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作者: 樹齢二千年
残酷な描写あり R-15
6話『一日目、終了』
 大通りを抜け、中央広場を過ぎ、ひたすらに北へ向かう。
 そのうち、建物が立ち並ぶ風景から、気が付けば舗装された一本道へと変わっていた。脇には木々が植えられ、先刻に比べれば騒がしさもいくらか収っていた。
 夕刻という時間帯も要素として挙げられるだろうが、道中ですれ違う者も非常に少ない。

 夕焼けに空が赤く染められていく中、二人は足を止めた。

「──────」

 眼前に現れた、圧倒的な存在感を放つ建造物に、思わずアウラは足を止め目を丸くする。
 元から持ち合わせていた印象から心の中で勝手に木造だと勘違いしていたが、実際は全くの別物。想像を遥かに凌駕していた。
 それは、俗に言うゴシック建築を彷彿とさせる一際大きな建物だった。
 全体的に白を基調にした様式は夕焼け空も相俟って美しく、西洋の宗教施設として名高い大聖堂を想起させる。

 エリュシオンのギルド施設。
 これから幾度となく足を運ぶことになる場所である。

「此処が、私達が拠点にしているエリュシオンのギルド──アトラスよ」

 言葉を失う彼を知ってか知らずか、彼女はその名を告げる。
 ギルド毎に名があるのか、と問う前にアウラが反応したが、その興味の先は当然、彼女が言ったその「名」にある。
 視線を向け、問う。

「アトラスって、もしかしてあのアトラスの事か?」

 同名の山脈はあまりにも有名。
 当然、その由来は彼女が口にした「神」の名に辿り着く。名前程度は誰でも一度は聞いた事があるレベルのものだ。

 ギリシア神話において、世界の西の果てで天空を支え続けたという巨神アトラス。その名を冠しているのが、この街、エリュシオンのギルドだった。
 問いかけるアウラへと視線を向ける事なく、彼女は建物を見つめたまま答える。

「──ええ、最果ての巨人アトラス。神期が終わるまで、一人で天を背負い続けた神。……名付けた人がどうしてこんな名前を選んだのかは分からないけど、此処が地図で見て世界の西側に位置するからってのは聞いた事はあるわ」

「そういう理由ね。確かに名付けるにしちゃピッタリだわな」

 再び視線を建物に向け、素直に納得するアウラ。
 エリュシオンという名も、考えてみれば由来は同じ西洋の神話体系。
 天空を支えるアトラスと同じく、世界の西の果てに存在するとされる楽園であったと、アウラは持ちうる知識を記憶の中から引っ張り出した。

「地上を統べた神なくして、今の私達は無いからね。だから伝承を語り継いでいく以外にも、こうやって後世に名前を残し続けているの」

 ギルドを見上げながら、カレンは答えた。
 今を生きる人々が、既に去った神々に対して出来る事。
 それは信仰を捧げ続ける事ではなく「忘れない」という事だ。
 神による支配から脱却し、庇護による約束された豊穣というシステムから消失した今、人は人の力だけで生きていかねばならない。

「人の為に在り続けた神様への、せめてもの敬意、か」

「そういうこと。もう神と人が出会う事はないだろうけど、忘れないということ自体が、私たち人間に出来る最大限の恩返しだから」

 聳え立つギルドを見上げつつ、淡々と言葉を連ねていく。
 暫く二人の間に沈黙が訪れた後、カレンは「さて」と呟いて

「ほら、閉まっちゃわないうちに生きましょ。名前の登録もしなきゃだしね」

 アウラを先導する形で、巨大な玄関へと歩を進めた。



 ※※※※



 ギルド内部は既に人の姿は限り無く少なかった。殆どの冒険者は既に市街地の方へと向かって行ったらしい。
 内装としては玄関から入ってすぐ目の前に受付、そして依頼書と思しき紙が壁に貼りだされているのが見受けられた。奥の方にはテーブルの並ぶ広いスペース。集会場と思われる場所が位置している。

「さて、意気揚々と入ったは良いものの──受付、誰も居なくないか?」

「あれ、おっかしいわね……玄関が開いてるなら、誰かしらはいる筈だと思うんだけど」

 カレンは手を頬に当て、首を傾げる。
 二人して、受付のテーブルの前で立ち往生していたのだ。

 今ギルドの内部にいるのはアウラとカレンの二人のみで、それ以外に人の姿は見当たらない。声だけが奥の方に溶けていくだけで、極めて閑散としていた。
 アウラの名前をギルドに登録しないと冒険者として活動する事は出来ない。
 最悪出直すという手段も二人の頭に浮かんでこそいるが、折角なら一度で済ませておきたいというものだ。
 頭を掻くアウラと、腕を組み思案するカレン。

 そんな二人の後ろから、声が一つ。

「──ありゃ。こんな時間に誰かと思えば、カレンじゃないか」

 それは、活気に満ちた声色だった。
 振り向くと、そこには一人の小柄な少女が立っていた。
 街娘のような装いに身を包み、白のメッシュの入ったライトブルーの短髪を携えている。
 まだあどけなさの残る顔立ちだが、その瞳には翡翠の如き緑が宿り、僅かに覗く八重歯が野性味を醸し出していた。
 
「ナル、アンタ受付番ほっぽって何処行ってたのよ?」

「いやぁ、ちょっと小腹が空いたもんで市街地の方まで買い出しにね。んで、そっちの兄さんは? ここいらじゃ見ない顔だし──」

 ナルと呼ばれた少女は、視線の先をカレンからアウラへとスライドさせる。
 冒険者達の顔は大体把握しているのか、一目見ただけでアウラがエリュシオンの人間では無い事を見抜いた。
 そのまま軽い足取りで彼の方へと近付き──超至近距離で鼻先を動かし、アウラの匂いを嗅いだ。

「ッ!? 何々何!!??」

「やっぱり……嗅いだことない匂いだ。お兄さん、よそもんでしょ?」

「え? ああ、色々あって、これから冒険者をやる事になったんだけど……いや、近い……」

「彼とは依頼先の森で魔獣に襲われてた所を鉢合わせてね、助けたついでに連れて来たの。ほら、アンタ前に魔獣の依頼が多くて人手が足りないとか言ってたし」

 やや過激なファーストコンタクトに困惑しながらも、簡潔な自己紹介と経緯の説明を済ませる。
 カレンがアウラを誘った理由には、どうやら貸し借りを帳消しにするというもの以外にも人員の補充というもの含まれていたらしかった。  

「冒険者にも人手不足とかあるのかよ……世知辛いもんだな」

「ここ最近は特にねぇ。冒険者連中もいるにはいるんだけど、魔獣退治やら何やらの依頼が兎に角増える一方で追い付かないんだよ」

 やれやれといった様子で両手を上げるナル。
 前の世界でも人手不足の業界というのは存在していたが、異なる世界、しかも冒険者という職業が現状人手不足に陥っているなどとは思っていなかった。
 
「でもまぁ、一人でも戦力が増えるのなら大歓迎さ。──アタシはナル、ここで働いてる職員で、見ての通り獣人さ」

 言いつつ、彼女は頭頂部の耳、犬や狼を想起させる獣耳を指さした。
 それはピコピコと可愛らしく動き、コスプレなどではない「本物」であると証明している。

「獣人……よく聞く「亜人」ってヤツか」

「正確には混血なんだけどね、因みに父親が人間種で母親が人狼種なの」

「今じゃ別に珍しいものでもないわ。もっとも、一昔前は種族間で色々と揉めてたみたいだけど、今は魔獣は勿論、危ないカルト集団やら何やらでそれどころじゃないしね」

 初めて獣人を目にしたアウラに、カレンが解説を添える。
 今でこそ種族は互いに文明に溶け込んで日々を過ごしているが、それ以前には互いに相争った時代も存在していたのだという。
 異なる種族、異なる思想があれば争いが起こるのは必然。しかし同時に、それを乗り越えて今があるのだ。
 話を聞いて「成る程」と頷くアウラを横目に、カレンは話題を切り替えた。

「……って、こんな話をしに来たんじゃなかった。ナルに頼み事があるんだったわ」

「頼み事って?」

「アウラの名前をギルドの名簿に登録して欲しいのよ。それと、可能なら暫く彼を寝泊まりさせて欲しいんだけど」

「別に構わないけど、宿とか借りられないのかい?」

「そうしたいのは山々なんだけど、今全くの無一文なんだ。俺」

 ポケットの内側を裏返し、一銭も無い事をアピールするアウラ。
 こればかりはどうしようも無い問題だが、そう答える彼の表情はひどく申し訳なさ気だった。
 今は正真正銘の無一文。
 それが理由でわざわざギルドに泊まらせて貰うというのは何処か情けなさを感じてしまうもので。

(コイツを質屋にでも持っていけばなんとか……と思うけど、それは流石にバチが当たるか)

 一瞬、手に持ったヴァジュラに視線が行くが、ブンブンと頭を振ってその選択肢を排除する。
 もし今の自分を某天使アインが見ていると考えると、そのような真似は出来ない。あくまでも最終手段として考えていたが、やはりそんな罰当たりな事に踏み切る勇気は無かった。
 ヴァジュラだけに、もしそんな暴挙をやろうものなら雷に打たれて死ぬかもしれない。

「そういう事なら、その辺のソファーとか好きに使ってくれて構わないよ」

「有難い……マジで助かるわ」

「いいのいいの。それじゃちょっと名義登録済ませてくるから、待っててな。希望の職業はどうする?」

「あぁ、魔術師で頼むよ」

「魔術師ね、了解了解っと」

 ナルは受付のカウンターの奥へと戻り、慣れた手つきで引き出しから紙を一枚取り出し、スラスラと空欄を文字で埋めていく。
 その作業を見ている二人だったが、ふとアウラが零すように

「これで俺も本当に冒険者かぁ……こっから先が大変だな」

 腰に手を当て、憂鬱そうに呟いた。
 名義登録が済めば、晴れてアウラは正真正銘の冒険者、魔術師となる。だがこれで終わりでは無く、寧ろスタートラインに立ったばかりだ。
 自らの命を常に危険に晒して金を稼ぐという仕事であるが故に、死なない為、生きる為に実力を付けてのし上がっていく事が求められる。

「三ヶ月で「熾天セラフ」の一歩手前まで引き上げるって言ってたけど、ホントにそんな短期間で出来るもんなのか……?」

「それだけの期間があれば十分よ。私の腕を信じなさいって」

 カレンは自信を持って言い切った。
 戦闘経験、まして武器を振るった経験すらゼロのアウラを、たったの三ヶ月で他の冒険者達に並ぶレベルにまで持っていくと言ったのは他でも無い彼女だ。
 
「マナを取り込めない以上、色んな魔術を覚えるのは後回し。私とひたすら実戦形式でやり合って貰うから」

「……頼むから、殺さないでくれな」

 ニヤリと口角を上げるカレンに対し、アウラは苦笑いを浮かべている。
 彼女の戦いと圧倒的な膂力を見た以上、一対一の実戦形式でやり合ってもカレンの技量について行けるビジョンは到底見えない。
 理性をかなぐり捨てて、獲物の命を掠め取る事に全てを収束させたが如き戦い振りだ。

「別に殺しはしないわよ。まぁ、死ぬ気で頑張っては貰うけどね?」

「笑顔なのが凄い怖いんだけど!?」

 穏やかな笑みを浮かべる彼女に恐怖を感じ、変に勘ぐってしまうアウラ。
 だが、死ぬ気で取り組まねばならないというのは決して間違いでは無い。何もかもがマイナスという条件からのスタートなのだから、それぐらいの気概で臨まねば無理な話である。
 
「安心しなさいな。傷の数だけ強くなれるって考えれば、死にかけた数だけ強くなれるって事じゃない」

「それ、遠回しに半殺しにするって言ってるのと同じじゃないか?」

「当たり前でしょ? 半殺しでも動けるぐらいのタフさが無くてどうすんのよ。それに、半殺しでも私が治療するから大丈夫よ」

 さりげなくカレンの口からトンデモ理論が飛び出す。
 妥協など一切ない。技量をただ高めるだけでは無く、ある程度の傷でも耐えれる程のタフさも必要とされる。
 アウラの場合は「強化」の魔術を行使したという前提がある。術が機能している間は常人の肉体の強度を凌駕しているだろうが、裏を返せばあくまで一時的なものに過ぎない。

 故に、強化が無くともある程度のダメージに耐えられるようにならねばならない。
 地獄のような日々になる事を確信し、気を引き締める。
 
「なーに半殺しとか物騒な事言ってんのさ。あと、ギルドに名前を登録すると身分証が発行されるんだけど、それは後日でも大丈夫かい?」

 カウンターの奥からナルが戻ってくる。
 その手元には一枚の紙が握られており、持ったまま受付を出て二人の下へと向かった。

「別に俺は大丈夫だけど、どうして?」

「新規の登録となると少し時間がかかっちゃってね、一応アトラス所属の冒険者って事の証明になるから、完成したら声かけるよ。──それと、さっき宿がどうこう言ってたけど、一件だけ見つかったんだよね」

「宿? 探してくれたのは有難いけど、俺今金が……」

「宿じゃなくて、少し外れた所にある空き家だよ。随分前からあるんだけど、これから誰かが入る予定も無いし、もしお兄さんが構わないってんなら、使ってくれて良いよ」

「空き家かぁ……」

 善意100%の勧めで、他に他意は感じられない提案だった。
 同時に、放置されているものとはいえ勝手に使うというのは引け目を感じざるを得ない。後々問題になった時の事を考えると不安にもなってしまうのだ。 

「別に勝手に使って困る事は無いだろうし、大家の人に家賃を迫られても「出世払い」って事で納得してもらいましょう。目指せ「熾天セラフ」」

 アウラの肩をポンと叩き、親指を立てるカレン。
 冒険者にとっての出世とは、大方依頼をこなしていく中で実績を積み上げ名を知らしめる事。そして上位の位階へと上り詰める事になる。
 しかし最高位の「神位アレフ」の位階を持つ者はただ一人。カレン曰くエリュシオンのギルドに在籍しているとされる者のみなので、実質的に目指すべきなのは「熾天」である。

 上位の位階に名を連ねれば、依頼の方が転がり込んでくるケースが増え、更に稼ぎ易くなる事が予想出来る。

「……分かった。許可取らないで使うのはちょっと怖いけど、わざわざ俺の為にギルドを開けて貰うのも悪いし、暫くその家借りる事にするよ」

「じゃあ決まりだね。家まではアタシが案内してくから、ここいらで解散って事で」

 ナルの言葉に、二人が頷く。

 ギルドを出て一度市街地へと戻り、カレンとは解散。アウラはナルの案内で例の空き家へと向かっていた。

「……随分と市街地から離れたところにあるんだな」

 先導するナルの後ろをついていくアウラがそう零した。
 噴水のある中央広場を経由して向かっているのだが、かれこれ三十分は歩き続けている。加えて道も大分入り組んでおり、階段の上り下りも中々に多く、一日を通して歩きっぱなしのアウラの足には少々堪えるものだった。
 
「ずっと人が入らなかったのも、多分立地条件の悪さなんだろうねぇ……っと、見えた見えた。多分この家だ」

 ナルが足を止めると同時に、アウラも停止。彼女が指さした家屋が目に入って来た。
 その家があったのは、昼夜を問わず人で溢れる市街地とは対照的で、路地裏に入って暫く歩いた先にあった。周囲に街灯も無いのでランプが無ければ何も見えず、足元に常に注意を払う必要がある。

 家自体は、何処にでもありがちな木造の二階建ての一軒家だった。
 ゆっくりと引き戸を開け、内部へと足を踏み入れる。
 埃だらけで、入ったらまず掃除から入ろうと考えていたアウラだったが、その心配は杞憂に終わった。

「あれ、意外と綺麗……ってか、普通に綺麗だな」

「だね」

 二人して同じ感想を口にする。
 確かに比較的古い建物ではあったが、蜘蛛の巣が張られ、埃にまみれていると言う訳では無かった。
 屋内には家族で使う大きさ程のテーブル、今は何も入っていない棚、そして壁際には暖炉など、生活する上で必要なものは大方揃っている。玄関から入って右奥には二階へと続く階段が見受けられた。
 テーブルを軽く指でなぞっても別段汚れがある訳でも無く、不自然な程に綺麗な状態が維持されている。
 
「多分、管理人みたいな人が定期的に掃除しに来てるのかもしれないね」

「って事は俺、絶対どっかのタイミングで鉢合わせする事になるよな……お金無い事どうやって説明しよう」

 早速の不安点。
 カレンには「出世払いで納得して貰え」と言われたが、現実的に考えてその線で行ける確率は限りなく低い。ある程度収入が安定するまで鉢合わせしないように祈るしかないのだ。
 若しくは、カレンとの鍛錬に死ぬ気で臨み、一日でも早く他の冒険者に並びたてる程の技量を身に着けて依頼に出て貯金をしておくなどの策が考え得る。

「もし追い出されたらどうしよう……そうなったらいよいよギルドに寝泊まりするしかなくなるよな……?」

「まぁまぁ、そういうのは後にして一先ず今はゆっくり休みなって。明日からカレンに色々と教わるんだろ? あと、これ置いておくから」

 テーブルの上に置いたのは一つの袋と、この家に来るまでに使っていた地図だ。
 この家から街の方までは少し距離があり、流石に一度で道を覚えられる自信は彼には無かったので有難いのだが、ずっしりと何かが入った麻袋に思わず視線が映る。
 
「地図は助かるけど……その麻袋は?」

「何って、だよ。依頼に出るまではどっちにしろ収入無いんだし、貸しって事で」

 袋の紐を緩め、中身を見せると入っていたのは大量の銀貨が入っていた。市街地の出店では硬貨で売り買いしている所を見た記憶がフラッシュバックする。
 
 見た所暫く食料には困らなそうな額のように見えるが、いきなり「貸す」と言われて生活費を渡されて何の疑問も抱かないアウラでは無い。
 動揺を顕わにし、ナルに視線を戻す。

「いや、これだけのお金、いいのか?」

「いいのいいの。これアタシのお金じゃないから」

「えっ」

「ギルドのお金。支援金って名目で拝借してきたんよ。別にこれぐらいじゃ気付きやしないだろうし、新人への一時的な援助って事で処理すれば大丈夫だから、返済はゆっくりでいいよ。それに、これぐらい減った所で困らないしね」

 ナルは平然と言っているが、アウラからすれば後々問題にならないかが兎に角心配だった。
 ともあれ、金が無ければ飢え死にするのは必定。早速借金を背負うという事になるが、依頼に出られる様になれば返済はいくらでも出来る。
 金が無いというのは正に死活問題。
 金が無くて餓死などという情けない最期だけは極力避けていきたいので、

「別に気にしなさんな。これは投資みたいなもんだし、構わず受け取ってよ」

「……何から何まで申し訳ないな」

 少し間を置いて、借りるか否か葛藤するが、ここは受け入れる他無い。
 先々の問題よりも重視すべきなのは今だ。

「それじゃあアタシはそろそろ帰るね。明日から頑張ってな」

「あぁ。ナルも帰り道に気を付けて」

 そう言って玄関まで行き、ナルを見送る。
 既に夜闇が街を覆い、アウラの仮住まいが比較的入り組んだ場所にあるので非常に暗いのでナルの姿はすぐに見えなくなった。
 家の中に戻り、階段を登って二階の寝室へと向かう。
 窓際にベッド、そして小さなテーブルがぽつんと置かれているだけの比較的すっきりとした一室だった。 
 ヴァジュラを壁際に立て掛け、そのまま流れるように脱力して後ろに倒れ込んだ。

「っはぁ~~~……」

 大きな溜め息と共に、ベッドに身を任せる。シーツもあまり目立った汚れは無く、誰かが新しく取り換えたばかりの様だった。

「終わった……」

 波乱の一日目が終わりを迎えたという事。それをようやく実感させられた。
 今こうして五体満足で生きているのもある種奇跡に等しいのではないか。
 森にいた時点でカレンが助けに来なければ、あの森で早々に死んでいたことは確実だ。
 言葉で感謝してもしきれない程の大恩。

 命の恩人であり、最初に接触した「こちら側」の人間であり、魔術の師。
 少々ややこしい関係だが、今後も幾度となく助けられるような予感がした。

(でも、キツいのはここからだ)
 
 身体を預けたまま、シミのある天井を見つめてそんな事を思う。
 自称天使のお陰でコンテニューしたアウラにとって今日という一日はこれから始まる長い人生のプロローグに過ぎず、同時にこの道を選んだ以上、今日以上の困難が立ち塞がってくることは避けられない。

 常に死と隣り合わせという、今までの非常識が常識の日々を送る事になる。
 もう後戻りはできず、元の世界にも、時間を巻き戻す事も叶わない。出来る事は唯一つ──この選択を後悔しないように生きるしかないのだ。

 静かな夜。
 目を閉じたアウラの意識は、今度は何人にも邪魔される事無く眠りの海へと沈んでいった。
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