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作者: 櫻木創人
魔女とタルトタタン ①
頼まれたものは何でも作るというのが売りの|休憩所《ウチ》だけれど、大体のものはメニューに書いてある。けれど毎日毎日作るようなものは決まっていて、その他は大体は頼まれた後にレシピを思い出しながら作るか、常連さんからの予約を受けて作るかのどちらかだ。

タルトタタンは、常連さんから予約されるメニューの一つ。メニューにある多くのケーキは近くのケーキ屋さんから仕入れているのだけれど、タルトタタンだけは僕たちが手作りしている。仕入れているケーキ屋はタルトタタンを扱っていないから、僕たちが作るしかないのだ。今回は、そんなタルトタタンのお話。
平日の昼下がり、店内には何組かのお客さんがいる。平日の昼は、基本的にたまたまやって来た観光客や一見さんが多い。

いつもならぽつぽつとお客さんがやって来るけれど、今日は珍しく一気にお客さんがやってきた。マスターは珍しく出かけていて店にいなくて、一人でお店を回すしかない。いわゆるワンオペだ。普段は一人でも充分すぎるくらいの仕事量しかないのに、こんなに忙しいのは年に一度あるかないかというレベル。接客に調理に片づけにと奔走し、店内にお客さんが居なくなったころにはいつの間にか2時間くらい経っていた。これで少しはゆっくりできるかな、まだおやつも食べていないんだけどと一息つこうとした時、扉が開いてカランカランとベルの音がした。お客さんがやってきたようだ。嬉しいことのはずなのだけれど、僕のお腹はキュルルと悲しみをアピールしていた。おやつはまだ少しお預けのようだ。

コツコツとヒールの音を鳴らしてやって来たのは、青色のワンピースに大きな麦わら帽子を被り、目元にサングラスをかけた気品のある女性だった。こんな寂れた何でも屋じゃなくて、ティファニーで朝食を食べる方が何倍も様になるだろうなと思ったけれど、お店に来てくれるのは嬉しいことだ。

「いらっしゃいませ。」

こちらが声を掛けて、水の入ったグラスを置くと女性はサングラスを外した。その所作は何ともこなれていて、何だか住む世界が違う人のようだ。

「ねぇ。頼んだらどんなものでも作るって書いてあるけど、本当なのかしら?」

「えぇ。出来る範囲で、の但し書き付きですけれど。」

その返答を聞いて女性はふーんと興味なさげに答え、メニューに目をやった。それからしばらくメニューとにらめっこしていたが、その中に気になる物は無かったらしく、ぱたんとメニューを閉じて注文を告げた。

「それじゃ、タルトタタンは出来る?」

「タルトタタン、ですか?」

「えぇ。私の好物なの。近くで食べられるものは一通り食べたけれど、どこもひとつ物足りなくて。」

タルトタタンは型にバターと砂糖で炒めたリンゴを敷きつめて、その上からタルト生地をかぶせて焼いたフランス生まれのデザート。作ること自体は難しいわけではないけれど、作るのに時間はかかってしまう。

「作ること自体は出来ますが、今から作るとなると、1,2時間ほどお時間はかかってしまうかと……。お客様のご都合がよろしければお作りしますがどうでしょう?」

「そうね……」

お客さんが手首の時計を確認する。落ち着いたモノトーンの、シンプルなデザインの時計だ。

「もしご都合が悪いようでしたら、別日に予約という形でも提供させていただきますが。」

「……そう。なら、それで。明日、また同じ時間でどう?」

「承知致しました。一応、お名前を伺ってもよろしいでしょうか? 最近は他人に化ける犯罪も多いので……」

僕の言葉に、帰り支度をしていたお客さんは被っていた麦わら帽子を外して向き直った。奇麗な黒髪がふわりと揺れる。

「アリアンヌ ヘローよ。……それじゃ、明日を楽しみにしているわ。」

名前を告げた後、アリアンヌさんはモデルのような綺麗な歩き方で店を出ていった。アリアンヌさんの顔をどこかで見たような気がしたけれど、とにかくタルトタタンのことを考えるのと、お腹が限界だったのでそれどころではなかった。多分、気のせいだと思うし。



アリアンヌさんのあとにお客さんは来なかった。厨房でおやつのプリンを食べてカウンターでボケーっとしているうちに、お店の休憩時間になる。
休憩前にボケーっとしていたので、休憩時間にボケーっとするのはなんだか気が引ける。タルトタタンを作っておくべきなのは百も承知だけれど、自分一人で作るのはそれはそれでよろしくない気がした。作れないわけではないが、せいぜい出来は70点くらいだと思う。そこで頼りになるのがマスターだ。

マスターはどこで学んだのか分からないような知識を豊富に持っていて、料理についても例外ではない。信じられないような、だけれど確かに美味しいアレンジレシピだったり、そもそも聞いたことすらない料理のレシピを把握していたりする。もしかしたらタルトタタンにも一家言あるかもしれない、と淡い希望を抱きながら材料を机の上に出していると、勝手口のドアが開いた。

「ただいま~。ごめんねタカヒロくん、お店任せちゃって。どう、変わったことはなかった?」

「おかえりなさい。特に問題は無かったですけど、珍しい予約は入りましたよ。」

「ほうほう。珍しい予約とな。それは頼んだ人が? 頼まれた物が?」

「両方、ですね。」

「そうかぁ、両方かぁ。それは中々、珍しいの中でも大分珍しいねぇ。」

真剣な面持ちでよく分からない言葉を返してきたマスターにいきさつを伝えると、マスターは胸を張って、自身に満ち溢れた表情になった。これは淡い希望がかなり濃くなったかもしれない。信頼度75%くらいだ、この演出は。

「それで、アリアンヌさんにお出しする前に一度作っておきたいと思ったんですが……マスター、タルトタタン作ったことあります?」

「そりゃあもう。いっぱいあるよぉー、いっぱい。フランスにいた時は作るのが上手いって褒められたこともあったんだから!」

おお。何処までが本当か分からないが、タルトタタンを作れるというのは本当だろう。大事なところは嘘をつかない人だから間違いない。

「へぇー! それじゃあマスターのタルトタタンは本場にも認められたってことですね。楽しみだなぁ。」

「でもねぇ。」

でもねぇ? まさかここからひっくり返ることがあるのか? 頼りになるなぁ、なんて珍しく思っていたのに。

「前に作ってから大分経ってて、レシピ忘れちゃった。」

あぁ、やっぱりマスターはマスターだったのか。抱いた希望はやっぱり淡かった。まぁ、忘れた者はしょうがない。落とした肩をすぐに上げて、とにかくタルトタタンを作ってみるしかない。まずはマスターのためにレシピを書き起こして渡す。

「基本的なレシピはこんな感じですけど、これを見て思い出したこととかありますか?」

マスターの顔としぐさを見るに、何もなさそうではあったが一応聞いてみる。案の定、「ないなぁ」という返答が返ってきた。まぁ、こんなのはいつものことだ。作り始めたら何か思い出すかもしれないし、取り敢えず二人で作っていくことにした。

「まずはリンゴを切りましょう。」

「ほいほい。任せて任せて、切るのは上手いからね。」

実際、マスターの包丁さばきは惚れ惚れするほどに上手い。速さも正確さも到底真似できそうにないレベルだ。一度どうしてそんなにうまいんですかと聞いた時には、数千年振り続けてるからねとドヤ顔をしていた。その時は流石に盛りすぎですよとツッコんだのだが、本人はいたって真面目な様子だった。

「切り終わったら次は~……バターを溶かして、砂糖を入れてリンゴを炒める、と。」

「マスターはリンゴの方の作業をお願いしますね。僕は生地を作ります。」

「はーい、了解。任せといて!」

リンゴを煮詰めていく作業はマスターに一任して生地を作る。それほど時間はかからずに生地はあらかた出来て、マスターの方を見ると、そちらも中々いい感じに見える。あくまで見える、だけれど。

「生地は出来た?」

「ええ、とりあえずはリンゴ待ちですね。炒めるのやりましょうか?」

「ううん、大丈夫。結構好きだからね、こういう作業。やってる間に色々思い出したし。フランスにいた時のこととかね。」

「へぇ。よければ聞かせてくれませんか?」

「うん、あれは500年位前かなぁ。あの時はちょっと精神的に疲れててね、フラフラしてるうちにいつの間にかフランスに着いたんだよ。お金もないし、知り合いもいないから頼れる人もいない。そもそも心が参ってるから何かしよう、どうにかしようって気がない。結局当てもなく歩き続けて、気づいたら森の中。お腹が減ってもう動けないって座り込んでるところをね、助けてもらったんだ。その時に振る舞ってもらったタルトタタンが美味しくて、作り方を教えてもらったの。中々上手くならなくて、1ヵ月くらいお世話になっちゃったんだけどね。」

本当にこの人は掴みどころがない。作り話を言っているのか、それとも本当なのか、どこかで読んだ本の中身を自分のことのように語っているだけなのか、全く判別できない。なかなかに厄介なことだ。それでもマスターの思い出話は面白い。嘘だろうが本当だろうが人に迷惑をかけてるわけではないし、何より話している時のマスターの表情はとても魅力的に見える。

「マスターも精神的に参ることがあるんですね。いつも明るいから、想像できないな。」

「あら、それは私が能天気だって言いたいのかな? 私だって人並みに傷つくんだから。」

「あ、すみません。そんなつもりで言ったんじゃないんですけど……」

「あはは、分かってる分かってる。」

でも、と言葉を紡いでマスターは炒めている鍋の底をじっと見つめた。

「人の様子には気を配らないと駄目だよ? みんな平気なふり、頑張ってない振りは上手。大丈夫、気にしないで、平気だからなんて言いながら壊れてっちゃうんだから。傷つかない人なんていないからね。」

そう語るマスターの表情はいつもと変わらないように見えたが、ほんの少しだけ悲しげにも見える。マスターに見えているのは鍋の中身ではなく辛く暗い思い出なのかもしれないと思うと、人の経験とは分からないものだなと思う。色々な経験の浅い僕には、まだ難しいことなんだけど。

マスターは炒めていたリンゴを一口食べて、サムズアップを作った。どうやら、いい出来らしい。

「うん、いい感じじゃないかな。タカヒロくん、ケーキの型取って~。」

「はい、どうぞ。」

フライパンに出て来ていた飴色の水気を敷いて、その上にリンゴをきれいに詰める。そこに生地を乗せて、フォークで小さな穴をいっぱい開けたら、後は45分オーブンで焼くだけだ。その45分が長いんだけれど。

「あ、そろそろ準備しないと。タカヒロくん、オーブン任せるね。」

時計を見上げると、夜開店まで1時間を切っていた。夜は常連が多く、昼に比べると比較的忙しい。そのため、準備しなければいけないことも少し多い。マスターは店内外の準備を進め、僕は頼まれるであろう料理の下ごしらえをする。

そうしていそいそと動き回っているうちに45分経って、タルトタタンが焼きあがった。ただしこれで完成ではなくて、ここから冷やして固めなければいけないのだ。まず粗熱を取り、それから冷蔵庫に入れる。ここまで来たら作り手に出来ることは美味しくなあれと念を込めることくらいだ。今回は余計なことをしていないから大丈夫だろうなと思うけれど、料理の専門家ではないので、食べてみない事にはわからない。出来上がりにそわそわしながら、僕はお客さんを出迎える準備に向かった。



夜の時間帯になると街中は少し騒がしくなる。大通りから一歩奥目のウチですら少し喧騒が伝わってくるくらいだから、おそらく、大通りは酔っ払いや客引きで文字通りの百鬼夜行が形成されているんだろう。それとは真逆に、店内は落ち着いた雰囲気だ。

「お二人は、ドラマとか見られます?」

客席からそう話しかけてきたのは警察官の青木さんだった。青木さんは真面目の生き字引のような人で、勤務の休憩時間にこの店に寄ってくれる常連さんでもある。奥さんと娘さんがおり、会話の大抵は家庭についてが話題になる。

「僕はあんまり見ませんね。なんとなくテレビをつけて流してる時はありますけど、しっかり見てるわけじゃないです。芸能人さんもそんなには知りませんし。」

「確かにタカヒロ君はそんなイメージですね。マスターはどうですか?」

「私も見ませんねぇ。青木さんはお好きなんですか?」

「いや~。僕も仕事があるのであんまり見れないんですけど、家族が好きで。家内は大体ドラマを見比べて、あれは面白い、あれはダメなんて評論家みたいです。」

「あぁ~。ドラマ好きの人ってそんなイメージありますねぇ。」

「最近は娘も凝りだしたんですよ。血は争えないって奴ですかね。しかも、将来女優さんになりたいなんて言うんです。ちょっと前はケーキ屋さんになりたいなんて言ってたのに、子供が大きくなるのは早いですよねぇ。」

青木さんはブラックコーヒーを飲みながらそう語った。青木さんはそんなことを言いながらも嬉しそうで、親としての愛を感じる。何だか、ほっこりする話題だ。

「いいじゃないですか、女優さん。娘さんは憧れてる人とかいらっしゃるんですか?」

「ん~……何だっけ、今CBSの連ドラで主演してる……き……き……」

「霧生玲子、ですか?」

「そうそう、その人です。私もこの人みたいになるんだーってドラマ見ながら言ってますけど、どこまで本気なんだか。」

「僕もその人は聞いたことありますよ。何だか凄い賞を取ったとか、ニュースでも流れますから。娘さんが憧れるのも納得です。」

「まぁ、なんにせよ、親としては健やかに育ってくれればそれでいいんです。役者になれてもなれなくても、幸せに生きてくれれば。」

そんな話をしていると、マスターがタルトタタンの乗った皿を持って厨房から戻って来た。タルトタタンは奇麗に冷えて固まったようで、見た目は特に問題なさそうに見えた。とはいえ味は食べてみなければ分からないから、マスターもこうして持ってきたのだろう。ニコニコしながら鼻歌まで歌って、私はこれを楽しみにしていましたよ、という思いが伝わってくる。

「タカヒロ君、お待ちかねの味見の時間だよ。」

「楽しみにしてたのはマスターの方では?」と言いたい気持ちもあるけれど、実際僕も楽しみにしていたのは事実だ。食いしん坊だと青木さんに思われるのは少し恥ずかしいけれど、甘んじて受け入れよう。

「せっかくですから、青木さんもどうですか? 私たちの手作りタルトタタン。」

「お、新メニューですか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。」

コツコツという音に合わせてタルトタタンが切り分けられていく。食べごろの大きさに切り分けられた3つをそれぞれ別のお皿に載せて、クリームをかける。

「はい、召し上がれ。」

「どうも、いただきます。」

フォークを刺して口に運ぶ。……美味しい。甘くて、リンゴの酸っぱさとキャラメルの苦みがいい具合だ。

「うん、いい感じだと思います。青木さんはどうですか?」

「美味しいですけど、この甘さは僕みたいなおじさんにはコーヒーが欠かせませんね。」

「あはは、まだ青木さんはおじさんって年じゃないですよ。でも、確かにけっこう甘いですね。まさにデザートって感じです。」

試食した3分の2はおおむね好意的な反応だが、残った3分の1、マスターはうんうんと唸っていた。一口食べてはうんうん唸り、また一口食べては頭を抱えている。大抵の食べ物を美味しいと食べるマスターがこんな反応をするなんて珍しい。もしかして、まんじゅうこわいみたいにうんうん唸りながら全部食べる気かもしれない、それならば阻止しないとと考えていると、マスターの様子を見かねた青木さんが声を掛けた。

「珍しいですね、マスターがそんな顔をするなんて。美味しかったですけど、何か問題でもありましたか?」

「うーん、美味しいんですけど……昔食べた味と何かが違う気がして……うー、何が違うんだろ……」

「うーん。確かにそれは気になりますけど、取り敢えず問題はなさそうなので、これをお出ししていいですかね?」

「そうだねぇ……うーん、何が違うのかなぁ?」

その日、マスターはしばらく上の空でタルトタタンについて考え続けていた。そして、他のお客さんにも味見してもらう予定だった残りをさりげなく食べようとしていた。何とか阻止できたけれど、全く油断も隙も無い人だ。他のお客さんからも概ね好評ではあったので、とりあえず翌日はこのレシピで作ることに決まった。果たして、アリアンヌさんのお口には合うだろうか?



次の日、予定通りアリアンヌさんはやって来た。季節に合った奇麗な色合いの服にサングラスのお洒落な装いだ。

「いらっしゃいませ。あ、もしかしてご予約いただいているアリアンヌさんですか?」

「えぇ。」

「お待ちしてました~。あ、私、この店のマスターです。ささ、こちらへどうぞ~」

アリアンヌさんは勢いに押されるがままといった様子でカウンター席についた。そのまま二人は世間話、もといマスターがほぼほぼ一方的に話していたので、こちらはタルトタタンの準備を進める。タルトタタンを手頃な大きさに切り分け、皿に乗せ、クリームを掛け――

「あっ、ちょっと待った!」

掛けようとしたところにマスターがキッチンに飛び込んできた。いったい、どうしたというのだろう。

「どうしたんですか?」

「思い出したんだよねぇ。ほら、昨日、昔と食べたのと違うっていったでしょ?」

「あぁ、言ってましたね。」

話しながらマスターはごそごそと冷蔵庫を漁っている。そのうちマスターはお目当ての物を見つけたのか、あったあったと言いながら冷蔵庫から何か白い入れ物を取り出して机の上に置いた。

「その原因はこれだったのだ!」

ムフフというオノマトペが似合う笑いを顔に湛えながらマスターはその入れ物を指差して言った。指差されている入れ物は真っ白で、蓋の表面には『Valençay』とだけ書いてある。

「何ですかこれ、バ……ヴァレンシャイ?」

一縷、いや半分くらい合ってるんじゃないかと思って発音したのだが、マスターの顔を見る限り正解ではないようで、何だか悔しい。

「どうやらタカヒロ君はフランス語には明るくないようだね~。これはヴァランセ。ヤギのチーズだよ。」

「ヤギのチーズですか? 珍しいですね。」

「実は牛のチーズより歴史は長かったりするんだよ。多分、私がフランスで食べたのもヴァランセが乗っかってたはずなの。だから、これをタルトタタンに乗せた方が本場の味に近づくんじゃないかなぁ。」

「なるほど……まぁ、そういうことなら乗せてみましょうか。実際、マスターは味を知ってますもんね?」

美味しいんだよ、と言いながらマスターはチーズを箱から取り出し、ハンドリナーでそれをカットする。食べやすそうな大きさに切られたチーズはそのままタルトタタンのそばに盛り付けられた。

「多分これで完璧! タカヒロ君、アリアンヌさんに持っていってくれる?」

分かりましたと返事をしてタルトタタンが乗った皿を受け取りキッチンを出る。タルトタタンを待っているアリアンヌさんは、背筋を伸ばしてなにかを読んでいた。

「お待たせしました、タルトタタンです。」

集中している様子のアリアンヌさんに一声掛けタルトタタンを目の前に置く。それに気づいたアリアンヌさんは本を閉じて鞄の中に入れ、じっとタルトタタンの乗った皿を見つめている。

「ありがとう。早速頂くわ。」

「どうぞ、ごゆっくり。」

アリアンヌさんが食べ始めようとした時、カウンターの上に飲み物が無いことに気づいた。マスターがお冷やを出しているものだと思っていたけれど、どうやら忘れていたみたいだ。

「飲み物をお持ちしますね、少々お待ち下さい。」

うっかりしていたなと思いながらキッチンに入ると、マスターは何やら緑色の液体が入ったグラスを手に持っていた。

「……マスター、何ですかそれ?」

「ドリンク。アリアンヌさんにサービスで出そうかな~と思ったの。」

「ドリンクはこれから出す予定だったんですね。ところでそれ、何ですか? グリーンスライムの水割りみたいな?」

「失敬だなぁ、そんな不味いものじゃないよ。後で君にも作ってあげるから、これもお願い。」

渡されたグラスは草原を絞ったような綺麗な緑色でいっぱいだった。緑色の飲み物には馴染みがないから、目の前の液体は飲み物のようには見えない。何回見てもスライムの水割りに見える。というか、それに対して『そんなに不味いものではない』とマスターが返してきたということは、スライムの水割りも世界のどこかには存在するのだろうか?世界は広いなぁ。ダメだ、これからお客さんに出すものなんだからそんなことを思っては。これはきっと、美味しい飲み物なのだろう。

「お待たせしました。こちら、サービスのドリンクになります。」

「あら、ありがとう。」

「何かあればお声掛け下さい。」

アリアンヌさんは上品な仕草でタルトタタンを食べ進めている。けれども表情には一切の変化が見られない。美味しいと思っているのか、口に合わないのを噛み殺して食べているのか皆目見当がつかない。半分ほど食べ終わったところで、アリアンヌさんは例のドリンクにストローを入れて一口飲んだ。

「……あら、シトロンなのね。」

こちらに話しかけるでもなくアリアンヌさんは呟いた。シトロン……フランス語でレモンとかだったっけ。ヤギのチーズは分からなかったけどこれくらいなら、というかその色でレモン味なのかと謎のドリンクに思いを馳せていると、マスターもキッチンからやって来た。

「アリアンヌさん、お味はどうですか?」

「そうね、まぁまぁかしら。」

「まぁまぁか~。伸び代があるって事ですね!」

こういう意見を訪ねられた時、ほとんどは差し障りないことを言って濁したり、自分に嘘をつくものだけれど、アリアンヌさんは正直な人みたいだ。
それでも、食べてくれているところを見ると、口に合わないという程ではない、本当にまぁまぁなのだろう。そして、マスターが全く凹んでいないのも流石と言うべきだなぁ。

まぁまぁのタルトタタンを食べ終えたアリアンヌさんはドリンクを飲みつつ、窓の外を見ている。そんなアリアンヌさんを見ていると、どこかで同じ顔を見たような気がするのだが、どこで見たのか思い出せない。絶対どこかで見たような見たような気がするんだけどな。



「アリアンヌさんはタルトタタンお好きなんですねぇ。」

「……えぇ。小さい頃からの好物でなの。大人になってからも、色んなお店のタルトタタンを食べたわ。ドゥマゴ、マチ・ケンヅカ、その他にも有名店から小さなお店まで……」

「え! マチ・ケンヅカ!? 私、一度マチ・ケンヅカのケーキ食べてみたいんですよ~。いつもすごい人だから中々行けなくて。」

マチ・ケンヅカといったらミシュランに載るようなパティスリー。そりゃあウチなんかの素人のケーキとは月とすっぽん、鯨と鰯、ぬらりひょんとすねこすり。比べるのが失礼な位だ。どうやら、まぁまぁというのはかなりの高評価だったみたいだ。

「そうね、あれだけ人が多いと大変。ましてやこうした職ですもの、休みも中々取れないでしょうしね。」

「やっぱり、美味しいんですか?」

「ええ。材料も、作り手の技術も一流だから。」

「むー、負けてられない!私たちも頑張らないとだね、タカヒロ君!」

何故かマスターは対抗心を燃やし始めた。まさか、ミシュランを狙うつもりですか? それはあまりにも無謀な挑戦すぎると思うんですけれど。

「いや、僕はそこまでの気概は無いですよ……」

「駄目だなぁ。ボロは着てても心は錦。心意気だけは高く持たなきゃ!」

「それだとウチがボロってことになりますよ?」

「ありゃ、それは良くないなぁ。じゃあ、錦着てても心は錦!」

「それはただの錦を着てる人です。」

こんないつも通りの下らない会話を繰り広げていると、カウンターからフフフと笑い声が聞こえてきた。アリアンヌさんが笑っている。笑われている、といった方がいいか。

「お見苦しいところをお見せしてすみません……」

「面白いのね、あなたたち。」

「ありがとうごさいます~」

「お礼するのも変だと思いますよ、マスター。」

「お礼は大事だよ、タカヒロ君。やっぱり、何より礼節って言うのは大事だからね。」

「……そうですね。すみません。」

これ以上アリアンヌさんに恥ずかしいところを見られるのは許容できなかったので、しぶしぶこちらが折れた。これもいつもの流れだ。

「……あら、もうこんな時間。お会計、ここに置いておくわね。お釣りはチップにでもしておいて。」

そういってアリアンヌさんは何の躊躇いもなく1万円札をカウンターに置いた。あまりにも予想外な出来事だったので、どう対応すればいいのかわからない。無下に断るのも失礼だろうし、だからといって喜んで受け取るのも浅ましい気がする。

「え、あ、あの……」

「また来る時には電話するから、タルトタタンを用意しておいて。それじゃ。」

俺があたふたしているうちに、それだけ言い残してアリアンヌさんは店を去っていった。また来るということはウチを気に入ってくれたわけで、それは嬉しいのだけれど、果たしてどこを気に入ってくれたのだろう。

「アリアンヌさん、お金持ちなのかなぁ。なんだか申し訳ないね、こんなにいっぱい貰っちゃって。 」

「……ですね。ところでマスター、僕ずっとアリアンヌさんに見覚えがある気がするんですけど、心当たりないですか?」

僕がそう問いかけると、マスターはうーんと少し考えてポンと手を合わせた。

「分かんない。けど、アリアンヌさんはなんだか常連さんになってくれそうな気がするなぁ。」

「そうですか。そうなってくれると嬉しいですねぇ。」

こういう時のマスターの勘はよく当たる。この日から、アリアンヌさんはしばしばウチにやって来るようになった。



それからアリアンヌさんは時折やってきては、毎回タルトタタンを頼むようになった。飲み物はカフェラテだったり紅茶だったり様々に変わるけれど、タルトタタンだけは変わることはない。毎回毎回チップを貰うのは少し気が引けるけれど、ほかに使うところもないのだから貰っておいて、と言われたので結局受け取っている。

そういえば、あの緑色の飲み物はディアボロと言って、フランスでは定番の飲み物らしい。炭酸レモネードにシロップを加えて作る夏の定番ドリンクだとか。アリアンヌさんが帰った後作って飲んでみたが、中々好き嫌いの分かれそうな味だった。どうしてもミント味は歯磨き粉みたいだなと思ってしまうのは、単純で悲しい性だなと思う。

そんな日々が過ぎていって10月の夜。常連さんの話声とラジオから流れている流行の音楽をBGMにこまごまとした作業をしていると、ドアが開いて青木さんがやってきた。

「いらっしゃいませ。」

「こんばんは。……マスター、今日はカフェラテをお願いします。」

「あら、珍しいですね。いつもエスプレッソコーヒーなのに。」

「ははは……ちょっと最近バタバタしてまして、疲れてるのかもしれません。いつもより甘いものが欲しくなるんです。」

そう言っている青木さんは、確かに少しやつれていた。普段も細身とはいえ健康的な人だから、何かあったのだろうかと心配になるやせ方だ。

「あの……あんまり無理なさらないでくださいね。なんだかやつれてるように見えますし……」

「ありがとうございます。体は問題ないんですが精神的に参ってるのかもしれないですね……」

「お待たせしました~。カフェラテ、ちょっとミルク多めにしておきましたよ。」

「ありがとうございます……うん、美味しいです。」

その日、青木さんは暗い顔をしたまま、いつものように話すこともなく、カフェラテを飲んで帰っていった。そしてその日からしばらく、青木さんはウチに来なくなった。
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