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作者: 沖房 甍
式典
 聖火リレーのスタート会場となるJヴィレッジには既に多くの中継車が乗り込んでおり、施設周辺の道路にも無観客であるにも関わらず見物人がちらほら見受けられた。まだまだマスクをしている人間も数多い。関東ではつい最近二度目の緊急事態宣言が解除されたばかりで、感染の心配は完全にはぬぐい切れていない現状なのだ。
 一方で聖火リレーのメインイベントは最終日の東京であることからさほどこのイベントは注目されていないためだろうか、本職連中は地方紙や大手の新聞・スポーツ紙各社がほとんどで、不破たちの様な週刊誌の記者の姿はあまり認められない。

 プレス特権を使って不破たちが会場内に足を踏み入れた頃にはまだ関係各位が入念な打ち合わせを行っているところであった。
 本来はサッカー等のスポーツイベントに利用される施設周辺は普段とは異なる物々しい雰囲気に包まれている。
 式典で使われるのであろうか、いくつもの大太鼓が搬入されていた。催事の主賓たる聖火を搬入する車両はまだ窺えないが、ほんのり桜色を帯びた薄金色のトーチをスタッフが取り出しているのが確認できる。そうして本来は盛大に執り行われるはずだったであろう式典は、大幅な縮小と簡素化を図られた形で間もなく開催されるのである。


 思えばギリギリまで酷くこじれた会場の問題……、

 公募スキャンダルや噴出した人事問題……、

 役員や大臣の不祥事、首相の退陣、ウィルス流行……、

 そして直前での大会組織委員会々長の交代劇……、


 これでもかと言わんばかりの試練を経てようやくここまで辿りついた聖火リレーのスタート式典、いまだに多くの不安をはらみながらの開催に会場は楽観的な雰囲気よりもそこはかとない不穏さが支配している。不破は次に施設内をざっと見渡してみた。
 Jヴィレッジは広大な敷地にいくつかのグラウンドやコートを設けた複合運動施設であり、今回式典の会場となるのは奥にそそり立つ巨大な白い屋根の全天候型練習場内である。練習場の中にはステージが設けられ、中央に桜を模した巨大なモニュメントが据え付けられている。式典ではこのモニュメントに聖火が点灯され、そこからトーチへと採火されるのである。

 不破の横では牧が持ってきた三脚と巨大な広角レンズを取り付けたカメラを準備しつつ、それで練習場の中を覗き込む。

「それで、これから到着する火種がギリシャで採火式を行った聖火…って事ですか」
「そうだ。昨年航空自衛隊松島基地に着いて、そして丸一年ランタンで保管されてたやつだ」
「待ちに待った出番、ですね。……そっか、由緒正しき炎ってヤツなんだぁ」
「いやぁ、そうでもないぜ?」

 視線は練習場に向けたまま、意味ありげな笑みを浮かべて不破が答える。

「聖火リレーが始まったのは、実は近代になってからなんだ」
「へっ!?」


「───五輪憲章では聖火は古代オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアで採火式が執り行われるものと定められています。(中略)古代遺跡ヘラ神殿に設置された凹面鏡で集められた太陽光で採火が行われ、それが開催国へと運ばれていくわけです。
その聖火リレー自体の歴史は意外に浅く、1936年のドイツ・ベルリンオリンピックから開始されました。当時ヒトラー率いるナチス政権によってプロパガンダ的に大会が利用されたこともあったため、1948年イギリス・ロンドンから再開されたオリンピックでは聖火リレーの廃止論も持ち上がったのですが、改めて平和の象徴として聖火リレーも行われることになったのです。」

(浜木書籍刊『近代五輪の黎明』より抜粋)


「えー? 意外!」
「いかにもそれらしく厳かにやっているけどね、そういう意味ではそんなに格調高いものじゃないんだ、元々はね」
「はぁ~……踊らされているんですね……」

 カメラの設定を細かく修正しつつ、なぁ~んだと言わんばかりに牧は唇を尖らせる。

「まぁ、そう言ってやるな。由来が何であれセレモニーに華は必要だって事さ」

 不破が苦笑交じりに答える。

「……それにしても、だ」


 ……地方施設とは言え随分開けた場所だ……。


 Jヴィレッジ周辺にあるのは公共施設や私有地、緑地や森林ばかり。少し歩いて常磐線を越えればすぐに海岸にも突き当たる。そんなロケーションに観客がいない分、警備員やボランティアスタッフの姿が余計に目立つ。また、会場までの要所要所には各県から派遣されてきた警官らも配備されているが、こうした立地条件の下で人員の充足はあまり実感出来ない。それどころか規模の縮小に伴い、人員の削減が図られているのであろう……、若干のスカスカ感は否めない。
 それでもこの場に聖火リレーのスタート地が定められたのは無論ここが先の震災被災地の一角だったためであり、その復興を国内外にアピールする意図によるものである。
 本来ならば万全の態勢と再生をもって臨むべきであったろう会場の、だがそこかしこに綻びが垣間見えるのは……やはりまだ完全には被災の痛みが癒えていない証なのであろうか。

 そもそも被災によって閉鎖されていたこの会場が再開したのはほんの二年少し前の話だ。加えて昨年も使われたのだからもう少し周辺が開発されていても不思議ではないはずだが、やはりコロナ禍のブランクがあったのだろう、その風景は一年前のそれと大した変化は感じられない。


「こんな遠い場所で良いんですか? ここからじゃ中の様子は見えませんよ?」

 二人は練習場内に入らず、施設入り口正面から少し離れた場所に陣を構える。

「セレモニーの最後には正面から第一ランナー達が出てくる。ここは任せるからお前はそいつを押さえといてくれ。……それから毎度言っているが──」
「分かってます!」

 念を押すように指を突き付ける不破に、牧はカメラのレンズでそれをはねのける。

「もしも特ダネ撮ったらデータはバックアップ取って肌身離さず隠しとけ……ですよね?」
「そーゆーことだ。まぁ、今日みたいな予定調和のイベントに特ダネも何も無いだろうけどな。……んじゃ、あとはよろしく!」
「先輩はどこへ?」
「新聞やテレビ局じゃあるまいし、誰もが撮る様な画を撮っても面白くは無いだろ? 俺はちょっくら裏にでも回ってネタを探してくる」
「カメラは? 私の予備がありますけど?」
「こいつで十分だ」

 不破は懐からスマホを取り出し、後ろ手でそれを翳かざしてみせるとその場を後にした。


                    ◆

 全天候型練習場の裏は式典のスタッフや出席者等の前室、控室が簡易的に設けられ、機材資材が所狭しと置かれたいわゆるバックステージとなっている。スタッフや警備員も忙しく動き回っており、間もなく始まるであろう式典本番に向けて修羅場の様相を呈していた。本来は許可を受けていない報道陣の立ち入りは認められていないが、不破は単独で動いている身軽さを利用してその中に紛れ込む。
 備品やら用具やらが収められた段ボール箱が並べ置かれている長机に、先程練習場内のステージで垣間見たものと同じトーチも置かれていた。恐らくこれは予備か会場外で控えている第二番手以降のランナー用にストックしているものであろう。

 するとそこに聖火の種火がちょうど搬送されてきた。裏方の場はその瞬間だけ式典の表舞台の様な華やいだ雰囲気に包まれる。スタッフがステージ脇に運ぶため車両から種火の点いたランタンを下ろしたその時──


「!?」


 あらぬ場所から唐突に混乱が生じる。一体どこから侵入してきたのであろうか……いや、それ以前に何故ここまでの侵入を許してしまっていたのであろうか、一人の男が突如バックステージに乱入してきたのである……!
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