだけで滑り始めるかもしれないから気をつけてね」

 目の前の現実に引き戻され良二は、はい。と小さく返事する。
 氷の上で足がどうなるかわからない状況。その中で少しでも動かしたくはなかった。しかしそれでは動けないまま。それはそれで癪なので言う事を聞くことにする。

 おそるおそる足を動かす。地面、いや氷だ。その氷から足を離すことができなくて抵抗を感じながら足を引きずる感じになる。氷が削れているのが分かる。かき氷を削っているような気分になるがそれじゃあダメなんだろう。それが証拠に上里コーチがにこにこしている。

 うまくいっていないのを笑っているわけじゃないのは分かっている。それでも何を考えているかわからないその笑顔の奥に何が秘められているのか分かったもんじゃない。

『ひねくれてるね』

 その言葉をよく覚えている。そう言った人は真剣な表情をしていた。バカにするでもない、淡々と事実を述べるかのようにそう。告げられた。

 ひねくれているつもりはない。自分は心赴くままに行動しているだけ。そう思っていた。

「そうそう。そしたら今度はかかとをくっつけるようにしてみようか。この時、後ろにひっくり返らないように膝はちょっとだけ曲げてね」

 ずっとひっくり返りそうになるのを堪えているのだ。ちょっと黙っていてほしい。しかし、足をまっすぐにしたばかりなのに今度はかかとをくっつけろなんて無茶を言う。

 おなじように氷を削りながらなんとか、かかとをくっつける。すると刃が自分の意志とは反して前に進み始める。

「おっと。あんまり膝を曲げすぎないで。力を加えれば加えるほど滑っちゃうから。でもだからといって膝伸ばしちゃうと後ろに転んじゃうから」

 どっちだ。ああ。ほんと難しい。
 こんなことで十二月の本番に間に合うのだろうか。

 商店街対抗戦と言う地元の小さな争いがあるのはこのあたりに住んでいる人ならだれでも知っている。知り合いがひとりでも商店街に関わっているのであればなおさらのことだ。良二もその例にもれない。

 十二月ってよく考えればすぐじゃないか。二ヶ月前から今までサボり続けていたことに少し後悔し始める。このままの状態で演技をするなんて冗談じゃない。そんなのいい晒し者になるだけ。ちょっとでもいいから形にしなくちゃならない。

「いい感じだよ。それじゃあその姿勢のまま片足をまっすぐ上げて下ろしてみよう。下ろすときもまっすぐに下ろすんだ」

 なにを言っているんだ。この人は。それが表情に現れてしまったのだろう。上里コーチは顔を曇らせる。

「わかりずらかったかな。ちょっと実際やってみるね」

 上里コーチの右足がスーッと言う効果音がしっくりくる動きでまっすぐ上がる。不思議なことに頭の位置が動いていない。傾きもしない。重心が移動しているはずなのにそのままなのだ。

 そのままスッと足が降りていく。トンッ。静かなスケートリンクに刃と氷がぶつかる音が響いた。

 その自然で洗練された動きに言いしれぬものを抱いている自分に気づき。同時に見惚れたかのように止まっていたことにも気づく。

 とても同じ場所で、同じ人間がやっていることとは思えない。だってこっちは立っているだけで精一杯なんだ。どうなっているんだ。いったい。

「ほら。一緒にやってみよう」

 優しそうに話しかけないでほしい。それじゃあまるでこっちが子ども扱いされてるみたいに思われるじゃないか。

 まあ、ここでは子ども同様なにもできない。それくらい分かってるけどさ。それにしてもだよ。

 言われたとおりにするしかなく、足を持ち上げようとする。しかし言うことを聞かない。上げたら転んじゃう。そう身体が叫んでいる。上げろって無理だろ。普段どうしたら足が上げられるかなんて考えたこともない。

 前回あんなことになってなきゃ、今頃もっと滑れるようになっていたのだろうか。良二はついそんなことを考えてしまう。
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