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作者: 香澄翔
28.大切なものを
『簡単なことよ。もしもほのかが事故に遭う原因が、オーディションを受ける事を決めた瞬間なのだとしたら、そこまで時間を戻せばいいの』

 フェルは淡々とした声で告げる。
 ただその言葉に思わず俺は声を荒げていた。

「!? 時間は三十分までしか戻せないんじゃ」

 フェルはいつも三十分しか戻しちゃいけないと言い続けていた。だから無意識のうちに三十分以上戻すという選択肢は外してしまっていた。だけどフェルはいつもとは違う静かな感じで話を続けていた。

『違うわ。戻せないんじゃなくて戻さないの。ねぇ、たかし。たかしはいつも物を無くしていたよね。ちょっとお気に入りの消しゴムとかそういうの』
「あ、ああ。でもそれが何の関係が」
『今まで言わなかったけど、あれはね。時間を戻した副作用なの。時間を戻すとその戻した時間の量に応じて、たかしの大切なものを失う。それが決まりなの』

 フェルは変わらず平坦な声で言葉を漏らす。
 だけどそんなフェルの態度とは逆に俺は今まで聞かされていなかったルールに、思わず再び大きな声で訊ね返していた。

「大切なもの!? でも消しゴムなんてそこまで大切なものじゃ……」

 大切なものを無くす。そう聞かされるとすごく問題があるような気がするけれど、消しゴムがなくなったからといって大した事はない。確かにちょっと気にいってはいたけれど、大事な物かといわれればそうではない。
 フェルはそんな俺の困惑に気づいてか、それとも初めから続けるつもりだったのか、再び平坦な声で言葉を紡ぐ。

『そうよね。ちょっと気に入っているけど、別に無くなっても大したことがないもの。それがね。三十分時間を戻す事による代償なの。でもそれ以上に時間を戻すのなら、もっと本当に大切なものを無くしてしまうようになる。ほのかがオーディションを受ける事を決めたのが三日前。もし三日もどすのだとしたら、大切なものの度合いは格段に上がっていくの』

 いつものちょっとうるさいくらいの態度とはどこか違う真剣な声に、俺は思わず息を飲み込んでいた。

『だから私は三十分間しかたかしに時間を戻さないっていったの。たかしに大切なものを失って欲しくないから。でもね。ほのかをどうしても救いたいなら、三日間時間を戻すことでもしかしたら救えるかもしれない。ただしそれだけ大幅に時間を戻すとなると、たかしは本当に大切なものを失うの。たかしはほのかを救えるかもしれない未来のために、本当に大事なものを失うことになるの』

 フェルの言葉はずっと平坦で、ただ説明口調で話し続けていた。
 それがより恐ろしさを増していた。
 時間を戻せば必ず何かを失う。失うものが何かはわからない。ただ俺にとって本当に大切な物が失われる。

 大切なものを無くす。どんなものを無くしてしまうのかわからない。
 大切なものとは何だろうか。誕生日に買ってもらったマウンテンバイク。想い出の詰まった中学卒業の時の寄せ書きノート。おじいちゃんが亡くなった時に形見でもらった懐中時計。

 どれも大切なもので失いたくないとは思う。
 だけど今のままでは俺はもっと大切なものを失ってしまう。

 穂花というかけがえのない大事な幼なじみを無くしてしまう。
 穂花がいなくなってしまうのならば、他に何が失われたとしても同じじゃあないか。

 どんなに大切なものだったとしても、穂花には変えられない。穂花を大事に思う気持ち以上のものなんてない。例え何を失ったのだとしても、俺は穂花を救いたい。

 だから穂花以上に大切なものなんてあるはずがなかった。

「それでもいい。俺は穂花を救いたいんだ。時間を戻して、俺は穂花を救う。だからフェル。穂花を救うために三日戻す必要があるのなら、戻してほしい。何が失われたとしても、俺は穂花を救いたいんだ」

 俺はすぐに心に決めていた。どんなものが無くなったとしても、穂花を失う事に比べればマシだ。
 穂花がいなくなった人生なんて、何も意味がない。
 穂花を救う。この時の俺はそれ以上の事は何も考えていなかった。
 その答えに今度はフェルが慌てた声を漏らす。

『ねぇ。いいの!? 本当にいいの!? たかしはくだらないことには時間を戻していたけれど、本当に大事なことには今まで力を使わなかった。たかしは本当は時間を戻す事をフェアじゃないと思っていたんでしょ。なのにいいの!? たかしの信条を破ってでも、時間を戻していいの!?』

 フェルがいつもよりずっと大きく声を荒げていた。
 いつも少しうるさいくらいのフェルではあったが、こんな風に悲痛な声を上げた事はなかった。

 俺はスポーツの試合やテストの対応。時間を戻せばもっと自分が有利になる事が沢山あることは知っていた。知っていたけれど、そんなことには力を使わなかった。
 ちょっとした事には力を使っても、自分の力で成し遂げるべき事には力を使わずにきた。そこまでのずるはしたくないと思っていた。

 小さな頃に助けたフェルの恩返しによって、俺は力を得た。
 大きな力だ。使い方次第では沢山の事ができるだろう。だからこそ、俺は大事な事柄には力を使わない。そう決めてきた。未来の自分のために。

 もうすでに穂花を救うために何度も時間を巻き戻してきた。その時はこんな事は考えなかったけれど、この力の使い方はずるではないんだろうか。穂花を救うため。でも本当はそれ自体が、誰かを救うために時間を戻すなんてこと自体が、自然の摂理に反する事じゃないんだろうか。

 人生は選択の連続だ。
 何度も何度も選び続けなければいけない。だけど否応無しに選ばざるを得ない事もある。いまこうして穂花を失った事も、本当ならどんなに受け入れがたかったとしても、受け入れなければならないことなのだろう。

 穂花を救うなんていうのは俺のエゴに過ぎなくて、いま何度繰り返したとしても穂花が事故に遭うのは、世界がそれを選んでいるのかもしれない。俺だけがそれに抗おうとしているのかもしれない。
 だけど。それで良かった。俺の信条なんてくそくらえだ。穂花以上に大切な信条なんて、あるはずがないだろ。俺は強く思うと共に、もういちど決意を固めていた。

「俺にとって、穂花が全てなんだ。穂花以上に大切なものなんてないんだ。だから穂花を救うためなら、俺はどんなことでもやってやる。俺は穂花を救う……救うんだ」

 穂花を大切に思っていた。
 誰よりも何よりも。

 近すぎたからか、それゆえに触れる事ができなかった。
 好きな気持ちを素直に出す事も出来なかった。

 でも今は深く思う。穂花を救うためなら、何を犠牲にしてもいい。
 穂花が失われる瀬戸際ともなれば、俺の信条なんて軽くて何も意味を持たなかった。

『ほのかを救うには、きっとオーディションへの参加をさせない必要があるの。ねぇ、たかし。わかってる? それはさ、ほのかと距離を縮めたあの時間を無かった事にするってことなんだよ。せっかく縮めたほのかとの関係を無かった事にしなきゃいけないんだよ。たかしにとって大切だった想い出を全部なくしてしまわなければならいんだよ。ねぇ、本当にそれでいいの』

 フェルはまだ俺へとすがるような声で訊ねてきていた。

 確かに時間を戻したら、あの時の二人の気持ちは無かった事になってしまうのだろう。きっとそうしなければ、穂花はオーディションにでる。それでは時間を戻す意味がなかった。

 あの時間はきっと俺にとって、そしてきっと穂花にとっても大切な時間だったと思う。だけどそれはもう叶わない。叶えられない時間なんだ。
 だってそれは穂花と一緒にいるからこそ、意味のある時間なんだから。

「そんなことは穂花自身がいなくなってしまうなら意味がないじゃないか。それに距離なら、またいつかどこかで詰めれば良いんだ。俺は穂花を救えるなら、何を失ってもいい。そして何度だってやり直してみせる」

 俺の言葉にフェルが息を飲み込む。
 俺の覚悟が伝わったのだろう。
 目をつむり、それから俺の頭の上を大きく飛び回る。

『わかった。じゃあたかし。時間を戻すよ。だけど覚悟していてね。必ずたかしは大切なものを失ってしまうから』

 フェルの言葉にわずかに身を震わせる。
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