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作者: 水無月 龍那
水底に沈んで見えるもの
 ゆらゆらと揺れていた。
 薄暗い水の底に、青くて長い三つ編みが見えた。

 ああ、これは――水面だ。
 最初に見たのは。そんな景色だった。

 目を覚ました少女は水底に沈んでいた。
 水は静かで、ゆらゆらと揺れていると気持ちがいい。
 水面の向こうは暗かった。ぽつんと輝く黄色い何かが揺れていた。
 夜。あれはきっと月だ。
 そして彼女はゆらゆらと水面を眺める。

 ふと。
 目から涙が零れた。
 それは同じ水なのに確かな存在感を持って、塩素混じりの水に溶けていく。
 
 その涙を埋めるように。
 この水に溶けた感情が、彼女の身体に染みこんでくる。
 
 それは、泳げない苦しみだったり。
 泳げた時の嬉しさだったり。
 水への恐怖心だったり。
 この場所を愛した人達の感情だったり。
 別れる時の寂しさだったり。
 そんな、内面の葛藤。不安。安心。嫉妬も優越感も何もかも。
 感情が彼女の身体に染み込んでは、涙となって溶けていく。
 
「――ああ、みんなここが好き、なんだねえ」

 水底でゆらゆら揺れながら、彼女は笑う。
 口から零れた空気は水面へと上っていき、夜空に浮かぶ月を揺らした。

 □ ■ □

 夏。夜とはいえ、夕立の湿気と昼の暑さが燻る空気は過ごしにくい。
 蝉が声をひそめて、風が木々を揺らす音と少し離れた街の喧騒を持って来ても、夜風の涼しさは気休め程度。
 それはプールサイドでも例外ではない。

 そんな夜のプールに、人影。
 少女が二人、素足を水に浸して寝転がっていた。
 畳んだタオルを枕にし、並んで夜空を眺めていた。

「ワタシねえ。夏より冬の方が好きなんだあ」
 と、間延びした声がした。
 薄暗い中では判りづらい、日に焼けた小麦色の肌。深い青髪。長く緩い三つ編みは無造作にプールサイドに投げ出されている。セーラーではなくTシャツをスカートの上に着た彼女はぼんやりと空を見上げていた。
 彼女の名前はミサギという。プールの噂話に関わりが深い少女だ。

「そうなのかい? ボクはてっきり夏の方が好きだと思ってたんだが」
 答えるのは、長い髪をこれまたプールサイドに散らして転がる少女。セーラーの上に紺色のカーディガンを羽織っている。ミサギとは対照的に、口調ははきはきとしている。
 こちらはハナ。日々を謳歌するハナコさん。

「うん。夏は……いいんだけど。騒がしくて落ち着かないからあ」
 冬の方が良いなあ、とミサギは呟いてプールに浸した足を揺らすと、ちゃぷちゃぷと小さな音がした。
「夏もいいんだよ。でも夏はねえ。人は多いから……綺麗な足とか腰のラインとかたくさん見られるのはいいねえ。けど。見てるだけーっていうのは大変でえ」
「なるほど。それでみーちゃんが触れたりすると――君の話が語られてしまう訳だね」
 うん、という声に混じるのは、諦めか面倒くささか。ハナにはどちらとも取れて、判断は付かなかった。
「噂話がないとさ。どんどん存在薄くなっちゃうのはわかるんだけどお。あんまり怖がられちゃうのは」
 嫌なんだよねえ、とミサギはぽつりと呟いた。

 プールで泳いでいると、水ではない何かが身体に触れることがある。
 足を引っ張られることがある。
 水底からこちらをじっと見ている少女が居る。
 水泳部の人数は、登録人数と合わない。
 とても泳ぎの上手い生徒がアドバイスをしてくれるけど、それが誰かはわからない。
 顔も、名前も。クラスも学年も――なにも。

 それらは全て、ミサギの事だった。
 彼女は、水底に沈んで水に身を任せていることが多い。
 部活や授業の時間など人が居る時は、プールの隅で見物をしたり、一緒に泳いだり、おしゃべりに混じってみたりする。
 基本的に、このプールと、このプールを使う生徒達を愛している。
 見守り、手助けをし、時には怒る。

 そんな彼女の困った所と言えば。
 男女問わず、好みの脚や腕、髪を触りたい衝動に駆られてしまうこと。
 水底に沈んだら、そのままゆらゆらと揺れ続けてなかなか出てこないこと。
 プールで無茶な行動を取る人が居ると、機嫌が悪くなること。
 基本的にのんびりとして物静かな彼女だから、それが大きな事故に繋がることは一度もなかったが。
 その行動が噂話に繋がらない訳がない。

「いやしかし、ボクもまだまだだな」
「?」
 ミサギがハナの方へ顔を向ける。
 ハナは星空を見上げながら、くすくすと笑っていた。
「みーちゃんは夏が似合うから、夏が好きなんだとついつい思い込んでいた」
 それに、とハナは言葉を続ける。
「冬のプールは冷たいうえに、濁ってしまっているんじゃないか?」
「うーん。それはそうなんだよねえ。夏の方が水きれいで、沈んでると気持ちいい」
 でも、とミサギはふと笑った。
「冬はねえ。もっと色んなものが沈んでるんだよ」
「色んな物」
 不思議そうに繰り返す。
「夏の思い出……みたいなのかなあ。夏の間にできるようになった事とか、できなくて悔しい思いとか。部員のこれで最後だって言うお別れの一泳ぎとか……そんなのがいっぱい」
 ワタシねえ、とミサギは夜空に視線を戻す。
「このプールで目を覚ましたの、秋頃だったと思うんだけどお」
「そうだったね。サクラくんがたまたま見つけてきたんだったね」
 その時のことを思い出したのか、ハナはくすくすと笑う。
「いや、あの時はびっくりしたよ。彼が夜に理科室へやってくる事もだが、ずぶ濡れの君を連れているんだ」
「ワタシも分からないままきちゃったからねえ。びちゃびちゃにしてごめんねえ」
「ふふ、その言葉は不要さ。当時のことはその時に片付けてしまうべきだからね。いやしかし、あの水溜りはちょっとすごかったな」
 ふたりで当時のことを思い出してくすくすと笑う。
「そういえばあの時、みーちゃんは何をしていたんだい?」
 ああ、とミサギは少し考えるような間を置いて。

「あのねえ。泣いてたの」

 そう答えた。
「泣いてた?」
「うん。温いとか冷たいとかはよく分からなかったけど、プールの底にいるんだってことと……涙が出てるのは、なんとなく分かったんだあ」
 変だよねえ、とミサギは言う。
「水の中なのに、涙が零れるの。分かるんだよ」
「それは……悲しかったのかい?」
「違うよう」
 のんびりとミサギはハナの言葉を否定する。
「多分、嬉しかったの」
「ほう」
「まだ何も分からなくて。ワタシが噂話から生まれた存在だっていうのも知らなくて。――でもねえ。プールに沈んでて、感じたの」
 ハナは何も言わずにミサギの言葉を待つ。
「色んな気持ちがワタシの周りに沈んでてねえ。それがなんだか、嬉しかったり悲しかったりして……ぜーんぶ、プールとか、水とか、学校とか。そんなのに対する想いでねえ。こう思ったのだけは、覚えてるよ」

「――ああ、みんなここが好き、なんだねえ。って」

「ワタシが泣いてたのも、それがとっても嬉しかったからだと思うんだあ」
「なるほどね。みーちゃんはプールを……愛してるんだね」
「プールだけじゃないよう」
「ほう?」
 興味深そうな声をあげたハナの手に、ミサギの指がきゅっと絡む。
「プールだけじゃなくて、この学校が好きだよ。はなちゃんも、やみくんも。はなぶささんも。生徒も、先生も……みーんな。好きだよ」
「はは……そうだね。失礼をした」
 苦笑いしたハナは、ミサギの手を握り返す。
「ボク達はこの学校を誰よりも愛すべき存在――そうだな」
「うん」
 プールに足を浸したまま、ふたりはくすくすと笑い合った。

 □ ■ □

「おいこら起きろ」
 降ってきた声に目を開けたのはミサギだった。
「おー? やみくんだあ」
 寝そべったまま空いた手をひらひらと振る。
「うん。俺であることはいいんだよ。そんな事より二人ともここで寝るな。特にハナ。お前だお前」
「んにゃ……」
「ね ぼ け る な」
 ヤミの苛立った声と共に、ハナへと腕が伸ばされる。
 襟首を掴んで起き上がらせようとしたその腕は、ぱし、と軽く受け止められた。
「!」
「ふっふっふ。かかったなヤミちゃん」
 にやり、とハナの口元が吊り上がった。
 ヤミが気付いた時には、もう遅い。
「な――っ!?」
 ぐい、と引っ張られたその手で、ヤミは二人の間に倒れ込む。その拍子に帽子がプールの中へ飛び込もうとする。ヤミが空いた手を伸ばし、なんとか掴んで濡らすことだけは防いだ。
「ハナ……お前、何してくれてんだよ」
「あっははははは! ヤミちゃんが慌てる顔が久しぶりに見たくなってね」
「ふっざけんな!」
 苛立たしげな声をあげてヤミは起き上がろうとするが、ハナに手を引かれてそれが叶わない。
「いやあ、二人とも仲がいいねえ」
「本当にそう見えるか。見えるなら眼鏡を勧めるからヤツヅリに相談してこい」
「いやいやヤミちゃん、謙遜は良くない。ボクらはずっと仲良しだったじゃないか」
「腐れ縁って言うんだよこれは」
「あははは! 腐れ縁。確かにその通りかもしれないなあ!」
「かもじゃなくてその通りだろうが……腐れても腐れ落ちねえ」
「そうなんだ。いいねえ」
 仲良しってのを否定しないのもいいねえ、とミサギは笑う。
「そうだろう」
「そうかあ?」
 二人の声が重なる。
「うん。良いと思うよお」
 三人転がったまま、女子二人の足が水を揺らす。
 ヤミは帽子をかぶり直し、溜息をついた。
「はいはい。それはそれでいいからお前らいい加減部屋に戻れ。ウツロさんが呆れてたぞ」
「おや。ウツロさんがか」
「それなら仕方ないねえ」
「大体ここで騒いでるの見つかったらまた話がでかくなる」
「それもそうか。でもこの人数なら忍び込んだ生徒ってことで――」

「――誤魔化されてくれると思ってるか?」
 外からかかった声に三人の視線が向く。プールの入り口。金網の鍵を手にした壮年の男性が疲れた顔で立っていた。

「おやウツロさん」
「うつろさんだあ」
「すぐ戻ると言ったヤミが戻らないと思ったらミイラだったか」
「この状態から俺の意志じゃないってことだけは理解して欲しい」
 ヤミの疲れた声にウツロは「はいはい」と適当に頷いて鍵をちらつかせる。
「ほら。お前らそろそろここ閉めるから――話があるなら校舎(なか)でやれ」
「はあい」
 ウツロの声に急かされるように、二人は身を起す。
 枕にしていたタオルで脚を拭き、隣の上履きを裸足のまま引っ掛ける。

「じゃあ、帰ろうか」
「そうだねえ」
「ほら、さっさと出ろ出ろ」

 背中を急かされ、二人はニコニコと会話しながら。ひとりはどこか疲れた顔でプールサイドを後にする。
 かしゃん、と南京錠がかけられたフェンスが音を立てる。
 それを最後に誰も居なくなったプールサイドには、静かな月明かりと風だけが残っていた。
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