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作者: 水無月 龍那
キリキリキリと撥条の
 夕方の科学準備室。
 薄暗いけれどもきれいに整頓されたその部屋で。

 ハナブサは古い箱を前にひとり座っていた。
 夕焼けを染み込ませたような艶やかで茶色い箱。その横には小さな穴が空いている。
 ハナブサは首元にかかっていた紐に指をかけ、鍵のような金属の棒を引っ張り出す。
 それを穴に差し込み、回す。

 キリキリキリ
 キリキリキリ……

 ある程度回して、それ以上回らなくなった所で抜く。
 蓋を開けると、少し間を置いて転がるような音が響いてきた。
 何度聴いたか覚えていないほど、聴き慣れたメロディ。
 それを一曲分。ハナブサは静かに耳を傾ける。
 そして二週目に入ったところで。
「久しぶり。最近の事を、話そうと思って」
 ハナブサは頬杖をついて、語りかけるように口を開いた。

「今年から学校の制度が変わった話はしたっけ。噂話が以前よりも広がりやすく……というより、実行する人が増えた。そんな実感があるよ」
「おかげで夕飯の準備が少し大変かな。でも、色んな人が手伝ってくれるから楽しい」
「新しく外から来た人も増えたよ。管狐のタヅナ」
「今はヤツヅリと一緒に居るんだ。薬草とか薬とか、好きな分野が似てるから気が合うようだ」
「サカキは自分と向き合おうとしてる。身体も……少しずつだけど身体も表に慣れてきているんじゃないかな」
「そう。文化祭の頃に鏡が……先代の鏡が他の子達を襲ったんだけど。それは無事――」
 少しだけ考えるように声が途切れ。
「うん。無事に、決着がついたよ。ハナが少し、無茶をした様子だったかな」
「あとでヤミに随分と怒られていた。あの二人は本当に仲が良い」
「そうそう。その為に皆で仮装しよう、なんて言われてね」
 私も何を着ようか悩んだよ。とくすくす笑う。
「似合うと褒めてもらった。……ウツロの仮装は初めて会った時を思い出したよ。見てほしかったな」
 文化祭は楽しかったみたいだよ、とつぶやき。「ああ」と思い出したように続ける。
「それから、シャロンがカガミの過去を見つけたらしいけど……」
 ころん、と音が途切れた。
「おっと……今回は話す事が多すぎるね」
 ハナブサは小さく笑って、もう一度撥条を巻く。

 キリキリキリ
 キリキリキリ……

 音が再び流れ始め、ハナブサもまた、話を再開する。
「カガミ達はね。昔の自分は要らないんだって。シャロンが不思議そうにしてた」
「自分は知りたいのをあんなに堪えたのに、あっさり割ったんだ、って」
 相変わらず面白い子達だよ。と呟く。
 転がるような音は、相槌を打つように跳ねる。
「ああ、そろそろ冬だ。あの姉妹もここに来て……何年経つかな」
 どれくらいかな。としばらく考えて、分からないねと苦笑いする。
「もう随分経ったような気もするし、まだ日が浅い気もする」
「時間感覚が分からないね。カイトはね、相変わらず時間は壊れてるけど、少しだけ進んでるのかもしれないって言っていた」
「分からないけども、私もこうして貴方と向かい合えるようになったんだ。時間はきちんと進んでるのかもしれない」
「……まあ。相変わらず色々あるけどね。私達の毎日はいつも通りだよ」
 曲が終わりに差し掛かる。
 ハナブサは言葉の返事を待つように、曲に耳を傾ける。

「ねえ。貴方は今……何をしてるんだろうか。どこに居るのだろう?」
 その呟きには、無音が返ってきた。

 きっともう、この世には居ないのだろう。それくらいは知っている。
 人間が生きられない。それだけ長い時間が経ってしまっている事は分かっている。
 けれども、それがどういう事なのかはよく分からない。雲を掴むようなものだった。
 人間ではないからか。経験したことがないからか。

 動かなくなっても。
 消えてしまっても。
 外へ出て行っても。
 それだけ。
 それ以上でも。それ以下でもない。

 でも。残された者の。置いていかれる者の気持ちが分からない訳ではない。
 自分だって、彼が居なくなってずいぶんと我儘を言ったものだ。
 長い時間が経って分かったつもりではあるけれど。やっぱり分からないのかもしれない。
 どれだけ経っても。何年経っても。ふとした拍子に思ってしまう。
 ある日突然、昔のように。いつものように。姿を現すのではないかと。ドアを開けたら居るのではないかと。
 思ってしまう自分が居る。

 ハナブサはオルゴールの撥条を巻く。

 キリキリキリ
 キリキリキリ……

 そして三度流れた音楽に、目を閉じて耳を傾ける。
 思い出すのは、彼の気に入っていた緑のネクタイ。それから穏やかな声。頭を撫でる骨張った優しい手。彼も得意とする分野に似合わず草木の手入れが好きで、よく草花を摘んできては机の上に飾っていたことを思い出した。
 ああ、あとで庭に花を摘みに行こうか。なんて考える。

 程なくして曲は終わり。静寂が訪れる。
「貴方は……私の心の糧。誰にも、替えられない人だった……」
 ぽつりと、その曲の一部を零す。

 この箱をくれた彼が居なくなって。
 置いていかれたと憤って。寂しくて。悲しくて。でも、強がって何も言わなくなって。
 何度も何度もひとりで撥条を巻いて。曲を聞いて。壊れたら修理して。
 歌詞を知って。意味を知って。
 それを自分なりに考えたりもした。
 最初はそれすらも意味が分からなかった。
 でも。いつしかそれが、とても暖かい物に思えるようになった。
 曲の本意からは離れた解釈かもしれない。

 けれども。自分で考えてたどり着いたこの感情が。
 私にとっての、この曲の本意なのだと思えるようになったのは、いつだろう。

 ある日ふと、気付いたのか。
 長い時間をかけて慣れてしまったのか。
 それすらももう、遠い遠い話だった。

 誰にも替えられない人。
 それはきっと、私がこの撥条を巻く限り。
 私が「ハナブサ」である限りそうなのだろうね、と。
 蓋に手をかけ。音のしなくなった箱を覗き込んだ。
 そこには、首から下げている物とそっくりな鍵と、緑のリボンに似た紐が数本入っている。
 蓋を閉じて、ハナブサはさっき零した言葉を思い出す。

 替えられない人「だった」とは、過去を表す。
 それを受け入れても、悲しむどころか、どこか穏やかな気持ちになるのは。自分が変わった証拠なのだろうか?
 それは聞いてみないと分からないし。
「聞いた所で……貴方は笑って肯定も否定もしないんだろうね」
 きっとそうだ。彼はそうやってハナブサに接してきたのだから。

「それじゃあ――また何か話題を用意しておくよ」
 満足げに、ハナブサはその箱の蓋を閉じる。
 鍵を胸元へと仕舞い、箱を棚へと戻す。
 夕暮れに照らされていた部屋はいつの間にか、電気をつけなければ何かにつまづいてしまいそうな程、夜をあちこちに忍ばせていた。
「本当に、日が落ちるの早くなったね……」
 窓の外。藍色に染まる空。時の流れに、ほう、と息をつく。
 そろそろ夕食の準備が始まる頃だ。お腹を空かせたみんなも集まってくるに違いない。
 今日は誰が手伝ってくれるんだったかな。
 そんな事を考えながら、ハナブサは廊下へ直接つながるドアへと手をかけた。
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