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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
7.運命を断ち切る女神-1
 かつん、かつーん、と。

 床を打ち鳴らす靴音で、緋扇シュアンは目を覚ました。

 とはいえ、実際に、足音が聞こえたわけではない。独房のベッドの上で、うつらうつらしていた彼は、相手が近づいてくる気配をマットの振動から感じ取ったのだ。今が昼間であり、本来、寝るべき時間でないため、眠りが浅かったのも一因だろう。

 全治数ヶ月と診断された彼は、体の回復を促すため、ひたすら睡眠を取ることに努めていた。負傷した野生の獣が、寝床から動かず、静かに傷を癒やすのと、よく似ている。

 無論、彼は人であり、そして、人質であった。

 人質が重傷者であると都合が悪いのだろう。摂政の手配した医者が、毎日のように彼のもとを訪れ、手厚く看護されてもいる。

 診察の際には、手錠を掛けられるが、それ以外の時間は拘束具を付けられることはない。食事は不味いが、人間の食べ物としての最低ラインは越えている。よく振動を伝えてくるベッドは、古びてはいるものの、決して不衛生ではない。

 総じて、この監獄に移されてからの待遇は、まずまずといったところだった。

 現状に不満のないことを再確認したシュアンは、これからの展望に思いを馳せる。

『看守に嬲り殺しにされることによって、ハオリュウの枷となることから解放される』という目論見に失敗したと知ったときには、絶望に陥ったものだ。しかし、今は気を取り直している。そして、今度は体を治して『脱獄』することに決めたのだ。

 別に、成功する必要はない。

『逃走の途中で、射殺されれること』が目的だ。

 現在、逮捕から、おそらく一週間目。初めの数日は、夢とうつつをさまよっていたために判然としないのだが、日付を教えてくれた看守が嘘を言っていなければ、そうなる。

 頬に手をやれば、伸びた髭が、ざらりとした感触を伝えてくるので、おおむね間違ってはいないだろう。用心のためか、剃刀かみそりは与えられていないのだ。

 あまり、のんびりはできない。シュアンを人質に、ハオリュウが窮地に陥ってしまう。

 心は焦るが、彼の肉体は、独房内をゆっくりと歩き回るのがせいぜいで、まだ走ることはできなかった。

 シュアンはベッドに横になったまま、耳を澄まし、近づいてくる者の様子を探った。

 見回りの時間ではないはずなので、不審に思ったのだ。

 足音がひとつであることから、摂政ではない。摂政ならば、必ず部下たちと複数人でやってくる。

 そもそも、あの特徴的な歩き方は、赤ら顔の老年の看守で間違いないだろう。千鳥足の酔っ払いそのものだ。もしかしたら、足に古傷でもあるのかもしれないが、常に熟柿の臭いを撒き散らしているので、依存症酒浸りを疑ったところで失礼はあるまい。

 時々、言動が怪しくなるので、あるいは薬物にも手を出している可能性もある。警察隊の腐敗は、何も権力者との癒着に限ったことではないのだ。麻薬の密売に目をつぶることで、うまい汁を吸おうとする輩もいる。そして、そのついでに身を滅ぼすような阿呆あほうも。

 あの老年の看守は、どうせろくな奴ではないだろうが、脱獄の際には利用できるのではないかと、密かに目を付けていた相手でもあった。

 さてはて、いったい何用なにようかと、シュアンは興味深げに三白眼を細める。

 やがて、予想違わず、くだんの看守がシュアンの房の前に現れた。焼けたように赤い顔を、にたにたと緩ませて、何やら、ご満悦の様子である。

「お前が斑目一族の指示で動いていた、ってのは、本当だったんだなぁ。しかも、あんな大物が出てくるたぁ、驚いたぜぇ?」

 老年の看守は、ゆらゆらと肩を揺らしながら、下卑た嗤いを漏らす。

 それから、独房の中と外を隔てる鉄格子に、がしゃりと寄り掛かり、まるでシュアンに内緒話でも打ち明けるかのように声を潜めた。

「お陰で俺は……っと、口が滑っちゃぁいけねぇぜ」

 そう言いながら、これ見よがしにポケットのあたりを叩いてみせる。特に膨れているようには見えないが、今どき現金現ナマを持ち歩くのは珍しかろう。――要するに、金を積まれたというジェスチャーだ。

 ――誰に、何を頼まれた?

 ベッドに横になったまま、シュアンが眉を寄せると、暴行による怪我で、迫力ある面構えになっていた凶相が、更に悪人面となった。

 ――大金を匂わせる発言……ハオリュウが動いたのか。

 見かけだけは素朴で純真な子供のくせに、その実、腹黒な少年当主が、素直に摂政の脅迫に応じるわけがなかったのだ。この国の最高権力者が相手では、さすがのハオリュウも従わざるを得まいと考えていたのだが、どうやら違ったらしい。

 シュアンは半眼で看守の様子を窺いながら、思考を巡らせる。

 看守は今、シュアンに対して『斑目一族の指示で動いていた』と、感服したように口にした。

 だが、そんな事実はない。前の監獄でのシュアンの『自白』は、ハオリュウにるいが及ばないようにするための虚言でっちあげだ。

 つまり、あの『自白』に話を合わせるように、斑目一族の名がかたられた。すなわち、『自白』を監視カメラで見ていたであろうルイフォンが、一枚噛んでいるということに他ならない。

フェレース〉は、シュアンの周りにいる人間の情報を集め、その中からくみやすしと、この看守に白羽の矢を立てたのだ。おそらく、シュアンの推測通りにすねに傷を持つ身であったのだろう。

 ――看守こいつをどう使うつもりだ?

 信用に値するとは、とても思えぬ輩だ。利用するだけのはずだ。

 ともあれ、ハオリュウたちが、シュアンを助けるつもりであることは間違いない。

 嬲り殺しにされることで、ハオリュウに自由を与えようとしていたシュアンとしては、正直なところ、格好のつかない展開であるが、別に彼だって死にたいわけではない。

 単に、ハオリュウの枷になりたくなかっただけ、人生を賭けると決めた、奇天烈キテレツな小さな権力者を守りたかっただけだ。

 今後も必要とされるのであれば、喜んで役に立とう。

 しかし、犯罪者シュアンを匿うことで、ハオリュウの立場が危うくなることを思えば、いずれは姿を消すことも考えねばまるまい。

 おのれの不利益を顧みない、青臭い餓鬼なのだ。今だって、シュアンの命を助けることだけしか頭にないだろう。……いったい、どんな策を立てたのやら。

 ――あいつは、自己犠牲が大好きだからな。

 自分こそ、ハオリュウのために命をなげうとうとしたことを忘れ、シュアンは口の端を上げる。

 現在、ハオリュウのそばには、ルイフォンがいる。無謀な作戦なら許しはしないだろう。だから、これは乗るべき策だ。

 シュアンは三白眼を巡らせ、独房の天井に据え付けられた監視カメラを見やる。これで、ルイフォンに、了承の意が伝わったはずだ。

 ――俺は、どう動けばいい?

 この体調では、走ることはできない、看守の手引きがあったとしても、まだ脱獄は難しい。それは、ルイフォンも承知しているはずだ。

 ――どうするつもりだ、〈フェレース〉?

 心の中で、シュアンが問いかけたときだった。

「先輩! どちらにいらっしゃいますか――!?」

 遠くから、ばたばたと走り回る足音が聞こえてきた。純朴そうな高めの声は、この監獄の看守たちの中で一番若い、新米看守のものだ。

「俺は、ここだぁ! どうかしたかぁ?」

 老年の看守が振り向き、通路の先に向かって声を張り上げた。

 どことなく、すっとぼけたような口調にも聞こえる。――まるで、誰かが自分を探しに来ることを予期していたかのように。

 ――否。知っていたのだ。

 その証拠に、不細工な赤ら顔が、にたりと醜く歪んだ。

「あ、先輩、そちらでしたか!」

 心なしか、安堵したような雰囲気をにじませ、新米看守が駆け寄ってくる。しかし、そこがシュアンの房の前だと気づくと、彼は、ぎょっとしたように顔を強張らせた。

 その表情の変化は、あまりにも顕著であった。しかし、老年の看守は問いただすことなく、何食わぬ顔で尋ねる。

「何があった?」

「その……、今、物凄い美女が、詰め所に現れて……。それも、こんな掃き溜めには場違いな、とんでもなく綺麗な人で……、――あっ……」

 台詞の途中で新米看守は気づく。

 たとえ、自分がどんなに衝撃を受けたとしても、報告すべき点は、そこではない。

「……すみません、そうではなくて。――ああ、いえ、美人は本当なのですが、ええと……」

 言いながら、彼は、ちらりと鉄格子の内側に視線を走らせた。

 目が合う直前で、シュアンはそれまで看守たちの様子を鋭く観察していた三白眼を伏せる。そのため、新米看守は、ベッドに横になっている重傷人は、ぐっすりと眠っているものと信じたようだ。念のためにか、声の音量トーンを落としはしたものの、そのまま話を続けた。

「彼女は緋扇シュアンの恋人で、彼が処刑されてしまう前に、ひと目逢いたいと――」

「ほぉぅ、まさに、美女と野獣じゃねぇか。狂犬の野郎も、すみに置けねぇなぁ」

 新米看守の言葉を遮り、老年の看守が尻上がりの口笛で冷やかす。

「せ、先輩!」

 新米看守が、慌てたように口元に指を立てた。静かに、との仕草だ。シュアンが起きてしまうことを危惧したのだ。

「先輩。上からの指示で、緋扇には何者の面会も許されていません」

 監獄を任された看守としては、命令が下されている以上、美女と死刑囚シュアンを逢わせるわけにはいかない。ならば、恋人の来訪を知らぬままに逝ったほうが、シュアンの心残りも少なかろう――と。まだ、すれていない、新米ならではの生真面目さと気遣いがそこにはあった。

「別にいいじゃねぇか。逢わせてやれよ。今生の別れだろう?」

「そんなわけにはいきません!」

「じゃあ、その美女をどうする? 追い返すのか?」

「それが……。面会はできないと説明したら、その場で泣き崩れてしまいました」

「そりゃあ、可哀想になぁ」

 老年の看守が、圧を掛けるように呟く。

 新米看守は、憮然と顔をしかめた。彼だって、本心では、彼女の願いを叶えてやりたいのだ。この世の者とも思えぬような絶世の美女に、目の前でさめざめと泣かれて平然としていられるほど、彼の心臓は丈夫ではない。

 彼は、ほんの数分前の出来ごとを反芻する。

 恋人に逢えないと知るや否や、彼女は切なげに柳眉を歪め、かくりと力なくうなだれた。彼女の動きに反するように、草の香がふわりと浮き立つ。香水にしては柔らかな優しい香りが広がり、彼女の清らかな魅力が胸に迫った。

 すらりと背の高い女性であった。しかし、つややかな長い黒髪の隙間から、嗚咽に震える白いうなじが覗くと、とても儚げな、か弱く小さな存在に感じられた。年齢的には、新米の彼よりも、よほど年上であろうに、庇護欲すら掻き立てられたのだ。

 けれども芯は強いのか、そっとハンカチで目元を押さえると、彼女は顔を上げた。そして、色あせた唇をわななかせ「どうか、彼に逢わせてください」と懇願してきた。

 涙をたたえ、すがるような切れ長の瞳は、凪いだ湖面のように静謐で。なのに、どこか妖艶でもあり、魔性をはらんだように抗いがたい――。

「それだけじゃないんですよ!」

 つい先ほど、自らの口元に指を立てたことなど、すっかり忘れ、新米看守は大声で叫んだ。

「彼女は、ひとりで来たわけではなくて、巨漢の付添いがおりました。それも、雲をつくような大男で、ひと目で、只者ただものではないと感じました」

 初めは美女に見とれていたために、後ろの付添いに気づかなかったことは秘密である。

 しかし、ひとたび、その巨躯を認めれば、今度は威圧感に足がすくんだ。

 それもそのはず――。

「なんと! そいつの襟元に、斑目一族の幹部バッジが光っていたんですよ!」

 刈り上げた短髪からは野性味があふれ、サングラスの下の顔は窺い知れないが、その体格から、さぞや強面コワモテであろうことは想像に難くない。

 暗色のスーツは、きちんと体に合わせて仕立てられた、上等なものであるように見えるのだが、筋肉の鎧は隠しようもなく、はちきれんばかり。厚い胸板からは、何故か、色褪いろあせた赤いポケットチーフが覗いていて、その不均衡アンバランスさが、かえっていわくありげな品という雰囲気を醸し出していた。

「そいつが、彼女を押しのけるようにして、ぬっと前に出て! 俺に向かって、脅しかけたんです!」

 恐怖を思い出し、新米看守は必死に訴える。



「『話は、ついているはずだが?』」



 地を揺るがすような、どすの利いた太い声だった。

 聞いた瞬間、新米看守は縮み上がり、「ちょ、ちょっと、聞いてきます!」と、詰め所を逃げ出し――もとい、他の者に確認すべく飛び出してきたのだ。

「お前も、災難だったなぁ」

「先輩……?」

 極悪非道な凶賊ダリジィンが押しかけてきたというのに、まるで慌てる様子もなく、ただ不健康な赤ら顔を歪めて嗤うだけの老年の看守に、新米看守は眉を寄せ……、やがて確信する。

「先輩……、あの斑目の幹部から、袖の下を受け取って……」

「人助けさぁ。――処刑される恋人に、ひと目逢いたい。なんとも、いじらしい女じゃねぇか」

「ですが、警察隊が凶賊ダリジィンと、なんて……」

「緋扇の野郎は、斑目の指示で貴族シャトーアったんだ。凶賊ダリジィンの世界じゃ、組織のためにタマを捨てた奴は英雄だ。残された縁者に融通を利かせてやることは珍しくねぇんだよ。恋人が逢いたいと言えば、そのくらい叶えてやるのが男気ってもんだ」

 老年の看守は、説教を垂れるように言い、唐突に、がはは……と笑い出す。

 何ひとつ、論理的でなかった。

 なるほど、斑目一族の幹部は、男気で動いているのかもしれない。しかし、先輩看守のほうは、金品の授受に乗せられているだけではないか。

 だが――。

 新米看守の生真面目さと、警察隊員としての正義感は、凶賊ダリジィンの大物幹部の威圧に押しつぶされた。

 それよりも、先輩からの指示で『特別な計らい』があったとするほうが、気遣いであり、人としての正義であると、脳内で処理された。

「緋扇シュアンの恋人を連れてきます。――ですが、面会は鉄格子越しに、ですよ」

 新米看守は念を押し、きびすを返して詰め所へと戻っていく。

 残された老年の看守は、後輩の後ろ姿が消えるまで見送ると、鉄格子の中のシュアンに向かって語りかけた。

「よぅ、狂犬。どうせ、起きているんだろぉ?」

 シュアンは答えない。答える必要性を感じないからだ。

 老年の看守は、無反応なシュアンに気を悪くした様子もなく、赤ら顔をにたりと歪めて尋ねる。

「お前の『恋人』って奴は、たいそうな美女らしいが、心当たりはあるのかい?」

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