2.201号室、見合いの小旅行 2
おもむく前にと、下準備をする。
そう言った水茂は、いつもの童女の姿へと変化した。それから壁際にある収納棚から長方形の紙と筆をとると、座卓の上に広げた。
「ちょい、ちょいとな」
歌うように言いながら、何も浸けていない筆を半紙の上で動かせば、朱色の模様が浮き出てくる。さらに筆を滑らせると、二枚の模様が描かれた、古典や歴史の授業で見たような紙の面が出来上がった。
「急ごしらえじゃが、雑面を用意した。見合いの席に楽はつきものじゃからのう。まぎれるには最適の面じゃぞ」
出来上がった紙をそれぞれ手で持った水茂は、皓子とアリヤの方へと向ける。
すると、水茂の手を離れて、紙はひらりと皓子たちの額に張り付いた。どうやってくっついているか不明だが、顔を隠す紙の面となっているようだった。
さらには不思議なことに、目の前が遮られているはずなのにあたりがよく見えた。
「わしら化生はの、綺麗なモノを好いておる。泉源様はとくに光るモノがお好きじゃ。お前らの目玉は宝玉にも勝るのでな」
「目玉」
皓子が聞き返せば、うむ、と水茂は腕を組んだ。なにを思い浮かべているのか悩ましい表情をする。
「瞳まで黒々とした皓子の目玉も、花がごとき色混じりのアリヤの目玉も物珍しいゆえ、頬張ってあめ玉のようにコロコロ舐めるじゃろうな。可哀想な野の神の仔ウサギめがやられておったわ。あれは見事な緋色の目玉じゃった……」
「物騒だあ」
「わしはそんなことせぬからの! これ、この、飴のほうが好みじゃぞ!」
ぴょこぴょこと跳ねてから、座卓に置いていたドロップ缶を持って皓子に見せてくる。対面ではアリヤが自分の額に張り付いた紙の面をめくって、苦い顔をしているのが見えた。
「大丈夫? アリヤくん」
「うーん、ちょっと早まったかなって思ってる」
軽い調子で返されたが、念のためともう一度聞いてみる。
「ついてくるの、やめる?」
「冗談。行くよ。女の子だけにさせるのは余計に心配だから」
「そう? 私だけでも、大丈夫だと思うけど。ほら、私の力はそういう神様相手でも効くらしいし」
吉祥や水茂、佐藤原との検証の結果で、精神がある生き物であるならばどんなものであろうと、およそ敵意や害意を皓子へ抱かないとわかっているのだ。
これまでの生活でも、水茂関連のものたちがやってきたときも平気であったことを思いだして、皓子は口に出す。
アリヤが面を上げたまま顔をしかめた。
本気でそう思っているのか? とでも言いたげだ。皓子がその表情を理解しかねている間に、アリヤは水茂のほうへと顔を向けた。水茂も水茂で難しい顔でうなずいている。
「こういうところが、こっこは心配なのでな。守りをしかと頼むぞ、アリヤ」
「うわ、思った以上に面倒そう……やるけども」
アリヤがしぶしぶ了承をすると、水茂は立ち上がり神棚の正面へと進んだ。
一呼吸置いてから、皓子たちのほうを振り向いて手招いた。呼ばれるがまま立ち上がり皓子たちが近づけば水茂が真剣な面持ちをした。
「行く前に注意じゃ」
そう言って、指を一つずつ曲げて告げた。
「一つ、決して自ら名乗ってはならぬ。一つ、出された食事はわしが渡すもののみしか手を付けてはならぬ。一つ、面を取られてはならぬ。とくに名と飲み食いは気をつけるのじゃぞ」
「じゃあ、お互い名前を呼ばないほうがいい?」
はい、と片手を上げてアリヤがたずねる。
「お前らが普段呼び合っている名くらいなら大丈夫じゃ。ただし! 他の者たちにお前たちの名を聞かれて肯定はするでないぞ。好きに呼べ、と言うのじゃ。力の強い者ならば、縛ってしまうゆえな。吉祥にもこっぴどく叱られるでな」
「それは怖いな」
うんうん、とアリヤがうなずく。皓子も横で、絶対フルネームで名乗るまいと決心を新たにした。
アリヤが吉祥に叱られたことはないはずだが、これまでの間に他の住民を叱る様子を見たのだろう。
(確か、ばばちゃんが怒ったときは……まだ二回か。少ないけど、さすがばばちゃん効果)
アリヤが入居してきてから吉祥が般若となったのは、佐藤原と飛鳥が異世界産のもので実験した結果部屋を焦がしたことと、田ノ嶋とノルハーンが魔法の力らしき何かで裏庭の一部分を魔改造してしまったことだろう。
吉祥は自分が建てた万屋荘には、一際思い入れを持っているのだ。それを損なったときの怒りは凄まじいものがある。
水茂も想像して体を震わせたようだが、気を取り直したように「では、いざ!」と両手を合わせて柏手を打った。
パン、という破裂音が木霊して、部屋中に広がる。
皮膚を撫でるような音の波に、空気が揺らいでいるのだとわかる。それと同時に目の前の景色も揺らいでいることに気づいた。
ぐにゃりと曲がった部屋で、水茂の前方にある神棚が開いている。その向こうに、霞がかった景色が見える。濃淡さまざまな桃色の花を咲かせる木々の山に、広がる水源には石でできた島を足場にアーチ型の木の橋が架かっていた。
まるで桃源郷のような光景だった。
空間の揺らぎとともに桃の木々がざわめく。花びらの波が通り抜けて、勢いに目をつぶった一瞬の間に、立派な大屋敷の門前に立っていた。
いつのまにやら、皓子たちの格好も水茂と揃えたかのように古風な着物へと変化している。
皓子は水茂と揃いの小袖と袴、アリヤはまるで平安貴族のような狩衣と小袴を着ていた。足元は柔らかな皮の黒い靴だ。水茂の力なのだろう。
興味深そうに服装を見ているアリヤを横に、皓子は辺りを観察した。
どこともしれない山の中だった。
花の盛りの季節は過ぎてこの頃は雨模様ばかりだというのに、ここは春の野山のようだ。薄紫の雲がたなびく空を見て、少なくとも皓子の知る世界ではないな、と悟った。
正面に目線を戻せば、古い寺社で見るようないかめしい大きな門がぴたりと閉じている。
水茂が一歩進み出て門に手を伸ばすと、触れるか触れないうちに内側へ静かに開いた。
(すごく豪華な旅館みたい)
思わず皓子はそんな感想を浮かべた。
風光明媚な場所にある、豪勢な旅館。
そう感じたことを補強するかのように、玄関へと続く石畳の道に従業員らしき者たちが控えていた。様子をうかがうに、掃き掃除をしているようだった。
ただ変わったところといえば、人ではない頭部や体を持つ者も混じっていることだろうか。
水茂を前にして進めば、手を止めて丁寧な仕草で礼をされる。口々に「ようこそ」と言うのも聞こえた。
「泉源様に招かれた」
水茂が口にすれば、さらに丁寧に頭を下げて「案内をいたします」と亀の頭をした女性従業員が前に出て歩き始めた。
あきらかに人の顔ではなかったが、ここはそういう人外の場所だからおかしくはないのだろう。
皓子は一呼吸おいてから水茂の背を追った。後ろからはアリヤもゆったりとした足取りでついてきている。
正面の玄関から、中庭を抜けて離れ座敷の方へと進んでいく。
池も玉砂利も、整えられた庭園も見事の一言だ。絵巻物で表したみたいに、美しい光景だった。
立ち止まり、座敷の中へと入るように促された。水茂は鷹揚にうなずくと皓子たちのほうへ目配せをしてから座敷の中へと足を踏み入れた。
そうして、座敷のなかにいた姿を見て、皓子は目を瞬かせた。
――大蛇の下半身に、美しい着物を身に纏った女性の上半身。首から上の両側面には同じ顔が生えている。
大きな体は皓子よりもはるかに大きく長い。
水茂の姿を見つけると、その女怪はそれぞれの目をぎょろりと向けた。優美な顔でも三つも並べば戸惑いが勝る。
水茂は明らかに緊張した様子で挨拶をした。
「泉源様、お久しゅうございます。水茂が参りましたのじゃ」
「よく参った」
泉源の中央の顔が主に受け答えをするのだろう。こっそりと覗き見ていれば、右の顔は優しく水茂を見ており、左の顔は厳しい眼差しを向けている。
(厳しくも優しいとは……そういう……)
なるほど。物理的に三つにわかれていて、それぞれがそういう役割をしているのだろう。
そう把握して、失礼にならないように皓子は数歩後ろで息を潜めた。アリヤも察したのか、静かに皓子の横に立っている。
「水茂、お前の後ろにいる者は?」
「はい。わしの友である者とお付きの者でありますれば」
「友に付き添い……ふうむ?」
ぐうっと蛇体が上がり、水茂を乗り越えて皓子たちの近くに顔が寄る。
「匂いは……人だが、そうでない匂いもする。異国の香りか? ふむ、お前は変わり者が好きであったか。なるほど」
泉源は納得した様子で言うと、また元の位置に戻る。ほ、と皓子は内心で胸を撫でおろした。
「よかろう。お前たちの待つ部屋はここだ。水茂よ、お前は私の可愛い弟子であるから、私が直々に場所を取っておいた。相手はじきに到着するので、場が整い次第、遣いをよこす。身を休めるように」
「わかりもうした。心遣い、まことに感謝もうしあげまする」
「うむ」
蛇体を滑らせて泉源が出て行くのを見送って、水茂は急に周囲をキョロキョロと落ち着きなく見回った。
素早い動きで離れ座敷の戸を閉めてあちこちを走り回る。
「水茂?」
皓子がたずねれば、天井へと張り付いたあと欄間に顔を近づけたままの姿勢で返事がくる。
「念のためじゃ。泉源様は融通が利かぬところがあるからに。うむ、よいな。見張りや覗きはない! 一安心じゃな」
ぴょんっと降りてくると、水茂は見るからに高そうな座椅子に肘をついて寝そべった。
「お前らもくつろぐがよいぞ。こっこは、こっちに来てたも。膝枕を所望するのじゃ」
言われるまま近づいて、正座をすればころりと水茂が頭を乗せた。
よく見れば、水茂の顔は、お馴染みの童女の可愛らしい顔に紅を入れた薄化粧をしていると気づいた。
「水茂、おしゃれをしたんだねえ」
「うむ! こっこもしておるぞ。あとな、あとな、わしと衣服もお揃いなのじゃぞ。お揃いはトモダチならではじゃからのう」
機嫌良く水茂が笑い、手足をぱたぱたと遊ばせる。浅黄色の流水模様に大柄の花が浮かんだ着物は見るに美しい。指摘されて自分の衣服も改めて見れば、なるほど、色違いとなっている。皓子の着物は暖色の春らしい色だった。
可愛らしいお揃い精神が微笑ましくて、「そっかあ」と相槌をうち、手を握って遊ぶ。
「それに、変化も上手になったねえ」
「そうじゃろそうじゃろ~。こっこはよく見ておる。どこかの乙女の齢をどうこう言う輩とは大違いじゃ」
根に持っているらしい。ちら、とアリヤの様子を見てみる。
アリヤは皓子が座ったのを確認してから自身も適当な座椅子に座っている。水茂の言葉には軽く肩をすくめて聞き流しているようだ。
落ち着いた深緑の狩衣と単衣の着物でくつろぐ姿は絵になっている。顔が紙の面で隠されていても造作の良さはにじみ出るものなのだなと、いっそのこと感心を覚えてしまった。
「そういえば、この服はどうしたの?」
「うむ、よくぞ聞いたのじゃ。ここは現世より幽世に近い場所にあるのでな、わしの本領が発揮しやすい。ちょちょいのちょーいとわしの力でぷれぜんとをしたのじゃぞ」
「高そうな着物なのに、ありがとうねえ」
「いいのじゃ~。アリヤも心優しい水茂様に感謝するのじゃぞ」
寝そべったまま偉ぶる水茂に、アリヤが「はいはい」と面倒そうに返す。
「ありがとう、水茂様」
「もそっと心をこめぬか」
「ええ? うーん……」
アリヤは、存外に面倒くさがり屋だ。
マメで気遣い上手な姿をよく見るが、それもこれも自分が後々に楽をするための処世術らしい。それに気づいたのは、やはり、アリヤがあけすけに物言いをするようになってからだった。
素を見せてもらえるくらい万屋荘に馴染んでくれたのは、喜ばしいことなのだろう。きっと。
「贈り物、嬉しいな。大事に着るね。それに、二人ともよく似合ってる。可愛いよ」
「……口説けとは言うとらんのじゃ」
「純粋に褒めたのに。ひどいな」
それから、口が上手くて、言葉選びが柔らかい。そのせいで女性に熱を上げられてしまうのだろうな、と思わせた。水茂と軽い言葉の応酬をする様子は仲がよさそうに見える。
水茂が気安く接するということは、性根が安心できる者という証明でもある。
神を志す水茂たち化生は、気の良い者を好み、悪い者を遠ざけるのだと、水茂本人から皓子も聞き及んでいる。
(さすが、元天使の息子)
じ、と見てれば、アリヤは皓子のほうに顔を向けて首をかしげてみせた。
「皓子ちゃん、なに?」
「アリヤくんについて考えてた」
「急になに」
顔は見えないが、きょとんとしているのだろうとわかった。言い分が急すぎたのだろう。皓子は反省をして、一つ一つ説明するように上げて口にした。
「文句なしのとんでもイケメンだし、真面目で優しくて、褒め上手……だからモテるんだなあって」
「う、うん……?」
「面倒だって思っても、手伝ってくれてありがとうね。おかげで水茂も楽しそうだもの」
「あ、いや……うん……どうも」
ぴたりと止まったアリヤが、歯切れ悪く応える。
「なんじゃい。お前照れておるな? んふふ、お子様よの」
「そんな真っ正面から言われたら、そりゃ照れるって。嫌みもなにもないし、なんか、思うようにしにくいんだよ。皓子ちゃんは」
戸惑う姿が面白いらしく、水茂が皓子の膝から離れてアリヤの周りをくるくると回る。ぞんざいな仕草で手を払うアリヤの耳は赤い。
あまりに水茂のからかいが過ぎたのか、アリヤは座椅子から立ち上がり「散歩。遠くには行かないから」と部屋から歩いていった。
「大丈夫かな」
「この辺りは平気じゃて。なんぞあったら戻ってくるじゃろ」
実に楽しそうにはしゃぐ水茂を見て笑い返す。
さらに軽く話して遊びながら過ごすことしばらくして。
アリヤをともなって遣いは現われた。