さっちゃんは表に出たい 3
サクラはまっすぐに、一番近い鏡へと駆ける。
その勢いにぎょっとして足を止める生徒も、赤く濡れたシャツに声を上げる生徒も。何事だと部活を中断して集まってくる生徒達も。
全てを無視して旧校舎に駆け込み、奥の階段を段飛ばしで駆け上がる。
踊り場の大鏡が近付く。速度を落とさず声をあげる。
「カガミくん！ カガミちゃん！」
「はいはい見てたよ！」
「おーけー任せて！」
言うが早いか左右から二人の影が飛び出し、鏡から手を伸ばす。
廊下の床を蹴り、鏡に向かって飛ぶ。
「昇降口はショートカット！」
「保健室まで直行便！」
「「しっかりサカキくん抱いててね！」」
二人の手がサクラの腕をぐっと掴んで、鏡の中に引きずり込み、放り投げられる。
目が回るような浮遊感の中、サカキだけは離さないよう、しっかりと抱え込んで。
どさり。
冷たい床の上に転がり落ちる感覚がした。
「あ痛たた……サカキくん、大丈夫」
腕の中のサカキは震えていたが「はい」と掠れるような声がして。そのままかくりと体中の力が抜けたように重くなった。安心したのか、気を失ってしまったらしい。
「おかえり。……これはまた盛大な入室だね」
「なんだ。血だらけではないか……いや、その襟巻きの身体は……」
「うん……ヤツヅリくん、タヅナくん。手当をお願い」
サクラの言葉にヤツヅリは頷く。
「任せとけ。薬は今回もちゃんと用意してるから安心していい」
□ ■ □
ヤツヅリとタヅナの治療はあっという間だった。
ベッドに大量のタオルを敷き詰め、汚れた服と包帯を手早く外し、薬を塗って外れた箇所をくっつける。
そこをテープと包帯で巻き直す。
薬の効果か、こっち側に戻ってきたから回復が早いのか。数時間もしないうちにサカキの身体はほとんどが元に戻っていた。
「ま、出血量があるから、しばらくはふらつくかもしれないが。そこは君が支えてやってくれ」
治療を終えたヤツヅリは、静かに寝息を立てるサカキを見下ろし、あとは任せたと言わんばかりにサクラをベッドの傍らに残して立ち去った。
サカキが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。
「サカキくん。気分は？」
「……ごめん、なさい」
サクラの問いに答えるより先に、サカキはそんな言葉を口にした。
申し訳なさそうに伏せられた目は今にも泣きそうに見えて。サクラは返事をする代わりにそっと、サカキの頭を撫でた。
「やっぱり……僕、表に出ちゃだめなのかもしれません」
「そんな事ないよ。今回は俺が長居させたのが悪かったんだ」
ごめんね、と謝るとサカキは小さく首を横に振った。
「いいえ。僕が、表に出たいって……いつも言ってるから。サクラさんは連れて行ってくれたんですよね」
ごめんなさい、とサカキは唇をきゅっと結んだ。
サカキは表に出たいという願望を持っている。
かつてはサカキも学生で、学校が好きだった。
でも、今はそれが叶わない身体だという自覚もある。
サカキがこの学校にやってきた経緯。よくある都市伝説。そんなものが絡まって、生徒達の間でも「さっちゃん」なんて呼ばれるようになって。
表に出ると、身体がかつての傷を再現しようとするようになった。時には当時の傷すら超えて広がることもあった。
それに気付いて以来、サカキは表へ出ることを怖がるようになってしまった。
積み重なる月日に比例するように、表に出てもある程度の時間なら保つようになってきたけれども。
話の影響もあるのだろう。変化は突然でちっとも読めない。まだまだ不安定な身体だ。
旧校舎の崩落事故があったのも、サカキがそれに巻き込まれたのも本当だ。
その身体を保健室に担ぎ込んだのはサクラだった。
当時はただ助かって欲しい。その一心だった。
けれども。
「……」
そんな悲しそうな顔をさせてしまうくらいなら。いっそあの時そのままにしておけば良かったんだろうか、なんて後悔がよぎる。
サクラの手が頭からそっと離れ、視線が落ちた。
もうどれくらい昔かも数えていないのに、この後悔は未だに彼を苛む。
「ごめん。ごめんね……」
「サクラさん」
呼ばれて顔を上げると目が合った。
「なんだかサクラさん、泣きそうです」
サカキが少しだけ笑った。
さっきまでサカキの方が泣きそうだったのに。自分が酷い顔をしていたからだろうか、という申し訳なさと後悔で言葉が冷えて喉に詰まる。
「サクラさんがあやまることなんて、なんにもないですよ？」
「だって……」
「僕。サクラさんにはとても、感謝をしています」
「……」
「僕、本当ならあの時死んじゃってたんですよね」
「うん。そう、だね」
サカキの人間としての生は、あの事故で確かに終わった。
「それなのに、今こうして居られるのは、嬉しいんです」
「でも……！」
思わずサクラは言葉を挟んだ。
「君を。サカキくんを、こんな存在に、そんな身体にしちゃったのはーー」
「違います、よ」
やんわりと否定されたその声に、サクラは言葉の続きを失った。
目の端に涙は残っているが、さっきみたいな泣きそうな声じゃなかった。
「今の方が、毎日楽しいです。前よりも自分らしくいられます。お茶とかお喋りとか、好きなことができます。それに、今の僕にもちゃんと名前があります。あの名前は……もう使うことはないですが、忘れません」
サカキがそっと、布団から手を出す。枕元に落ちたサクラの袖をぎゅっと握って笑う。
「毎日は窮屈じゃなくて、怯えることもなくて。こんなに賑やかで楽しいんだって。すっかり分からなくなっていた僕にそんな毎日をくれたのはサクラさんです」
それだけ言うと、サカキの指はするりと離れて布団の中へ戻っていった。
「たくさん、たくさん迷惑を掛けてしまっていますが……僕、ここに居られて幸せです」
ありがとうございます、とサカキは笑った。
「僕。諦めません。表の校舎もいつか歩けるようにがんばります。だからまた、行く時は誘ってください」
「……いいの？」
「はい。今度はあんまり長居しないようにして、できるだけ入り口近くで待ってます。だから――今度はそこで一緒にジュース飲みましょう」
□ ■ □
後日。
「先日のさっちゃんの件だけど。結構噂になってたよ」
「あう」
「継ぎ接ぎの身体を探して回る、黄色いマフラーの少年、だってさ」
「あ。ああ……僕ですね……」
サカキがなんだか頭痛そうな表情をする。
噂話の拡散は、きっと歓迎できることなのだろうけれど。サカキにとってこの話で生徒を怖がらせてしまったことはあんまり歓迎できないようだった。
「まあまあ、気にすることはないさ。出回ってる写真もぶれてる物ばっかりだし、そこはシャロンちゃんが上手くやってくれている。まあ、いつもより少し長引くかもなあ、ってくらいだろう」
いいことさ、とハナは笑った。
「噂話があれば、ボク達の存在はより強くなる。さっちゃんの身体も――次はもっと耐えられるようになるさ」
ハナの言葉にサカキはふと、視線を落として考え込み始めた。
「うん？ どうした？」
「もし。僕が安定した身体になったら。その時はどうなるんでしょう」
「そりゃあ。簡単さ」
ハナは指を軽く振って言う。
「好きな時にバラせるだろうな」
「！？」
ひぇ、と小さな声が漏れた。ハナはそんなサカキをみてくすくすと笑う。
「なに、この学校にしっかりと根付いた証拠さ。いつだってその本領を発揮できるってことだ」
「本領……」
「もしくは」
「はい」
「身体を狩りにくる黄色いマフラーとかに変化するかもな！」
明るいハナの声と対照的に、サカキの表情が青ざめた。
「そ、それはちょっと怖いです……！」
「はっはっは。さっちゃん。ボク達は学校の怪談話だよ。生徒達に恐れられ、語り継がれ、利用されてなんぼの存在さ。この立ち位置。存分に利用したまえよ」
「そういうもの、ですか……」
自信なさげに呟いたサカキに、ハナは自信満々に答えた。
「ああ。そういうものさ」
その勢いにぎょっとして足を止める生徒も、赤く濡れたシャツに声を上げる生徒も。何事だと部活を中断して集まってくる生徒達も。
全てを無視して旧校舎に駆け込み、奥の階段を段飛ばしで駆け上がる。
踊り場の大鏡が近付く。速度を落とさず声をあげる。
「カガミくん！ カガミちゃん！」
「はいはい見てたよ！」
「おーけー任せて！」
言うが早いか左右から二人の影が飛び出し、鏡から手を伸ばす。
廊下の床を蹴り、鏡に向かって飛ぶ。
「昇降口はショートカット！」
「保健室まで直行便！」
「「しっかりサカキくん抱いててね！」」
二人の手がサクラの腕をぐっと掴んで、鏡の中に引きずり込み、放り投げられる。
目が回るような浮遊感の中、サカキだけは離さないよう、しっかりと抱え込んで。
どさり。
冷たい床の上に転がり落ちる感覚がした。
「あ痛たた……サカキくん、大丈夫」
腕の中のサカキは震えていたが「はい」と掠れるような声がして。そのままかくりと体中の力が抜けたように重くなった。安心したのか、気を失ってしまったらしい。
「おかえり。……これはまた盛大な入室だね」
「なんだ。血だらけではないか……いや、その襟巻きの身体は……」
「うん……ヤツヅリくん、タヅナくん。手当をお願い」
サクラの言葉にヤツヅリは頷く。
「任せとけ。薬は今回もちゃんと用意してるから安心していい」
□ ■ □
ヤツヅリとタヅナの治療はあっという間だった。
ベッドに大量のタオルを敷き詰め、汚れた服と包帯を手早く外し、薬を塗って外れた箇所をくっつける。
そこをテープと包帯で巻き直す。
薬の効果か、こっち側に戻ってきたから回復が早いのか。数時間もしないうちにサカキの身体はほとんどが元に戻っていた。
「ま、出血量があるから、しばらくはふらつくかもしれないが。そこは君が支えてやってくれ」
治療を終えたヤツヅリは、静かに寝息を立てるサカキを見下ろし、あとは任せたと言わんばかりにサクラをベッドの傍らに残して立ち去った。
サカキが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。
「サカキくん。気分は？」
「……ごめん、なさい」
サクラの問いに答えるより先に、サカキはそんな言葉を口にした。
申し訳なさそうに伏せられた目は今にも泣きそうに見えて。サクラは返事をする代わりにそっと、サカキの頭を撫でた。
「やっぱり……僕、表に出ちゃだめなのかもしれません」
「そんな事ないよ。今回は俺が長居させたのが悪かったんだ」
ごめんね、と謝るとサカキは小さく首を横に振った。
「いいえ。僕が、表に出たいって……いつも言ってるから。サクラさんは連れて行ってくれたんですよね」
ごめんなさい、とサカキは唇をきゅっと結んだ。
サカキは表に出たいという願望を持っている。
かつてはサカキも学生で、学校が好きだった。
でも、今はそれが叶わない身体だという自覚もある。
サカキがこの学校にやってきた経緯。よくある都市伝説。そんなものが絡まって、生徒達の間でも「さっちゃん」なんて呼ばれるようになって。
表に出ると、身体がかつての傷を再現しようとするようになった。時には当時の傷すら超えて広がることもあった。
それに気付いて以来、サカキは表へ出ることを怖がるようになってしまった。
積み重なる月日に比例するように、表に出てもある程度の時間なら保つようになってきたけれども。
話の影響もあるのだろう。変化は突然でちっとも読めない。まだまだ不安定な身体だ。
旧校舎の崩落事故があったのも、サカキがそれに巻き込まれたのも本当だ。
その身体を保健室に担ぎ込んだのはサクラだった。
当時はただ助かって欲しい。その一心だった。
けれども。
「……」
そんな悲しそうな顔をさせてしまうくらいなら。いっそあの時そのままにしておけば良かったんだろうか、なんて後悔がよぎる。
サクラの手が頭からそっと離れ、視線が落ちた。
もうどれくらい昔かも数えていないのに、この後悔は未だに彼を苛む。
「ごめん。ごめんね……」
「サクラさん」
呼ばれて顔を上げると目が合った。
「なんだかサクラさん、泣きそうです」
サカキが少しだけ笑った。
さっきまでサカキの方が泣きそうだったのに。自分が酷い顔をしていたからだろうか、という申し訳なさと後悔で言葉が冷えて喉に詰まる。
「サクラさんがあやまることなんて、なんにもないですよ？」
「だって……」
「僕。サクラさんにはとても、感謝をしています」
「……」
「僕、本当ならあの時死んじゃってたんですよね」
「うん。そう、だね」
サカキの人間としての生は、あの事故で確かに終わった。
「それなのに、今こうして居られるのは、嬉しいんです」
「でも……！」
思わずサクラは言葉を挟んだ。
「君を。サカキくんを、こんな存在に、そんな身体にしちゃったのはーー」
「違います、よ」
やんわりと否定されたその声に、サクラは言葉の続きを失った。
目の端に涙は残っているが、さっきみたいな泣きそうな声じゃなかった。
「今の方が、毎日楽しいです。前よりも自分らしくいられます。お茶とかお喋りとか、好きなことができます。それに、今の僕にもちゃんと名前があります。あの名前は……もう使うことはないですが、忘れません」
サカキがそっと、布団から手を出す。枕元に落ちたサクラの袖をぎゅっと握って笑う。
「毎日は窮屈じゃなくて、怯えることもなくて。こんなに賑やかで楽しいんだって。すっかり分からなくなっていた僕にそんな毎日をくれたのはサクラさんです」
それだけ言うと、サカキの指はするりと離れて布団の中へ戻っていった。
「たくさん、たくさん迷惑を掛けてしまっていますが……僕、ここに居られて幸せです」
ありがとうございます、とサカキは笑った。
「僕。諦めません。表の校舎もいつか歩けるようにがんばります。だからまた、行く時は誘ってください」
「……いいの？」
「はい。今度はあんまり長居しないようにして、できるだけ入り口近くで待ってます。だから――今度はそこで一緒にジュース飲みましょう」
□ ■ □
後日。
「先日のさっちゃんの件だけど。結構噂になってたよ」
「あう」
「継ぎ接ぎの身体を探して回る、黄色いマフラーの少年、だってさ」
「あ。ああ……僕ですね……」
サカキがなんだか頭痛そうな表情をする。
噂話の拡散は、きっと歓迎できることなのだろうけれど。サカキにとってこの話で生徒を怖がらせてしまったことはあんまり歓迎できないようだった。
「まあまあ、気にすることはないさ。出回ってる写真もぶれてる物ばっかりだし、そこはシャロンちゃんが上手くやってくれている。まあ、いつもより少し長引くかもなあ、ってくらいだろう」
いいことさ、とハナは笑った。
「噂話があれば、ボク達の存在はより強くなる。さっちゃんの身体も――次はもっと耐えられるようになるさ」
ハナの言葉にサカキはふと、視線を落として考え込み始めた。
「うん？ どうした？」
「もし。僕が安定した身体になったら。その時はどうなるんでしょう」
「そりゃあ。簡単さ」
ハナは指を軽く振って言う。
「好きな時にバラせるだろうな」
「！？」
ひぇ、と小さな声が漏れた。ハナはそんなサカキをみてくすくすと笑う。
「なに、この学校にしっかりと根付いた証拠さ。いつだってその本領を発揮できるってことだ」
「本領……」
「もしくは」
「はい」
「身体を狩りにくる黄色いマフラーとかに変化するかもな！」
明るいハナの声と対照的に、サカキの表情が青ざめた。
「そ、それはちょっと怖いです……！」
「はっはっは。さっちゃん。ボク達は学校の怪談話だよ。生徒達に恐れられ、語り継がれ、利用されてなんぼの存在さ。この立ち位置。存分に利用したまえよ」
「そういうもの、ですか……」
自信なさげに呟いたサカキに、ハナは自信満々に答えた。
「ああ。そういうものさ」