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作者: 2MeterScale
残酷な描写あり R-15
アウェイクニング・フロム・ディスイリュージョニング・ナイトメア その2
毎日執筆(隔日更新)
 平らな底の、長い船だ。船に乗り込んだルシウスは、そんな印象を抱いた。全体的に木造ながらも、ところどころ金属によって補強がされている。すこし船の上を歩いただけで、とても頑丈であることがわかる。ルシウスはあまり航海術に明るくなかったが、それでもいい船だという雰囲気があるのだ。よく観察すると、船の先端部に破損がある。嵐の中を突っ切ってきたのだろうか。船側には何本かのオールがあり、本来ならば複数人で動かすべき船であるということが推察される。ティブローナはあたりを見回して、得意げな表情で船の真ん中を指さした。そこには板金で補強されたくぼみがあった。

「……マストがないわ。この船」
「……ホントだ」

 違和があまりにも大胆な場合、人はその違和に気づかないことがある。ルシウスはそれを実感した。
 いずれにせよ、この船を一人で動かすのは無理だ。人の気配もしないから、どこかで売ってしまえば少なくない量の銀か、そうでなくても米か麦にはなるだろう。ルシウスはティブローナに目配せをした。

「みんなを呼んできてほしい。こいつを岸まで動かそう」

 ティブローナは首を縦に振ると、海の中へと飛び込んでいった。日光がルシウスの体を焼くとともに、海水を乾かしていく。乾いた足裏で踏みしめる船は、半ば耐え難いほどに熱かった。視界の端に金属の塊が映る。妙だ。船に積むにしては、重すぎやしないだろうか。人の気配はしない。しかし、何かが飛び出してくるかもしれない。ルシウスはその辺に放ってあった直剣を手に取った。すり足で歩きながら、船内の備品を観察する。布やロープの類はない。本来あるべきはずのマストといっしょに飛ばされたのだろうか。桶や樽も空になっている。海上で水を切らしてしまえば、生存は絶望的だ。ゴリ、とルシウスの耳が何かを削るような重い音を拾った。

 ルシウスの目が金属の塊に吸い寄せられる。それは、確かに動いたのだ。彼は剣を構える。心の中にあった「ずれ」が、急速に小さくなっていく感じがした。そのまま彼は動かず、切っ先をその金属塊に向ける。瞬間、「それ」は「彼」になった。金属の鱗と爪と牙を持つ蜥蜴人。彼は吼えながら、凶悪な爪をルシウスに向けて振り下ろす。
 鈍化した時間の中、ルシウスはその蜥蜴人の目を見た。明らかに正気を失っている。この日差しのせいだろうか。ルシウスは夢の中で死んだ男のことを思い出した。彼は妙な剣術を使っていた。そして、この瞬間だけ、ルシウスはあの夢に感謝した。今となっては、あの男の動きを完全に再現することも可能だ。
 蜥蜴人はルシウスより頭ひとつ分大きい。間合いを見誤れば、鋭い爪がルシウスの肉体を切り裂く。しかし、恐怖はない。迫りくる爪を、ルシウスは剣の刃で迎え撃つ。爪と刃が接触した瞬間、ルシウスは全身の骨を揃えた。
 手が痺れる衝撃。骨が軋む。剣が弾き飛ばされる。同時に蜥蜴人も大きくのけぞった。大きな音を立てて、ルシウスの中の「ずれ」も消え去る。
 彼は仰向けに倒れて、それきり動かなくなってしまった。ルシウスは彼の体に触れようとした。しかし、手のひらに伝わってくる熱さに、思わず怯んでしまう。触れればやけどは免れないが、眼の前で倒れている者を放置するわけにはいかない。ルシウスは一瞬悩んで、下着を解いた。海中からティブローナが飛び出したのは、その瞬間であった。

◆◆◆
当時は、全裸を恥じる習慣がなかった。夏の男性は大概下着姿か全裸につばの広い帽子を被っていたし、女性も似たような格好をしていた。どうしようもなく暑くなってしまえば海に飛び込めばいいし、そうでなくとも日陰で休憩すれば、汗が散って涼しくなる。もっとも、当時より現代のほうが暑くなっているのは、種々の計測によって明らかだが……。
『後帝国史記 第二巻(1976年出版)』より抜粋
◆◆◆

 ルシウスの依頼を受けて、海に飛び込んだティブローナは、冷たい水で火照った肉体を冷やしながら物思いに耽っていた。アンヘレス荘の人口の半数弱を占める「何らかの特徴を持つ人類種」の一人として、一五年前に生を享けた。彼女は漁師の一家の生まれである。生まれながらのハンターで、水の中こそが彼女の居場所だった。彼女は孤独であった。十歳かそこらの少年少女たちが遠泳を競うなか、彼女がいつも勝っていたからだ。
 当たり前の話である。蜥蜴人のように爪や牙を持つヒトはいない。熊人に膂力で勝てるヒトもいない。当然ながら、鮫人に遠泳で勝てるヒトもいない。
 甲斐性を見せんか、と思わなかったことはない。しかしながら、彼女はいつからか家業の漁ばかりを手伝うようになった。誰かと競いたいという欲望を、内に秘めたまま。

 ある日、砂浜にあの少年が現れた。強い日差しのせいで浅黒い肌を持つ者が多い中、彼だけは目が覚めるような白い肌を持っていた。ブラウンの癖っ毛から見え隠れする青い瞳を眩しそうに細めて、彼はピシャリと尻を叩いた。同年代の少年たちと遠泳に励む彼は、いつも死にそうな顔をしながらも一番を遠くまで泳ぐのだ。

「なあ! どうして参加しない!」
「……私がいつも勝って、みんながつまらなさそうにするから」

 砂浜の奥の方でいつも彼のことを見ていたものだから、気づかれてしまうのも仕方がないだろう。ティブローナが投げた気だるげな返答に対して、彼は不適な笑みを浮かべた。

「そんなの、やってみなきゃわからんだろう!」

 ティブローナは立ち上がる。彼女は粋がったヒト種の子の鼻っ面をへし折る気でいた。そうすれば、彼もきっと他の子どもたちと同じように、自分を除け者にする。泡のごとき仮初の希望など、最初からない方がいい。不安げな顔を浮かべる数十の瞳に囲まれながら、彼女は衣類を脱いだ。胸部と局部を隠すだけの下紐姿となった彼女は、海に飛び込む──

 一度目。少年はティブローナの速度に追いすがることもできない。二度目。疲労が溜まってきたのか、少年は苦しそうな顔を浮かべる。三度目。青くなりながらも、彼はティブローナに追いすがろうとする。四度目。やけに静かだと思ったら、かれは白目をむいて海底へと真っ逆さまに沈んでいっていた。

「お馬鹿!」

 ティブローナは彼を引き上げたあと、説教をした。あなたが私に勝てるわけがない。だからとっとと諦めたほうがいい。しかし、彼は聞く耳を持たなかった。

「なんか、鍛えれば行けそうな気がしない?」

 ぼんやりとした顔のまま、彼はそう問うた。彼の白い肌は真っ赤になってしまっていて、少し触れるだけで痛そうに身を悶えさせる。しかし、なぜだろうか。死の間際にあってもなお、彼は余裕そうな顔をしていた。まるで、こんな些事など何度も経験してきたかのように。


 いつの間にか、ティブローナは海岸へと戻っていた。彼女は少年たちを集め、家族が漁をするときに使う船に乗せた。目標物の方角だけ伝えた彼女は、再び海中に潜った。
 そう。少年──ルシウスはことあるごとに彼女に勝負を挑んだものだ。回を重ねるごとに、彼の泳ぎは上手く、そして速くなっていった。ならばこれはどうだと潜水をしてみれば、数分くらいは耐えてみせた。苦しそうに、しかし余裕を見せながら。いつからか、ティブローナは自分で捕まえた魚を彼に与えるようになった。ルシウスがこれまたうまそうに食べるものだから、見ていて満足感があるのだ。

 難破船に戻ったとき、ルシウスはなぜか全裸になっていた。陽光を受けてきらめく彼の肢体は、「鍛えれば行けそう」の言葉通りに、しなやかな筋肉に包まれていた。泳ぎの速さこそ、今のティブローナのほうが上だ。しかし、持久力に限ればルシウスに勝る者はいない。不撓不屈の少年を前にして、海の中にいるにも関わらず、ティブローナは体が熱くなるのを感じた。

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本書において、簡単のため、単位は可能な限り現代のものを用いることとする。
『後帝国史記 第一巻(1974年出版)』より抜粋
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