ないものねだり その2
「お疲れさま。結構滑れるようになったね。上出来、上出来。これからレッスン入ってるから失礼するね。また、明日。お待ちしてます」
上里コーチはスケート靴を脱ぐこともなく去っていた。こっちはおんなじ時間をこおりの上で過ごしてスケートを脱ぎたくて仕方なかった。この差はなんなんだ。
寒かったというのに汗ばんでいる足の底はずっと緊張で凝り固まっていたのだろう。うまく動かすことができないし、ところどころ痛い気がする。
くそっ。こんなことならサボるんじゃなかった。そう、サボる原因となったことを思い出す。
あれは二ヶ月前。場所はここと同じ場所だった。
上里コーチではない人というだけで氷の上に案内されたところまでは今回も大して変わらない。いざ、教えてもらおうとしたその時。事故が起きた。
『ママ!』
小さな子どもの声が聞こえたと思ったら衝撃が襲ってきてあれだけ氷から剥がれなかった足が簡単に剥がれたと思ったら天井が見えた。
帽子がいかに大切か理解したし、ヘルメットをすることを拒んだことを後悔した。帽子がなかったことを考えるとゾッもした。同時にぶつかってきた相手に憤りを覚えた。明らか相手の不注意だ。文句のひとつでも言ってやらなくては気も収まらない。
そう思っていた。
でも、泣きじゃくって氷の中に入ろうとする四、五歳の男の子。それを必死に止めてる中学生らしきの女の子。そして、一緒になって氷の上に転がったまま動かない女性を目の当たりにしてそんな気もすぐになくなった。
おいおい。ぶつかられたのはこっちだっていうのに、まるで良二が悪いような空気。いや、だれもそんなことは思っていないのだ。思っているのは自分だけ。それが分かっていながらも良二はその場を避けるようになった。それが、この二ヶ月間のブランクに繋がっている。
海藤さんに急かされたし、出場しないなんて今更言い出せない雰囲気。だからと言って下手くそのまま当日を迎えることも出来ない。そんなジレンマの中、ようやく足が向いた今日。思い知らされたのは早いことに越したことはないと言う自明の理だけ。
フィギュアスケートなんて、違う世界のスポーツだと思っていた。部活は卓球。運動らしい運動といえばそこでしかやったことのない良二にとって、そんな華やかな世界に足を突っ込むなんて考えたこともないことだ。それも大人になってからなのだからなおのことだ。
氷の上で自由自在に動き合わるその姿はどうやっているか、まったく想像できなかった。それにその世界に足を踏み入れているやつも気に入らなかった。
我ながら子どもの発想だったとそう思う。そんな世界に自分が足を踏み込まなくてはならない。いや踏み込もうとすれば踏み込まなくてもいいと思っていたことがだ。そんな簡単に断れないことがたくさん生まれる。そんなこともわからなかった。
できれば今からだって断りたいよ。こんなの。
だってただの見世物じゃないか。商店街のお祭り騒ぎの一ページ。そんなものだと周りから言われればそのとおりだと思うが、その見世物に自分がなってみろと思わないでもない。
でも海藤さんは出るんだよなぁ。
頼んできた本人はちゃんと出場するのだから断りづらい。ズルいと思う。
海藤さんは同じ商店街で靴屋さんをやっている元気で恰幅のいいおじさんだ。昔スポーツをやっていたのだろう、その恵まれた体格だけで良二は気圧されたりもする。その滑りを見たことはないが、話によると豪快な滑りは迫力があり、決して上手とはお世辞も言えないけれど毎年の楽しみである。そう、パソコン教室に通っている人たちから聞いた。
きっと良二とおなじように誘われ、出場することになり、断れなかったままここまで来たのだろう。それなのにそんな風に周りから言われるなんてと、素直に感心してしまった。同時に、自分もそうなれるのだろうかと不安にもなる。
いや、なる必要なんてない。WEBデザイナーになってさっさとこの商店街からおさらばすればいいだけの話だ。
でもまあ。それはそれとして、目の前のスケートは乗り越えなくてはならない壁なのだ。
「あれ? 良二レッスン終わり?」
聞き慣れた声がして、思わずビクッとなる。大抵この声に話しかけられる時はいいことではない。だいたい、良二をスケートに進めたのもこの幼馴染が原因だ。
「ああ。終わったよ」
夏だというのに、足首まで伸びるベンチコートを羽織っている香住はこれからレッスンなのだろう。氷の上でじっとしているから身体が冷えるみたいなことを言っていた気がする。
「まさか良二がスケートをやることになるなんてねぇ。意外だったなぁ」
白々しい、海藤さんにそれとなく俺のことを伝えたのは香住だろうに。と心のなかでつぶやく。
小中高、同じ学校に通い続けた。同じクラスだったのはそのうちの半分くらいだが、一緒に学校生活を過ごした感覚はまったくない。香住はフィギュアスケートの競技生活が優先で学校に来ない日もそれなりにあったからだ。
「なんで、香住が北口で俺が南口なんだよ」
ともに住んでいるのは南口側。学校も、もちろんそっち。でも香住は北口代表として対抗戦のトップバッターで演技することが決まっていた。
「当然、先生が北口からお願いされているからに決まっているでしょ」
決まってないよ。そんなこと。
昔から何かとあれば先生、先生と香住は口にしていた。先生が学校を休めっていうから。先生が決めたことだから。先生がやれって言うから。そんなセリフを何度も聞いた。そんな先生はもう五十代も半ばだったきがする。それなのに、肌はきめ細やかなままだし。背筋もピンと伸びているせいか四十代前半でもまだまだ通る見た目をしている。フィギュアスケートをしている人はみんなそうなのかと思わないでもないが、そんなことは決してないのもここに来て知った。要は目立っているだけなのだ。それは香住も同じ。
それが良二の過去の悩みのひとつでもあった。
なにかと幼馴染なのをいいことに香住との仲介役を頼まれることが多かったのだ。見た目のさることながら、性格も愛嬌があって接しやすく、それでいて背も高くスラッとした体型はそれはもうモテた。小学生のころから、どうやったら仲良くなれるとか、趣味や好みをよく聞かれた。
同時にお前、香住と付き合ってないよな? ってお約束みたいな質問も何度もあった。付き合ってないよ。そうはっきりと言えば言うほど周りは怪しんだ。香住が告白を断るたびにそれは定期的に起こる行事みたいなものになっていった。
「あっ。わかった。毎年北口が有利なの知ってて、こっちに入りたいんでしょ。負けるの嫌なんだ」
でも、良二は香住にそんな感情を抱いたことはほとんどなかった。それは多分、この負けず嫌い。いや、そんな生易しいもんじゃないな。勝つ。そのことへの執念深さに起因いる。
「勝ち負けなんてあんまり関係無いだろ。所詮ただのお祭りだよ」
勝った、負けたなんてどうでもいいことだと良二は思っている。だから、それに対して執着し続けている香住のことをどうしたって受け入れられない。
「あら。お祭りだからこそ、勝ち負けを楽しめるものだと思うんだけど。昔から良二はそうだったものね」
それはお互い様だ。そう思いはするけれど口にはしない。これまでずっとそうだったのだ。今更それが交わることなんてそうそうない。
「そういえば。琥珀が帰ってきてるみたいよ。良二は見かけたりした?」
懐かしい名前。それもここに関係している名前。ここに来るたびによぎっていた顔がはっきりと思い出される。愛嬌のある顔なのに、いつも静かでじっと黒板を見つめていた。ちぐはぐなその空気感が彼女のクールさを引き立てていた。そしてそれが横顔なのは良二の席が彼女の隣だったから。それもチラチラとなんども悩んだふりしながらそちらを見ていたから。誰かに話したりはしない。自分の中だけの恥ずかしい過去だ。
「いや」
嘘だ。
「そっか。見たら驚くかもよ。琥珀ってば随分と雰囲気が変わったんだから」
だから、最初気づかなかった。顔が見えなかったというのもあるが、それにしても気づかないことなんてあるはずがないと思っていた。気づけなかったことに少なからず良二はショックを受けている。
なんで今更。目の前に現れたんだと思わないでもない。
『ひねくれてるね』
記憶の中の彼女はいつだって真剣にそう告げてくる。
上里コーチはスケート靴を脱ぐこともなく去っていた。こっちはおんなじ時間をこおりの上で過ごしてスケートを脱ぎたくて仕方なかった。この差はなんなんだ。
寒かったというのに汗ばんでいる足の底はずっと緊張で凝り固まっていたのだろう。うまく動かすことができないし、ところどころ痛い気がする。
くそっ。こんなことならサボるんじゃなかった。そう、サボる原因となったことを思い出す。
あれは二ヶ月前。場所はここと同じ場所だった。
上里コーチではない人というだけで氷の上に案内されたところまでは今回も大して変わらない。いざ、教えてもらおうとしたその時。事故が起きた。
『ママ!』
小さな子どもの声が聞こえたと思ったら衝撃が襲ってきてあれだけ氷から剥がれなかった足が簡単に剥がれたと思ったら天井が見えた。
帽子がいかに大切か理解したし、ヘルメットをすることを拒んだことを後悔した。帽子がなかったことを考えるとゾッもした。同時にぶつかってきた相手に憤りを覚えた。明らか相手の不注意だ。文句のひとつでも言ってやらなくては気も収まらない。
そう思っていた。
でも、泣きじゃくって氷の中に入ろうとする四、五歳の男の子。それを必死に止めてる中学生らしきの女の子。そして、一緒になって氷の上に転がったまま動かない女性を目の当たりにしてそんな気もすぐになくなった。
おいおい。ぶつかられたのはこっちだっていうのに、まるで良二が悪いような空気。いや、だれもそんなことは思っていないのだ。思っているのは自分だけ。それが分かっていながらも良二はその場を避けるようになった。それが、この二ヶ月間のブランクに繋がっている。
海藤さんに急かされたし、出場しないなんて今更言い出せない雰囲気。だからと言って下手くそのまま当日を迎えることも出来ない。そんなジレンマの中、ようやく足が向いた今日。思い知らされたのは早いことに越したことはないと言う自明の理だけ。
フィギュアスケートなんて、違う世界のスポーツだと思っていた。部活は卓球。運動らしい運動といえばそこでしかやったことのない良二にとって、そんな華やかな世界に足を突っ込むなんて考えたこともないことだ。それも大人になってからなのだからなおのことだ。
氷の上で自由自在に動き合わるその姿はどうやっているか、まったく想像できなかった。それにその世界に足を踏み入れているやつも気に入らなかった。
我ながら子どもの発想だったとそう思う。そんな世界に自分が足を踏み込まなくてはならない。いや踏み込もうとすれば踏み込まなくてもいいと思っていたことがだ。そんな簡単に断れないことがたくさん生まれる。そんなこともわからなかった。
できれば今からだって断りたいよ。こんなの。
だってただの見世物じゃないか。商店街のお祭り騒ぎの一ページ。そんなものだと周りから言われればそのとおりだと思うが、その見世物に自分がなってみろと思わないでもない。
でも海藤さんは出るんだよなぁ。
頼んできた本人はちゃんと出場するのだから断りづらい。ズルいと思う。
海藤さんは同じ商店街で靴屋さんをやっている元気で恰幅のいいおじさんだ。昔スポーツをやっていたのだろう、その恵まれた体格だけで良二は気圧されたりもする。その滑りを見たことはないが、話によると豪快な滑りは迫力があり、決して上手とはお世辞も言えないけれど毎年の楽しみである。そう、パソコン教室に通っている人たちから聞いた。
きっと良二とおなじように誘われ、出場することになり、断れなかったままここまで来たのだろう。それなのにそんな風に周りから言われるなんてと、素直に感心してしまった。同時に、自分もそうなれるのだろうかと不安にもなる。
いや、なる必要なんてない。WEBデザイナーになってさっさとこの商店街からおさらばすればいいだけの話だ。
でもまあ。それはそれとして、目の前のスケートは乗り越えなくてはならない壁なのだ。
「あれ? 良二レッスン終わり?」
聞き慣れた声がして、思わずビクッとなる。大抵この声に話しかけられる時はいいことではない。だいたい、良二をスケートに進めたのもこの幼馴染が原因だ。
「ああ。終わったよ」
夏だというのに、足首まで伸びるベンチコートを羽織っている香住はこれからレッスンなのだろう。氷の上でじっとしているから身体が冷えるみたいなことを言っていた気がする。
「まさか良二がスケートをやることになるなんてねぇ。意外だったなぁ」
白々しい、海藤さんにそれとなく俺のことを伝えたのは香住だろうに。と心のなかでつぶやく。
小中高、同じ学校に通い続けた。同じクラスだったのはそのうちの半分くらいだが、一緒に学校生活を過ごした感覚はまったくない。香住はフィギュアスケートの競技生活が優先で学校に来ない日もそれなりにあったからだ。
「なんで、香住が北口で俺が南口なんだよ」
ともに住んでいるのは南口側。学校も、もちろんそっち。でも香住は北口代表として対抗戦のトップバッターで演技することが決まっていた。
「当然、先生が北口からお願いされているからに決まっているでしょ」
決まってないよ。そんなこと。
昔から何かとあれば先生、先生と香住は口にしていた。先生が学校を休めっていうから。先生が決めたことだから。先生がやれって言うから。そんなセリフを何度も聞いた。そんな先生はもう五十代も半ばだったきがする。それなのに、肌はきめ細やかなままだし。背筋もピンと伸びているせいか四十代前半でもまだまだ通る見た目をしている。フィギュアスケートをしている人はみんなそうなのかと思わないでもないが、そんなことは決してないのもここに来て知った。要は目立っているだけなのだ。それは香住も同じ。
それが良二の過去の悩みのひとつでもあった。
なにかと幼馴染なのをいいことに香住との仲介役を頼まれることが多かったのだ。見た目のさることながら、性格も愛嬌があって接しやすく、それでいて背も高くスラッとした体型はそれはもうモテた。小学生のころから、どうやったら仲良くなれるとか、趣味や好みをよく聞かれた。
同時にお前、香住と付き合ってないよな? ってお約束みたいな質問も何度もあった。付き合ってないよ。そうはっきりと言えば言うほど周りは怪しんだ。香住が告白を断るたびにそれは定期的に起こる行事みたいなものになっていった。
「あっ。わかった。毎年北口が有利なの知ってて、こっちに入りたいんでしょ。負けるの嫌なんだ」
でも、良二は香住にそんな感情を抱いたことはほとんどなかった。それは多分、この負けず嫌い。いや、そんな生易しいもんじゃないな。勝つ。そのことへの執念深さに起因いる。
「勝ち負けなんてあんまり関係無いだろ。所詮ただのお祭りだよ」
勝った、負けたなんてどうでもいいことだと良二は思っている。だから、それに対して執着し続けている香住のことをどうしたって受け入れられない。
「あら。お祭りだからこそ、勝ち負けを楽しめるものだと思うんだけど。昔から良二はそうだったものね」
それはお互い様だ。そう思いはするけれど口にはしない。これまでずっとそうだったのだ。今更それが交わることなんてそうそうない。
「そういえば。琥珀が帰ってきてるみたいよ。良二は見かけたりした?」
懐かしい名前。それもここに関係している名前。ここに来るたびによぎっていた顔がはっきりと思い出される。愛嬌のある顔なのに、いつも静かでじっと黒板を見つめていた。ちぐはぐなその空気感が彼女のクールさを引き立てていた。そしてそれが横顔なのは良二の席が彼女の隣だったから。それもチラチラとなんども悩んだふりしながらそちらを見ていたから。誰かに話したりはしない。自分の中だけの恥ずかしい過去だ。
「いや」
嘘だ。
「そっか。見たら驚くかもよ。琥珀ってば随分と雰囲気が変わったんだから」
だから、最初気づかなかった。顔が見えなかったというのもあるが、それにしても気づかないことなんてあるはずがないと思っていた。気づけなかったことに少なからず良二はショックを受けている。
なんで今更。目の前に現れたんだと思わないでもない。
『ひねくれてるね』
記憶の中の彼女はいつだって真剣にそう告げてくる。