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作者: 香澄翔
30.異世界に飛ばされて
 激しく目がまわる。くらくらとして立っているのが辛い。三十分戻した時のめまいとは明らかに異なる激しいゆらぎに、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。

 文化祭当日。そこまで時間は戻っていた。
 今は劇の準備をしていた最中のようだ。

「どうした。大丈夫か?」

 声をかけてきたのは斉藤さいとうだった。突然しゃがみ込んだ俺を心配してくれているようだ。

「あ、ああ。ちょっとめまいがしたんだが、もう治った。大丈夫だ」
「珍しい事もある。さすがの野上のがみでも緊張したんかな」

 答える俺に斉藤は少し笑みを浮かべていた。

 実際めまいがおきたのは時間をもどったその瞬間だけで、今は特に何の症状もない。そのあとは平気そうにしている俺に、緊張しすぎてふらっとしたように思えたのかもしれない。

 劇に関しては特に緊張していない。
 だけどこれから何をすべきかを思えば緊張はしている。

 劇は普通に成功させるべきだろうか。それともわざと穂花に声をかけない方がいいのだろうか。
 俺が話したから緊張がほぐれて、劇が成功した一因にはなったと思う。だけど穂花は最初はあがっていたとしても、なんだかんだで最終的にはうまくやってしまうように思う。最初はかなりあがっていたとしても、動いているうちに、だんだんと緊張が解けてくるのが穂花だ。だからそこはあまり関係ないかもしれない。

 ただ劇の成功がオーディションにでてみようと思う一因になった事も間違いないだろう。
 穂花をオーディションに出さない事がひとまずの目標になる。だけどそのためにむやみに穂花を傷つける訳にもいかない。
 ある程度やり直しはきく。でもだからといって、何度も何度も穂花が死ぬシーンを見たくはない。
 何をすればいいのか。どこを目指せばいいのか。出来れば一度で決めてしまいたかった。

 少なくとも一緒に文化祭を回っていた時の励ましは避けた方がいいのだろう。俺と穂花の距離が縮まったように思えた瞬間だった。だけどその時間を無くしてしまわなければ、穂花はオーディションに出るの決めてしまうだろう。

 胸の中が痛む。
 近づいたと思ったら遠ざかっていくのは俺と穂花の関係性なのだろうか。穂花が実際にどう思っているのかはわからない。
 繰り返しの中で穂花は俺の告白を受けてくれていた。だけどこの時に縮めた距離がなくて、そんな関係を築かなかった場合にも同じに答えが返ってくるのかはわからない。
 結果はいくつもの原因が積み重なって起きるのだ。だから俺は何をして何をしないべきなのか、考えなくてはならない。

「野上。なんだかたそがれているみたいだけど、いつものような余計な事はしないでくれよ」

 隣での斉藤が眉を寄せながらぼそりとつぶやく。

「ああ。大丈夫だ」

 俺は淡々と答えを返す。いつもの俺であれば余計な事を言うところだったのだろうが、さすがに今はそんな余裕はもてなかった。

「どうした。いつもの野上らしくないな。ほんとに緊張しているのか?」

 斉藤が心配そうに俺の顔をのぞきこんでくる。

「緊張はしていないさ。俺の辞書には緊張なんて文字はないからな」
「なるほどね。じゃあさしずめ愛しの笹月ささづきのためにがんばろうと思っているってとこか」
「ちょ……!? なんで」

 急な話に思わず声を荒げる。俺が穂花ほのかを好きな事は誰にもいっていないはずなのに、どうして斉藤はこんな事を言うのか。とりあえず否定してみる。

「いや、別に穂花のためにがんばろうとか思ってねぇよ」
「いいっていいって。隠さなくても。君らつきあってんだろ。みんな知ってるよ」

 斉藤は手をひらひらと振るうと、それから舞台裏の角の方で客席を覗いていた穂花へと視線を移す。

「笹月も緊張しているようだからさ。励ましてやれよ」

 俺の肩を叩いてから、準備に戻っていく。

 知らなかった。俺と穂花はつきあっているように思われていたのか。
 確かに家も近くだからしょっちゅう登下校で一緒になったり、幼なじみだけに何かと一緒にいたりはしてから、誤解されるのは仕方ないかもしれない。
 むしろ穂花があれだけ可愛いにも関わらず、誰か他の男が寄ってくるところをみなかったのも、俺と付き合っていると思われていたからなのだろうか。

 実のところそれは誤解なのだが、俺にとっては都合が良い誤解ではある。道理でこれだけ可愛いというのに、穂花に寄ってくる男があまりいないはずだ。
 席替えの時も狙って穂花の隣になるように仕向けたが、そのときもすんなりと席が決まったのは、俺と穂花が付き合っていると思われていたからクラスメイト達が、忖度してくれたのかもしれない。

 事実はただの幼なじみで全く違うのだけど、穂花に近づいてくる悪い虫が減るということでもあるから、その誤解は本当に助かる。
 もっとも一番悪い虫は実は俺自身なのかもしれないけれど。

 そこまで思って首を振るう。今はそんなことを気にしている場合ではない。穂花を救えなければ、皆からどう思われていたとしても意味がないんだ。
 ただ穂花を励ますかどうか迷っていたけれど、斉藤にああ言われて何もしないのも不自然だろう。穂花のそばへと歩み寄っていく。
 穂花はステージの裾野すら集まった観客達を見つめている。

「穂花。行こうぜ」

 前の時間と同じように声をかける。
 前の時と同じようにいつもと違う青いワンピースと三つ編みは彼女の雰囲気を変えて、どこか違う世界に紛れ込んでいるかのように感じた。
 だけど俺は本当に違う世界に迷い込んでしまっているのかもしれない。

 時間を戻すとはそういう事なんだと今更ながら胸にしみる。俺はこの先の事を知っている。だけど皆はそれを知らない。俺だけが違う。俺だけが見えているものが異なる。それはオズの魔法使いのドロシーのように、突然訳がわからないうちに異世界に飛ばされたのと同じ事なのかもしれない。

 ドロシー役は穂花の方なのにな。声には出さずに口の中でつぶやく。
 穂花はさっき話しかけた俺の声が聞こえていなかったのだろう。客席の方を見て幕をぎゅっと握りしめていた。
 その手は少し震えていた。緊張しているのだろう。あの時と何も変わらない。

 とりあえず穂花の隣に立つと、その肩を叩く。
 穂花が振り返ると俺が伸ばした指先が穂花の頬に突き刺さっていた。

「おー、引っかかった。今時小学生でもひっかからないぞ、これ」

 前回と同じように時間を繰り返す。
 ただ前回の時のように穂花の頬が柔らかいと感慨深く思う事はなかった。どこかで冷めて演じている自分がいる。今は穂花を励ます時間なんだと心の中で思う自分がいる。

 これがフェルの告げていた前とは完全に同じにする事なんて出来ないという意味なんだろう。未来を知っている以上は、あの時と同じ感情を抱くなんて出来る訳も無かった。
 穂花は前と同じようにそこには全く反応を見せなかった。ただ涙目になりつつ俺の方を不安げに見つめていた。

「たかくん……どうしよう、私、こんなに沢山のお客の前でちゃんとやれるかな。失敗しちゃうかも」

 穂花のあがり症は変わっていない。もちろん変わるはずもなかった。
 同じ時間を繰り返しているのだから当然のことだ。

「そん時は、俺がフォローしてやるよ。だから安心して思いきりやってこいよ」
「う、うん。ありがと、たかくん」

 お礼をいいながらもまだ不安そうな穂花に、さらに言葉を重ねていく。

「それに失敗したって別に誰か死ぬわけじゃないからな。さすがの俺も間違ったボタンを押したら人類が滅亡するとかなら緊張しそうだけど、そういう訳じゃないし。穂花もそう思って気楽にいこうぜ」
「たかくんなら、人類滅亡ボタンでもまったく緊張せずに押しそうだよ」

 俺の冗談に少しは気が紛れたのか、ほんの少し笑みを浮かべる。
 俺はうまく前と同じように演じられていただろうか。同じ笑顔を見せられただろうか。
 今の時間は変えなくても良いと思っている。フェルの言葉によれば以前の時間と少しでも同じに近づけば、多少は失われるものによるダメージも少なくて済むはずだ。

「それに失敗したっていいんだぜ。挑戦することに意味があるのさ。やってみなきゃ出来るかどうかなんてわからないだろ。それで失敗したって仕方ない。だから失敗したことを笑ったりなじったりする奴がいるなら、俺がこうしてやるっ」

 親指を下に向けて落とす。
 だけどそれも前と同じように出来たかはわからない。少し違ったような気もする。

 どうする事が正しいのか、俺にはわからない。
 穂花を救うために何をすればいいのか。何をしてはいけないのか。ただ迷いしか覚えなかった。それでも時間は刻々と進んでいく。
 巻き戻した時間はどう動かされていくのか。俺にはわからない。だけど今は前を向いて進むしかなかった。

「地獄に落としちゃだめだよ? ……でも、ありがと。たかくん。少し気が楽になった気がする」

 微かに笑みをうかべて、それから目を開いて上目遣いで俺を見つめている。
 あの時と同じように大きく咲いた花のようで、誰もが目を惹かずにはいれられないだろうなと思う。花笑みというのは、まさに穂花の笑顔の事を言うのだろう。暖かな雰囲気と優しい空気を残して俺を魅了せずにはいられない。

 穂花のためなら何でもしてあげたい。
 あの時、感じた俺の想いは今も変わらない。いやたぶん。もっと強く変わっていた。
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