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作者: 一片 綴
残酷な描写あり
『あの人』
 心寂しい墓地で、わたし達は袋小路に迷い込んでいた。
 眼前の目新しい墓石で眠る彼のように、誰も口を利かず目を伏せるばかり。身勝手な感情を懐裡にぎゅうと押さえつけるままに、そこで呆然と立ち尽くすことしか能わない。
 五本と伸びた陰の巡る様が少年少女の盲いた目を釘付けにして止まず、只々光明たる白日の許に曝している。その光に人殺しだと咎められているように感ぜられたけれど、しかし今思えば、あの瞬間こそが終わりで始まりのときだったのかも知れない。
 父は今日も酒に溺れていた。物を投げたり、壊したりする。そばにいたら殴られてしまいそうだったから、わたしは部屋の隅で膝を抱えて様子を窺っていた。
 少しすると、酒が切れたと喚く。父はちょっと前まで、この町——花の町モルの狩人だった。厳密には狩人の生命いのちを守る狩人守という役職で、狩人としての位が高く本部から認められた、優秀な狩人だけに任せられる仕事だった。

 狩人とは、生命を張って魔物の脅威から人々を守る立派なお仕事だ、と聞き及んでいる。少し前までは生命を賭して仕事する父を尊敬していたけれど、結果から言って、父は狩人の権利どころかその実績をも剥奪された。父が生命を張って庇った仲間を助けられず、その上で左脚が動かなくなるような大怪我を負ったからだった。元々、父の仕事はまだ成長途中の狩人の生命を守ることで、それを成し遂げられなかったから、狩人としての証——狩人証を剥奪するというのだ。わたしも横暴だと思ったけれど、狩人には幾つかの掟があって、それに反してしまえば相応の扱いを受けるらしい。

 しかし今となっては、そんなことはもうどうでもよかった。父はあれからゆっくりと、確実に壊れていった。
 今では、ときに母に、わたしに酒瓶を投げつけたり、それどころか平気でわたしの髪をつかみ上げ、怒号を浴びせたりするようになった。その日はわたしの十歳の誕生日だった。まるで祝う気配の色すら見えなくて、それも仕方ないと諦めてはいたけれど、まさかあんなことをされるだなんてゆめゆめ思わなかった。そのせいか、わたしは大きな声を出すことはおろか、普段から声を小さくして喋るようになっていった。

 父は、以前もそれほど優しい人だとは思っていなかったけれど、決して殴ったりはしない人だった。だから、わたしも父のそばにいたって怖くなかったし、狩人だったからむしろ安心していられた——でも、今は違う。父のそばにいれば、いつ殴られるかわかったものではない。
 狩人証を剥奪された後、それからずっと職を探している様子だったけれど、実績を失った父にはめったな職がなく、家で酒を呷るばかりだった。わたしも——貧富の格差が著しいトリスト王国では特に——裕福な家庭ではなくって、学校で学ぶことはできなかった。それでも母の買い物に付き合って、見聞きした数字の変わり方から独学で計算を学ぼうとするなど、自分にできることをしようという努力はしていた——けれど、それでも、間に合わなかった。

「おかあさん? おかあさん……?」

 夜の帳もとうに下りた暗い廊下に、弱々しげな声が木霊する。夕食の出る時間になっても母の姿が見えなくて、お腹を空かせて母を探していた。
 魔点蝋の灯火一つない廊下を進みながら、掌に魔力を念じて小さな火を起こし、明かりを頼りにぎぃぎぃと床を鳴らして廊下を進む。絵本で読んだ不思議の国とは大違いな様相だ、なんて考えながら母の部屋の前に辿り着いたとき——扉に掛け金が無くとも、それは固く閉ざされているようだと感じた。隙間からは一縷の光すら漏れていない。その代わりに、おどろおどろしい恐怖だけが、部屋からわたしの心臓を抱き上げるべく這い出してきていた。

 固唾を呑み、扉を開ける。わたしの悪い予感は、いつも当たるもの——扉の先は、とても頑是ないわたしが見てもいいような光景ではなかった。
 そこに吊られた母は、いや母だった姿は、眼球と舌が思いきり飛び出して、あらゆる穴という穴から体液を滲み出していた。わたしに優しく笑いかけてくれていたそれが、あの儚げな笑顔が、宙ぶらりんになった母の姿が、わたしの諦観した瞳に映り込んだ。
 声にならず、尻餅を撞く。それと共に、動揺からか掌に灯していた火が独りでに消えてしまう。真っ暗になって、母が、いや母ではなくなった肉の塊が見えなくなって、胸懐が怯懦に飲まれた。火を灯そうとしたけれど、どうしてか魔法が発現しなかった。大口を開けた恐怖に飲み込まれた。

 父を蛇蝎視していたわたしの背中には、実に蛇が住んでいたらしい。背筋ごと総毛立つ感覚がわたしを走らせた。細くて軽いはずのわたしがどんどんと大きな音を鳴らす。走れば髪が揺れて、わたしの頬をはたいた。これっぽっちも痛くないはずなのに、痛かった。
 わたしは、逃げた。父の許へと逃げ出した。怖ろしくて大嫌いな父に、助けを求めた。そうせざるを得なかった——あの日を皮切りにして、わたしは本当の笑顔を失った。

 翌朝、父が家を出ていった。母の死体を置き去りにして、逃げたのだった。家の外まで追いかけても、父のことが怖くて、信じられなくて、それ以上は追いかけられなくて——ただ俯くことしかできなかったわたしに、しかし彼が声をかけてくれた。

「——今の男と、何かあったのか」
 彼は、わたしを暗がりから救ってくれる光のような存在だった。歳の近い彼ならば、きっとわたしのことを理解してくれるのではないかと、そう思った。
「えっと。その……」
 うまく言葉にできないわたしに気が付いて、
「まあ、とりあえずついてこいよ。俺たちの家にさ!」
 と、わたしをこの孤児院まで連れていった。
「さてと、話を聞く前に——まだ、名前を聞いてなかったよな? 俺はアークっていうんだ。お前は?」
 そうして無邪気そうに笑った彼を信じてみたくなって、けれど目だけは合わせられずに、
「モコ……スプライト、です」
 と、小さくも精一杯の一歩を踏み出して、心の扉を開いたのだった。
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