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作者: 鈴奈
Exspetioa2.6.26 (1)
 信じられないことばかりが起こって……今でもまだ、頭が混乱しています……。
 ですが、あったことを、しっかり書き記したいと思います。現実と見つめ合わなくては、前に進めないと思うから……。

 まず、六日前のことです。就寝の時間の鐘が鳴るとすぐ、私はそっと廊下に出ました。個室の前は窓ひとつなく、暗闇と静寂に沈んでいました。私は足音を立てないようにそろそろと歩き、中庭へ向かいました。
 中庭に出ると、黒い空にただひとつ輝く、八本線のやわらかな夜の光が私の道を示していました。
 私は深呼吸をひとつして、ドクドクと鳴る胸を押さえながら、秘密の花園に足を踏み入れました。
 シスター・ルゴサが、待っていらっしゃいました。シスター・ルゴサは、胸の前で、ご自身の左手首をぎゅっと握っていました。両手の甲の花は、私に告白をしてくださった時のように、少し縮んでいらっしゃいました。そして、左手の薬指に、指輪が輝いていました。

「セナ……。私と、エスになってくれる?」

 シスター・ルゴサが、私に、震える左手を差し伸べました。手のひらに、シスター・ルゴサがつけているのと同じ指輪が乗っていました。
 私は、唇を噛みしめました。そして、覚悟を胸に、答えました。

「……ごめんなさい。エスには、なれません。私は、シスター・ルゴサのことが好きです。ですが、シスター・ルゴサに向けていただいている気持ちと、同じ好きではないのです……」

 ぐしゃ、と音がしました。はっと顔を上げて見ると、シスター・ルゴサが、手のひらに乗っていた指輪を握りつぶしていました。シスター・ルゴサの手の甲の花が、みるみるしおれていくのが見えました。
 私は慌てました。慌てて、私の今の気持ちをお伝えしようとしました。ですが、先に口を開いたのは、シスター・ルゴサでした。

「あのお方、でしょ? セナの好きな子って」

 ぞくりと、心の奥が凍ったような気持ちがしました。シスター・ルゴサの声音が低く、いつもと違う……ですが、傷ついているような雰囲気ではなく、なんと言ったらいいのでしょう、まるで、シスター・ルゴサではない方になってしまったかのように思えたのです。

「誰なの? なんで? 私が一番あなたにやさしくしていたわ。贈り物だってあげた。なんだって教えてあげた。あなたをみつけたのも私。それからずっと、お世話してあげてきたのに。ずっと手をつないでいたのに。あなたの一番傍にいたのは、私だったのに……!」

 シスター・ルゴサの手に咲く花が、みるみるうちに枯れていきます。色褪せ、黒ずんだ色が、じわじわと肌を侵食していきます。私は、シスター・ルゴサの名前を呼びました。ですが、震える息が出るばかりだったのでしょうか。私の声は届きませんでした。シスター・ルゴサは、ますます激しく叫びはじめました。

「誰なの! あなたの心奪ったのは、誰! どうして……どうして……! 私の、私のセナを奪ったのは誰⁉ 絶対……絶対、絶対に、ゆるさない‼」

 その時です。シスター・ルゴサの指に巻きついていた指輪が動いたのです。そして、真っ黒に染まったシスター・ルゴサの手にがぶりと噛みつきました。
 その途端、シスター・ルゴサの体が変形しました。
 見上げるほど大きく膨れあがったかと思うと、お顔が割け、巨大なルゴサの花が咲き、破けた服から、不気味にうごめく無数の蛇があふれ出したのです。

 これは、蟲――?

 私は体の力が抜けて、膝から崩れ落ちました。蟲は、高い悲鳴のようなものを上げ、花の下から伸びる、腕のような蛇たちの塊を振りかぶりました。

 ――ぶたれる!

 ぎゅっと体をかたくした瞬間、パン、という高い音が響きました。大きな悲鳴が耳を貫きました。見ると、私をぶとうとした蛇の塊に穴が空き、一筋の煙が立ち昇っていました。
 いつの間にか私は、震える体で立ち上がり、無我夢中で走りだしていました。走って、走って、逃げ出していました。逃げ場所なんて、何も考えられませんでした。ただ心が赴くままに、私は、鐘の塔への階段を駆け登っていました。

 私の心は、助けを求めていました。助けて、助けて、誰か――。追ってくる足は速く、私を求める悲鳴は恐ろしく――私は泣きながら、階段を駆け登りました。
 塔への階段を登りきり、鐘と夜の光が見えた時。左右の奥に、さらに階段が伸びていることに気付きました。私は、引き寄せられるように、右側に走りました。螺旋状の階段を登り、たどり着くと――。

 そこにあったのは、鉄格子でした。いえ、正確に言うと、牢だったのです。

 牢の奥に、いつも私にほほ笑みをくださる、あのお方がいらっしゃいました。小さな窓から漏れる夜の光で、そのお方のお姿がよく見えました。青い毛束の混じる、顎もとですっぱりと切れた黒髪。お帽子は、つけていらっしゃいませんでした。足首丈のスカートは、片足の太ももの付け根からまっすぐに切れていました。かかとがとても高い靴を履いて、まっすぐ立っていらっしゃいました。
 手の甲には、見覚えのある青い花が咲いていました。切れ目から覗くおみ足にも、青い花々が咲き誇っていました。糸のように細い葉に包まれた、神秘的な、美しい花が――。
 そして、片腕に、長い筒のようなもの――長銃を抱えていらっしゃいました。

 鉄格子越しに視線を交えて、私は、時が止まったように思えました。
 彼女は、いつものようなやさしいほほ笑みに、少し強さを浮かべたような表情で、唇を開きました。

「いらっしゃい、セナ。よく来たわ」

 私は、ドキリとしました。一瞬で、夢から覚めたような気持ちになりました。
 ですが、そんな場合ではありません。背後から、高い声が響きました。追いつかれてしまったのです。
 その時、キィン! と激しい音が響きました。悲鳴をあげながら目を移すと、瞳と花とを青く輝かせた彼女が、斧で鉄格子を壊していらっしゃったのです。

「こっちにきて、セナ」

 私は、差し伸べられる手に縋りつき、導かれるまま、彼女の背中にくっつきました。彼女は温かく、やさしく――そして、懐かしい香りがしました。
 彼女は私をかばいながら、蟲と対峙しました。

「大丈夫よ、セナ。すぐ終わる。私が、あなたを守るわ」

 青く輝く彼女が、私にほほ笑みかけてくださいました。
 蟲が片腕を振り上げました。彼女がさっと斧を投げると、蟲の腕——蛇の集まりが、すっぱりと切れ、ぼとぼとと落ちてきました。私が、床でうごめく残骸たちに震える隙に、蟲はもう片方の手の蛇たちを伸ばしてきました。彼女の片手に、魔法のように、短い銃が握られました。彼女は容赦なくそれを連射しました。小さな穴が一直線に当たったのでしょう、もう片方の腕である蛇たちも切れ落ちました。私はだんだんと冷静になっていて、中庭にいた時に助けてくださったのもこの方だったのだと気付きました。
 彼女は容赦なく、蟲の胸の部分に撃ち込みました。高らかな音が鳴りました。ですが、撃たれたところからは煙が上がるばかり。蟲は、言葉のわからぬ声を叫ぶばかりです。両腕の切れ目が、もぞもぞと動きはじめていました。再生しはじめているのかもしれない、と私は思いました。

「頭を撃てば終わるかしら」

 彼女の手に、長く、太い銃が現れました。そして彼女が頭部の花に銃口を向けて構えた時、私は、はっと気付きました。

「ま……待ってください。お、終わるって……。撃ったら、シスター・ルゴサはどうなるのですか」

「亡びるわ。跡形もなく」

 目の前が、ぐにゃりとゆがみました。彼女の肩を握っていた手に、いつの間にか力がこもってしまったのでしょうか。「大丈夫?」とささやかれました。私は、大丈夫ではありませんでした。シスター・ルゴサがいなくなってしまうかもしれないなんて……私のせいで……。私のせいでこんな姿になって、亡びてしまう……。信じられなくて、信じたくなくて、私は目をつむりました。
 蟲の甲高い悲鳴と、何発もの銃声が交じり合いました。はっと目を開くと、体のあちこちから煙を立ち昇らせた蟲が、ぐったりとして、苦しげなうめきを漏らしていました。

「――セナ」

 彼女が、こちらを見ることなくつぶやきました。再び、頭部の花に銃口を向けていました。

「祈って。彼女が、幸せになれるように」

 ――幸せに……。

 そうです。私は……皆を、幸せにしたいのです。
 傷つけてしまったシスター・ルゴサを、最期に、幸せにしたい。私にできることすべてで、幸せにしたい……。
 私は、決心しました。
 私は彼女の隣に並び、懇願しました。

「お願いします……私に、撃たせてください」

 彼女は、静かにうなずきました。そして、私を腕の中に引き寄せると、私の指を、引き金にかけてくださいました。彼女の指が引き金にかかる私の指の上に重なる形になりました。そして、私の体を、しっかりと抱きしめ、支えてくださいました。
 うなるような、苦しいような、シスター・ルゴサの声が響きました。私は、唇を噛んで、そして、伝えました。

「シスター・ルゴサ……ごめんなさい。あなたの気持ちに応えられなくて。だけど、私は、大好きなのです。同じ気持ちじゃないけれど、それでも、ずっと……これからも。だから私は、あなたの苦しみに区切りを打ちます。そして、心から祈ります。どうか、シスター・ルゴサが、穏やかに眠ることができますことを」

 その瞬間、あたりが白く光り、床から、無数の花が咲き誇りました。
 ですが、その時の私は、その現象に何も思うことなく、ただ、祈りだけを唱えていました。
 私は、引き金を引きました。彼女がぐっと、私の指を後押ししてくれました。
 パン、と高い音が鳴りました。蟲の頭部の中心が白く輝き、全身にひびが入ったかと思うと、乾いた砂のように、体が崩れ去ってしまったのでした。
 後には、塵のようなものが舞うばかりでした。
 いつの間にか、白い花と光も、彼女の青い光もなくなり、わずかな夜の光だけが射し込んでいました。
 目の前が、真っ暗になりました。
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