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作者: 樹齢二千年
残酷な描写あり R-15
7話『鍛錬開始』
 瞼を貫通する太陽の光。
 起きて活動し出した人々の喧騒によって、アウラの意識は無意識が形作る夢の世界から、現実世界へと引き戻された。

 目覚めても窓から広がるのは異郷の風景であり、今いる場所が異界であるという事実を容赦なく突きつける。
 空模様は雲一つない快晴。
 波乱に満ちた先日は疲労困憊で寝床に入った為か、睡眠の質としては十分だった。
 しかし、

「やっば……普通に筋肉痛だな、これ……」

 上体を起こそうとすると、身体の節々が痛むのを感じた。
 別段動けない程酷い訳では無いが、やはり多少の疲弊は残ったままだった。
 全力疾走した上に半日程休憩無しで歩かされ、トドメに階段の昇り降りまであった為に足への負担は尋常では無く、一日寝ただけで取れる事は無かった。

 だからといって、今日の約束をすっぽかすという真似は出来ない。
 冒険者として依頼に出る為の、肝心の初日なのだから。

「えーと、起きたら街の中央広場に来いって言ってたっけか」

 額に手を当て、昨日の別れ際での会話を思い出す。
 朝方に中央広場で集合という話で、どうやらそこから更に歩いて別の場所で鍛錬は行うらしい。そこは相当な広さがあり、尚且つ多少暴れても誰にも迷惑がかからない場所なのだとか。

 そのまま立ち上がり、階段を下って玄関へ。
 ナルが置いて行った地図と、麻袋に詰められた生活費からいくらか取り出してポケットに仕舞う。
 玄関のドアの前に立ち、

「うっし、行くか」

 一呼吸置き、気を引き締める。鼓動は僅かに加速し、早くも緊張が身体を覆っていった。
 新生活をこのような形で迎えるとは思ってもみなかったが、アウラの内には不安と同時に未知の領域に対する期待なども僅かに存在していた。
 地図と周囲の景色を逐一確認しつつ、彼は意気揚々と市街地へと向かって行く。


 筈だったのだが。


「……ヴァジュラ忘れた」

 小走りで家へと戻って来た。ベッドのすぐ傍の壁に立てかけたというのを完全に失念していたらしい。
 異世界での新生活最初の忘れ物は、あろうことか授けられた神の兵器。
 とんでもない罰当たりである。



 ※※※※



 仮の家を出てから歩く事数十分。

 別段迷う事も無く、地図もあった為か案外簡単に市街地へと出る事が出来た。
 昨夜に来たルートと全く同じ道を辿った為、入り組んだ路地裏から人通りの多い場所に出た時にはあまりの人の多さに少々驚かされる。
 時間にしてまだ午前九時を回った辺りだろうが、朝方とは思えない人の喧騒に満ち溢れている。流石に東京の都市に比べれば低いが、活気という面であれば決して劣る事は無い。

 この街の民間人も起き出したのか、子供と共に微笑ましく店を見て回る者の姿も見て取れた。
 アウラも立ち並ぶ出店を時折眺るなどしつつ、約束の場所へと向かっていく。

(そういや、噴水が目印だったかな)

 エリュシオンの門から大通りと中央広場を経由してギルドに向かう際に一際大きな噴水を目にしていたのだ。
 周囲にはベンチも幾つか置かれていたので、かなり人が密集していた場所だと記憶している。
 通りざまに見ただけだがそれなりに印象に残っており、難なく集合場所には辿り着く事が出来た。のだが、

「……って、カレンのヤツ、まだ来てないじゃんか」

 周りを見渡しても、あの鮮やかな紫色の髪は見えない。
 冒険者の資格は得たものの、傍から見れば凶器を刀身剥き出しでキョロキョロしている不審者である。
 一先ず立ち往生するのも人の邪魔になるので、青々とした樹の近くにあるベンチにヴァジュラを立て掛け、腰を下ろした。

 道行く人々の方に視線を向けると、剣や杖を携えた明らかに民間人では無い者──同業者の姿も多く見受けられる。
 先日の己と同じ方へと向かっているので、十中八九彼らの行き先はギルドである。

(皆、こんな朝早くから依頼を受けに行くのか……)

 他人事のように言うが、早くて数ヶ月後には自分もあの生活を送っているのだろうと心の中で零す。
 依頼を受けに出て、五体満足で帰って来れるという保証は何処にも無い。毎日が命がけという生活が、自分にとっての常識として上書きされるのだ。
 既存の価値観を捨て、全く新しいこちらの生活に身体を慣らしていく準備も必要である。──と、そのような事を考え込んでいた最中、アウラの前に一つの影が訪れる。

 見上げると、紅玉ルビーの如き双眸がアウラを見下ろしていた。
 昨日の返り血はすっかり落ちており、籠手や鉄靴など、依頼に出る時の装備一式を纏っていた。

「おはようさん」

「おはようアウラ。集合時間より随分早い到着だけど、どうしたの?」

「初日から遅刻は流石に出来ないからな。余裕を持っておこうと思って」

 日本人たる者、五分前行動などは幼い頃から叩き込まれて来た。
 次の日の授業の準備も済ませてから目覚まし時計をセット、就寝する生活を送っていたので遅刻は少ない方であった。
 普段の習慣をそのままこちらでも継続しているだけなのだが、今日に限っては少し別の理由もある。

「……それに、初日から遅刻なんて真似したら真顔のままボコられそうだしな」

「流石にボコボコにはしないわよ。この場ではね」

「公共の場じゃなけりゃ問答無用でボコるってコトだよね、それ」

「どうせこの後ボコボコにされるんだし、変わらないわよ」

 彼女は堂々と「お前をボコる」と宣言した。
 依頼に出ても問題ない程度の技量を身に付ける為に、これから彼女に諸々の指南を受ける。
 その過程で実践形式を行うという点も事前に聞かされていたので、恐らくその時の事を指しているのだろう。

 武器すらロクに握った事の無いアウラが歴戦の冒険者であるカレンとやりあったとて、結果は見えている。なんなら徒手空拳でもアウラ程度であれば余裕で捩じ伏せるだろう。
 一目も憚らずに繰り広げられる物騒な会話だ。

「俺こういうのは初めてだから、最初は優しくしてくれません?」

「そこはアンタの頑張り次第よ。……出来る限り加減はするけど、貴方の技量に合わせて少しずつ調節していくつもり。私の全力の八割ぐらいと真っ向からやり合えるぐらいにはなって欲しいわね」

 一応カレンの方でも多少の手加減はしてくれるとのことだった。
 だが、万が一の事故という事も有り得る。指南をする側もされる側も極力善処しなければならない。

「八割って、それ殆ど本気だろ」

「いやいや、普段の依頼の時とか……あーあと、人間を相手にする時は大体それぐらいよ」

「へぇ~、人間ねぇ……────え、人間? 今お前「人間」って言った?」

 思わず聞き返してしまうアウラ。
 聞き違いでなければ、カレンは確かに「人間を相手取る」事があるのだと言ってのけた。

「一言に依頼と言っても、魔獣退治が多いってだけで、要人の護衛とかを任される事があったりするの」

「護衛任務か……流石は「熾天セラフ」の冒険者って感じだな」

「基本的に終始何もなく終わる事が殆どなんだけど、それとは別件で人間を相手にする事が多くてね……」

 こめかみを押さえつつ、彼女は補足する。
 正につい最近、そういった場面に出くわしたかのような物言いである。今はアウラの為に時間を割いているが、それまでは自分の下に来る依頼の消化に奔走していたのだろうか。
 しかし、護衛以外で起こり得るそのような場面というのは些かアウラには想像が付かなかった。

「多分、アウラもこれから活動していく中でも同じ状況になる事があると思うから、その辺の心構えだけはしておいて」

「──────」

 彼女の忠告に心臓が一際強く鼓動し、言葉を詰まらせる。
 知性無き魔獣では無く、自分と同じ人間を相手に刃を振るうということ。それが何を意味するかは明白である。
 即ち、人を殺める事。
 かつての自分の価値観を用意に覆す、この世界──否、冒険者として生きる上での絶対常識だった。

「……まぁ、今からこんなプレッシャーかけても仕方無いし、当面は気にせず鍛錬に打ち込んで貰って構わないから。ただ、そういう事もあるってことだけは頭の片隅にでも置いておいてよ」

「カレンは、その辺はもう割り切ってるのか?」

「こんな仕事で金稼いでる訳だし、何より、自分の身は自分で守らなきゃだしね。いざ本番になればあーだこーだ言ってられないし、貴方の言う通り、割り切って考えてるのはあると思う」

 カレンは恐らく人間相手でも、魔獣を相手取った時と同じように刃を振るうのだろう。
 戦いとなれば、一瞬の躊躇いは命に直結する問題に発展する。故にその覚悟など、とうに済ませている。そうでなければ、今の様に五体満足で生きてはいない。

 寧ろ、心の中で割り切っているからこそ、誰であろうと容赦なく剣を振るう事が出来るのだ。
 人の命を奪う所業に手を染めるという事に抵抗感を覚えるのは、アウラ自身が平和な環境で育ってきた事に起因する観念だ。
 ある種の弊害とも言える固定概念を取り払わねば、冒険者として活動していく中で確実に障害と成り得る。

「成る程なぁ。俺、人を手に掛けるどころか武器を持つ事すら縁が無い人生送って来たから、イマイチ実感が沸かないというか……」

 後頭部をワシワシを掻きつつ、歯痒さを顕わにする。
 長年染みついて来た常識であり、即座に意識を切り替える事はまだまだ難しい。

「貴方の性格じゃあ今すぐに割り切れってのも無理だろうし、いざその状況になった時に迷わないようにだけしておいて」

 穏やかな笑みを浮かべ、心に留めておくよう告げる。
 彼女とて鬼では無い。心構えとしては重要なものであるが、アウラの性格も考慮してこのように言ったのだろう。羅刹と謳われるのはあくまで彼女の一側面に過ぎず、普段は人の事を思いやる事の出来る精神性の持ち主だった。

「そうだな……確かに簡単に割り切れるものでもないし、時間をかけて考えてみるよ。ありがとうな」

「遠回しに「人を殺せ」って言ってるのと同じだしね。流石にそこまで非情な人間じゃないわよ、私は」

 そう言って、カレンはアウラから視線を外す。

「時間も限られてるし、そろそろ行きましょうか」

 カレンは足早に歩きだす。
 アウラも続いて彼女の後を追うように立ち上がり、鍛錬を行う場所へと向かって行った。
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