侵入者
最初は犬か何かが迷って入り込んできたのかと不破は感じた。それほど侵入者の動きは素早く、滑らかで、そして不自然さの欠片もなかったのだ。周囲のスタッフもまた、突然巻き起こった状況を理解することが出来ず、ある者は立ちつくし、またある者は狼狽して荷物を取り落とす。
そうした警備が混乱する隙をあっさりと潜り抜け、聖火搬送用車両の傍まで駆け寄って来たそれは、まずは種火のランタンを奪い、次に手近なトーチを手に取った。
それは二十代~三十代辺りと思しき男であった。背格好はやや小柄で、アスリート風のトレーニングウェア姿に腕には携帯らしきデバイスを装着しただけの身軽な格好、顔はマスクと右耳にインカムを着けているので一見しての判別は難しいが、他にはこれといって凶器等を所持している様子は無い。
だがその男が一般人や関係選手とは印象を異にしていたのは、男の所作から漂い出る一種異様な雰囲気からだった……それはまかり間違っても、そこらによくいるような愉快犯まがいのお調子者では無い。
思わぬ侵入者の出現でバックステージは混乱の坩堝に陥る事となる。その隙に男は手にしたトーチにランタンの種火を移すと、ランタンの火を吹き消し足下に転がした。
ここにきてようやくバックステージの騒乱に気付き、駆けつけた警官や警備員が侵入者確保に動き出す。だが男はそれらをゆらリゆらりとかわし、一体何をしているのかその次の瞬間警官らは次々と転がり倒されてゆく。
「何だ? 一体何をした……?」
不破は一瞬すぐ間近まで駆け寄ってその場で起こっている事の真相を確かめたいという衝動に駆られた…が、本能の内にある何かが寸でで彼を押し止める。……それはまるで猛獣を前にしている様な、とてつもない危険の匂い……だ。
警戒した警官らは今度は距離を置いて賊を取り囲む。さすがに地元の警官以外は拳銃まで所持して来てはいないのだろうか……それとも、どれほど厄介な相手でも丸腰相手では躊躇してしまっているのだろうか? 見たところ血気に逸った行動を取る者はいない様であるが、その判断もまた男に付け入るスキを与えてしまう事となる。今度は自ら包囲する警官の只中に飛びこみ乱戦に持ち込んでくるのだ。
「……完全に翻弄されてやがる」
無意識に不破は舌打ちしていた。
もちろん彼とてこんな現場に出くわしてぼんやりと指をくわえて見ているつもりは無い。不破は少し離れた場所から混乱の様子を動画としてスマホに収めてゆく。ディスプレイの中ではタチの悪い冗談の様な光景が繰り広げられていた。まるで申し合わせたアトラクションの様な、どこか現実味の無い殺陣が展開されているのだ。既に警備の群れは統制を失い、バックステージは混沌とした様相を呈し始めていた。
任務に必死故にどこか滑稽な醜態を晒す警官、警備員の面々。その場に居合わせたばかりに虫の様に床を這い回るスリーピースのお歴々はただ恐れおののくばかリ。喩えるならば、それは場末のスラップスティックコメディーのごとき惨状だ。
不破はスマホのSDカードを交換しながら視線だけは油断無く犯人の姿を追う。幸いにして騒ぎから一歩離れた距離で止まっていた事は、混乱に巻き込まれること無く現状を記録することが出来たばかりか、犯人の動きを客観的距離から捉える事に成功させていたのだ。
「……とはいえ、スミの奴を連れてくるべきだったか……?」
牧を表に残してきた事に後悔を感じる。向こうはステージ裏の騒ぎに気付いているだろうか? 今から彼女を呼び出す事は可能ではあろう。だが果たしてそれまで賊が大人しくこの場に留まってくれるかどうかは極めて怪しい。
そうこう手間取っているうちに騒ぎの中核である侵入者の男は、今や脱出を図ろうとしていた。
「逃げる……?」
局面の変化を敏感に嗅ぎ取って、混乱の度を増すバックステージを後にした不破はいち早くその場から離れた。既に犯人は簡素なフェンスを越えて施設の外に逃れている。その方向が会場の出入り口方向である事を頭の中で確認した不破は逆の方向から外に飛び出していた。
「フェイクだ。恐らく正面から出て行くような無謀なマネはするまい……逃走経路としては──」
不破は常磐線側の茂みに飛び込む。そのまま森林帯を突っ切ろうとした時、脇の茂みから何者かが飛び出してきた。
「……あ、」
突然の遭遇に動きの止まった不破の眼前に現れたのは、こちらもまた意外な状況に思わず動きを止めてしまった件の男、炎を灯した薄金色のトーチ片手の侵入者の姿がそこにあった。しかも男は今までの立ち回りで酸欠状態を起こしかけていたのか、マスクを外した正にその瞬間に不破と遭遇してしまったのだ。
「しまった……」
心の声がつい口を突いて出る、先回りが過ぎて犯人の前面に飛び出てしまったらしい。不破は特にこれといったアテもなく飛び出してきてしまった自分の浅はかさを呪った。
もちろんあわよくば逃亡する聖火強奪犯をスクープできたら……などとは思っての先回りであったが、まさか正面切って鉢合わせしてしまう事になろうとは……。
一方、予想外の展開は犯人も同じだったであろう…が、心構えの違いか犯人はすぐに身構えなおすと、感情の読み難い瞳が相手の次の動向に備えて冷たい光を宿した。結果、行く手を塞ぐ格好になってしまった不破は相手の臨戦態勢に対し反射的にファイティングポーズなど取り……それが軽率な行動であった事に気付いた。
「……何やってんだ、俺……」
これではまるで犯人を捕らえに躍り出たマヌケな正義の味方気取りではないか。
「……………退け……」
静かだが凄味を帯びた声で男がじりりと前に出る、ひりひりするような威圧感が伝わってくる。
こうして対峙してみると、やはり成人男性としては小さい……だが貧弱と言うよりもむしろ逆で、鍛え、絞りこんだ実用的な筋肉に身を包んだ小兵といった印象だ。直感的に不破はこの男が格闘技を嗜んでいる事を確信した。
「お、落ち着け。……話し合おう……なっ?」
「余計なお喋りをしている時間はないんだ……どいてくれ」
「!?」
変わらず冷徹な口調ではあったが意外な反応。大胆不敵な強奪劇を演じた犯人だ、もっと問答無用の攻撃的な態度に出てくるものと思ったのだが……、これはもしかしたら交渉の余地があるのではないか、何か相手に聞けるのではないか? と、思わず記者としての色気が頭をもたげてしまう。
「ま、待て、俺の話を───」
不破は咄嗟に相手の動きを制するつもりで右手を前にかざす…が、その手にスマホがあったのが災いした。
「!!」
男は咄嗟にマスクを外したままの口元を覆い隠した。この瞬間、不破は自分が犯人の顔を知る唯一の目撃者となってしまった事実を認識した。その上、手にしているスマホ……脳裏に殺されるかも知れないという悲観的未来も浮かぶ。果たして俄かに殺気だった男が不破との距離を一気に詰めた……!
うっかり伸ばした不破の腕を捉え、物凄いスピードで懐に潜り込む。視界の木々が頭上に流れ、不破の視界から男の姿が消える。続いて急激な浮遊感……、次の瞬間には不破は天を仰いで宙に舞っていた。
「マズい、このまま落ちたら……!?」
思考時間としては言葉よりもずっと短い間だったろう、不破はこの後自分を襲うであろう衝撃を覚悟した…が、予想に反して投げを打たれた不破の身体は意外なほど穏やかに地面に軟着陸したのだ。
実は地面に叩きつけられる寸前、絡め捕られた腕を引かれ落下の勢いは削がれていたのであるが、不破がその事実を知るのは後日の事だ。
ともあれ、無事を悟った不破はすぐに身を起こして次の襲撃に備え……ようとして体勢が崩れた。
「ん、な……っ…!?」
身体が思い通りに動かない…と言うよりも平衡感覚が失われてバランスが崩れているのだ。そればかりではない、視界がぐらつき目に映った光景は文字通り色が失われ……そしてブラックアウト。
何かされた……? 遠のく思考の片隅で状況把握を試みるが、それもすぐに意識にかかる靄に覆いつくされていく………。
そのまま不破は下草の茂みにどぅと倒れ臥していた。
そうした警備が混乱する隙をあっさりと潜り抜け、聖火搬送用車両の傍まで駆け寄って来たそれは、まずは種火のランタンを奪い、次に手近なトーチを手に取った。
それは二十代~三十代辺りと思しき男であった。背格好はやや小柄で、アスリート風のトレーニングウェア姿に腕には携帯らしきデバイスを装着しただけの身軽な格好、顔はマスクと右耳にインカムを着けているので一見しての判別は難しいが、他にはこれといって凶器等を所持している様子は無い。
だがその男が一般人や関係選手とは印象を異にしていたのは、男の所作から漂い出る一種異様な雰囲気からだった……それはまかり間違っても、そこらによくいるような愉快犯まがいのお調子者では無い。
思わぬ侵入者の出現でバックステージは混乱の坩堝に陥る事となる。その隙に男は手にしたトーチにランタンの種火を移すと、ランタンの火を吹き消し足下に転がした。
ここにきてようやくバックステージの騒乱に気付き、駆けつけた警官や警備員が侵入者確保に動き出す。だが男はそれらをゆらリゆらりとかわし、一体何をしているのかその次の瞬間警官らは次々と転がり倒されてゆく。
「何だ? 一体何をした……?」
不破は一瞬すぐ間近まで駆け寄ってその場で起こっている事の真相を確かめたいという衝動に駆られた…が、本能の内にある何かが寸でで彼を押し止める。……それはまるで猛獣を前にしている様な、とてつもない危険の匂い……だ。
警戒した警官らは今度は距離を置いて賊を取り囲む。さすがに地元の警官以外は拳銃まで所持して来てはいないのだろうか……それとも、どれほど厄介な相手でも丸腰相手では躊躇してしまっているのだろうか? 見たところ血気に逸った行動を取る者はいない様であるが、その判断もまた男に付け入るスキを与えてしまう事となる。今度は自ら包囲する警官の只中に飛びこみ乱戦に持ち込んでくるのだ。
「……完全に翻弄されてやがる」
無意識に不破は舌打ちしていた。
もちろん彼とてこんな現場に出くわしてぼんやりと指をくわえて見ているつもりは無い。不破は少し離れた場所から混乱の様子を動画としてスマホに収めてゆく。ディスプレイの中ではタチの悪い冗談の様な光景が繰り広げられていた。まるで申し合わせたアトラクションの様な、どこか現実味の無い殺陣が展開されているのだ。既に警備の群れは統制を失い、バックステージは混沌とした様相を呈し始めていた。
任務に必死故にどこか滑稽な醜態を晒す警官、警備員の面々。その場に居合わせたばかりに虫の様に床を這い回るスリーピースのお歴々はただ恐れおののくばかリ。喩えるならば、それは場末のスラップスティックコメディーのごとき惨状だ。
不破はスマホのSDカードを交換しながら視線だけは油断無く犯人の姿を追う。幸いにして騒ぎから一歩離れた距離で止まっていた事は、混乱に巻き込まれること無く現状を記録することが出来たばかりか、犯人の動きを客観的距離から捉える事に成功させていたのだ。
「……とはいえ、スミの奴を連れてくるべきだったか……?」
牧を表に残してきた事に後悔を感じる。向こうはステージ裏の騒ぎに気付いているだろうか? 今から彼女を呼び出す事は可能ではあろう。だが果たしてそれまで賊が大人しくこの場に留まってくれるかどうかは極めて怪しい。
そうこう手間取っているうちに騒ぎの中核である侵入者の男は、今や脱出を図ろうとしていた。
「逃げる……?」
局面の変化を敏感に嗅ぎ取って、混乱の度を増すバックステージを後にした不破はいち早くその場から離れた。既に犯人は簡素なフェンスを越えて施設の外に逃れている。その方向が会場の出入り口方向である事を頭の中で確認した不破は逆の方向から外に飛び出していた。
「フェイクだ。恐らく正面から出て行くような無謀なマネはするまい……逃走経路としては──」
不破は常磐線側の茂みに飛び込む。そのまま森林帯を突っ切ろうとした時、脇の茂みから何者かが飛び出してきた。
「……あ、」
突然の遭遇に動きの止まった不破の眼前に現れたのは、こちらもまた意外な状況に思わず動きを止めてしまった件の男、炎を灯した薄金色のトーチ片手の侵入者の姿がそこにあった。しかも男は今までの立ち回りで酸欠状態を起こしかけていたのか、マスクを外した正にその瞬間に不破と遭遇してしまったのだ。
「しまった……」
心の声がつい口を突いて出る、先回りが過ぎて犯人の前面に飛び出てしまったらしい。不破は特にこれといったアテもなく飛び出してきてしまった自分の浅はかさを呪った。
もちろんあわよくば逃亡する聖火強奪犯をスクープできたら……などとは思っての先回りであったが、まさか正面切って鉢合わせしてしまう事になろうとは……。
一方、予想外の展開は犯人も同じだったであろう…が、心構えの違いか犯人はすぐに身構えなおすと、感情の読み難い瞳が相手の次の動向に備えて冷たい光を宿した。結果、行く手を塞ぐ格好になってしまった不破は相手の臨戦態勢に対し反射的にファイティングポーズなど取り……それが軽率な行動であった事に気付いた。
「……何やってんだ、俺……」
これではまるで犯人を捕らえに躍り出たマヌケな正義の味方気取りではないか。
「……………退け……」
静かだが凄味を帯びた声で男がじりりと前に出る、ひりひりするような威圧感が伝わってくる。
こうして対峙してみると、やはり成人男性としては小さい……だが貧弱と言うよりもむしろ逆で、鍛え、絞りこんだ実用的な筋肉に身を包んだ小兵といった印象だ。直感的に不破はこの男が格闘技を嗜んでいる事を確信した。
「お、落ち着け。……話し合おう……なっ?」
「余計なお喋りをしている時間はないんだ……どいてくれ」
「!?」
変わらず冷徹な口調ではあったが意外な反応。大胆不敵な強奪劇を演じた犯人だ、もっと問答無用の攻撃的な態度に出てくるものと思ったのだが……、これはもしかしたら交渉の余地があるのではないか、何か相手に聞けるのではないか? と、思わず記者としての色気が頭をもたげてしまう。
「ま、待て、俺の話を───」
不破は咄嗟に相手の動きを制するつもりで右手を前にかざす…が、その手にスマホがあったのが災いした。
「!!」
男は咄嗟にマスクを外したままの口元を覆い隠した。この瞬間、不破は自分が犯人の顔を知る唯一の目撃者となってしまった事実を認識した。その上、手にしているスマホ……脳裏に殺されるかも知れないという悲観的未来も浮かぶ。果たして俄かに殺気だった男が不破との距離を一気に詰めた……!
うっかり伸ばした不破の腕を捉え、物凄いスピードで懐に潜り込む。視界の木々が頭上に流れ、不破の視界から男の姿が消える。続いて急激な浮遊感……、次の瞬間には不破は天を仰いで宙に舞っていた。
「マズい、このまま落ちたら……!?」
思考時間としては言葉よりもずっと短い間だったろう、不破はこの後自分を襲うであろう衝撃を覚悟した…が、予想に反して投げを打たれた不破の身体は意外なほど穏やかに地面に軟着陸したのだ。
実は地面に叩きつけられる寸前、絡め捕られた腕を引かれ落下の勢いは削がれていたのであるが、不破がその事実を知るのは後日の事だ。
ともあれ、無事を悟った不破はすぐに身を起こして次の襲撃に備え……ようとして体勢が崩れた。
「ん、な……っ…!?」
身体が思い通りに動かない…と言うよりも平衡感覚が失われてバランスが崩れているのだ。そればかりではない、視界がぐらつき目に映った光景は文字通り色が失われ……そしてブラックアウト。
何かされた……? 遠のく思考の片隅で状況把握を試みるが、それもすぐに意識にかかる靄に覆いつくされていく………。
そのまま不破は下草の茂みにどぅと倒れ臥していた。