残酷な描写あり
R-15
黒の聖騎士(1)
空高く昇った半月には薄く雲がかかり、唯でさえ頼りなさげな光は余計に弱々しかった。
そんな弱い光の下でも行動できるように、聖都の中央区の夜間警備に従事している騎士にはカンテラが支給されていた。
正門区や信徒区といった城下にはガス灯が配備され始めているので、カンテラは必要ない。
だが、ロエール神の加護が深い中央区の古い建造物や聖都を取り囲む城壁、今はうち捨てられているが旧教区の区画は人の手で壊すことができなかった。そのためガス管や電線を通すことが出来ず、警備にカンテラが必須だった。
壊せる技術が開発されない限り、カンテラ持ちの警備がこれからも延々と続くことだろう。
警備の騎士は二人一組で行動し、一人が灯したカンテラを持ち、もう一人が剣を持って警戒に当たるのが常だった。
その日も、二人組の騎士はいつも通り持ち場を巡回していた。彼らの持ち場は神官見習いが勉学に励む講堂周辺から監獄棟前の広場までだった。
広場に着いたら、監獄棟の警備に声をかけて、それから詰所に戻って煙草で一服するのが恒例だ。
二人は監獄棟の方向へと進もうと講堂の角を曲がった。だが、二人共そこで足を止めた。
監獄棟へと続く道の真ん中に、小さな置物が置かれていた。月と翼を組み合わせた紋章を胸に掲げた騎士の像で、騎士が被った兜の上には小さな水晶が埋め込まれていた。
この像は近衛騎士以外の立ち入りを禁ずる印であり、例え警備でも滅多なことがない限り、先に進むことを許されない。
カンテラを持った騎士が首を傾げた。今日の巡回は二回目だが、一回目のときにはこの像はなかった。
「おい、今日は何か行事があったっけか?」
剣を持った騎士も顎に籠手を嵌めた手を当てた。
「いや、特に何も」
二人はその場でしばらく記憶を探っていたが、思い当たる節はなかった。しかし、禁じられた場所に入るわけにもいかず、仕方なしに道順を変更して警備に戻ることにした。
二人が像に背を向けると、像とその周辺は再び闇の中へと沈んだ。
その時、像のある通路の先からかちゃり、と微かな音が響いた。
立ち入り禁止の場所に我関せずと決めた二人には、その音が届かない。何処を廻るのかを小声で話し合いながら、その場を立ち去った。
月の光が届かない講堂の影で、かちゃり、ちゃりと硬質な音が響いた。騎士の板金靴の立てる音のようでいて、浮浪者のおぼつかない足取りも思わせるようなたどたどしい金属の音だった。
音を立てている何かは、赤ん坊が這うようにゆっくりと、像の横を抜けていった。
音が曲がり角に差し掛かった時、二人組の騎士は既に遥か遠く、カンテラの灯りで判別できる程度の場所にいた。大きな講堂の側を歩いていた彼らは、まだ曲がり角から目視できる場所にいた。
金属でできたそれは、カンテラの灯りにまず気付き、続いて騎士達の存在を認識した。
粘性の液体に塗れた鋼の顎がかちんと鳴り、刃のような歯車ががちがちと音を立てながら狂ったように回り始めた。
人の頭よりも一回り程大きい、兜のような形をしたその鋼の何かは、内蔵された歯車の振動を使って弾けるように地面を走り、騎士達へと迫った。
歯車が立てる異常な金属音に、騎士達は反射的に振り向いた。
カンテラの灯りによって照らし出されたのは、疾走する鋼でできた肉食獣の頭部だった。
目は白玉、鬣は歯車、顎にはナイフの牙がずらりと並び、舌は波打つ剃刀――その全てに赤い色を散らしていた。
からくり仕掛けの獣の頭は薄明かりの中を野兎のように跳ね、がばりと口を開けて騎士達に飛び掛かった。
金属製の口腔は、どこもかしこも鋭く、何故か獣のような生臭さを放っていた。
「っ!?」
初めて見る異様な物体に若干怯みながらも、騎士は咄嗟に獣の頭の側面を剣で切りつけた。金属のぶつかる音が響き、講堂の外壁に獣の頭が叩きつけられる。
獣の頭は壁にぶつかると軽々と跳ね返り、二人から少し離れた位置に硬質な音を立てて転がった。
「な、なんだこれ」
「知るかっ、また来るぞ」
カンテラを持った騎士も利き腕で剣を抜いた。カンテラは左手で高く掲げ、異形の獣の頭の動向を照らした。
壁にいくらかの傷と赤い液体が付着したが、獣の頭に目立った破損はなかった。
獣の頭はかちかちと顎を鳴らしながら騎士達に向き直り、また剣を構えた騎士に襲い掛かった。
騎士は獣の頭に向かって剣を突き出し、この怪物をできるだけ遠くへと弾こうとした。手持ちの武器では鋼でできた謎の化け物を駆逐するのは不可能なので、せめて時間を稼ごうとしての行動だった。
だが、獣の頭にはさしたる障害ではなかった。
獣の頭は突き出された剣に迷わず噛み付いた。
刃は硝子のように砕け散り、牙は一回空を噛んでから剣の柄を握る手に籠手ごとかぶりついた。
「あ?」
くしゃっ、と音を立てて騎士の手が潰れた。
目を剥いた騎士の手は、鋼の牙と舌によって幾重にも切り刻まれ一瞬で崩壊した。
「ああああああああああーーーーーーーっ!」
騎士が絶叫しのたうち回るが獣の頭は食らいついたまま離れない。
獣の頭は、蛇が獲物を飲み込むように徐々に腕を這い登っていった。腕は若枝が細かく折られていくような音を奏で、鮮血と鎧の欠片を撒き散らし、みるみるうちに挽肉へと変貌した。
「ば、化け物めっ」
あまりにおぞましい光景に腰が引けながら、それでも同僚を助けようと、カンテラを持った騎士が獣の頭へと剣を我武者羅に振りかぶった。
だが、闇雲に振られた剣よりも獣の頭の方が速かった。
獣の頭は出鱈目な剣筋をかいくぐり、ねっとりとした血と脂に塗れた牙が騎士の鼻先に触れた。
林檎を齧るような音が響いた。
カンテラが地面に放り出され、ばりんと音を立てて硝子に無数の亀裂が走った。
壊れたカンテラの灯りが消えた頃、そこには右半身をすり潰された騎士と頭のない騎士が残されていた。
夜更け頃、中央区を獣の頭が徘徊していることが分かるまでに十余名の騎士が食い殺され、監獄棟の周辺に散らばる惨殺死体が発見されるのにはさらにもう少しの時間を要した。
敬月教枢機卿コールダイル・チェクルスは緊急中枢会議に少し遅れて参上した。
司教のチュニックの上に豪奢な青いローブを重ねた枢機卿は、扉の前で白髪混じりの栗毛を撫でつけた。
その間に従者が早足で乱れた枢機卿の襟を正し、ローブに付着した埃を払った。光を反射し、ローブに縫い取られた黒い天使が濡羽色にきらめいた。
近衛騎士によって議事堂の扉が開かれ、チェクルス卿は背筋を伸ばして静かに中へと進んだ。
煌びやかな筈の議事堂内は、昼間にもかかわらず光が陰っていた。陰りの元を辿ると、最も日当たりの良い南側の化粧硝子の窓に幕が降ろされていた。
その窓の下にしつらえてある、金細工の花と銀細工の翼で彩られた灰色の天鵞絨の椅子は、教皇のみに許された特別な席である。
本来ならこの場に教皇も出席する筈なのだが、その席には教皇の冠と一輪の白薔薇が添えられていた。
チェクルス卿はその席に黙礼し、自らの椅子に座った。
遅れたという立場上、痛い視線が複数突き刺さった。
「全くもって、此度の一大事に何をなされていたのかね、チェクルス卿。会議は既に始まってしばらく経つというのに」
息をつく間もなくラセルト卿から嫌味が飛んだ。ケルセビエ・ラセルトは革新派寄りの枢機卿で、原理派のチェクルス卿とは対立関係にある。
先日の騒動で革新派に寄っていた勢力は表向き大人しくなっていたが、未だに権力闘争は続いていた。
「会議に遅れたことは大変申し訳なく思っている。だが、今日は礼拝を予定していたのでね。いくら緊急事態とはいえ、何も知らない無辜の民との約束は守らねばならぬだろう」
予想通りの言葉に、チェクルス卿は冷静に切り返した。非常時でも冷静さを保つ胆力を誇示し、今回の案件は一先ず外部に伏せておくという意思表示だった。
「卿は事を軽く考えすぎているのではないか、此度はこの敬月教の全てを揺るがす一大事なのだぞ!」
最年少の枢機卿フィーデルハルト・ゲッコーが声を荒げた。まだ三十代の若造でありながら、その頭脳から異例の出世を遂げた天才は、それでも老成した周囲と比べて感情的になりやすかった。
しかし、チェクルス卿は全く動じなかった。
「重々理解しているとも。監獄棟の門兵二名、及び近衛騎士団第一隊より第三隊までが壊滅」
チェクルス卿は、今回の被害について語り始めた。
「加えて、霊廟にて封印されていた魔剣〈神罰の楔〉の暴走により数十名の騎士が死傷。そして、何よりも心を悼めるべきは――」
一度言葉を切ってから、目を空席へと向けた。
「――ランシア教皇聖下の崩御、正確には暗殺でしょうな」
既に枢機卿内で周知の事実――外部にはまだ伏せられているが――とはいえ、チェクルス卿の言葉に表情を陰らせる者は多かった。
敬月教において、教皇は最高位の聖職者という意味のみに留まらない存在だ。後継者であるシルヴィアが屋敷にこもりきりの現状で、敬月教は岐路に立たされていると表現しても過言ではない。
「チェクルス卿は、教皇聖下が暗殺されたとお考えですか」
エドワード・カメロイディエ卿が質問した。法務に詳しい、老齢の枢機卿だ。
「何らかの原因により、枷の外れた魔剣によって襲われたものではないと」
チェクルス卿が現れるまで、議会では教皇聖下の死因が議論されていた。
何しろ、当事者が誰一人として生き残っていないのだ。
あの場を立ち入り禁止にしたのは、現場で冷たくなっていた近衛騎士団の団長。その指示を出したのはおそらく教皇御自らだが、こちらも同様だ。近衛騎士団の副団長は生きているが、それは今回の件に何も関わりがなかったからで、団長から伝え聞いていたことはなかったそうだ。
教皇が近衛騎士団を動かした理由も、それが全滅した原因も、厳重に戒められていた筈の魔剣が解き放たれた過程の全てが不明だった。
余りにも情報不足な現状に、会議では魔剣の暴走による事故だの、暗殺集団の襲撃だの、或いは先日事実上粛清された革新派による誅殺という過激な説でさえ平気で飛び交っていた。
それ以外にも議論すべき事案は山のようにあるが、まずは誰が関わっているのかについて明らかにしなければ話は進まない。
なぜなら、中央区を含む聖都で最も権力を持っているのは、教皇と枢機卿だからだ。従って、不祥事には一人以上の枢機卿が何らかの関係性を持っているのは必然でもある。
要は、責任のなすりつけ合いをしていたのだ。
遅れてきたと文句をつけながら、何も進展していない議論に、チェクルス卿は内心で溜息を吐いた。
「実は、会議にはせ参じる前に現場を検分し、恐れながら聖下の遺体も確認した」
チェクルス卿の発言に、議事堂にざわめきが走った。
チェクルス家は建国当時から続く由緒正しい騎士の家系であり、家長であるチェクルス卿は騎士団において強権をもつ者の一人だ。騎士団に手を回すことは容易い。
それに、元騎士ということもあり、遺体の検分にも慣れていた。
「件の魔剣は人間に食らいついた後、死に至るまで肉を咀嚼するという特徴がある。しかし、遺体にそのような跡はなかった。力任せに首を引き千切られていました――断面が非常に荒く、脊椎が引き抜かれていたので、これはほぼ間違いないでしょう」
血生臭い話題に不慣れな枢機卿達の顔が青くなっていたが、チェクルス卿は構わず続けた。
「とても人間業とは思えない様だったが、あれが魔剣のみの仕業ではないことは確か。他にも、監獄棟前の多くの遺体には刃物や銃による傷が確認されている。教皇聖下が近衛を連れ、人払をしてまであの場にいた理由は定かではないが、何者かに殺されたのは純然たる事実、と私の名誉にかけて公言しよう」
妄想に近い憶測しか口に出せなかった枢機卿達に、その言葉の重みがのしかかった。胆力のない者は、左右に視線を彷徨わせていた。
「それが事実であるなら、近衛騎士団に少なからず落ち度があるのではないか」
ラセルト卿が発言した。
ラセルト卿は生粋の文官だが、チェクルス卿の言葉に微塵も揺らがなかった。舞台は違えど、彼もまた歴戦の雄である。
「どのような事態が起こったにしろ、それが人為的なものであるならば、止めようもあった筈だ。責任の追及をしようにも、当事者達がいない今となっては誰が大罪の咎を負うべきか――」
元教会騎士総帥であるチェクルス卿が責任を取るべきだ、と暗に言っていた。現教会騎士総帥に問いただしたとしても、彼はチェクルス卿の長男なので結局はチェクルス卿に責任は収束する。
ラセルト卿は、この厄介極まりない事態の全てをチェクルス卿へと背負わせる腹積りだった。
それに対する反発はあって当然と思われたが、チェクルス卿は素直に手を挙げた。
「宜しい、この件の責任については、一先ず私が預かろう」
ただし、と付け加えた。
「この件で最終的に責任を負うべき者が現れた場合は、しかるべき処置をとらせてもらおう」
そう言って、チェクルス卿は鋭い鳶色の眼差しで全ての枢機卿を睨めつけた。
元教会騎士の眼光は、剣よりも鋭く枢機卿達を牽制していた。
「時に、卿らは魔剣がまだ中央区内で野放しになっている現状についてまだ論じてはいないようだが」
そんな弱い光の下でも行動できるように、聖都の中央区の夜間警備に従事している騎士にはカンテラが支給されていた。
正門区や信徒区といった城下にはガス灯が配備され始めているので、カンテラは必要ない。
だが、ロエール神の加護が深い中央区の古い建造物や聖都を取り囲む城壁、今はうち捨てられているが旧教区の区画は人の手で壊すことができなかった。そのためガス管や電線を通すことが出来ず、警備にカンテラが必須だった。
壊せる技術が開発されない限り、カンテラ持ちの警備がこれからも延々と続くことだろう。
警備の騎士は二人一組で行動し、一人が灯したカンテラを持ち、もう一人が剣を持って警戒に当たるのが常だった。
その日も、二人組の騎士はいつも通り持ち場を巡回していた。彼らの持ち場は神官見習いが勉学に励む講堂周辺から監獄棟前の広場までだった。
広場に着いたら、監獄棟の警備に声をかけて、それから詰所に戻って煙草で一服するのが恒例だ。
二人は監獄棟の方向へと進もうと講堂の角を曲がった。だが、二人共そこで足を止めた。
監獄棟へと続く道の真ん中に、小さな置物が置かれていた。月と翼を組み合わせた紋章を胸に掲げた騎士の像で、騎士が被った兜の上には小さな水晶が埋め込まれていた。
この像は近衛騎士以外の立ち入りを禁ずる印であり、例え警備でも滅多なことがない限り、先に進むことを許されない。
カンテラを持った騎士が首を傾げた。今日の巡回は二回目だが、一回目のときにはこの像はなかった。
「おい、今日は何か行事があったっけか?」
剣を持った騎士も顎に籠手を嵌めた手を当てた。
「いや、特に何も」
二人はその場でしばらく記憶を探っていたが、思い当たる節はなかった。しかし、禁じられた場所に入るわけにもいかず、仕方なしに道順を変更して警備に戻ることにした。
二人が像に背を向けると、像とその周辺は再び闇の中へと沈んだ。
その時、像のある通路の先からかちゃり、と微かな音が響いた。
立ち入り禁止の場所に我関せずと決めた二人には、その音が届かない。何処を廻るのかを小声で話し合いながら、その場を立ち去った。
月の光が届かない講堂の影で、かちゃり、ちゃりと硬質な音が響いた。騎士の板金靴の立てる音のようでいて、浮浪者のおぼつかない足取りも思わせるようなたどたどしい金属の音だった。
音を立てている何かは、赤ん坊が這うようにゆっくりと、像の横を抜けていった。
音が曲がり角に差し掛かった時、二人組の騎士は既に遥か遠く、カンテラの灯りで判別できる程度の場所にいた。大きな講堂の側を歩いていた彼らは、まだ曲がり角から目視できる場所にいた。
金属でできたそれは、カンテラの灯りにまず気付き、続いて騎士達の存在を認識した。
粘性の液体に塗れた鋼の顎がかちんと鳴り、刃のような歯車ががちがちと音を立てながら狂ったように回り始めた。
人の頭よりも一回り程大きい、兜のような形をしたその鋼の何かは、内蔵された歯車の振動を使って弾けるように地面を走り、騎士達へと迫った。
歯車が立てる異常な金属音に、騎士達は反射的に振り向いた。
カンテラの灯りによって照らし出されたのは、疾走する鋼でできた肉食獣の頭部だった。
目は白玉、鬣は歯車、顎にはナイフの牙がずらりと並び、舌は波打つ剃刀――その全てに赤い色を散らしていた。
からくり仕掛けの獣の頭は薄明かりの中を野兎のように跳ね、がばりと口を開けて騎士達に飛び掛かった。
金属製の口腔は、どこもかしこも鋭く、何故か獣のような生臭さを放っていた。
「っ!?」
初めて見る異様な物体に若干怯みながらも、騎士は咄嗟に獣の頭の側面を剣で切りつけた。金属のぶつかる音が響き、講堂の外壁に獣の頭が叩きつけられる。
獣の頭は壁にぶつかると軽々と跳ね返り、二人から少し離れた位置に硬質な音を立てて転がった。
「な、なんだこれ」
「知るかっ、また来るぞ」
カンテラを持った騎士も利き腕で剣を抜いた。カンテラは左手で高く掲げ、異形の獣の頭の動向を照らした。
壁にいくらかの傷と赤い液体が付着したが、獣の頭に目立った破損はなかった。
獣の頭はかちかちと顎を鳴らしながら騎士達に向き直り、また剣を構えた騎士に襲い掛かった。
騎士は獣の頭に向かって剣を突き出し、この怪物をできるだけ遠くへと弾こうとした。手持ちの武器では鋼でできた謎の化け物を駆逐するのは不可能なので、せめて時間を稼ごうとしての行動だった。
だが、獣の頭にはさしたる障害ではなかった。
獣の頭は突き出された剣に迷わず噛み付いた。
刃は硝子のように砕け散り、牙は一回空を噛んでから剣の柄を握る手に籠手ごとかぶりついた。
「あ?」
くしゃっ、と音を立てて騎士の手が潰れた。
目を剥いた騎士の手は、鋼の牙と舌によって幾重にも切り刻まれ一瞬で崩壊した。
「ああああああああああーーーーーーーっ!」
騎士が絶叫しのたうち回るが獣の頭は食らいついたまま離れない。
獣の頭は、蛇が獲物を飲み込むように徐々に腕を這い登っていった。腕は若枝が細かく折られていくような音を奏で、鮮血と鎧の欠片を撒き散らし、みるみるうちに挽肉へと変貌した。
「ば、化け物めっ」
あまりにおぞましい光景に腰が引けながら、それでも同僚を助けようと、カンテラを持った騎士が獣の頭へと剣を我武者羅に振りかぶった。
だが、闇雲に振られた剣よりも獣の頭の方が速かった。
獣の頭は出鱈目な剣筋をかいくぐり、ねっとりとした血と脂に塗れた牙が騎士の鼻先に触れた。
林檎を齧るような音が響いた。
カンテラが地面に放り出され、ばりんと音を立てて硝子に無数の亀裂が走った。
壊れたカンテラの灯りが消えた頃、そこには右半身をすり潰された騎士と頭のない騎士が残されていた。
夜更け頃、中央区を獣の頭が徘徊していることが分かるまでに十余名の騎士が食い殺され、監獄棟の周辺に散らばる惨殺死体が発見されるのにはさらにもう少しの時間を要した。
敬月教枢機卿コールダイル・チェクルスは緊急中枢会議に少し遅れて参上した。
司教のチュニックの上に豪奢な青いローブを重ねた枢機卿は、扉の前で白髪混じりの栗毛を撫でつけた。
その間に従者が早足で乱れた枢機卿の襟を正し、ローブに付着した埃を払った。光を反射し、ローブに縫い取られた黒い天使が濡羽色にきらめいた。
近衛騎士によって議事堂の扉が開かれ、チェクルス卿は背筋を伸ばして静かに中へと進んだ。
煌びやかな筈の議事堂内は、昼間にもかかわらず光が陰っていた。陰りの元を辿ると、最も日当たりの良い南側の化粧硝子の窓に幕が降ろされていた。
その窓の下にしつらえてある、金細工の花と銀細工の翼で彩られた灰色の天鵞絨の椅子は、教皇のみに許された特別な席である。
本来ならこの場に教皇も出席する筈なのだが、その席には教皇の冠と一輪の白薔薇が添えられていた。
チェクルス卿はその席に黙礼し、自らの椅子に座った。
遅れたという立場上、痛い視線が複数突き刺さった。
「全くもって、此度の一大事に何をなされていたのかね、チェクルス卿。会議は既に始まってしばらく経つというのに」
息をつく間もなくラセルト卿から嫌味が飛んだ。ケルセビエ・ラセルトは革新派寄りの枢機卿で、原理派のチェクルス卿とは対立関係にある。
先日の騒動で革新派に寄っていた勢力は表向き大人しくなっていたが、未だに権力闘争は続いていた。
「会議に遅れたことは大変申し訳なく思っている。だが、今日は礼拝を予定していたのでね。いくら緊急事態とはいえ、何も知らない無辜の民との約束は守らねばならぬだろう」
予想通りの言葉に、チェクルス卿は冷静に切り返した。非常時でも冷静さを保つ胆力を誇示し、今回の案件は一先ず外部に伏せておくという意思表示だった。
「卿は事を軽く考えすぎているのではないか、此度はこの敬月教の全てを揺るがす一大事なのだぞ!」
最年少の枢機卿フィーデルハルト・ゲッコーが声を荒げた。まだ三十代の若造でありながら、その頭脳から異例の出世を遂げた天才は、それでも老成した周囲と比べて感情的になりやすかった。
しかし、チェクルス卿は全く動じなかった。
「重々理解しているとも。監獄棟の門兵二名、及び近衛騎士団第一隊より第三隊までが壊滅」
チェクルス卿は、今回の被害について語り始めた。
「加えて、霊廟にて封印されていた魔剣〈神罰の楔〉の暴走により数十名の騎士が死傷。そして、何よりも心を悼めるべきは――」
一度言葉を切ってから、目を空席へと向けた。
「――ランシア教皇聖下の崩御、正確には暗殺でしょうな」
既に枢機卿内で周知の事実――外部にはまだ伏せられているが――とはいえ、チェクルス卿の言葉に表情を陰らせる者は多かった。
敬月教において、教皇は最高位の聖職者という意味のみに留まらない存在だ。後継者であるシルヴィアが屋敷にこもりきりの現状で、敬月教は岐路に立たされていると表現しても過言ではない。
「チェクルス卿は、教皇聖下が暗殺されたとお考えですか」
エドワード・カメロイディエ卿が質問した。法務に詳しい、老齢の枢機卿だ。
「何らかの原因により、枷の外れた魔剣によって襲われたものではないと」
チェクルス卿が現れるまで、議会では教皇聖下の死因が議論されていた。
何しろ、当事者が誰一人として生き残っていないのだ。
あの場を立ち入り禁止にしたのは、現場で冷たくなっていた近衛騎士団の団長。その指示を出したのはおそらく教皇御自らだが、こちらも同様だ。近衛騎士団の副団長は生きているが、それは今回の件に何も関わりがなかったからで、団長から伝え聞いていたことはなかったそうだ。
教皇が近衛騎士団を動かした理由も、それが全滅した原因も、厳重に戒められていた筈の魔剣が解き放たれた過程の全てが不明だった。
余りにも情報不足な現状に、会議では魔剣の暴走による事故だの、暗殺集団の襲撃だの、或いは先日事実上粛清された革新派による誅殺という過激な説でさえ平気で飛び交っていた。
それ以外にも議論すべき事案は山のようにあるが、まずは誰が関わっているのかについて明らかにしなければ話は進まない。
なぜなら、中央区を含む聖都で最も権力を持っているのは、教皇と枢機卿だからだ。従って、不祥事には一人以上の枢機卿が何らかの関係性を持っているのは必然でもある。
要は、責任のなすりつけ合いをしていたのだ。
遅れてきたと文句をつけながら、何も進展していない議論に、チェクルス卿は内心で溜息を吐いた。
「実は、会議にはせ参じる前に現場を検分し、恐れながら聖下の遺体も確認した」
チェクルス卿の発言に、議事堂にざわめきが走った。
チェクルス家は建国当時から続く由緒正しい騎士の家系であり、家長であるチェクルス卿は騎士団において強権をもつ者の一人だ。騎士団に手を回すことは容易い。
それに、元騎士ということもあり、遺体の検分にも慣れていた。
「件の魔剣は人間に食らいついた後、死に至るまで肉を咀嚼するという特徴がある。しかし、遺体にそのような跡はなかった。力任せに首を引き千切られていました――断面が非常に荒く、脊椎が引き抜かれていたので、これはほぼ間違いないでしょう」
血生臭い話題に不慣れな枢機卿達の顔が青くなっていたが、チェクルス卿は構わず続けた。
「とても人間業とは思えない様だったが、あれが魔剣のみの仕業ではないことは確か。他にも、監獄棟前の多くの遺体には刃物や銃による傷が確認されている。教皇聖下が近衛を連れ、人払をしてまであの場にいた理由は定かではないが、何者かに殺されたのは純然たる事実、と私の名誉にかけて公言しよう」
妄想に近い憶測しか口に出せなかった枢機卿達に、その言葉の重みがのしかかった。胆力のない者は、左右に視線を彷徨わせていた。
「それが事実であるなら、近衛騎士団に少なからず落ち度があるのではないか」
ラセルト卿が発言した。
ラセルト卿は生粋の文官だが、チェクルス卿の言葉に微塵も揺らがなかった。舞台は違えど、彼もまた歴戦の雄である。
「どのような事態が起こったにしろ、それが人為的なものであるならば、止めようもあった筈だ。責任の追及をしようにも、当事者達がいない今となっては誰が大罪の咎を負うべきか――」
元教会騎士総帥であるチェクルス卿が責任を取るべきだ、と暗に言っていた。現教会騎士総帥に問いただしたとしても、彼はチェクルス卿の長男なので結局はチェクルス卿に責任は収束する。
ラセルト卿は、この厄介極まりない事態の全てをチェクルス卿へと背負わせる腹積りだった。
それに対する反発はあって当然と思われたが、チェクルス卿は素直に手を挙げた。
「宜しい、この件の責任については、一先ず私が預かろう」
ただし、と付け加えた。
「この件で最終的に責任を負うべき者が現れた場合は、しかるべき処置をとらせてもらおう」
そう言って、チェクルス卿は鋭い鳶色の眼差しで全ての枢機卿を睨めつけた。
元教会騎士の眼光は、剣よりも鋭く枢機卿達を牽制していた。
「時に、卿らは魔剣がまだ中央区内で野放しになっている現状についてまだ論じてはいないようだが」